―揺れる善幸の内奥―
この男たちが来さえしなければ――。
一体この目的って何なんだ。
第七十二話
―揺れる善幸の内奥―
ゴキブリ騒動があった日以降、善幸は、朝の通勤時間帯に、胡と美乃里に店の前だけではなく広範囲にゴミや枯葉を掃くよう指示していた。また、通行人には「おはようございます。行ってらっしゃ―いっ」そう挨拶するように言った。近隣の人たちからみれば、毎朝ガラスを磨いている店員の姿も好感をもってくれるのではないだろうか。勿論、店内の衛生面には一層の注意を払い、また装飾にも一工夫し落ち着ける店作りを心掛けた。
開店前に、ロールカーテンに書かれている【四川料理 悠】のロゴが隠れないところまで捲り上げ、善幸たちはスタンバイする。
あのゴキブリ騒動があった日以来、夜だけではなく昼の時間帯もかなりお客さんが減ってしまったけれど、クリスマスイブに関しては、予約も入りみんな久々の満席状態を期待していた。
再び事件が起きたのは、十二月二十四日。そう、クリスマスイブの日だった。男たちは、この日を狙って来たに違いない。
店内でクリスマスムードを盛り上げているお飾りや色鮮やかなポインセチア、それと窓台に置ける大きさのクリスマスツリーは、中華料理店らしくない洋風な内装にはぴったりだ。それらは、チラシを配ってくれたさよりの友達みんなからのプレゼントだった。善幸たちの沈鬱な気分を一掃してくれていた。
陽が暮れると、窓台に置かれたクリスマスツリーの点滅するネオンが、道路を隔てたブロック塀をほんのりと色付かせた。
予想通り、店内は満席状態になった。お客さんは、あらかた近隣の家族連れだ。賑やかな店内にクリスマスソングのBGMが流れている――。
午後八時ジャストに、二人の男が入ってきた。「奴らだっ」厨房にいる善幸も直ぐに分かった。美乃里は、どうしたらいいものかと狼狽えている。
満席ではあったのだが、店の中央に、予約席の札が置かれている四人掛けの席が不自然さをチラつかせていた。その席に男たちが座ろうとしている。まるで、そこの席は我々の指定席だ、と言わんばかりの態度だった。
美乃里は、血相を変え、男たちが来たことを善幸に報告した。善幸は、「満席だから追い返せ!」そう指示した。男たちを追い返す口実が無かったら、一体どうなってしまうのか、それを考えると空恐ろしく感じた。
美乃里は、もう座ってしまった男たちに「申し訳あれませんが満席です。この席は予約席となっていますので……」と言ったら、男たちは、同時に拳でテーブルをバンッと叩き、「ココ、オレタチガ、ヨヤクシタセキダロッ、チガウカ?」と美乃里に詰め寄った。
それを厨房で聞いてしまった善幸は平常心を失った。鍋を振りながら、奴らのテーブルの方へ目を向けている。お客さんの談笑が一瞬にして聞こえなくなった。
男たちの前で、美乃里がおろおろしている姿を見て、厨房に居た胡が電話台に置いてある予約票を持って客席へ向かった。
胡は、男たちの居る前で予約票を見ながら言った。「キンジョウサマ 二メイト、カイテアルネ」
善幸も今日の予約に関しては、前々日に確認していた。その中のカタカナで書いてあったものが男たちの予約だったのだ。だが、カタカナで記入するのは胡しかいない。胡が予約を受けたことになる。男たちが予約を入れたのなら、中国語訛りの日本語で話してくるはず。(あの男たちではないのか?)と胡は直観的に思ったはずだ。だったら、彼女は、善幸か美乃里にどうしたらいいかを相談すべきじゃなかったのか? それとも、男たちの代替人物の日本人が予約を入れてきたということも考えられる。詳しいことは後で胡に確認するしかなかった。
店の真ん中で、男たちと揉めている会話を耳を立てて聞いているお客さんたち。さっきまでのクリスマスムードが一変してしまった。
