―ダークミラーに映し出された文子の面様―
どこにでもありそうな悩み事、詰まらぬ悩み事ではあるのだが。さよりと和泉、そして純子と優史が乗り越えてきた悩みほどではない? どうなんだろうか。
第八十二話
―ダークミラーに映し出された文子の面様―
文子は、バーテンダーにグラスを差し出した。
「大丈夫かい?」肇は、一応確認してみた。
「あたし、日本酒に氷を入れて飲んでるんですよ、先生」
うん、日本酒に氷……。それには三つの意味があることに気がついた。
計算尽くだったとしても、バーテンダーがすんなりとそのグラスを受け取ったところを見ると、〝まだ大丈夫そうですね〟という許可証を頂いたようだ。
文子は、バーテンダーから手渡しで受け取ったグラスをゆっくりと口許へ近づけていく。 丸い氷二つが、グラスの中で懇ろにひと転がりすると片方が唇に接触した。その刹那だけ、彼女は冷たい氷とのじゃれ合いを楽しんだかのように見えた。
ピリオドを打ちながら文子の喉を通過していく液体――。そして、また一口……。酒は、じわじわとまろやかな味へと変化しつつ体芯へと流れていった。
「先生、日本酒もいいですね。あたしの味方になってくれてます。勿論、先生も味方ですよね?」
「確認するまでもない……」
肇の目の届くところで、文子は誰にも相談できない悩みをこの空間にまき散らしている。その信頼関係がとても心地良かった。
スーツ姿の若い男三人がカウンターに座った。
注文を受けたバーテンダーがピックで氷を割ったりシェイカーを振ったり、その行動範囲は狭いが忙しそうに動いていた。
「これキープしておいて下さい」
文子は、相手の置かれた多忙などお構えなしにそう言った。
「かしこまりました」バーテンダーは口許を緩ませた。
「キープって言う意味わかります? 先生」
「何か特別な意味でもあるのかい?」
「男と女で来た時にするキープってね、必ずまたこの店に二人で訪れる、そう約束したってことなんですよ。肇先生、またあたしと来たいんでしょ?」
「そうだよ、そう、又会ってくれるんだろ?」
「本当ですか? 絶対ですよ! 法螺吹きは詐欺師の年の離れた弟分でしたっけ?」
「先生を法螺吹き野郎と一緒にするんじゃないっ」
肇は、バーテンダーが差し出したネームプレートに『ブンちゃん』と記した。
「あたしの名前だけ? それはダメ。『ブンちゃんと肇先生』にして下さい。これじゃ、もう俺は来ないって言ってるようなもんでしょ?」
文子は、バーテンダーにネームプレートをもう一つ貰おうとしている。
「ブンちゃん、いいって。二本目をキープした時に書き直せばいいじゃないか、な? それに肇先生ってなんだよ、そのプレートを見た客が吹き出しちゃうぞ。教え子と二人で飲んでるのが見え見えじゃないか」
「あたし、そんなのへっちゃらです」彼女は澄ました顔をしている。
文子は、この〝二本目のキープ〟のところで疑いを深めてしまったのだろうか。男と女の関係……。刹那的な疑い方も身に付けてしまったらしい。特に、まだふわふわな綿菓子が巻き付いている相互関係にあっては――。
嘘を吐くつもりなど更々無かった。それどころか、この店の常連客となって、またこのような時間を持ちたいと思ってしまったくらいだ。
「まあ、いいか。一本目はこれで」
文子は、納得してくれたようだ。
しかしながら、文子は彼氏とこのような漫ろ言をいつからしなくなったのだろう。本格的な心の悲鳴は、これから聞こえてきそうだった。
――多分、いつもの野良猫だろう。最近、家の近くでよく見かける猫だった。庭先で、その猫がこっちをじっと見つめている。餌も手にせず、近寄って来たその猫が逃げないよう肇は悠然と構えていた。
暫くして、その時が訪れたようだ。
「先生、でもね……」
「どうした、ブンちゃん? その日本酒、気に入ったみたいだね」
文子は大切そうにロックグラスを掌で包んでいた。
「あたし、氷を溶かそうと思っているのかな、どうしたらもっと早く溶けるんだろう……」
「薄まった日本酒を、これだけ美味しそうに飲めるのはブンちゃんしかいないよ。ただ、無理に溶かそうとしない方がいいんじゃないか?」
文子は天井へ顔を上げたり俯いたり、ここへ来て酔いが回って来たかのような仕種を見せはじめた。
「今日のお酒はとても美味しく感じる……先生が美味しくしてくれてるんだよ」
「気を紛らわせる存在も必要だってことだな。良かった、今日来て……」
「今日はね、さよりと和泉、それと純子と優史の報告もあったんだけど、みんなが気に掛けてくれていたのは、先生とあたしを早く二人きりにさせてあげようと考えてくれてたってことなんです」
「そんな回りくどいことしなくたっていいんだよ。ストレートに言ってくれればさ」
