ー思いもよらぬ関係ー
第七話
―思いもよらぬ関係―
純子は、両手でビールを注ごうと差し出した。肇は、残りのビールを飲み干しグラスを近づけた。
「……そういう訳なんだあ」と独り言をいい、肇は注がれるビールの泡を見つめていた。
まだ四杯目だった。それなのに、昔のことを持ち出し管を巻こうとしている自分がいる。何が不満なのか、今更どうしようというのか。どうすることも出来ない遠く過ぎ去った出来事だというのに……。肇は、やり場のない感情を抑え込もうとしていた。
「訳などありません……」
純子は、そう答えた。肇に尋問されているように感じたらしい。和彩美と文子はいつの間にか男子二人の会話に潜り込んでいた。
純子は、自ら近寄ってきたのだ。〝機先を制する〟の教訓を一捻りした〝問題を起こした場合には、大事に至る前に相手の懐へ飛び込んで行け〟彼女はこれを会社組織の中でしっかり会得したのではないだろうか。どのみち肇に何か言われるに違いない、そうだとしたらアルコールがまわる前に……と。そのキレも見事だった。
肇は、純子の顔をみながらビールを飲んでいた。
「わかってますよ、先生が言いたいこと……」
(ほーら、なっ、やっぱし!)そのような表情を露骨にしても、純子は笑みを崩さなかった。彼女は、ちょっとだけ上目遣いをした後、肇が持ってるグラスにビールを注いでいる。その時、前髪が肩を覆うように地すべりを起こした。放つシャンポーの香り……。
だが、肇の前では、これ以上の妖艶な色気は必要なかった。
「どうなんだろう……。でも、純ちゃんの立場でも疑問符は付くわな。まあ、当事者同士じゃないと分からないことってあるとは思うけど。でも、締め括りがすっきりとはいかなかったってことなんだろ? 一番問題なのは、優史だっ」
他の三人と愉しく会話をしている優史の顔を見てしまった。肇は、顔が段々気むずかしい顔になっていくのが自分でも分かった。
そんな肇を、純子は潤みながらも見据えた瞳でみている。
隣でそっぽを向いていた文子が、突然会話に参加してきた。
「先生、もう、どうすることも出来ないと思います」
文子は、二人の会話をしっかり聞いていたようだ。何故か、文子の表情は穏やかだった。
肇は、何故か分からないが、先程から手動のメリーゴーランドに一人で乗せられ、周りからあやされているような気がしてならなかった。回転させているのは誰なのだ? それも本人に感づかれぬようにとの配慮が窺えた。
肇は、その犯人探しをし始めた。教え子たちの顔を素っ気無い目つきで眺めていく――。が、どうやら役者揃いで、全員怪しく思えてしまった。
優史と和泉が弾んだ会話をしていた。どうやら、あの頃の想い出話をしているようだ。二人は、時々大声を出して笑っている。和彩美が、その聞き役に回っていた。
肇は、これ以上“三人の関係性”に触れるのはやめようと思った。明るい店内と笑い声がその気持を押さえ込んでいてくれたからだ。
……遂に気づかれた。
「待てよ……和泉っ、俺達引っ掛かったんだよ!」
優史がいきなり今日一番の大笑いをした。和泉と和彩美は、キョトンとしている。
「さっきの先生の恋愛カウンセラーの話だよ。俺たち、目を瞑らされてさあ~」
優史は、笑いが止まらない。一足遅れて、和泉も笑い出した。
和彩美は「出来た黒い紙に、自分の好きな色で円を描きなさい」これが解せないでいるようだ。言ってることは解ったけれど、その一歩先が読めないでいたらしい。堪らず、「なになに?」と彼女が皆に尋ねると、「和彩美、気にしなくていいんだよ」とまた純子が和めた。わかったような、わからないような顔をしている和彩美……。彼女は、悲しそうな眼差しを肇に向けた。
「先生、恋愛カウンセラーじゃなくて、ペテン師で大儲けでしょ?」優史が、羊の皮を引っ剥がそうとしている。
「そうだったのかあ? よくわからんが」肇は惚けてみせた。
ひと笑いの後、この件は一件落着となったのだが。うん? どうやらその時、純子は最初から目を瞑っていなかったようだ。下を向いていたのは、〝あの講義〟の続きをどう持っていこうかと考えあぐねている肇が可笑しくて仕方がなかったから。彼女はそこまで見抜いていたようだ。
ところで、純子はまだ優史の隣に戻ろうとはしなかった。温まったビール瓶を持った状態で、一抹の毅然を抱え、しかしながら笑みは崩さず正座している……。しかし、これ以上純子と話し合ったところで、納得のいく説明が得られ、お互いすっきりした気分になれるということは有り得ないことだ。当時、一人、寂しそうにしていたさよりから去っていった優史。その誘因は純子だったのか……。だが、それはもう過去のこと。当時、六人だった仲間から一人抜けて五人になったということなんだ。後は、この五人で仲良くやって行けばいいだけ、ただそれだけのことなのだ。肇はそう思い込もうとした。