善幸は、先日男たちがやって来た時の騒動を思い起こしていた。同じ満席状態とは言え、今回は違っていた。今日はクリスマスイブ……。近隣の家族が食事をしながら愉しい時間を過ごすイベントの日だった。
善幸は火を止め、男たちのところへ向かった。
男たちは予約して来ているのは間違いなかった。店側として、それを受けた以上「帰ってくれ!」などと、理不尽な抗弁はできない。
善幸は客の視線を浴びた。帽子を取り、
「いらっしゃいませ。確認致しましたら、キンジョウサマ、二名様でご予約頂いておりました。申し訳ございません……」これが精いっぱいだった。
男たちは、謝りに来た店主に、ビールを二本持ってくるように言った。それを聞き、すぐに胡がビールを取りにいく。男たちはそれ以上のことは何も言わなった。
善幸は、最後にもう一度頭を下げて厨房へ引っ込んだ。暫く様子を見ていよう、騒ぐようなことがあれば警察に来てもらう他はなかった。
ビールを飲みはじめ、煙草を吸いはじめた男たち。まるで店の真ん中に囲炉裏でもあるかのように黙々と煙が立ち昇っている。廻りの客を気にすることもなくデカい声で会話をする中、急に大声で笑い出すかと思えば、無意識に煙草の灰を床にポンポンしている。この行為を繰り返していた。既に、他のお客さんの談笑を奪い去っていた。
しかし、それだけで済むはずはなかった。美乃里がテーブルの上に料理を置こうとする度に、奴らの嫌がらせの決め台詞である〝ゴキブリガ、ハイッテナイカ、カクニンシテアルカ?〟を逐一付け加える。一発目で、お客さんの顔が蒼ざめたのは言うまでもない。当然、厨房で鍋を振っている善幸にも聞こえていた。
早い方が良いと思った。大事になる前に、善幸は警察を呼ぶことにした。
警察は十分も掛からずに到着したが、その時にはもうお客さんの姿はなかった。善幸が先日、駅前の交番へ相談しに行った時の警察官も来てくれていたので、揉め事の原因を説明するのには時間を要せずに済んだ。
その警察官が、彼らに対し、「あんたたちは、営業妨害をしに来たのか?」と質問をした。
男たちは、惚けた顔をしている。まるで、(言葉が分かりませーん)と言っているかのようだ。
結局、男たちは注意されただけで帰って行った。善幸としては、目的は果たしたと言わんばかりの満足そうな後ろ姿が腹立たしく思えて仕方がなかった。
警察沙汰にしてしまった今日の出来事は、落ちてしまった信用を回復するつもりで続けてきた接客対応と、店の周辺を毎朝掃きながら通行人に声を掛けてきた努力を帳消しにしてしまった。考えてみれば、信用なんて所詮そんなものなのかもしれない。信用を得るのは時を要し失うのは容易い。それを取り戻すには、得るより何倍もの努力と時間が要求される。それを理解はしているつもりでも、現実的な死活問題を加味し鑑みれば、余りにも時間が足りなさ過ぎた。
明日はクリスマスの日、三分の二以上予約で埋まっていた。
昼間の客の入りは順調だった。クリスマスというイベントの日に、一度あの店へ行ってみよう、そう思っているお客さんがまだまだ沢山いると思っていいのではないか。
夜の時間帯に入いると、七時過ぎにはほぼ客席状態になった。予約票には、昨日今日と二日続けて〝キンジョウサマ 二メイ〟と書かれてあった。それは勿論確認済みだったが、今更どうしようもない。憶測だが、善幸は昨日警察が来て注意を受けているのだから、今日は来ない可能性が高いと踏んでいた。
予約を受けた胡は、その予約二つについては認めはしたけれど、声の主が違っていたので気づかなかったと打ち明けてくれた。
憶測は外れた。午後七時三十分、ドアを乱暴に開け男たちが店に入ってきた。ど真ん中の指定席に座り、二人とも腹を突き出すような格好で煙草を吸い始めた。
二時間ほど居ただろうか。男たちは、〝嫌がらせの決め台詞〟を言わなかっただけで、足を広げ、煙草を灰皿ではなく食べ終えた平皿で揉み消した。と思うと、間髪入れず新たな一本に火を点ける。ぷかぷかぷかぷっか―と、見てるだけでこっちが咳き込んでしまうくらいだ。息継ぎのように中国語で話す声はデカく、昨日とまったく同じ行為を繰り返している。始末に負えない。他のお客さんは、食べたら直ぐに出て行ってしまった。