「あたしね、なんとか一人で解決しなきゃいけない、これまでそう思ってやってきた。けど、神様はもう無理だって思ったんじゃないかな……。そんなあたしを哀れんで、それで、今日一番会いたかった人と会わせてくれたんだ。先生、あたし……限界なんだよっ、もおーっ!」
その叫び声は、無垢のカウンターへぶつけられた。
彼女の目線は、まだその存在を保っている円形の氷へ向けられていた。徐に眉間に皺を寄せると視軸上にある方の氷へ目掛け、アイスピックの視矢を射った。
氷は僅かに転がったが、それでは物足りないと言わんばかりに、文子は尚も睨み付けている……。まだ涙を流すまでには至っていなかった。
肇は声も掛けられず、それどころか彼女の持っているグラスさえ直視できないでいた。
「…………」
振動が伝わってきた。その視矢で丸い氷は打ち砕かれなかった所為なのか、眉間の皺はいっそう深まり、彼女の唇が震えはじめた。
この時、何か言葉を発するべきだったのだろう。しかし、傍らにいてあげるのが精一杯だった。
彼女の上半身が震え始めた。その震えが伝播してくる……。
溜まっていた遣る瀬ない彼女の想いは、大粒の涙となって終に溢れ出した。
「ブンちゃん……」
肇は、彼女の手の甲にそっとハンカチをのせてあげた。
気持ちが若干鎮まったようだ。
「でも、よかったぁ、こうして先生に会えたから。あたし……助かったんだよっ」
それは、彼女の口元が小刻みに震えながらも落ち着いた口調だった。正面に設置されているダークミラーに映し出された自分の姿を見据えたまま、目頭から流れ出る涙は止まらないようだ。
文子の想像もつかない姿がそこにあった。彼を信じてスタートした同棲生活。それは、五年という歳月を経て、今、その現実を目の当たりに突きつけられていたのだ。
「先生もブンちゃんと会えてよかったよ、あの頃に若返った気分にさせてくれたから。みんな元気そうだったしね。ブンちゃん、難問にぶつかっちゃったみたいだね。先生で解けるのかなあ……」
「自信がなさそうですね、先生……」
かなりの難問らしい。
「先生の専門はね、数学だけじゃないんだ。惚れたフラれた分野も得意なんだよ。だから大丈夫。ただモテ過ぎって分野だけは苦手なんだ。でも、何でも聞いてあげるぞ! 話してみるかい?」
「惚れた分野って、惚れただけなら問題なんか起こらないでしょ?」涙声でそう言った。
「その通り。ということは、お互い好きになった後、どうなるかだ。間違いなく揉め事って起こるもの、ブンちゃんもそうだってことだよな」
彼女の気持ちを、兎に角和らげないといけなかった。
「これってどう思います、先生」
「聞くよ、何でも」
「数箇月前に、彼から言われたんですよ、『もう朝ごはんは作らなくていいから』って……」
「詳しく話してくれるかい」
文子は、目頭に当てたハンカチを弄り出した。
「これまで、朝ごはんの用意をするために早起きして作ってたんです。食べ終わった後、一緒に出勤してたんですけど、ある日、『もう朝ごはんは作らなくていいから』って言われて……。一週間くらい過ぎてから、今度は、『洗濯、俺の物はやらなくていいから』って……。先週の日曜日のことなんですけど、あたしが朝から掃除していた時、彼のパソコンの周りを片付けていたら急に起き上がってきて、『いじるな! 俺のものに触るなよっ』って。今までにない怒り方だった。吃驚しましたよ、その時は……」
これを聞いて、肇は嫌な予感がした。
「そうなんだぁ、確か一年前から彼の態度が変ったって言ってなかったっけ?」
肇は、一度も会ったことのない彼の人物像を少しでも掴もうとしていた。
「もっと前からだったかもしれません。私が気づかなかっただけかも。最近は話し掛けても生返事だけだし、必要最低限の会話しかしなくなりました。それに、いつからだろう、私の身体に触れなくなったのは……。何が原因なのか、分からないんですよ」
「お互いの役割分担ってどうなってるの?」
現実の生活の中で、至ってこれが揉め事の原因になる。時間の経過がそれを積重ねていく。その結果、恰もそれが性格の不一致などと都合よく解釈し、双方省みることもなく終止符を打つ結果になってしまうことは決して少なくないだろう。ところが、二人の場合は一方的なものに感じてしまった。
「私が食費と光熱費で、彼が家賃と車の経費ですかね」
「ふーん、彼は家事なんかは協力的なの?」
「ほとんど私です」
五年間の同棲生活であれば、いずれどっちかがより多く負担を強いられることになるもので、何もかも平等に半分ずつなどということはあり得ない。その差が極端になってくると、多く負担を強いられている方の不満が募り、いずれ耐え切れず爆発してしまう。これって、当然の成り行きだった。
「でも、それは気にならないんですよ」