なんか、近い……。肇は胡坐をかいている左膝が気になっていた。純子のソレと、くっ付きそうでくっ付かないでいる。そんな些細なこととはお構いなしに、彼女はまだ隣にいようとしていた。
「純ちゃん、もういいって。誰が悪いわけじゃないんだ。優史と付き合ってたってことは分かったから。良かったじゃないか」
この一言で、純子は拵えていた笑みを外した。肇は〝ありのままの彼女〟と向き合うことになった。
しかし、優史に対する純子の想いがこれ程のものとは思わなかった。当時、傍から見ていて気持ちが良いくらいオープンな交際をしていたさよりと優史。それなのにどうしてこうなってしまったのだろう。意外な展開に改めて愕かされた。でも、暖かく見守ってあげなければならないのだ。二人とも俺の教え子なのだから……。これ以上、何も言うまい。ただ、最後に一つだけ純子に訊いておこうと思った。
「優史と付き合い始めたのはいつからなの?」
純子は応えようとしなかった。やっぱり、高三の、さよりが塾に顔を出さなくなった頃からなのではないのか? 優史を挟んださよりと純子の関係……。一体何があったと言うのか。これは憶測でしかないが、優史が、日々浮かぬ顔をしているさよりを無下に扱ったということなのだろうか。さよりのことが好きだったはずの優史。さよりに悩み事があるなら相談にのってやるくらいのことは出来たはずだ。すべては過ぎ去ってしまったこととは言え、遣る瀬無い思いが募る……。それより、なぜ今まで黙っていたのだろう。もう、十年も経っているというのに。
「先生、純の足が痺れちゃうよぉ」不服そうな文子の言い方だった。
皆の視線が肇に向けられた。
文子は、もうこの話を止めさせようとしている。彼女は、ただ「誰と誰が付き合ってると思います?」と、クイズ形式で肇を吃驚させようとしただけで深い意味などなかったのだ。彼女は、「そうだったのかあ、それは吃驚! 純ちゃんと優史かあ、お似合いかもな」そう言ってくれるものだと思っていたに違いなかった。
文子は、肇の隣で戸惑いを隠せないでいる純子の様子が気掛かりで仕方がないようだ。
純子の背中を文子が優しく叩くと、彼女は優史のところへ戻っていった。すると、二人は意味不明な行動をとった。二人が肇をチラリと見た後にグラスを手にすると、向き合い互いにニコッとし、カチッとグラスをぶつけたのだ。メデタイことがあったかのような乾杯。優史が一気にビールを飲み干すと、空いたグラスに純子が嬉しそうにまたビールを注いだ。
それは、肇の感情を逆撫でする光景だった。
思わず、「優史、おまえって、昔からモテたよなあ、何かコツでもあんのか? 和泉に教えてやれや!」肇は厭味の語気を強めて言った。自分の名前がこんなところで出てくるとは思ってもいない和泉が吃驚している。
「和泉にどう教えるんですか? 先生……」
優史は、急にそんなことを言われはしたけれど、愕いている様子はなかった。モテる? そんなことはないとでも思っているのか、恬として顧みる素振りは見せないでいる。
肇は、その態度に我慢ができなかった。遂に、この場で言ってはいけないことを口走った。
「倉持さより……思い出したか? 優史っ」
優史は、大きく目を見開いた。肇は、構わず問い詰めていく。
「彼女は、今どうしているんだ? あの頃、多分、自分一人では抱えきれないほどの悩みをもってたはずだ。なのに傍にいたおまえは、何もしてやらなかったのか? あの頃、お前たち二人はいつも一緒だったじゃないかっ」
突然、優史が拳を握りしめた状態で、すくっと立ち上がった。みると、顔が引き攣っている。
「なんだーっ、優史!」
肇は声を荒らげた。知らぬところで自分の膝が起き、立ち上がろうとしていた。座卓の角を掴む手に力が入った。
すかさずそこへ、和彩美の両手が上に重なった。
堪らず、和泉が言った。
「どうしたんだよ、優史っ、座れって。先生も落ち着いて下さい!」
和泉は、咄嗟の判断にもそつがない。立ち上がって優史の肩に手をかけた。しかし、優史はその手を払った。
和紙を通し、電球がぼんやりと灯る中、天井へ近づいた優史の瞳が光っている。優史の目から涙が込み上げてくるのが見てとれた。まるで解けはじめた氷のようだ。
「違うっ!」
優史が強く言い放った。
「いいから座れって、優史よぉ……」
佇んでいるような和泉の言い方。彼はもう座っていた。奇しくも、慌てて二人の間に入ろうとする気配は見せなかった。更に不可解なことは、優史の鋭い目つきはすみやかに穏やかな眼差しへと変わった。にも拘らず、肇は、彼から目線を外しはしなかった。
