―美乃里の術後の出来事―
第七十五話
―美乃里の術後の出来事―
今日は、いよいよ美乃里の手術の日。午前十時三十分からはじまる手術の一時間前に病院へ行かなくてはならない。
義父、由紀子さん、麻子、それにサトシにクルミ姉さんも来る。善幸としては、手術前に、身内や友人がベッドの周りを囲むのだけは避けたかった。ご臨終のようで縁起が悪いと思えてしまったからだ。 なので、兄貴とお袋には手術が終わってから来るようにと伝えておいた。さよりには学校を休ませ、朝九時頃には病院へ行くようにと昨日電話を入れておいた。
善幸は、病院へ向かう前に〝見落とし〟がないかを確認する。
冷蔵庫の扉を開けた。昨日買った豚肉や鶏肉、それに野菜類も詰め込んである。一昨日買った一リッターの牛乳パックにおいては、口を開けてはあるがほとんど飲んでいなかった。忘れてはならない缶ビール、六本パックが二つ並べてありバッチリ冷えている。卵もずらりと並んでいる。そこには一週間分の食料があった。
次に洗濯をしなければならない。善幸はすぐさま汚れ物を洗濯機に入れ、スタートボタンを押した。最後に、何も書いていない手帳を取り出し、記憶を辿りながら年明けからのスケジュールを書き込んだ。当然この先の一週間分の予定も書き入れた。
善幸は、手術開始時間の三十分に行くことにした。下手すると、今後の身の振り方を皆から質問攻めに遭いそうだからだ。まさか、サトシたちの居る前で、美乃里にはバレバレだったヘッドハンティングの絵空事を話すわけにはいかない。
善幸がジャスト十時に病室に入った。すると、皆が振り向いた。その中に麻子が来ていた。朝一で来たのだろう。にこやかに落ち着き払って立っているその姿は時の流れを感じさせた。
善幸は、皆に挨拶とお礼の言葉を言うと、枕元に近づいていった。
美乃里は、和やかな表情を浮かべている。
善幸は、一言「大丈夫だから……」
美乃里が頷いた。
暫く、善幸は美乃里の顔を見ていた――。
そして、
「この後、行かなきゃいけないところがあるからさ。もしかしたら、今日はもう来れないかもしれない。でも、明日の朝、来るからな……」
「わかったぁ……」美乃里は表情を崩さずに言った。
「頑張れよ、いいなっ」
後ろを見ると、ストレッチャーが用意されていた。善幸は、邪魔にならないように退いた。
ガチャ、ガシャーンッと無機質な音がし、美乃里は自分で身体をそっちへ移動した。
看護師がストレッチャーを押していく後を、皆がぞろぞろと付いていく。
善幸は、手術室へ向かっていく美乃里の姿を一番後ろから眺めていた。手術室の手前で看護師がストレッチャーを止めると、美乃里が皆に手を振った。
善幸は、手術の結果は留守電に入れておくようにとさよりに伝え、一人先に病院を出た。手術が終わり結果を聞くまで、控室で皆が居てくれるから心強かった。
どこかに立ち寄る気にもなれず、善幸は家へ帰ることにした。
帰ったはいいが、これといってやることもなかった。善幸は、畳に座ったまま目を瞑り……時には目を開ける。それを繰り返していた。
午後二時、昼間でも電気をつけなければこの部屋は薄暗い。善幸は、習慣で家に帰ると直ぐに電気を点ける。点いてる照明を見て、これは拙いなと思った。それは、誰かが訪れて来はしないかという怖じ気を感じるからだった。部屋に居るか居ないかは部屋の照明で分かってしまう。善幸は、居るのがバレないようにと電気を消した。
眠れない日が今日で三日続いていた。善幸は、胡坐をかいた状態で背中を壁に付けていた。時間が経つにつれ、吐く息から心の声が漏れる(命がけの勝負に、俺は負けたんだ……)これが頭の中から離れない。段々息苦しくなっていく――。