文子はグラスを揺らし、ビー玉の大きさに近づいていく二つの氷をぶつけ合っていた。 バーテンダーは、水溜り状態である彼女のグラスに、お誘いの掌は差し出さないでいた。
「私たちの関係って、薄っぺらなんですかね、先生……」
文子は、さよりと和泉、そして純子と優史の計り知れない強い絆で結ばれた関係と、どうしても比較してしまうのだろう。その大きな隔たりに落胆しているようだ。
そんな文子に、肇は言った。「比べてはいけないよ。恋愛って、比べるものじゃないんだ。ブンちゃんさ、彼との良い想い出を、どっかに置き去りにしてきたんだよ。想い出してごらん。いっぱい出て来るはずだから」
文子は、もうお酒ではなくなった液体を、今度は氷がぶつからないように、ゆっくりと回しはじめた。
「同棲始めてから、私たち、将来のことを考えて、彼名義で通帳作ってお互い毎月5万円づつ貯金してたんです。私は今でもしてますけど。今年に入ってから、入金の記載がないので、彼はしてないと思います……」
「何か買いたいものでもあったんじゃないのか?」
「買いたいもの? あるのであれば、彼名義のカードなんだから、それで買ってますよね」
「それはいいとして、同棲始めた頃はどうだったの?」
肇は、無理やりそっちの方へ話を持っていった。
「その頃は、約束事のように、休みの前日に調べておいた折り込みチラシを持って、少しでも安い食材を探しに、彼とショッピングセンターへ買い物に行ってました。車をだだっ広い駐車場に止めて、そこからお店の入口まで、束の間ですけど彼と歩いて行くんです。晩秋によく見られる無風状態の真っ青な空に、ぽっかりと浮かんだ白い雲……。その光景って、母親の手を握って通っていた幼稚園の頃を想い出させました」
「うん……」
「そして、その手は今、彼の腕を掴んでる……」
断発的に流れていた彼女の涙は止まったようだ。
「これから、彼と一緒にあの頃の幼稚園に遊びに行くんだ、そんな妄想を抱きながら入口まで歩いて行くんですけど、嬉しすぎて自然と脚が弾んじゃうんですね。店内では品選びに、あーだこーだと喧嘩しながらも愉しかった……」
文子は、水平より若干だが目線を上の方へ向けていた。
「帰りには、いつもファーストフードに寄ってハンバーガーを食べてたんです。彼は、ピクルス嫌いだから、ハンバーガーの包み紙を一旦外し除いてあげて、また包んで渡してあげます。彼は、当然のような顔をしてそれを受け取る」
(いいよ、ブンちゃん。とっても幸せそうじゃないか)と口から出そうになったが、咄嗟にその言葉を呑みこんだ。
「彼、口をタテに大きく開けて、スポンジのようなふわふわしたそれに〝ガブリッ〟といくんですよ。私は、いつもその一口目を見ているのが好きでした。それを見終わってから食べると、もっと幸せな味を楽しめたから……。彼は満足そうに味を噛み締めながらお店の天井を見上げるのが癖でした。本当はね、彼ってピクルスだけじゃなくて、ハンバーガーも好きではないんですよ」
「じゃあ、なぜ食べるの?」
「それはね、私と一緒にこうしていると心休まるからじゃないのかなあ……。仕事の疲れを忘れさせてくれる? あの頃はそう思っていました」
「そうだと思う。きっとそうだよ、ブンちゃん!」
文子が頷いてくれた。
「店内は、休日なので家族連れで賑わっていました。私たちの隣には家族連れが座っています。両親は二人とも三十歳代半ばくらいで、お母さんが赤ちゃんを抱っこしてて、向かいにはお父さんと引っ付くように三歳ぐらいの女の子が座っていました。すると、その女の子が、お口には不釣合いな太めで長めのフライドポテトを一本、からだ全体を駆使して袋から取り出そうとしていました。でも、その子には、揚げ立てのフライドポテトは熱すぎたんでしょう」
「子供の頃って、小さな危険から学んでいくもんなんだ。大きな危険は、取り返しがつかなくなるから遠ざけておかないといけない」肇は話を続けさせようとしている。
「そのようですね。その子の安全を保障されているエリアとは、熱い時には涼しく、寒い時には暖かく、そんな優しさにすっぽりと包まれた環境です。そこで、すかさず助っ人が登場しました」
「隣に座っているお父さんだね?」
「そう、お父さんがそのフライドポテトの袋の中から一本取り出し、ふぅ~と安全を確認した上で渡そうとするんですけど、どっこい、そうはいかないんですよ。向かいで赤ちゃんを抱っこしているお母さんが、それを見ていて笑みを浮かべていました。分かっちゃったんですね。流石、母親です。好奇心旺盛なその子は、助っ人の手を振り払い再び挑戦したんです」
「いいねえ、それで?」
「それで、恐る恐るそれに触れようとしたその時、芽生えてからほとんど使用されていない円らな瞳が輝きました。ナイスキャッチ!」
「それはよかったあー」
肇は、この物語を夢中になって聞いていた――。 (つづく)