善幸たちは、そのお客さんたちを、ただ見送るしかなかった。
店を閉めた後、善幸は居た堪れず胡を問い詰めた。「中国人ってこんなにマナーが悪いのか?」と。これに対し胡は、「チュウゴクハ、ヒロイネ。ダカラ、カレラノハナシテルコエハ、オオキクナイヨ。フツウダヨ。アタシノコエ、オオキイカ? チュウゴクジンダカラッテ、サベツシチャイケナイヨ!」と言い返された。前にも聞いたことのある〝差別〟をタテにとった反論だった。
善幸たちは、差別などしている訳ではないと、誤解されぬよう何度か説明はしているのだが、胡の頭の中では、その辺の何かが引っ掛かっているのかもしれない。じっくりとその辺のところの話をするためには、信頼関係を築いておく必要があった。でなければ、単なる言い合いで終わってしまうからだ。
なにやら、美乃里はそのことに心証を害したようだ。問題視しているのは差別とは別次元のことだと言いたいのだろう。
勢い余って、美乃里は胡のエプロンのポケットの中にゴキブリが数匹入っていたことを切り出してしまった。咄嗟に、善幸は「そのことは、もういいんだよ!」と言おうとしたが言葉を呑んだ。ふと、胡は、どのような反応を示すのだろうと興味が湧いてきてしまったからだった。
胡は、美乃里を睨みつけている。彼女はエプロンを外すと、それをテーブルに叩きつけた。
「ミセノタメトオモッテ、イッショウケンメイ、ハタライテキタヨッ、ソレナノニ、ゴキブリヲ、アタシガイレタトイウノカッ!」
えらい剣幕だ。胡は、それだけを言い残し店を出て行ってしまった。善幸は呼び止めはしたものの、この激しい剣幕では誰も止められない。由紀子さんさえ声を掛けられないでいた。
お客さんが来る来ないは別として、胡は居なくてはならない存在になっていた。紹介してくれた山下は、募集を掛けて雇ったパートより、倍の仕事量をこなすだろうと言っていたが、実際は、スピーディーな体の動き、機転の利かせ方、それに中華料理の下拵えの知識を鑑みれば、一端の職人以上の働きをしてくれていたのは間違いなった。胡に任せたフカヒレに使用するスープ作りや冷凍物の食材の解凍方法、それに生魚やチルド状態の肉の扱い方などは的確で、自分がもう一人いるかのようだったのだ。
気合いの入っていたオープン当初は、全部自分がやってやるっ、と意気込んでいた善幸だったが、今となっては、そんな体力も気迫も無くなっていた。徐々に、胡によって奪われてしまったかのようにも思えてならなかった……。
年内の営業は、三十日までと決めていた。胡が居なくなった今、皮肉にもお客さんが激減してしまったことで人手不足にはならずに済みそうだ。
お客さんが入ってきた。身体を動かすのに余計なことを考えていてはいけない。同じ作業をやるにしても、気構えを持ってやるのと嫌々やるのとでは、その疲労感は比較にならないほど違ってくる。そうは思ってはいるものの、この一週間すっかり怠い身体を引き摺りながらの作業と化してしまった。
美乃里は、家に帰ると、年末に支払う金額に頭を悩ませていた。万が一を考え、アパート代を大家さんに連絡し、先延ばしにしてもらうことにしたようだ。大量に在庫として購入してしまったフカヒレと乾物類の支払いが大きかった。それを含めた『極東商会』への支払いだけで総額は三百万円を優に超えていたのだった。
年を越し、店の営業は五日からはじめた。“翔龍”と違い、近隣にオフィスビルなどはないため、新年会で予約が入ることもなかった。このままでは、もう経営が成り立たない。善幸は追い詰められていった。
