―「やるっきゃない! そうでしょ?」と、美乃里が言った―
善幸の苦悩が更に増していった。
そこに現れたのが……。
第六十三話
―「やるっきゃない! そうでしょ?」と、美乃里が言った―
家には誰も居なかった。居間の効きの悪いクーラーをつけた時、オープンしたばかりの店に入ってきたお客さんの顰めっ面が目に浮かんだ。猛暑の時は晩秋を感じさせるくらいの涼しさで、寒い時は初夏を想わせる暖かさでもって迎え入れなければいけないのだ。客が満足できる空調能力は、重要なサービスの一環。ちょっと鼻につく施工会社の社長だったが、金が掛かるからと言って手を抜いてはいけない工事の必要性を教えてくれた。
買い物に行ったのだろうか……。美乃里は、病院の事務の仕事を七月で辞めた。今月から店の準備を手伝おうと決めたみたいだ。朝から何も食べていなかった。だが、腹は空いていない。時計は、午後二時を回っていた。
善幸は考えていた。どうにかして、金を工面しなければならない……と。やはり、最低でも二千五百万円は店をオープンさせるためには必要だったのだ。自分の希望を叶えてくれる物件は探せばきっとある、そう思い込んでいた。開店資金を抑えるためには居抜き物件を見つけること、そう書いてあった店舗情報誌や山下のアドバイスに固執し過ぎ裏目に出てしまったようだ。
善幸は、努力とか頑張りではどうすることも出来ない難題にぶち当たっていた。
金っ、金、金……思い悩んでいると、山下の顔が浮かんではすぐに消えた。そして、今年の正月に会えなかった兄貴が頭に浮かんできた。
現在、兄貴は四十七才。もしかしたら、三百万円ぐらいなら都合を付けてくれるかもしれない、と考えてみる……。兄貴は、未だ結婚もせずにおふくろと二人暮らしだった。年に一、二回、美乃里は実家へ顔を出しに行ってくれていた。
鍵を差し込む音がした。
「あれ、帰ってたの?」
美乃里だった。
「ああ……」
「店舗の工事の件で、不動産屋さんへ行ったんじゃなかったの?」
美乃里は、寝そべっている善幸をみている。何かあったんだ、そう察したに違いなかった。
「色々と聞いてきたよ、詳しくね……」
「それで、どうなったの?」
「…………」
「もう借りちゃったんだから、やるっきゃない! そうでしょ?」
寝そべっていた善幸は、仕方なく上半身を起こした。
「仰る通り。おまえ、偶には良いこと言うよね……」
「何かあったの? 言ってくれなきゃわからないじゃないっ」
「お金が足りないだけだよ……」
「物件取得費で支払った後の残金があと一千七百万円くらいはあるけど、それでは足りないってこと?」
「全然足りない。店舗の工事費だけで二千万円だってよ。それも、厨房機器はその中に含まれていない。もう一つ、それとは別に運転資金を考えないといけないって訳だ。他にも何か言ってたかなあ~」
これからだというのに、投げやりな善幸の態度に美乃里がイラつくのは当然だった。
「不動産屋が工事をするの?」と美乃里は問い掛けてきた。
「いやあ、青木さんが声を掛けてくれた施工業者の社長が来て説明してくれたんだよ。やるとすれば、その施工業者だろ」
「そうだとしたら、通常不動産屋に紹介料って払うもんなんじゃないの。その分、取られるってことでしょ? 見積りにのっかって来るんだよ、きっと」
「それはなんともいえない。でも、丁寧に説明はしてくれたよ」
「今、あたしね、クルミさんのところに行ってたの」
そんな話、どうでもいいだろ、と善幸は思ったが、「なんで?」と力無く訊いてしまった。
「憶えてる? サトシさんが『善幸がもし独立して店をやるっていうなら、俺がお祝いに看板を制作してやる』って言ってたこと」
「冗談だろ。そんな気前のいいこと、あいつがやってくれるとでも思ってるのか? 財布に千円札数枚しか入ってなさそうな社長さんじゃ無理だろよ。カッコ付けて言っただけさ。期待なんかするなって」
「あたし、確認しに行ってきたの」
「ええっ、図々しいな、おまえ、で?」
反射的に、善幸は背筋を伸ばしてしまった。
「サトシさんとクルミさん……喜んでた。よくぞそこまで辿り着いたなって」
「偉そうによ、あいつって、いつも偉そうなんだよな。あの自信ってどっから湧いてくるんだろう。もう一つ不思議に思ってるんだけどさ、あの二人ってまだ別れてないの? てっきりクルミ姉さんが愛想を尽かして出て行ったかと思ってたけど。でも実家が隣じゃあなあ~、昔の二人を想い出すよ、ガラガラ~、二階の向き合った窓が同時に開くとさ、『うるせえ、このアマっ』ってさ、サトシの口癖から始まるんだよ。不幸にも互いの窓が近すぎて、髪の毛を鷲づかみにしようと思えばできる距離でよ、首も絞めようと思えば絞められる。見てると、兎に角あぶねーんだよ、あの二人。俺には諸事情があって残念ながら仲裁はできなかったけど……」
