―勝彦の汗と紛れ込んだ鳩の行方―
第八十四話
―勝彦の汗―
勝彦は、冷暖房の効かない倉庫で働いていた。冬の時期なら動いているから問題はなかった。しかし、梅雨明けからの二箇月間はもっとも体力を消耗する時期で、仕事が終わった後に、三十分ほど長椅子に寝そべり身体を休ませてから帰宅することもあった。
勝彦は、この倉庫の責任者だった。パートさん達には、猛暑の日などは、冷房の効く中二階の事務所で休憩を取らせながら仕事をさせていた。
勝彦の主な仕事は、適宜送られてくるファクスに記載された数量の書籍を揃え、フォークリフトで大型のトラックに積み込む作業だった。それは一日中時間に追われる仕事で、真冬でも一時間も仕事をすれば背中に下着が張り付いてしまう。ましてや真夏は過酷だった。雨の日でも昼間は三十五度以上になる。その無風状態の下で、ほとんど休憩も取らず倉庫内を駆けずり回っているのだから、頭からバケツの水を浴びせられたかのような汗が床へ流れ落ちた。
いつもペットボトルの水を凍らせて持たせてくれていた文子。このような肉体労働での水分補給は、氷水ではなく常温の水でないといけなかった。胃を継続的に冷やしながらの作業は午後になると体が怠くなり、翌日になっても疲労感が抜けなくなってしまうからだ。
入社した年の夏、連日猛暑が続いた。勝彦はそのことに気づかずに働いていた。その頃、仕事と文子との生活に将来の希望があったから、体調を崩し疲れ果てていたとしても耐えてこられたのだ。
勝彦は、着替えたシャツをビニールの黒いゴミ袋に入れて毎日持ち帰っていた。家に帰ると、文子が中を覗き込む……。夏場なら、汗でビチャビチャに濡れた三枚のシャツが入っていた。確認のため、彼女は、摘まんで半分袋から出してみる。捨てようか、どうしようかと迷っている様子だった。すると、バサッ、重そうに摘まんでいたシャツを離した。彼女は、空気を抜きながらそのゴミ袋を固く縛ってしまった。
勝彦は、寝そべりながらその様子を半目で眺めていた。
所属する組織にも因るだろうが、大方のサラリーマンは、個人的倫理観などは取り敢えず風呂敷に包んでしまい、組織内の恒常化されたシステムの机上から転がり落ちぬよう社会生活を送っている。
しかしながら、定年までの間、何もないはずはない。仕事上での客先とのトラブルや、上司や同僚、事に依ると部下との人間関係から発生する精神的苦痛。それに組織という窮屈さが加わる。
平然と組織内に永らえることのできる者とは、その処理能力を独自に高めてきた者といえるのではないだろうか。
それは、誰でもぶち当たる壁。そんな状況下であっても、経済的な安定、目の前の願望、その先にある夢、これらから垂れ下がってる糸がたとえ今にも切れそうだとしても、繋がっている限りは頑張れるのだ。愛する家族のためなら尚更だろう。だが、予告も無く何者かによって切り落とされ、窮地に追い込まれる事態が起こったとしたらどうだろう。先に進めぬ歯痒さ、やり切れぬ思い、時として耐え難い屈辱を受けそれらが夢の中まで容赦なく入り込み、自ら狂騒の渦を発生させ思考を破壊しはじめる。
目が覚めると、一気に押し寄せてくる絶望感。そして孤独――。
一旦切れた糸は、もう二度と繋ぐことが出来ない、そう決め込んでしまうものなのだ。
「この先、ブンちゃんとしてはどうしようと思ってるの?」
文子は口を開こうとしなかった。
卒業してからの、とりわけ何事もなく送ってきた同棲生活の中であっても、文子しか感受できない十分でありながら細やかな贅沢、それが存在する部屋だったはずが、そうではなくなってしまったらしい。隙間から温もりの違う息吹きが入り込んだのだろうかと思わせた。
もしそうだとすれば、その分、彼女の温めてきたものが押し出されてしまった訳だ。とても、将来を見通すことなどできる心境ではないと思われた。
現在、その部屋へ帰宅し、勝彦を待っている文子が味わざるを得ない思いとはどういうものなのだろう。それはきっと、彼が、玄関の扉を開けた瞬間から始まる……胸を締め付けられる痛みなのではないだろうか。