さよりが手伝いに来ている意味がなかった。端っこのテーブルに座り、浮かぬ顔で参考書をみていた。レジでじっとしている野々村は、申し訳なさそうに偶に通る通行人を眺めていた。美乃里といえば、向かいのブロック塀からせり出している百日紅の枝振りを見つめていた。
その様子を見ていた善幸は、閑暇を持て余しているくらいなら、年の暮れから風邪を引き熱を出している由紀子さんのところへ行って来てはどうかと、美乃里に提案してみた。
それに対し、さよりが美乃里より早く反応した。「あたしも行く!」
二人は、お粥を作るための食材を紙袋に詰めて実家へと向かった。
二月に入った。男たちは、年が明けてから四回店にやって来た。客席が半分くらい埋まると、昼夜の時間帯を問わずやって来て、嫌がらせと判断されるぎりぎりのところを突き、お客さんたちに不快感を与える。パターン化されたこの巧妙な手口には特徴があった。滞在時間の波があり、お客さんが引きはじめると同時にさっさと帰ってしまうことだった。
その飲食代金は、それらしい金額をテーブルの上に置いて行く。それは、無銭飲食で警察へ通報されても言い訳が出来ると思ってのことなのだろう。
金銭の要求には応じないことが分かっている男たちの最終目的は、店を潰すこと。徹底的に客足が遠のくまで、その行為を続ける気なのだ。
マンションの一室から店内の様子を覗いているかのように思えて仕方がなかった。
今月の半ばに、悠さんから掛かってきた電話を善幸が取ってしまった。「美乃里の身体は大丈夫か? 三月末におまえの店に行くからな、それまで頑張れっ!」まるで、電話なんかで話す内容じゃない、直接会って話そう、そう言わんばかりの気勢を感じた。どうやら、店が上手くいっていないことが悠さんに伝わってしまったのではないだろうか。
その犯人はサトシしかいない。口止めはしておいたものの、店内の閑散状態が続いていることが、言わざるを得ない立場に追い込んだようだ。クルミ姉さんの沈痛な面持ちが目に浮かんできた……。
悠さんに知られてしまった以上、もたもたしてはいられない。善幸は、悠さんがやって来る前に、全てを清算しておかなくてはならない立場に追いやられた。
この先、見せ掛けであれ、店の営業を続けていくことは不可能。借金が雪だるま式に膨らんでいくだけだ。二月分の極東商会への支払いは間違いなく滞る。その場合、延滞として課せられる金利が発生することになる。これまでの高金利に、更にそれに延滞金を加算した合計金額など計算する必要はあるのだろうか……。
次の週、店が休みだった火曜日に、三人で塾の面談に行った。
善幸は、去年の夏休み前に自分の店をオープンすることは肇先生に話していたので、当然店の繁盛ぶりを訊いて来るだろうと思った。
案の定、「もう、オープンして半年経ちましたよね。お店は順調ですか?」先生は、笑顔でそう訊いてきた。
しかし「ええ、まあ……」と、苦笑いの生返事しか出来なかった。
すると、さよりが、
「先生、一度、お父さんの店の偏差値をつけに食べに来て下さい。あたしの偏差値を遥かに超えてますから。食べたらきっと吃驚しますよ!」
思わず、善幸は顔を曇らせてしまった。もう店は閉めたも同然なのに……。さよりは何時からこんな突飛な配慮ができるようになったのだろう……。
今回の面談、さよりは一人で行くと言い張ったらしい。美乃里は、自分だけでも一緒に行ってあげようと考えていたという。その話を聞いた時、「愉しみにしている面談なのに、俺を行かせない気か!」と当然の如く怒った。今回の面談にはどうしても行かなければならない訳が善幸にはあったのだ。
さよりの名演技のお蔭もあって、和やかに肇先生との面談を終えることができた。
最後に先生が、「受験まで一年切ったんだ。今回の模擬試験の偏差値が下がってるようだけど、油断せずに頑張って行こうな。これまで順調に偏差値を伸ばしてきたんだから。頑張れっ、倉持っ!」
さよりは、歯切れ良く返事をした。
「了解しました、先生!」
(つづく)




