―極東商会の背景―
第七十三話
―極東商会の背景―
此間、さよりから知らされた美乃里の胸の痛み……。まったく気づかなかった。学校を休ませ、美乃里を病院へ連れて行くように言った。
美乃里の心臓は悲鳴を上げていたのだ。あの身体でせわしく動き回り、月末の支払いが来るのを恐れるかのように帳簿を見つめていた美乃里……。善幸は、オープンしてから、心臓病のことをなおざりにしていたことを悔やんだ。
三月下旬を予定している手術のための精密検査が月初めから始まる。美乃里は、担当医から、これ以上延ばさない方がいいとの説明を受けていたらしい。兎も角、美乃里の手術代は確保しておかなくてはならない。目先の赤字の増減を考えている場合ですらなくなったのだ。
年明けから足踏みをしていた。無駄に使ってしまった時間。それは現実からの逃避だった。悪足掻きでしかなかったのだ。善幸は漸く店を閉める決断をした。
先日、悠さんから電話が掛かってきた。その周期は、一、二箇月に一回なのだが――。
悠さんは、いきなり「おまえ、極東商会から金借りてないよな?」そう訊いてきた。
善幸は「借りてる訳ないじゃないですか!」と撥ねつけた。
この後、悠さんが衝撃的な事実を語りはじめた。
「いいか、聞いて吃驚するなよ。あのな、山下の親父と崔の親父、二人は兄弟だったんだよ。つまり、山下と崔は従弟だったってことになる。それを知ったとき愕然としたぞ。あの山下がなぁ……。『極東商会』の会長が崔の親父で、社長が山下の親父だった。俺の店がオープンする前、会長が現場に二度来たことがあるんだけど、今考えてみれば、金を俺に貸しているんだから〝様子〟を窺いに来ただけだろうと思ってた。ところが、その会長が昨日また来たんだ。杖を突いてたけど頭はしっかりしてたな。その時、おまえのことを聞かされたんだ。おまえが翔龍に居る頃、崔と激しくやったらしいじゃないか。救急車で崔が運ばれた翌日に、会長も香港から病院へ向かったそうだ。『こんな目に誰が合わせたんだっ!』って、変わり果てた息子を見て涙を流してたらしい」
善幸は、衝撃的な事実を聞かされ、何も言えないでいた。
「先月、崔が退院した。重度の火傷の痛みってーのは酷いらしいな。おまえも気を付けろよ。料理人は火傷は付き物とは言え、大火傷は避けたい。でもな、この件については、そうなる前に、俺に相談してほしかったよ……。おまえにもそれなりの理由があったんだろうけどさ……」
悠さんの無念が伝わってきた。
電話を切った後、善幸は考え込んでしまった。山下の向こう側に『極東商会』があり、それは血縁関係の組織で、なにより崔がそこに潜んでいたとは……。
“あの事件”を起こした当時、諦めた飲食店の開業だった。だが、山下は、その夢を現実可能なところまでやる気を突き動かしてくれた。
今更ながら、善幸はその要因を冷静になって考えてみた。しかし、いくら考えをめぐらせても、自分にとって不利益になるような山下の言動は見当たらなかった。それどころか、知恵を貸してくれ、力になってくれたことしか思い浮かばない。
ところが、崔と絡めて考えれば話は違ってくる。山下の高金利融資の斡旋で始めた開業。その融資元は極東商会。と言っても出処は、崔の父親である会長の個人的な資金だったのだ。
また、客寄せとして扱ってしまった極端に安価なフカヒレの仕入れ値。その仕入れの二回目からの極端な値上げは何だったのか。その所為で、のちの利益の圧迫に苦しめられてしまった。
他にも、中国人男たちの嫌がらせ。彼らは、間違いなく崔の父親の回し者だった。いや、山下が手配したのかもしれない。目的は金ではなく、俺の店を潰すためだったのだ。
それと、ゴキブリ混入の疑惑が拭い切れない胡の存在。嫌がらせに来た男たちと胡との関わりはあったのか。それはその影に山下が居て、またそのバックに崔の存在があった、そう考えれば合点がいく。