これまでの話から察するに、勝彦が仕事から帰って来たとき、彼の虚ろな目からいつ飛び出してくるかわからない棘のある一言は、文子の皮膚を貫通すると、柔な心を突き刺す凶器になっていたに違いない。彼女は、翌朝出勤するまで、その恐怖に怯えなければならなかった。
文子からの返事はなかった。
「考え過ぎだって、時間が過ぎればどうってことないさ、ブンちゃん……」
肇は、合点のいく言葉を発することができなかったことに、もどかしさを感じた。
「実は違うんですよ、そうはいかないんです……」
文子のその表情から、話すつもりではなかったことを話してしまおうか、そんな迷いが感じられた。
勝彦の心の変化の原因が、明確には掴めないでいる様子の文子。肇は、打ち明けようかと悩んでいるその話に、何か本質的な原因があるのではないかと思った。
最初は、男と女のありがちな揉め事のようにも思えたが、同棲という関係を続けていく中で、隔たりが積み上がると、それを減らそうと努力するも一人の力では限界がくるのは分かり切っていることだった。上手くいかず、更に積み上がって行き、その居心地の悪さが不快感へと変化していくと、最後には嫌悪感を抱くようになる。それが固まってしまうと、もはや手が付けられなくなってしまうのだ。
文子は、なかなか口を開こうとはしなかった。
「雨、やんだかなぁ……」と文子。
静かな店内だった。お客さんが、知らぬ間に減っていた。
肇は、バーテンダーに声を掛けた。「すみません、お冷二つもらえますか?」休憩でも挿むかのように。
「かしこまりました」
バーテンダーが、文子の前に置いてあるグラスを下げ、新たに角ばった氷が浮かんでいるグラスを置いた。酔いを醒ますかのように、文子はそれを一気に飲み干した。その後、はっきりした口調で話しはじめた。
「先生、さっき勝彦の仕事場へ行ったことがあるって、あたし、言いましたよね?」
「そこって大きな倉庫じゃなかったっけ? 体育館ぐらいの」
肇は話のリズムを作ろうとしている。
「そうです。あの日は、土曜日で私は休みだったんですけど、勝彦は仕事だとかで、いつものように朝ごはんも食べずに家を出ていったんです。一昨日の晩に、彼から車で作業着を全部仕事場へ運んでくれないかと頼まれていました。その時、それってどういう意味かはわかりませんでしたけど、それを車に積んでいる時、多分現場で汗を掻いた時にいつでも着替えられるように、そういう意味かなと思ったんです。ただ、全部というところが引っ掛かりはしましたけど……」
「全部かあ、うーん……。引っ越しでもするつもりなのか、と勘繰っちゃうよなあ」と言ってしまった。
文子の口許が引き締まった。
「彼から言われた通り、仕事場へ夕方5時半頃に着くように、すべての作業着を段ボール箱に詰めて向かいました。その倉庫の周辺は雑木林に囲まれていて、住居など見当たらない殺風景な場所にあるんです。倉庫の前の通りに誰も乗り降りする者はいなさそうなバス停があって、それを勝彦が通勤で利用していました。彼専用みたいなものですね」
この後、文子は小説でも読んで聞かせるかのようにその時のことを語りはじめた。
―勝彦が働いている薄暗い倉庫―
そこは、勝彦を迎えに行くために幾度か行ったことのある出版物を保管管理している大きな倉庫だった。
土曜日ということもあってか、道路は比較的空いていた。倉庫まで、あと二十分も掛からないだろう。これなら間違いなく五時半までに到着できる。文子は一つ目の川を越え、二つ目の大きな橋を渡り切ると、両サイドが倉庫で挟まれている県道に入った。
訳分からぬ工場が道沿いに野放図に立ち並んでいた。対向車は、積載重量オーバーを疑わせるようなトラックが目立った。それでやられてしまったのだろう、路面の不陸と罅割れが気になった。
どうやら数時間前、この辺でパラっと一雨降ったようだ。ガードレールに沿って雨跡が残っていた。