「酷いこと言わないでよ、あの二人が別れるわけないじゃない!」
これ以上の戯言は言える状況になかった。
「それはいいとして、サトシは看板の制作だけで食っていけてんの? クルミ姉さんは花屋を閉めてしまったんだろ? それとも、どっかへ働きに出ているのか?」
「サトシさんと一緒に現場へ行く時もあるみたい。電気工事も請け負ってるから忙しいんだって。ほら、若い男の子も二人雇ってるんだから」
「ああ、ちっちゃな会社を作ったのは聞いたよ。親を悩ませてたあの頃のサトシからしたら想像も出来ない成長ぶりだな。それにしてもだ、二階の部屋でマイク持って永ちゃんを歌ってたあの頃のサトシが頭から離れねーんだよなあー」
「いい加減にしてってば、あれから何年経ってると思ってるの?」
サトシのことなど考えたくもなかった。
「明日、あたし、もう一度行ってくる」
「なにしに行くんだ? おまえ、サトシに余計なこと話すんじゃねーぞっ」
「二人に甘えて、看板はお祝いとして作ってもらいましよう。それと、今閃いたんだけど、サトシさんの知り合いで店舗工事やってる業者がいないか、訊いてみようと思ってるの」
「やめろっ、みっともないことすんな!」
「みっともない? 何がみっともないの? サトシさんたちは、あたしたちを応援してくれてるの。この期に及んで、片意地なんか張らないでよっ、そっちの方がよっぽどみっともないじゃない!」
「気持ちだけで十分だろーよ。助けてもらおうなんて、俺は思ってねーから。俺が何とかするって……」
なんとか出来るなら、もうやっているのだが……。
「サトシさんね、『善幸がはじめる店なんだから、大丈夫だよ』そう言ってた。だから、あたしたち、良い店を作んなきゃいけないんだよっ、そうでしょう? 今が正念場だと思って乗り切ろうよ。それに、さよりの喜んでいる顔だって見たいと思わない?」
「俺だって……。でも、どうすることも出来ないんだ。金が無いとスタートが切れない。頑張る頑張らないの問題じゃなくなったんだよ……」
そんな投げやりになっている善幸を、美乃里がじっとみている……。
「サトシさんとクルミさんね、式を挙げてないの。会社を設立した頃、それどころじゃなかったみたい。それであたしね……、この前から考えていたんだけど、あたしたちの店で披露宴をやってあげようと思ったの。良い考えだと思わない?」
「おまえ、俺の話を聞いてたか? 店が開店して、そのあと上手くいってからの話なんか、今してどうするよっ」善幸は腹立たし気に言った。
「うちのお父さんが、あたしの心臓の手術のために毎月五万円ずつ積み立ててくれているの、知ってるでしょ?」
「それ、おまえが高校の頃の話だよな。〝あの時〟由紀子さんがおまえの心臓が悪いのを知ってたら、蒸発なんかしてなかったんだ……」
それは、夜景のきれいな『港の見える丘公園』で、美乃里が饒舌に明かした身の上話だった。
「知らなくてよかったんだと思う。知ってたら、麻子はこの世に存在していなかったんだから……」
そう美乃里が言うと急にしんみりとなってしまった。
「そうだったな……」
善幸は、一瞬頭に浮かんだ麻子の姿を消した。開店資金の不足分の問題も後回しでいい。転機という時に限って、必ず聞こえてくる〝鼓動〟。このことを真っ先に考えなければいけなかった。けれど、本人に、「これから肉体を使うことになるけど、心臓の調子はどうなんだ?」 と訊いたとしても「心配しないで、大丈夫だから」という返事が返ってくるのは分かっていた。
善幸は、美乃里が出かけて居ない時に心臓の本当の動きを、さよりから訊いてみようと思った。
「ねえ、いくらになってたと思う?」
「何が?」
「お父さんが、あたしのために積み立ててくれてたお金だよ」
「わかんないよ。でも、お父さん、定年になってもまだ現場監督として働いてんだろ?」
