―働き詰めの人生だった胡から学んだこと―(手首のスナップを利かせ胡がパスをしようとしていた)
由紀子さんと美乃里の体が心配です。どうしたらいいものかと、善幸は思いあぐねていた。
第六十七話
―働き詰めの人生だった胡から学んだこと―
(手首のスナップを利かせ、胡がパスをしようとしていた)
プレオープンの日は、親族や友人達が手伝ってくれたので、支障なく片付けまでやり終えることができた。やり残した店内清掃は翌日にやることにした。
翌日、善幸は束の間の時間の余裕を与えられた気分になっていたが、しかしそんな流暢に構えていられる立場ではなかった。
今日は、明日のグランドオープンに向けての準備をしなければならない。。
胡は、窓ガラスを拭き終わり、昨日使用した皆の作業着を洗濯機に放り込んだ。
「胡さん、昨日はお疲れ様でした。動き回っていたから、碌に食事ができなかったでしょう? 気が付かないで申し訳ありません」
「シゴトシニキテルカラ、アタリマエ。キニシナクテダイジョブ。アタシネ、ヤスンダコトナイヨ。イツモ、ハタライテルネ。ウチノダンナモ、ハタラキモノダヨ。フタリトモ、カラダガジョウブニデキテルヨ」
「胡さんの旦那さんは何やってるんですか?」
「ウチノダンナハ、ショクリョウヒンカンケイノシゴト。アッチコッチトビマワッテルネ。ネルヒマナイヨ」
善幸にも前の店で週一の休みはあった。その休みで身体と精神的な疲れを癒すことができた。それにしても、胡は休みなく働き続けても苦ではないらしい。
「うちの店は週一の休みを取りますよ。火曜日にしようかと思っています。働き詰めじゃ、みんな倒れてしまうから」
「ニホンジンハ、シッカリヤスミヲトルネ」
「人手が足りない状態でスタートを切ることになって、その分胡さんに負担を掛けてしまうと思いますけど、明日から宜しくお願いしますね。もう一人パートさんを入れようと考えてはいるんですよ。募集の貼り紙はしてるんだけどなあ……」
美乃里がそれを聞いて、
「ああ、言うの忘れてた。明日からお母さんが来てくれるってよ」
「おい、早く言えよ。でも、体調が悪いんじゃなかったのか?」
「お母さんが手伝いたいって、あまり言うもんだからさ。お母さんね、餃子を包むぐらいはできるって言ってた。それなら問題ないでしょ? 最近、体調は安定してるみたいだし」
「お父さんはなんて?」
「お父さんも、まだ泊まり込みで現場へ行く時もあるから、本人も一人より皆と一緒にいる方が愉しいんじゃないかって」
善幸は、仕事場に心臓と肝臓の病をもった、それもいつ倒れるか分からない二人を働かせることに戸惑ってしまった。また忙しさの中でそれを気にしながら仕事をやっていく自信もなかった。しかし敢えて言うなら他人ではない。身内だった。善幸は、それを甘んじることのできる理由として、それを承諾してしまった。
「お父さんがそう言うのなら、お願いするかあ。極力餃子は冷凍しておきたくないんだけど、無理だな。今日は、胡さんと二人で出来るだけ作ってもらって冷凍することにしよう。明日からは、由紀子さんに作ってもらうことにしてさ。さよりにも店に来たとき手伝わせるか。開店のサービス餃子で、お客さんに『餃子は品切れです』とは言えないしな」
さよりの友達に頼んで配ってもらったチラシの効果がどのくらいあるのか、善幸は気になっていた。チラシ千二百枚に印刷した餃子無料のクーポン券。店の規模からして、ちょっと多過ぎたか? もはや手遅れだが、千枚にしておくべきだったと後悔した。
「ゴゴカラ、ギョウザヲフタリデツクッテイケバ、ミッカブンハツクレルヨ。ダカラ、モンダイナイネ」
「そう? なら心配する必要がなくなったな。ところで、そろそろお昼だけど、胡さんは何が食べたいですか?」
接客においては他力本願だった。明日から、それに関しても胡に頼るしかなかった。
善幸が賄いを作っている間、美乃里は胡と愉しそうにおしゃべりをしていた。同じ職場で働く者同士、良好な人間関係を築いておくことの大切さは前の店で経験済みだ。一人でも欠けたら店がオープン出来なくなってしまう。山下が言ってたように、胡は二人分の仕事量をこなしてくれていたのだ。