和彩美は、肇の右手の甲に、その半分しかない掌ふたつで覆うように押さえ込んでいた。いつの間にか、文子が左腕を掴んでいる。何やら、この二人にか弱く押え込まれてしまったようだ。
そのお蔭もあって、肇も冷静さを取り戻すことができた。優史の素通りすること無く顧みる心を透き見することができたからでもあった。その後、皆の前であられもない態度をとってしまった自分を恥じた。
優史は、肇に一言詫びると、バツが悪そうに座って何事もなかったように、また和泉と話しはじめた。肇も何事もなかったかのように――。
肇は、皿に取り分けられている舞茸を見つめていた。揚げ立てだったはずの舞茸は、如何にも今冷蔵庫から取り出してきたかのような有り様に見えた。
「先生……」
それは、和彩美の声だった。顔を上げると、そこには彼女の笑みがあった。まだ気まずさが肇の顔に残っていた。そこへ、彼女は、普段通りの微笑みを浴びせてきた。
肇は、憚らずにそれを避けた。
「こっちを向いてくださいな、先生っ」
仕方なく、和彩美の方へ顔を向けた。
「ここの串揚げって、冷めても美味しいんですよ」
和彩美は、肇の感情をクールダウンさせようとしていた。
そんな筈があるものかと思い、それを肇は確かめてみたくなった。彼女の手がまだ自分の手の甲にのっかっているのを疎かに外し、舞茸に刺さっている串を取ろうとした時、
「先生、ちょっと待って」
今度は、察すれば勝手に動く文子の指が、牡蠣の串をつまんだ。
二人とも食べさせたいのは、どうやら舞茸ではないらしい。思い掛けなく、和彩美の笑みが文子にシュールな指示を出させたようだ。
文子は、牡蠣に程良くタルタルソースをかけると肇の口元へ近づけていった。
「わかった、わかった、自分で食べるから」
肇は、文子から串を奪い取り、大粒の牡蠣を一口で頬張った。
ガガリッ、衣が怒った音を立てた。なるほど、口の中でモノが倍に膨らみそうな汁気が出てきた。暫くの間、しゃべることが出来なくなった。和彩美と文子がそれをじっと見つめている……。
肇は、口を動かしながら前方に座っている〝顔見知り〟をそこはかと無く眺めている。消え失せようとしている昔日の面影をもう一度蘇らせようとしているのかもしれない。
肇は、思い做す。優史……そう、優史なのだからと。けれど、あの頃から今に至る過程で、勝手な妄想の中の大きな期待だけを取り出し、彼の周辺にばら撒いていたのかもしれないと考えてみる。
深みのある黒い座卓が段々膨張していくように感じる。飲み込む度に鼻から抜けていく磯の香り……。
和彩美は笑みを絶やさないでいた。減っていく肇のグラスへ小まめにビールを注いでいた。
肇は、評判通りの牡蠣を二串食べ終えると、泡立っているビールを一口飲んだ。和彩美と文子は、食べた感想を聞きたがっているようだ。
「確かに、冷めても美味しいね。熱々でも冷めても美味しい串揚げかあ。でも、そこんところ、お客さんは気づいてくれるだろうか。それを確認する為にはタイムラグが必要で、それが気づきを邪魔させてしまうんじゃないか。衣で隠されているから見た目じゃ分からないしな。ああそうそう、入試問題でもね、最近そんなのが多いんだよ。出題者しか解けないような問題もあるし、ナンセンスだよな」
肇は、和彩美の方へ顔を向けた。彼女は「うん」と真顔で頷いた。
〝冷めても美味しい〟この言葉が、肇の頭の中でどこにも引っ掛からずに空回りしていた。(おまえたちって、どういう奴らだったっけ……)
「先生、これ、なんの串揚げだと思います? はずれたら串千本のーますぅ」
「…………」
暫くの間、肇は深夜一人でラジオでも聞いているかのよな錯覚に陥ってしまった。座卓の中央をじっと見つめている。
遠くの方から、突然文子の声が聞こえてきた。
「先生、あたしがやってあげますから」
肇は何気に座卓の表面を手で擦っていた。
真っ黒な座卓なだけに食べるときに落ちた衣のカスが目を引く。落としてしまった要らないものを掻き集め拾い上げようとすると、途端に頭の中で散らかってしまうのは何故なのだろう。
文子はバッグからティッシュを取り出し、それをグラスに付着している水滴で濡らすと、座卓の上をきれいに抜き取った。
文子は、腕を組み地蔵のように目を瞑ってしまった肇に「先生、どうしたんですか? 急に眉間に皺を寄せたりなんかして。何か心配事でも? あらら、もしかして、奥さんと離婚? きゃー」と戯れた。
今日、参加している教え子たちの中で、とりわけ気になっていたのは深刻な悩み事を抱えている文子だった。
「ああ、そっち? なるほど……。考えてみろってか?」肇は笑い飛ばした。 (つづく)