「現場を仕切れる責任者がいないんだって。橋梁って特殊な仕事だからじゃない。お父さんね、冬になると膝が痛むらしいんだけど騙し騙しやってるみたいよ。それで、お母さんも助かってるんだって。お父さんに感謝してた。この先の老後の生活を送って行くのに年金だけじゃ心細いから。でね、お父さん十年以上積み立ててくれてたの。六百万円を超えてるんだよ。凄いでしょ? あたしが、もう十分だよって言わなかったら、まだ積み立ててたと思う。なんか、申し訳なくて返そうかと思ってたの。でも、もう少しだけ、あたしたちのお店に投資するつもりで預からせてもらう。あとで恩を返せばいいじゃない」
善幸は六百万円と聞いた瞬間、背筋がピーンと伸びてしまった。しかし、一番気になっているのは美乃里の〝鼓動〟だった。浮足立ってはいられない。
「お父さんが、おまえの心臓の手術のために積み立ててくれた金を使えるかよ。俺が何とかしなくちゃいけないんだ」話の流れ上、こう言っておかなければならなかった。
「あたしたち家族なんだよ、だから許されるの。今、あたしの心臓は、そのお金を開店資金に使っちゃえって元気な音を立てて知らせてくれてる。そもそも心臓の手術には保険が効くし、このお金で、さよりの入学金と授業料も払えちゃう金額なんだよ。さよりが、大学生になるまで、あと一年半以上あるわ。あなたさ、確か、今年中に店を軌道にのせるって言ってたわよね?」
「こんな切羽詰まった話、簡単に片づけようとするなよ。でも、今年中には……。俺はそのつもりでいるけど。いや、つもりじゃなくて、絶対そうしないといけないんだっ!」
この六百万円があれば、開店まで漕ぎ着けることができる。閉ざされた扉を押し開けてくれた美乃里。まだ見えぬ向こうの方で、幸運の女神が微笑んでくれているような気がした。
山下に続き、いつもは陰に隠れて存在感のない義理の父の存在が偉く際立ってみえてきた。これが、きっと橋梁工事の現場監督としての半端ない存在感なのだろう。それは即ち、重い責任感をこれまで背負いながら仕事をして来たというありのままの姿なのだ。
善幸は、このタイミングで、生涯の運を使い果たしたとしてもかまわないと思った。今年中に、五年間の借金返済計画を念頭に置いた売上げ目標を立て、何としてでも達成させなければならない。すべてはそこに掛かっていた。
機運に促された善幸は、美乃里の提案を受け入れ、この六百万円を一時的に借りることに決めた。
翌日、美乃里は、朝からサトシのところへ行くといって家を出て行った。陽射しが入り込み畳を焦がしている――。
今日は日曜日。さよりは十時になっても起きてこない。夜遅くまで勉強していたようだ。善幸は、さよりに〝重要な話〟をするのは今しかないと思った。
さよりの部屋の襖を開けた。
「さより、そろそろ起きろ、陽が沈むぞ」
さよりは寝返りを打って言葉を躱した。
「ちょっと訊きたいことがあるんだ。起きてくれっ」
善幸は、居間の定位置に座って、さよりが起きて来るのを待つことにした。
暫くして、さよりが寝ぼけ眼で言った。
「あたしに訊きたいことって何?」
「顔洗ってこい。それからだ」
さよりは、用を足したあと洗面所で顔を洗いはじめた。戻ってくると、口にくわえたハブラシを止めて、「何、お父さん?」善幸は、将来に向かっての大切な話をしようとしていた。
「五分間待ってやろう。化粧はしなくていいぞ」すると、「化粧品なんて持ってないよ。お金が無いから……」そう言い、また洗面所へ戻った。
さよりは首にタオルを掛けて出てきた。
「改まった話のようだけど、何よ?」
「実はな、お母さんのことなんだ。最近、身体の具合はどうなのかなと思って。お父さんは家に居ないから分からないよな、この先、店の準備で忙しくなるし、お母さんにも手伝ってもらわないといけなくなる。だから、さよりならお母さんの身体の状態が分かってるんじゃないかと思ってさ」
さよりは、言おうか言うまいか躊躇しているようにみえた。この様子を見て、善幸はピンときてしまった。あまり良くないってことが……。
「お父さんな、もしもだ、お母さんの心臓がよくないようなら、開店準備の手伝いや、開店してからも店の仕事はさせないつもりでいる。店には来させない。忙しい時って、具合が悪くても無理して手伝おうとしてしまうだろ、それで悪化でもしたら元も子もないからな。お母さんに心臓の具合を訊いても、『大丈夫! 大丈夫!』って言うに決まってる。そういう訳で、三箇月に一度の検査のデータがどうなのか、日常でのお母さんの身体がどうなのかをお父さんは知りたいんだよ」
さよりは顔を上げた。
「もし、お母さんの具合が良くないとしたら、お父さんは、お店、どうするの?」
この返事で、はっきり分かった。