そして、翌日の朝、美乃里は朝からそわそわしていた。何時に起きたのだろう。もう髪を束ね化粧も済ませていた。出かけられる準備は万端といった出で立ちだった。
さよりが学校へ行こうとしている。振り返り、「お客さん来てくれるといいね……。お父さん、お母さん、頑張ってね。行ってきまーす!」
勢いよく閉まるドアの音に、善幸の胸が高鳴った。
オープンは午前十一時半。
善幸は、開店するちょっと前に店先に出てみた。まだ残暑の抜けきらぬ汗染む陽気の下で、十数人のお客さんが並んでいた。若い主婦たちがほとんどだった。チラシの配布と味見のつもりと物珍しさが集客力のようだ。業者からの開店祝いのスタンド花が交差点を華やかにしていた。見ると、その内の一つが隣の塀に寄り掛かっていたので、ずらしている間にもお客さんが二人、三人と並んでいく。やっぱり由紀子さんが来てくれてよかったと思った。一度に客席が埋まったりしたら、お客さんに迷惑を掛けてしまう。それに、開店してからの一週間は、予想だにしない事が起こりかねない。何事も余裕をみておかなくてはいけないのだ。だが、今日は平日。慌てるほど混雑はしないだろうと踏んでいた。
並んでいるお客さんが、ちらちらとこっちをみている。(あの人、店主じゃない?)そう思われたようだ。善幸は、お客さんに一礼し、厨房へ戻っていった。
営業開始。
由紀子さんと美乃里が歩道へ出て行き、お客さんに「お待たせしましたあー、いらっしゃいませえーっ」と声を掛けている。
並んでたお客さんが全員席についた。客席の三分の二が埋まっただろうか。善幸は、その様子を厨房から覗いていたら、これまでの人生の中で幾度かあった門出のように思え心が弾んだ。
十二時を回るとほぼ席が埋まった。由紀子さんも餃子を包むのを止めて、店内の接客に回ってくれた。
美乃里は、料理の手順を考えながら下拵えしておいた材料を段取りしていく。手際よく動いてくれていた。働き手はみんな手一杯だったが、この先、この体制でも乗り切れそうな気がしてきた。
「フカヒレメン四ツ、マーボーメン一、チャーハンセットニ、チンジャオロース一、アト、ギョウザ八マイネ!」胡さんの甲高い声が店内にまで響いた。
「あいよぉ、担々麺上がったよ!」
善幸は、胡さんのカタカナ書きの伝票を確認することもなく次々に作っていく。彼女の声だけで十分だった。気になったのは、メニューの呼び名だった。胡と相談し、短縮する必要がある。
「店内の温度をもう少し下げてくれって、お客さんに言われたんだけど?」
由紀子さんが善幸に訊いてきた。そうだった。店内の温度は、住まいの部屋のそれと一緒じゃなかったのだ。
「それじゃ、二度下げよう」
思ったより暑く感じるのは、店内が活気づいている所為もあったのだろう。
夕方にかけて一旦引いた客も、七時には客席が七割ほど埋まった。善幸は、オープンから一週間は休み時間を設けず、通しで営業するつもりでいる。その後は、午後三時から五時半までを休憩時間に充てようと決めていた。
ご近所の人たちだけではなく、南口からのお客さんも来てくれているみたいだ。チラシを配布した効果が手に取るように分かった。
午後九時半ラストオーダー。まだ家族連れが三組残っていた。美乃里の動きが緩慢になっている。由紀子さんは小上がりの畳に座り込んでいた。体力の限界に達しているようだ。不慣れではあったが、由紀子さんと美乃里は、善幸が思っていた以上の働きぶりを見せてくれた。しかし……。
今日はなんとか乗り切れたが、やはりこの体制で続けていくことは出来そうにない。混雑時の接客での機転の利かせ方というのは、飲食店で何年も経験を積んでこないと身に付かないものだった。無駄な動きを減らして行き、作業効率を高めていくには時間が掛かってしまうのは仕方がなかった。
また、不慣れな労働環境での緊張は心身の疲労感を急激に増していく。不安なのは明日の金曜の夜と土日だった。立地条件が住宅地となると、土日は倍以上の来客数が予想される。由紀子さんと美乃里の身体は耐え切れるだろうか。善幸は、すぐさま労働力の確保を余儀なくされた。
閉店時間を過ぎていた。胡さんは寸胴を洗い、明日の下準備をしている。最後のお客さんが立ち上がった。それに気づいた彼女は小走りでレジへ向った。お客さんが勘定を済ませると、皆で一斉に、開店初日の締めに相応しい掛け声で、「ありがとうございました!」と感謝の気持ちを込めてお礼を言った。その時のお客さんの一言「美味しかったです。また来ますね」この言葉が皆の疲れを癒してくれた。