暫く走ると、雨風に晒され、汚れと変色ですっかりモノトーン化された木製の大きなドラムが目に入って来た。太い電線でも巻かれていたのだろうか。それが広々とした敷地内にゴロゴロと転がっている。支えているのは、剣先スコップでも歯が立たないほど踏み締められた地面だ。記憶にあるこの光景。それが目印だった。倉庫まであと五キロメートル程だろうか。
先の薄暗く緩い坂道に差し掛かるあたりから景観は一変する。雑木林を掻き分けるようにゆっくりと走って行き、右手を気にしながら行けば倉庫の切妻屋根が見てくるはずだ。
その上り斜面に差し掛かった。ここからはほぼ直線だった。
文子は溜息を漏らした。今年の猛暑で、もうひと伸びしてしまった両サイドの雑木林の間から空を見上げると、まるで物干し竿が撓るほどに垂れ下がっている雨雲は、とても苦しそうで、のちにシクシク泣き始めるのではないかと思えたからだ。
後続車は来ていない。文子は、更にスピードを緩めた。右手に倉庫が現れて来るのを目で追っていっく――。
二キロほど走ると、倉庫の妻壁に書かれてある〖シートピア〗の文字が見えてきた。時計を見ると、まだ五時前だった。
対向車が一台通過した後、ハンドルを右に切った。大型トラックが二台すれ違えるくらいの間口を取ったスライド式の門扉は、出版業界で確固たる地位を築いている証しのように思えた。
倉庫は、ほとんど窓の無い休日の体育館そのものだった。裏手の放ったらかしにされている竹藪は、主が居なくなってしまったのだろうか。前屈みになって倉庫の屋根に覆い被さっていた。
文子は、車をどこに停めておこうかと迷った。倉庫をコの字に囲んでいる大きな空きスペースは、どっからでもトラックが積み下ろしできるようにと考えてのことだろう。それ以外は駐車場といってよかった。倉庫から若干離れたところに軽自動車三台と自転車四、五台がひと塊になっていた。彼女はその列を乱さなぬように車を停めた。
「不便そうなところにあるみたいだけど、彼は、電車とバスで通勤してるんだね。それは、朝混んじゃうから車じゃ無理ってことかな?」肇は推理を働かす。
ところが、文子にとってそんなことはどうでもいいことだった。
「現地に着くと人影は無く、倉庫内にも誰も居ないのではないかと思えるほど、辺りはシーンと静まり返っていました。私は、作業着が入った段ボール箱を抱えて重い鉄扉を身体でスライドさせ、人が通れる分だけ開けたんです。倉庫の中は薄暗く、開けた扉から突然漏れ出した光に愕いたようで、作業している人たちの視線を浴びてしまいました。パートのおばさんと数人の若い女の子たち、合わせて十人ぐらいが本のカバーの取り替え作業をしている最中でした。私はパートさん達に会釈して、近寄ってきたおばさんに彼を呼んでもらったんです」
「そのときの情況が浮かんで来るよ……」
「倉庫内の気温は、十月でしたから暑くもなく寒くもありませんでした。中二階の事務所から、彼が伝票を手にして階段を駆け下りてきました。彼の背中は汗染みで、前と後ろが別なシャツを着ているかのようだった……」
文子は感情を押し殺しているかのようで、眉一つ動いていなかった。
「社員は責任者である彼一人だけだから、大変なんだろうな」
「丁度その時、チャイムが鳴り、それと同時にパートの人たちが一斉に帰り支度をし始めました。彼は、私に『サンキュー』とあたしに一声掛けると、段ボール箱を受け取り『仕事がまだ残っているから先に車で待っててくれないか』そう言ったあと、残っているパートさん二人のところへ近づいていきました。倉庫の戸締りを頼んでいるようでした。その後、彼は再び階段を駆け上がり事務所へ入って行ったんです」
「……うん」
文子は黙して、直ぐには語ろうとしなかった。多分、多分だが、このあと何かが起ったのだろうと肇は思った。
暫くして、文子が語ったこととは――。
文子は、勝彦から「先に車で待っててくれないか」と言われ、出入口の扉へ向かおうと歩き出した。しかし直ぐに立ち止まり、彼の仕事場である倉庫を見学することにした。彼が働いている職場を眺めていれば、もしかしたら何かが見つかるかもしれないと思ったからだった。