「人をもう一人雇うさ。四人体制じゃないと出来ないからね。それしかないだろ。しかし、手術しなければいけない状態であれば、オープンは先に延ばそうかとも思ってる」
さよりが言った。「実はね、六月の半ば頃だったかな、お母さんから言われたの。お父さん、最近悩み事があるみたいだから、心配させるようなことを言ってはいけないって。その頃、お父さんが店を辞めてしまったことをお母さん、分かってたんだね。でも、今ならもう……」さよりは口を噤んでしまった。
「知ってることがあったら、全部お父さんに話してくれるか。先々を考えていかなければいけない大切な時期なんだ。それなのに、お父さんが知らなくてどうするんだ?」
「…………」
「この前、倒れたの、駅の階段で……」
「ホントかっ、この前っていつだ?」
「二週間ぐらい前。ほら、お父さんと三人で夕飯食べてた時さ、お母さんが作った料理にグダグダとお父さんが文句言ってたじゃない、その前日。お母さんね、胸が痛むから仕事を二、三日休む予定でいたらしいの。でも、病院から電話が掛かってきて、事務処理が追い付かないから出てきてくれないかって頼まれて、無理して仕事に行くことにしたんだって。朝、慌ててたんだろうね、駅の階段を駆け上がって行く時に胸の痛みが襲ってきて、その場で屈み込んで痛みが治まるのを待ったらしい。そしたら、痛みが和らいで来たから、そのまま病院へ行って先生に診てもらったって言ってた。その日は、仕事せずに一日病室のベッドで寝てたんだって……」
「そんなことがあったのに、なんでお父さんに言わなかったんだっ」
「今回だけじゃなくて、去年も同じようなことがあったんだよ。でもね、お母さんが、お父さんは仕事上のことで悩んでいるみたいだから余計なことを言ったらいけないって、お母さんはいつもそう言うんだよ。だから、あたし黙ってたんだ。話さなきゃいけないとは思ってたけど……。お父さんって、お母さんが倒れる時に限って顰めっ面してるんだよ。だから、話そうにも話せなくなっちゃってさ……。話せなくなるのはね、いつもその所為なんだよ」
「それでも話さなきゃダメだろ!」
さよりは「あたし、どうしたらよかった?」と訊いてるような顔つきをしていた。
善幸の身体の動きが止まった。たった三人しかいない家族。何か問題が起これば様子ですぐに判るはずだった。
「ごめんね、お父さん……。話した方が良かったんだよね? でも、やっぱり言えなかったと思う、あたし……」
「気づかなかったお父さんが悪いんだ。おまえも、受験のことで頭がいっぱいだよな。それでなんだけど、さより、これからのことを話とね、お父さんも正直なことを言うと開店準備で次第に忙しくなっていく、オープンした後は店の切り盛りで手一杯になってしまうだろう。しかしな、物事を考える際、何が一番大切なのかを考えないといけない。優先順位を間違えると、やり直しが利かないことってあるんだよ。つまり、取り返しの付かない結果を招いてしまうということだ。今回、おまえは優先順位を間違えてしまった。お父さんの仕事の悩みなんかより、お母さんの身体の方が大事に決まっているじゃないか、そうだろ?」
さよりはコクリと頷いた。
「今、お父さんが訊かなけりゃ、まだ黙ってるつもりだったみたいだな?」
「最近のお母さんを見てると、大丈夫みたいだから……」さよりは極まり悪そうな顔になった。
善幸は、心臓手術がいつ頃になるのかを知っておく必要があった。
さよりは、冷蔵庫からミニトマトを掌にいくつかのせて、ヨーグルトと一緒に食べ始めた。その後、友達と図書館で待ち合わせしているからと言って家を出て行った。
さよりの話を聞いてしまった以上、美乃里に店を手伝わせるわけにはいかない。善幸はそう思いながら、窓から横断歩道を渡るさよりの姿を眺めていた。
美乃里が帰って来たら話し合わなければいけない。今年中に、もし心臓の手術ということになったら、開店してからの運営に大きな支障を来すことになってしまうだろう。となると、その時期は延期せざるを得なくなる。そのために失ってしまう損失を考えてみると――。しかし、それは仕方の無いことであり、同時に“不可能”なことでもあった。
美乃里から電話が掛かってきた。今、クルミ姉さんとサトシと三人で、昨日の続きで懐かしい話をしているという。受話器の向こうから笑い声が聞こえていた。
美乃里はこれから帰ると言って電話を切った。
善幸は、各メーカから取り寄せた厨房機器のカタログに目を通していた。厨房機器は総額どのくらいかかるのだろうと考えながら……。 (つづく)