崔と山下とは従兄弟同士で、その父親たち兄弟が『極東商会』を経営している。その関係から枝分かれしている胡と中国人の男たち。そんなフローチャートが頭の中で出来上がってしまった。
居なくてはならぬ存在となっていた胡……。いとも容易く辞めていった。「アタシガ、イナクナッタラ、コノミセ、ヤッテイケナイネ!」内心そう思って去って行ったに違いなかった。
これら全てにおいて、崔がベッドの上で操縦桿を取っ替え引っ替えしながら器用に操作をしていたというのなら、その策略は天晴れと言う他はなかった。
もしかしたら、あれも山下の差し金だったのだろうか――厨房で傷害事件を起こした後に病院へ運ばれた崔が、慰謝料の件で最初はあれだけごねておきながら、翌日にはあっさりと三千万円で承諾したこと。それは、相手の開業の僅かな可能性を残すためだったのではないのか? 閉店が待ち構えている袋小路への誘い水だった。まんまとその罠に俺は嵌ってしまったのだ。
今頃になって、善幸は、崔の恐ろしいほどの執念深さと山下の狡猾さを巧妙に練り合わせたシナリオを解き明かすことができた。起こしてしまった傷害事件、これが彼らに優位な役割を与える起因となってしまったようで、着々と悪条件での営業を強いらされてしまったということなのか。おまけに、身内の事情が拍車を掛けてしまったのだ。
善幸は、崔と山下との関係から、更なる『極東商会』の陰謀を解き明かす――。
当初、悠が『四川料理 翔龍』に料理長としてやってくると、店の利益など考えなかった崔は、悠が邪魔で仕方がなかった。自分の懐だけを肥やそうと日々業者からのキックバックのことばかりを考えていた崔。それは、経理をやっている山下なら分かっていたはずだ。しかし、従兄弟と言う血縁関係がこれを黙認させた。彼らの父親たちが経営している極東商会は、若しや、『四川料理 翔龍』を乗っ取ろうと考えていたのではないだろうか。オーナー達は、そのニオイを嗅ぎ取ったから、新たな料理長を探しはじめたのだ。他の料理人たちを刺激しないよう料理長の交代だけを企てたと考えれば筋が通る。そこへ、悠が現れ、オーナー達は適任と判断し迎え入れたのだ。
悠の三ケ日オーナー宛てに書いた手紙の内容が、善幸の脳裡に甦った。それは、悠が香港に帰った後、善幸を料理長にしようとオーナー達に打診していた内容で、〝料理長を引き継ぐ料理人は倉持しかいない〟これをオーナー達に納得してもらうための手紙だったということ。
しかし、悠は、善幸が独立したいという意志があるのを分かっていた。それを確認することも無くその可能性を切り捨て、なぜ自分を『四川料理 翔龍』の料理長にさせようとしたのか、独立というリスクの問題だけではない様な気がしてならなかった。
この期に及んで、今更何を言っても無駄だった。既に、もう終わってしまったこと、決着はついてしまったことなのだ。
善幸が、今考えるべきことは、店を閉めるにあたって悠に経済的な負担を絶対に掛けてはならないということだった。
香港でのオープンはそれこそ命懸け。現在、義理の両親と奥さんと跡継ぎの〝一人息子〟の家族全員参加型で頑張ろうとしている。その邪魔をする訳には絶対いかなかった。
悠さんが店にやって来るのは三月下旬と聞いている。丁度、美乃里の心臓手術が終わった頃だ。サトシたちと同じく、術後の結果が気掛かりで仕方がないのだろう。
一人、善幸は厨房の小上がりに腰を掛けて考えている……。静かだった。ガスの元栓は先週から捻ったままにしてある。と、綺麗に洗ってあるはずの寸胴の中から声が聞こえてきた。「店の後始末を済まさなければならないんだろ? だったら早くやれよ」そう急き立てている。暫くして、奴は「おまえ、今更そんなことを思い悩んでどうするよ、えっ?」と更に煽ってきた。
善幸は、「さよりと話す時間ぐらい持たせろや……」そう言い返した。