天井を見上げた。碁盤の目のように等間隔で水銀灯が心許なく灯り、それが手元で作業出来る程度の明るさを提供していた。
倉庫内は、パレットに一定の高さに積まれている児童向けの本や漫画本などが出入り口に近い場所を占有していた。奥の方に置かれている書籍は、単行本や専門書と思われた。その山々の間には、フォークリフトが行き来できる通路のスペースが設けられていた。
文子は、今立っている場所から二十メートル程離れたところの床面が気になった。辺りの床と明らかに異なっていたからだ。それは繭をばら撒いたような色合いだった。薄暗がりの中、目を凝らしてみる……。直ぐにそれは鳥のフンだと判った。
天井に目を向けた。すると、天井材を支えているH鋼の梁に身動きせずに止まっている一羽のハトらしき物体が目に入った。だが、水銀灯の直射が目に入ってよくわからない。本当にハトなのだろうか……。動かないかと、文子はその物体を見つづけた。
ハトの置物ではないかと思えてしまうくらい動く気配はなかった。文子は近づいて確認しなければいけないと思った。ゆっくりと何歩か近づいて行った――。
やっぱり、それはハトだった。僅かな光を浴びてできる物体の陰影は、滑らかな曲線を描き膨らみを形成していた。
文子は、一番確認が容易なこの場所で、ハトが動かないだろうかと見つづけた。
暫く様子を見ていたら、履いているスニーカーの靴底から冷気が伝わってきた。間もなくして、土間コンクリートが厚く敷き詰めてある下層からスーッと手が伸びてきて、最初はさり気なく、終いにはギュッと足首を掴まれてしまった。金縛りにあったようで全く身動きができない。コンクリートが溶け出して、膝のところまで泥濘に嵌ってしまったかのように思えた。このまま、あるのかさえ分からない沼底へ引きづり込まれるのではないかと恐怖に駆られた。
それは、突然のことだった。閉め切った倉庫内の空気が息苦しいのか、ハトは力を振り絞るように隣のH鋼の梁へ移ろうとしている。スローモーションのようにゆっくりと翼を広げ、行こうか行くまいか、その迷いを晒しながら片足づつ交互に浮かせている。
次の瞬間、パタパタッと倉庫内の空気を少しだけ掻き回した。ハトが隣の梁に飛び移ったのだ。文子は胸を撫で下ろした。少しだけ自分に近づいてきたんだ、ずっとこのまま見続けていれば、そのうち自分の肩の上に乗ってくれるのではないか、かりそめにもそう思えた。
ところが、ハトは体を労っているのか、また動かなくなってしまった。
“時”を繋いでいるもの、それはハトの残命なのか、今の自分にはそう思えてならなかった。いつから、餌も水も無いこの倉庫に迷い込んでしまったのだろう。そのうち脱水症状が更に酷くなり、糞を落とすことさえなくなってしまうのだ。
ハトは、天井を支えているH鋼の梁を自分の居場所とし、世間話をしながら作業をしているパートのおばさんたちを只管俯瞰している日々を送っていた。そのうち、存在も忘れ去られ、生きているのか死んでしまったのか、見上げて気にしてくれる人もいなくなってしまうのだろう。それでも物体はその場に居続け、肉体と時間との相関性を崩さなぬよう自然の摂理に則ってゆっくりと処理されていくのだ。
数日前までは大空で翼を広げ、自由に飛び回っているハトだった……。(こういうものなんだ……)脳裡に諦めが襲って来た。
文子は、目線をハトから床へ落とした。しかし、再び顔を上げた。あのハトを倉庫内から逃がすように勝彦に頼んでみようと思ったのだ。
でも、「何度かやってみたけどダメだった」と言われるか、無視されるかのどっちかに決まっている。そう思うと、悲しくて仕方が無かった……。
小さな覚悟の上の会話さえ、避けようとする自分が胸裡に潜んでいたのだ。身体の力が抜けた途端、床に押さえ付けられていた足が軽くなった。
文子は踵を返し倉庫から出ていった。 (つづく)