一抹の静けさが店内を包んだ。小上がりで、ちゃぶ台に伏せている病持ちの二人……。その様子は、やり切った感はあるもののぐったり感が勝っているようにみえた。そう言う善幸もクタクタだった。ただ一人、テーブルと椅子の乱れを直している胡……。善幸は彼女に声を掛けた。「少し休みましょうよ」すると意外な返事がきた。「ミンナハ、ヤスンデテイイヨ。アタシガヤッテルカラ。ミンナ、ハヤクカエリタイデショ?」
タフだなあ、の一言で片づけられる体力ではなかった。胡は、飲食といってもどんな労働条件の下で仕事をしてきたのだろう。逆に興味を抱いてしまった。いつか訊いてみよう。山下からは、知り合いだとしか聞かされていなかった。
「胡さんに、こんなに働いてもらって、うちとしては大助かりなんだけど、待遇をどう考えていいのか迷ってしまうなあ。うちの事情もあって、満足のいく時給を払えないかもしれないけど、今後の客の入り次第ではボーナスという形で還元しようと思ってますから」
小上がりのちゃぶ台で、売り上げの集計をしようとしていた美乃里が一瞬顔を上げた。その表情は(そんな余裕ある? 何言ってんの!)と言わんばかりの顔をしていた。
「ハジマッタバカリダヨ、ソンナコトハ、モウカッテカラデイイヨ」
由紀子さんが、美乃里の代わりに言った。「あたしは大した役に立たないと思うけど、少しでも胡さんのお手伝いが出来るように頑張らないとね」そう言うと、足を投げ出し前屈運動をはじめた。
その姿を見ていて、善幸は、
「何を言ってるんですか、由紀子さんが来てくれなかったらお客さんが怒って帰ってましたよ。しんどかったでしょ? 明日になると、足腰に痛みが走るかもしれない。なんだったら……明日は金曜だし、休んでもらって、その代りと言ってはなんですけど、土日に来てもらえれば助かるんですけど」
由紀子さんは、疲れた顔を覗かせつつも、笑みを作ってこう言った。
「一人だけ年寄り扱いするつもり? 善くんの目には、おばあさんに映ってしまいましたか?」
会話を愉しみたいという気持ちを常に持っている由紀子さん。善幸は即座に、
「とんでもありません。由紀子さんを見ていると、時間の流れが堰き止められたかのような錯覚に陥ってしまいますよ。俺、どうしたらいいんでしょう……」
由紀子さんの笑顔はいつも滑らかだった。善幸は、どんな返しが来るのかを待った……。
すると、
「ちょっと、ちょっと、疲れてんだからやめてよ、その、スナックで飲んでるような会話っ、胡さんがキョトンとした顔してるじゃない!」美乃里が不機嫌そうだ。
「しかしさ、みんな頑張ってくれたよなあ。ミスと言えば、注文を間違えたのが四回。そのうちの二回は俺だ。どうも、先々の注文を頭に入れながら作ってると、チャーハンや麺の大盛を忘れちゃってな。忘れない工夫を考えないといけない」
「リョウリチョウハ、ミスガスクナイホウダヨ。ショニチデ、コレダケノオキャクサンガキタノニ、ミスガ四カイダケナンテ、シンジラレナイアルヨ」
喋りながら胡は片付けをしている。善幸も椅子に腰掛けてはいられない。十分も休む間もなく立ち上がり、厨房で明日の準備をはじめた。
店内の片づけを終え厨房に入ってきた胡は、血抜きをするために水に浸けておいた鶏ガラを寸胴から取り出し、それを下処理しはじめた。臭みを極力消そうと、彼女は丁寧に胴体に残っている内臓や血合いを取り除いている。
胡はスープの取り方も分かっていた。店によってスープの取り方は様々なのだが、善幸がこれといった指示を出さなくても、手本になるようなモミジと丸鳥の下処理をしてしまう。この処理の工程は、善幸が前の店『四川料理 翔龍』で学んだ方法と一緒だった。こんな偶然ってあるのだろうか。
まあ、どうであれ、教える手間が省けたわけだし、兎に角、胡が来てくれたお蔭で事なきを得ることができたのだ。
