―至れり尽くせり―
腹痛い。。
第六十話
―至れり尽くせり―
店の出店を背水の陣で臨むことになった善幸。住宅を購入できるような三千五百万円という借金を、美乃里に一言も相談することなく決めてしまったのだ。
ある日突然、その借金を美乃里が知ったら、きっと仰天してしまうだろう。また、七月十日に、先月分の給料が振り込まれるが、通常の半分ぐらいの入金金額を見て、「なぜ?」と不信感を抱くはずだ。それより、三千五百万円という金額も、その後振り込まれることになる。それらの印字を見て卒倒してしまうのではないだろうか。
美乃里が俺を問い詰める光景が目に浮かぶ。そうなったら、何を言っても聞きいれてはくれない。このパターンだけは避けたい。そうなる前に手を打っておきたいと思った。
説得力のある具体的な話をして行くしかないのだろう。好条件の店舗物件が見つかったという話と、繁盛店にさせるという強い意気込みを示すことで、前途の危惧をできるだけ取っ払うような釈明をしなければいけないのだ。
もう一つ憂慮すべきことがあった。それは、三千五百万円の融資の経緯だ。話の途中、目を背けたくなるような傷害事件の経緯についても話さなければならなくなる。だが、美乃里がパニックに陥ろうとも、そこは一気に突っ切るしかない。これも一か八かだった。
前方に連なる山々が見える。善幸は、手前の山を越えようとしていた。その後方の霞んでよく見えない山々――。頼れるのは、己の精神力と体力だけだった。
差し当たり、物件探しに時間を費やすことにした。七月十日まであと二週間はある。「実はね、良さそうな物件を押さえてあるんだ。おまえさ、今度一緒に見に行かないか? 夏休みに入ったら、さよりにも見てもらわないとな」そう話せば、一気に興味を惹く方向へ向かうはずだ。あとは「大丈夫、大丈夫だって、大丈夫だからっ、俺の料理人としての腕を信じろって!」これを不安がる美乃里に反復すれば、徐々に落ち着いていくのではないだろうか。
さよりには、美乃里の同意が得られるまで内緒にしておくことに決めていた。
善幸は、美乃里が蓄えてきた金額と山下が後から追加融資してくれる五百万円をプラスした一千七百万円という開業資金を念頭に店舗物件を当たっていた。だが、自分の都合に合う物件など、そう簡単に見つかるはずもなかった。
善幸は、いつものように物件情報誌を手にし、先日まで店へ出勤していた時刻に家を出る。午前中は不動産回りをし、午後は条件にそぐわない物件だとしても、相場観を養うためその物件を見に行く。そんな日々を送っていたのだった。
崔との示談が纏まれば、あとは山下の得意とするところの事務処理が残されているだけだ。山下の行動は早かった。
あの最後の話し合いから一週間も経たないうちに、山下から事務所に来るように呼び出された。その時に、実印と印鑑証明を持ってきてほしいとのことだった。
善幸は、美乃里に気づかれないように、箪笥に隠してある実印を持ち出すと、市役所へ行き、その証明書を交付してもらった。
翌日、事務所へ行くと、山下は三千五百万円の『金銭借用書』に書き込まれている内容を説明してくれた。
善幸は、この金額を意図も簡単に借りられてしまうことに愕いている。山下から釘を刺されたこととは――。
この三千五百万円の出処は、貸主は会社名『極東商会』になっているが、出処は会長の個人的な金であるので、個人間の貸し借りと同じだということ。だから、このことを十分理解してもらいたい。また、遅延した場合には、遅延損害金として金利が更に十%高くなってしまうので注意すること。この二つだった。
それと、生命保険に加入する際の受取人は配偶者であることが条件だという。彼は、出店準備の配慮もしてくれた。準備期間があるだろうからと、返済は三箇月先からにしておいたとのことだった。
山下は、その他の詳細を淡々と説明していった。これらを説明するのに五分と掛からなかったと思う。職種は違うが、自分たちは仕事仲間、彼はそのように考えてくれているようだ。彼の面倒見の良さも、今回の件で身にしみて分かった。
この借金の契約を締結した後、待ち構えていたかのように現れたのが、保険会社の担当者だった。「海南ファンドの磯貝と申します」そう言うと、善幸は名刺を手渡された。聞いたことのない保険会社だった。その前に〝ファンド〟って何だろう。片手間で保険業務をやっているような会社なのだろうか。磯貝は、挨拶も程々に、山下が借り入れの条件として出してきた借入金額の二倍である七千万円の生命保険の手続きに入っていった。
