―日本酒をロックで飲む理由―
冷めても美味しいものっていうのは気付き難いものです。
第八十一話
―日本酒をロックで飲む理由―
「まだですか?」と、文子が何かをバーテンダーに催促している。
「今、厨房で準備していますから。もう少しお待ちください」
文子は、先ほど注文したバーテンダーおすすめのスルメが出て来るのを心待ちにしているようだった。
バーテンダーが厨房から焼けたスルメの匂いも引き連れて出てきた。目の前でそれを割き、余熱があるうちに火に掛けてある醤油ダレの中へ投げ入れている。
「芳ばしいニオイがしてきたなあ……」
それにしても、このニオイは店内中に行き渡ってしまうのではないかと思い、肇が訊いてみた。
「ニオイって、他のお客さんは気にならないもんですかね?」
「カウンターに座っているお客さん以外は大丈夫です。これをお出しする時は、このフードの排気を強にしますから。ニオイは向こうまではいきません。それに、これはいつもあるメニューではないんです。十一月と十二月のみの、それも小量しか取り寄せできない乾物なんですよ。カウンターに座ったお客さんだけにお出ししている特別メニューです。食事をされて来られたと仰っていたので、おすすめしたのですが」
文子が最初に注文した軽めの料理二、三品はまだ半分以上残っていた。それは、どこにでもあるオードブルのようなものだった。
「スルメの焼いたニオイは、この店に似合いそうもないから心配になっちゃってね」
「先生が変な話をしたからですよぉ」
バーテンダーがニコッと微笑み、「ご心配なく。気になさらず召し上がってください。このイカは、スルメイカではなく五島列島のアオリイカなんです。そこはオーナーの出身地で、知り合いの漁師から送ってもらっているものなんですよ。鮮度の良い状態で作ったものですから、他のイカとの噛み応えの違いが分かって頂けるかと。身が厚くて旨いですよ。この醤油ダレは、お酒に合うように少し甘辛くしてあります」
「へえ、その辺の居酒屋のスルメと違うんだあ。じゃあ、先生、あたし冷酒もらっちゃおうかな。ありますか?」
「勿論です」
バーテンダーは、日本酒の銘柄が書いてある頁を開き、文子に差し出した。その後、五、六分程度醬油ダレに漬け込んだイカを掬い出すと、網の上にのせ再び炙りはじめた。表面の余計な水分を蒸発させるためだろうか。出始めた煙が真っ直ぐに吸い上げられていく――。
「ブンちゃん、俺たち高級な居酒屋に来ちゃったのかな」
「然程、雨にぬれることもなく歩き回ることもなく“三軒目”に来てしまいましたね」
そう言われると、雨の降り具合が気になってきた。
バーテンダーは、鶯色の真四角の皿に、まるで帯を締めるかのように山吹色の紙を巻き、そこへバサッと無造作にのっけたアオリイカの上からオリーブオイルを垂らしていく。出来上がりの盛り付け方を見ると、文子と取り合いになりそうな逸品の仕上がり具合だった。
芳ばしい醤油の香りが、二人の鼻を擽っている……。
「熱いうちに食べないと、はい、先生っ」
差し出された一本を受け取り、噛みちぎった。一夜干しより可成り噛み応えのある弾力。それだけの厚みがあった。噛むほどに旨みが口の中で広がっていった。
「これは、冷めても美味しく頂いてもらうように工夫してあるので、慌てて召しあがらなくても大丈夫ですよ」バーテンダーが言った。
飲み込むと、「冷めても美味しいかあ……」と呟く。肇はバーテンダーに目線を送った。
もう一本手にし、肇はそれが冷めるのを待っていた。この店でも、本当かどうかを確かめたくなったのだ。
すると、
「どうしたんですか?」
文子は、肇がじっと見つめているその一本を奪い取って、自分の口の中へ放り込んでしまった。
「何するんだ!」肇は乱暴に言い放った。
「なに怒ってるんですか、先生っ」
文子は、モグモグと口を動かしながら、横目で肇の顔を不機嫌そうに見ている。怒ったような口振りで、
「熱いうちの方が美味しいに決まってます!」文子はそう言い張った。