想い出の詰まった部屋を見回した。何年このアパートで暮らしてきたのだろう。入居した当時、壁の薄さには驚いた。風を遮る効果しかない壁だったが、家族三人寄り添い合いながら、車の騒音や冬の寒さ夏の熱さに耐えてきた。誰も文句は言わなった。自分たち家族の仲の良さだけを守ろうとしてきた壁だったような気もする。
善幸は、整理ダンスの上を見上げた。写真立てが増えていることに気がついた。確か、四つだったと思っていたのがひとつ増えている。立ち上がり、順番に見ていった。
さよりが生まれた時に病院で撮った写真と、『和食処 悠の里』を閉店する一月前に、店の前で親方を囲み皆で撮った写真。それに『四川料理 翔龍』の従業員全員で、さよりの出産祝いを兼ねて開いてくれた結婚披露宴時の集合写真。思わず手にしてしまった写真は、つい此間の、自分の店がプレオープンした時の写真だった。皆の前で、挨拶している自分の姿が写っていて、そこには来てくれた人たち全員の後ろ姿も写っていた。後ろ姿であっても、その写真一枚だけで誰が来てくれたのかが分かった。撮ったのは、多分美乃里だろう。
善幸は、徐に兄貴から借りた三百万円の借用書をポケットから取り出した。それは自分が勝手に作成したものだった。四つ折り状態のそれを開き、表にしてその上に写真立てを被せた。〝風に飛ばされないように……〟と願いながら。
もうやることは何も無かった。善幸は畳に寝っ転がった。ひとり物思いに耽る……。時折、美乃里の心臓が動かなくなったら、などとどうしても考えてしまう。まだ時間はたっぷりあった。
電話が鳴った。善幸は時計を見た。午後五時を回っていた。取らないでいると留守電に切り替わった。
「もしもしぃ、お父さん?」
さよりだった。
「先生がね、手術は上手くいったって。良かったね、本当に良かったあー。おじいちゃんがさ、おばあちゃんよりボロボロ泣いちゃってて、あたし、落ち着いて泣けなかったよ。皆ほっとしてた。今日来れないんだったら、明日は絶対に来てね。悠さんが香港から来てくれるんでしょ? あたし、朝から来てる。じゃあねえー」
何だって、悠さんが明日来るってか? そんなこと聞いていなかった。サトシのところにその連絡が入ったのだろう。俺を驚かすつもりでいるようだ。善幸は、来るとしても、術後美乃里が会話ができるようになってからだろうと思っていた。
取り敢えず、最大の心配事が消え去った。安堵感からの睡魔が襲って来た。眠れぬ日々が続いていた善幸は、音が聞こえぬ暗闇の中へ吸い込まれるように落ちていった。
目が覚めたのは、見てはいけない夢を見てしまったからだった。勃然と悠さんが現れたのだ。その瞬間、ハッとし飛び起きてしまった。
部屋はシーンと静まり返っていた。今、何時だ? と思い時計を見た。午前四時半になろうとしていた。善幸は、〝定時〟に通過して行くトラックが行ってしまったのではないかと一瞬焦った。
コンビニへ出かける支度をしなければならない。仕事へ行く時のように、トイレに行き顔を洗い歯を磨いた。
善幸は、いつもの黒のジャンパーに袖を通した。そろそろ横断歩道の傍らに屹立している電柱の横で待機しておかなくてないけない。昨日から消していた部屋の電気を点けた。エアコンはつけっ放しでいい。鍵をちゃぶ台の上に置いた。直ぐに戻って来るのだから……。
美乃里とさより宛に一言書置きを、などと頓珍漢のことが頭を掠めたが、俄かに苦笑してしまった。
五時四分前、行かなきゃ……。善幸は、静かにドアを閉め階段を下りていった。
五時を過ぎた。善幸は電柱に寄り掛かっている身体を起こした。そろそろ来るだろう……。
見ていると、眩しい射すような光が目に入ってきた。先のカーブを曲がりアップライトにして例のトラックがこっちへ向かって来る。善幸は、ポケットから手を出し、きっちりと電柱に身を隠しタイミングを計っている。信号機が黄色になる直前に、トラックは加速して来るはずだ……。
その光景は色彩を失った。