物件を解約する場合の約束事。解約は、店内の内装をすべて解体し、スケルトン状態で返却という条件だった。また、引き渡しは、その申し出から三箇月後になっていた。
善幸は、不動産屋に連絡し、三月いっぱいで解約できないかを相談してみることにした。不動産屋からの回答はこうだった。
「本来なら施した内装を解体し、スケルトン状態で返さなければなりません。しかし、店は綺麗ですし、厨房機器も半年しか使ってませんよね。中古として厨房機器の買取り業者に売ることも可能ですが、もしよければ、うちの会社で買取り業者の見積りと同程度の価格で引き取ってもいいですよ。早く撤退したいのであれば、今月いっぱいでの現状明け渡しと言うことでどうでしょうか?」
後日、撤退費用は一切掛からず、厨房機器の下取りとして、購入した時の四十五パーセントで買い取ってくれるとの連絡が入った。
善幸は、その条件を飲むことにした。何よりも、解約の申し出から三箇月後の引き渡しになっていたが、その分の家賃も払わなくて済むのが大きかった。今手元にある金では家賃も払えない状態だったのだ。
善幸は、母親と暮らしている兄貴に金を借りるため実家に行くことにした。当時、店の出店費用として、兄貴にも借りようと相談したことがある。兄貴は、三百万円なら出せると言ってくれた。が、なんとか借りずに出店することができた。あの時、借りなくてよかったとつくづく思った。もう、金を借りられるところは兄貴しかいない。三百万円と家主から返却される保証金の八割と、厨房機器を下取りしてもらった金が手に入れば、今度は自分が考えたシナリオ通りに事を進めることができるのだ。
「兄貴、安心していいってば。大丈夫だって。絶対返すからさ!」
兄貴と母親に対してというより、不安そうな〝もう一人〟がいる前で、善幸は宣言した。来年、五十才になる兄貴が結婚する。遠かった春が漸くやって来たようだ。
〝準備資金〟が手に入った。これで、堂々とさよりと話しができる。そう思うと、善幸は気が楽になった。
その夜、病院からさよりが帰って来た。
「どうだった? お母さん」と訊いてみた。
「先生がね、人工弁と生体弁のことで、お父さんと話がしたいって言ってたよ」
「でも、お母さんの場合は、生体弁の方が良いだろうって、先生がこの前言ってたよな」
「はっきりさせたいんじゃない。それに説明した後に承諾書も書いてほしいんだって。近々来てもらえないかって言ってた」さよりは力無気に言った。
「大丈夫だよ、さより。心配なんかいらない。あの先生なら安心して任せられる」
「お父さん、なんでそう言い切れるの?」
「お父さんは、料理人だからだよ」
いつものさよりなら「なんでよ?」と納得するまで訊いてくるところなのだが、訊いてはこなかった。
「食べな、さより。お腹減ってるだろ?」
「お父さん、最近中華料理は作らなくなっちゃったね。どうして?」
「作り過ぎちゃって飽きたんだろうなあ……。暫くの間、中華料理は作らないつもりだ。何かリクエストがあれば作ってあげてもいいけど?」
「別にいいよ。あたしは、お父さんが作ってくれたものを食べたいだけだから。お母さんもね、お父さんの料理が食べたいって言ってたよ。病院の食事は味気ないもんね」
今日、さよりに言おうとしていた話をどうしても切り出すことが出来なかった。明日に持ち越すことにしよう。逃げているのだろうか……。
次の日の夜。塾からさよりが帰って来た。今日は言おうと思っていたが、切り出してきたのはさよりからだった。
夕飯を食べながらこう言った。「お父さん、あたしね、大学行くのやめようと思ってるんだあ……」
あまりにショッキングな話だった。
さよりは何食わぬ顔をして箸を動かしている。チャンネルを変えようとテレビのリモコンに手を掛けた。それを、善幸は奪い取り、電源を切った。
「おまえ、何を考えてるんだ?」怒りが込み上げてきた。