「え? ああ、ま、そうだな、ごめんよ……」
肇は、自分らしくない言動をしてしまったことに釈然としなかった。〝自分らしくない〟今日、これで二度目だった。
「そうだ、先生も日本酒にしようかな」
話を切り替えようと思った。肇は、バーテンダーに文子と同じ銘柄のものを頼んだ。
そろそろ話してくれてもいいのではないか、と思うのだが、文子からはまだ〝その気配〟は感じ取れなかった。
暫くして、何の脈略もなく、「あたしの周りって、めちゃくちゃ強い絆で結ばれてる……」文子がぽつりとそう言った。
肇も独り言のように、「ニオイって、気持ちに左右されるものだよな。臭くても気にならなくなったり……。場合によっては旨そうに思えてしまうことだってある」と言ってみた。
「ニオイの話はもう終わりにして下さい」
「先生はね、たとえどんな苦しみであっても、気の持ち様で和らげることができる、そう言いたかったんだ」
「…………」
同時に二人は片肘をついてしまった。
真下へ突き刺すダウンライトの光線が目の詰まった年輪を照らしていた。真正面には知らぬ間に忍び込み、気づかぬうちに身を引く、そんな無機質さを演出できるバーテンダーがいる。十分なセッティングではあったのだ。
文子は、静止している氷の溶け具合を確認していた。なぜ、彼女は日本酒に氷を入れてくれるようにとバーテンダーに頼んだのだろう。肇は、そのことがふと気になった。
文子は視線をバーテンダーに向けた。「氷を入れて同じものを下さい」早くも、二杯目を頼んでいる。
バーテンダーは同じ動作を繰り返す。ピンポン玉の大きさの氷を二つ入れた丸いグラスに日本酒を注ぎ、文子の手許に置いた。
そのグラスを握っている青白く透き通った手の甲。文子はすぐに動きが止まってしまった氷を見つめていた……。
微動だにしない彼女の前傾姿勢を見ていたら、〝動けっ〟と念じているかのように思えてならなかった。
客が入って来た。店員が傘を受け取り、雨滴を気にしながら傘袋に入れている。来た時より雨が強まったようだ。
「なんかね、あたし、随分と疲れちゃったみたいなんですよ……」
漸く、文子は話しはじめた。
肇は、滑り出しをスムーズにしてあげようと思った。
「部屋の掃除、毎日やり過ぎじゃないのか、そんなもの一週間に一度でいい。それで気分的にも大分違うはずだよ。それに、働いて帰って来てから夕飯作るのも大変だろう。時には惣菜物を買って来て出してもいいんじゃないか。彼だって文句は言えない立場だろ? 仕事と家事の両立を完璧にこなそうなんて思うなよ、ブンちゃん……。況してや悩み事がそれに加わると、精神的にもしんどくなってしまうから」
効果があったようだ。
「実はそうなんですよぉ、仕事の帰り、途中買い物をして家に帰り、夕食の用意をする。その後、彼の帰りを待つ間に洗濯をしているんです。遅くなるなら、電話してくれればいいと思いません? 全く連絡を入れてくれなくなったんです」
それは、ありがちな不満だった。
「いつからだろう、一人で待ち続けるようになったのは……」
「いつからなんだい?」
そのことが、何となく気に掛かった。
「一年、いやもっとかなあ……」
「彼と大喧嘩でもしたの?」
話が進みそうだ。背中を丸めていた肇は、背筋を伸ばした。
「これまでも詰まらない喧嘩はありましたけど、大喧嘩なんて記憶にありませんね。そりぁ、私も仕事しているし、大したものは作れません。でも、限られた時間の中で料理も頑張ってやってきたつもりです。一品を三、四日分作っておくんですね。冷凍出来る物と冷蔵でないとダメな物とに区別して。テーブルに出すときは、前日、前々日に作って保存した物にちょっと手を加えて品数を増やして」
「ほー、工夫凝らしてるねえ、偉いよ」