〝今だっ〟道路の中心へ向かって一歩目を踏み出した。それは、善幸が長い間ぎゅっと握り締めていた、さよりと美乃里の手を離す瞬間でもあった。
―事故現場の情況―
善幸を轢き殺したトラックのボディには『株式会社 紅音組』と書かれてあった。加害者は、『御子柴 左右輔』優史の父親だった。
左右輔は、従業員五人を抱える建築会社を営んでいた。小規模ではあるが、知り合いの職人たちに応援を頼めば、その何倍もの仕事量をこなすことができる。その手も借りて、三年前から千葉で大規模宅地開発事業の仕事を請け負っていた。それ故、善幸の住んでいるアパートの前の都道は、現場までの通り道だった。
早朝、作業場に止めてある二トントラックに、いつも通り左右輔が助手席に乗り、大工見習いの和樹がハンドルを握っていた。
和樹は、左右輔の仕事仲間の息子で、定職に就くこともなく、半年前まで夕方になると起き出し、朝方まで仲間と街を徘徊している生活を送っていた。そんな和樹を「どうにかしてくれ!」と父親の頼みで引き取り、一人前の職人にしてやろうと面倒を見ていたのだった。
この事故は、二人がトラックに乗り込み、アクセルを踏み込んでから八分後の出来事だった。
交差点で、信号機が黄色に変わった瞬間、和樹は人影に気づいたようだが、突然の事でぶつかってから急ブレーキを掛ける形になった。すぐさまロックされた状態で、ボディは振られながら交差点右側の中央分離帯に乗り上げて止まった。二十メートルくらい飛ばされた被害者は、今、広々とした交差点の中央付近で仰向けになっていた。被害者のだらしなく開けている口……。それは、左腕が後輪に轢かれてしまった惨状を軽んじられるほどのものだった。
ハンドルを握り締め膠着状態の和樹に対し、左右輔は「おい、交代しろ! いいか、おまえは助手席に座ってたことにするんだっ、分かったな!」そう言い、ハンドブレーキを思いっきり引くと、シートベルトを外し、和樹を乗り越えて運転席側のドアから出ていった。
昨年二十歳になったばかりの若者に責任を負わせる訳にはいかない。それは左右輔の咄嗟の判断だった。所詮、監督責任は自分にあるのは間違いなかった。
車も行き交う人の姿も見当たらなかった。左右輔が駆け寄ってみると、割れた頭部から鮮血がアスファルトに浸み込みながらゆっくりと広がっていく光景が目に入ってきた。
急ブレーキの音で店から飛び出してきたコンビニの店員が、轢かれた人の顔と黒いジャンパーをみて、「あっ、この人、うちの店によく来るお客さんですよ!」と、携帯電話で救急車を呼んでいる左右輔に叫んだ。
善幸は即死だった。疑いようもなく警察は事故死と断定した。事故様態は『歩行者が横断歩道上を青信号で渡っているところ、トラックが信号無視で直進したことに因るもの』だった。加害者側がそのように認めたことが判断基準となったようだ。よって、加害者側の過失割合は百パーセントと断定された。その後、生命保険及び損害保険会社と被害者側との示談もすんなりと決まってしまった。
後に、優史は、被害者がさよりの父親であることを母親から知らされた。父親が運転していたわけではないことを母親から聞かされたが、たとえそれが事実だったとしても、信号無視、スピードの出し過ぎで、さよりの父親を死へ至らしめたことには変わりがなく、自力ではどうすることも出来ぬ突発的なこの事件に日々苦しめられていくことになっていく。
学校では誰とも話さず、授業が終わると無言ですぐに帰ってしまうさよりのことを想うと、優史は居ても立ってもいられなかった。優史は、毎夜父親を責め立てた。時に、胸ぐらを掴み掛かる寸前で、母親が止めに入る。我に返った優史は、階段を駆け上がり、自分の部屋へ閉じこもってしまう。
このようなことが繰り返されていたのだった。 (つづく)