「別に……。大学に行かなきゃ生きていけないの?」
「おまえの場合は、生きていけないっ!」何でもいいから、即思い付く言葉を発しただけだった。
「それ、あたし限定なんだ?」
「おまえが心配してることは、金か?」ズバリ言ってやった。
「お金って、生きていくのには無くてはならないものでしょ?」
「そうだな。で、うちに金が無い、だから、大学を諦める、そういうことなのか?」会話しながら、リモコンを握っている左手に力が入っていった。
「まあ、そうかな……。でも、お父さんは気にしなくていいよ」
バチーンッ、善幸の掌がさよりの左頬を打った。茶碗がひっくり返り、箸が飛んだ。
「生意気なこと言ってんじゃねーぞっ!」
これまで父親に叩かれたことなんてなかったさよりが、畳に背中をつけた状態で頬に手を当てている。瞳には涙が溜まっていた……。
「自分のことは自分でできる! だから、お父さん……、もう苦しまなくていいからっ」
「何言ってんだっ!」
「大学なんてどうでもいいんだよっ」
声が震え、さよりは今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
「あのな、さより……、店は閉めることになってしまったけど、お父さんな、おまえの大学の入学金や授業料はちゃんと考えてあるんだ。それとな、お母さんの手術に掛かる費用、これもちゃんと取ってあるんだよ」
さよりは体を起こした。
「無理しなくていいから。あたしのことより、お母さんのことを考えてあげてよね……」
善幸は、今日兄貴から借りてきた三百万円を茶封筒から取り出した。
「ほら、な? ちゃんと取ってあるんだって。お父さんを信じろ!」
さよりは、その札束を暫くみていた。
「でも……。お父さん、これからどうするの?」
「どうって、料理人として働いて行くさ。今、当たってるところだ。おまえ、ヘッドハンティングって知ってるか?」
咄嗟に出た嘘だった。善幸は、頭の中で作り話を考えながら話す羽目になってしまった。巧く話せるだろうか……。
「それって、IT業界だけの話じゃない?」さよりの疑いの眼が光った。
「料理人だって声が掛かるんだよ。腕の良い職人だけなんだけどな。お父さんはね、前の店に居た時、所在地が四ツ谷だったから、近くの会社の偉い人たちが食べに来てくれてたんだよ。そのお客さんの中には引退した後も、お父さんの作る料理が食べたくて態々千葉や埼玉から来てくれてたんだぞ。それでな、そのお客さんのうちの一人に頼まれたんだよ。銀座で中華料理をやってる友人が良い料理人を探してるから来ないかって。この三百万円はな、手付金みたいなものさ。来月には、おまえが大学生活を悠々と送れるだけの支度金が入ることになってる」
さよりは、今一つピンとこない表情を善幸に向けていた。
「それって、ヘッドハンティングなの? なんか……嘘臭い話に聞こえるけど。信じちゃって大丈夫なの、お父さん?」
「疑い深いやつだな、お父さんをヘッドハンティングしてくれた人は信頼できる人なんだ。お父さんが店を閉めたって話を、前勤めていた店の職人から聞いたんじゃないのか。その銀座の店のオーナーからも直接電話が掛かってきたんだぞ、是非来てくれって。お父さんとしてはグッドタイミングだった」
さよりが見つめている。善幸は、その目を外すわけにはいかなかった。
「お父さん、良かったね……。あたし、心配しなくていいんだよね?」
さよりは信じてくれたらしい。グッドタイミングとは、今日実家に行って、兄貴が三百万円を銀行から下ろし渡してくれたことだった。善幸は兄貴に感謝した。
「おまえなんかに心配されてるようじゃお終いだ。心配御無用っ! この話はまだお母さんは知らない。話がもう少し煮詰まったら、病院へ行って話そうと思ってる。早く安心させなきゃな……」
さよりは、やっと涙を手で拭ってくれた。 (つづく)