「彼も手口はわかっているんでしょうけど、『おまえ、いつ作ってるの? すげーな』って褒めてくれるんです。工夫は決して手抜きなんかじゃありませんよね。家庭料理って、四、五日先のことを考えてするもんじゃないですか。でもね、先生、健康考えて、塩分控えめに作っていたんですけど、彼、段々味が濃いものを好むようになってきて。お刺身を食べる時なんか、お醤油にじゃぶじゃぶに浸したり、メンチコロッケもソースを何周もグルグルと……。いつも私は止めるように注意するんですけど、そのうち『テメーは、うるせーんだよ!』って。それからは何も言えなくなりました……」
「彼の不満なことってなんだろう?」
この質問の仕方って職業病だった。
「私には分かりませんよ。二人のためと思って、私はこれまで手抜きなどせずにやってきたつもりなんです」
そうなんだ、彼女に原因があるとは思えなかった。
「朝、彼って、パンだめなんです。ご飯じゃないと。だから、次の日の朝食のために炊飯器のタイマーをかけておくんです。翌朝、お味噌汁作って、焼き魚と昨日の残り物ですけど用意してあげると嬉しそうに食べてくれました。それも、ある日からもういらないって……」
肇は、口を挟もうと思ったが、何も浮かばない。
文子は、日常生活のことを具に話しはじめた。
「彼、夕食を食べた後はいつものようにパソコンをいじりはじめて、それに飽きるとお風呂に入るんですね。いつも最後に私が入るんですよ。この前、私が髪を洗った後、風呂場を掃除するために髪を束ねてタオルを巻いたんです。その格好で、つまり裸のままで浴槽の縁に足を掛け、もう片足はタイルの壁に押し付けて天井の結露を拭いてました。そしたら、彼が洗面台で歯磨きをしてたんでしょう。洗面所の鏡に映っている謎のスパイダーマンが、風呂場の曇ガラス越しに見えたんだろうと思います。口から泡を吹き出したような音が聞こえてきましたから。それに、私がお風呂場から出て、洗面台の鏡を見ると、角に拭き残しの白く細かい泡がありました」
「それって、何が問題なんだい? 気にし過ぎだよ。裸で掃除してただけじゃないか。インド風スパイダーマンかあ……先生も見たかったな。でもさ、うちの婆さんなんかブルース・リーだ。〝パン、パン、パパンッ、ヒューッ〟爆竹みたいな音が風呂場から聞こえて来るから吃驚して洗面所にいってみたんだよ。彼氏と同じように曇りガラス越しに様子を窺ってたら、また、『ヒューパンッ、ヒューパンッ、バシバシッ、うーっ』だって。ありゃ固く絞ったタオルをヌンチャク代わりに振り回してたんだろ、体中真っ赤じゃないかな。いつまでやってんのかと思ってたら、〝音〟がパーカッションの音に聞こえてきてさ、タオルに水気が含まれて来ると、重たい音に変化してきて『ターンバシッ、ターンバシッ、タンタンバシバシッ、タンバシタンバシ、うぉー』思わず足でリズムをとってる自分に驚愕よ。叩くのって、そんなに肌に良いのかねえ。ああ、多分、壁のタイルの罅、あれは婆さんだろうな」
「…………」
掠りもしない。空振りのようだ。
この一年余り、文子は晴れることの無い雲りと時々雨の日々を、独りぼっちで過ごしてきたのだろう。それでも彼女は、立ち止まることも後戻りもしなかったはずだ。決して諦めを受け入れない、努力を惜しまない受験生だった文子……。当時、分からない数学の問題を理解するまで、あれだけ和彩美と二人で質問してきたのだから。それもあんなに愉しそうに……。
就職してからの前半までは上手く嵌め合わせてきたジグソーパズル『仕事と同棲生活』だった。突然、後半になり彼女の不得意と思われる『男と女』というピースが、ドサッと放り込まれてしまったのだろう。それを完成させるには時間を掛けたとしても、彼女では手に負えそうもないように思われた。
何よりも、彼から疎ましいと思われていることが耐え切れない、肇はそんな印象を受けた。
彼にとっての文子とは、もはや綿菓子部分はすべて食い尽くし、不要になった心棒のみが残っている状態なのか。肇は男の身勝手さを感じずにはいられなかった。
様子から、文子はまだ酔っているようには見えない。酔っ払う心境にさえなれないと言った方が当を射ているように思えた。
“話”はまだ序盤だった。 (つづく)