善幸は、フカヒレに合わせる濃厚でとろみのあるスープを胡に作らせてみようと考えている。今後自分がやらなければならない仕事を考えると、その量は増えはしても減りはしないのだ。現段階でも体力の限界に挑戦している状態だった。自分が倒れたのでは本末転倒。美乃里にできる範囲で手伝わせようとも考えたけれど、生理的に受け付けないのは目に見えていた。下処理で、とてもグロテスクな重い豚頭を扱わなければならないからだ。下処理の過程では、下茹でした目ん玉つきの豚頭をハンマーで叩き割らなければならない。美乃里では到底できそうにない作業だった。
それを、後日、胡にやらせてみたら、なんと、汚れたラグビーボールを磨いているかのように、素手で豚頭をクルクル回しながら扱っているではないか。ラガーが、トライしに行こうかと周りの様子を窺っているかのような目つきで……。その様子を見ていたら、こっちにパスをしようと〝ボール〟が飛んで来そうな気配を感じた。
目玉商品として考えているフカヒレ麺、これは間違いなく客寄せの逸品となるはずだ。その要のスープ作りも、今後、胡に担当してもらうことにした。
多額の借金を返しながらやっていける最低ラインの来客者数は、昼で二回転半、夜が一回転半の合計四回転だった。その一日の来客数は二百人を想定している。客単価千二百円として考え、これを五、六年続けられれば全ての借金が帳消しになるという返済計画。しかしながら、自転車操業ということもあり、毎月の売り上げが常にそれ以上でなければならないという条件を付け加えなければならなかった。
そんな状況下ではあったけれど、(俺はそこら辺の料理人とは違う、必ず完済できる!)そんな自信が善幸にはあった。
十一時になろうとしていた。由紀子さんには遅い食事をした後に帰ってもらった。遅くとも九時には帰してあげようと思っていたのだが――。
「胡さん、何から何までやらせてしまって申し訳ありませんでした。あとは俺たちがやるので大丈夫ですから」
胡も帰らせないといけない。明日もあるのだ。
「カイテンショニチナンダカラ、シカタナイヨ」
胡の表情を見る限りでは、苦ではなさそうだ。開店初日で判明してしまった彼女の貢献度は絶大で、もう彼女無しでは店の運営は成り立たないと言っても過言ではなかった。
「明日なんだけど、十時に来てもらえますか?」
「モットハヤクテモイイヨ。クジデモ」
「いや、十時でいいですよ」
いくら胡でも突然倒れてしまうことだってある。善幸は、働いている者の健康管理も考えなくてはいけない立場にあった。それに、胡に倒れられたら店を開けることができないのと一緒。今夜は、自分が店に泊まり込んでスープだけでも作っておけば、明後日からの土日を乗り切るための下準備ができると考えた。
さよりは、もう塾から帰って来ているだろう。きっと、塾がなかったら直ぐに店に来て手伝っていたのではないか。開店初日ってどんなものか、お客さんは来てくれるだろうか、さよりなりに期待と不安が入り交じり、授業どころではない一日だったかもしれない。
洗濯機にエプロンを入れると、胡は帰っていった。
「おまえも帰っていいぞ。おれは明日の仕込みをやらないといけないから、今日は泊まることにする。明日、おまえも十時でいいからな」
善幸は、美乃里にさよりのために作っておいた夜食を持たせ帰らせた。
戸締りをしようと、一旦外へ出てみる。遠ざかる美乃里の後ろ姿が見えた。善幸は、見えなくなくなるまで目で追っていた――。
反対側の通りを見通してみた。車が通らないことが住宅地の静けさなのだろう。目を凝らすと、四、五百メーター先に暗闇に負けずに聳え立っている煙突が見えた。あんなところに工場があるはずはない。きっと銭湯だろう。偶然にも良いものを見つけてしまった。今日は諦めるにしても、この先、来客者数次第では、仕込みが間に合わず、数日間泊まり込みで仕事をしなければならない場合もあるはずだ。
善幸は家に電話を掛けて、さよりに銭湯に行く必需品を明日美乃里に持って来るように伝えた。
厨房の電気を半分消した状態で、グツグツと音を立てる二つの寸胴を見つめている……。清湯と白湯を作っている寸胴に野菜類や魚介の節を放り込むタイミングを計っていた。放り込んだ後は、時々焦がさないようかき混ぜまければならない。水分が無くなったら補充しなければならない。善幸は、寝込んでしまわないよう一時間おきにタイマーをセットした。
今夜は、まともに寝むれそうになかった。 (つづく)