先日掛かってきた山下からの電話で、生命保険の契約時に注意しなければならないことがあると言われた。それは、職業の欄は無職とは書けないので、「奥さんが急に倒れて介護するために先週から有給休暇をとっている」、担当者にはそう伝えてあるから口裏を合わせるようにと言われたことだった。
「締結するにあたり、健康状態の質問事項に記入お願いします」その書類が差し出された。これに関しては別段問題は無い。
磯貝は、無駄口を叩かず淡々と事を進めていった。最後に彼が言った。「以上ですけど、何かご質問はありますでしょうか?」
質問などありはしないが、この一言が善幸を崖っぷちに立たせた。少しでも、風向きが変わったら終わり……。しかし、そんな重くるしい気持ちを支えてくれたのは、皮肉にも生命保険に加入したという安心感だった。
署名捺印の後、磯貝は、契約書類を一纏めにし善幸に渡した。この生命保険の手続きを終えるまで二十分も掛からなかった。思わず、壁掛けの時計を見てしまった。その間、山下も一言もしゃべらなかった。
磯貝は、会釈するとそそくさと部屋から出ていった。
山下が次の話を始めた。
「先日、お話した倉持さんの退職金の件なんですが、これを支出するためには、オーナーの承諾が必要なんですね。つまり、倉持さんが一身上の都合で店を辞めたことをオーナーに告げなくてはならなかったんです。崔料理長の怪我のことは、料理中、玉葱の皮で滑って転んだということになっています。そのことを労務士の先生に相談したところ、労災として認定されるとのことでした。実際にこのような事故は稀にですがあるそうです。私は、訊かれたことだけしか話しませんでした。それが功を奏したのかもしれません。歯が折れたことは、不自然なこととは思われなかったようです。滑った時に、顎を強く調理台の角にでも当たったのではないか、と説明しておいたので。そんな訳で、傷害事件のことは、倉持さんとは完全に切り離してあります。他の職人たちにも、その辺の事情を説明しておきました。皆、今回のアクシデントに関しては、倉持さんに好意的でしたよ」
「気遣って頂いて申し訳ありません。極力、自分で出来ることはやろうと思ってはいたんですけど……」
ジンさんや趙兄弟、そして他の職人たちと仲間意識を持ちはじめた矢先の出来事だった。厨房に顔を出し、皆に「お世話になりました」と挨拶して去るべきなのだろう。ところが、善幸が今一番気になっていることは、退職金っていくら出るのかということだった。考えもしなかった金ゆえ、期待感が高まり、つい気がそっちの方へ行ってしまっていた。
「最後までやらせてもらいます。前にも言いましたけど、私は、仕事に限らず中途半端な状態にしておくことが出来ない性分なんです」
就いた職種の向き不向きは、人の性分に因るところが大きいのは確かだ。山下の仕事をやれと言われたら、細々とした経理業務だけを考えてみても「俺には不適なので出来ません!」と即答できる。「おまえは、料理人に向いている」親方がそう言ってくれたことを、善幸はふと想い出してしまった。
ここで、疑問が湧いてきた。
「山下さん、三ケ日オーナーは、俺が店を辞めることについて何か言ってませんでしたか?」
倉持が理由も言わずに辞めるなんてありえない、三ケ日オーナーはそう思ったに違いなかった。それに対し、山下は「特に何も言ってませんでした。そうそう、三ケ日オーナーに、倉持さんが店を辞めたことを范料理長には言わないようにと、これについては念を押しておきましたけど」
意外だった。あれだけオーナーたちと親密な関係を築いてきたはずなのに……。だが、これは自分からの突然の退職。自ら挨拶もせず、お世話になった店を辞めるのだから、〝礼儀知らずっ、とっとと出てけ!〟そう思われても仕方の無いことだった。
「ありがとうございます。実は、それも気になっていたんです。范料理長には、心配を掛けたくないので。俺、店が軌道にのってきたら話そうと思ってます。范料理長もオープンに向けて、これからもっと準備で忙しくなると思いますから」
「わたしも、范料理長と父親の会社との食材取引の件で香港へ行くことが増えて来ると思います。范料理長とは、直接私が係わりたいと思ってるんですよ。そのためには、今の店の業務と絡めて行かないといけません。私はこの店の社員であって、仕事上は今のところ范料理長との取引はありませんから。しかしですね、范料理長の店がオープンしたら、経営母体は違っても、東京と香港の四川料理の姉妹店という連携を持たせ、旅行会社と結託して観光客を呼び込む企画を考える、これって良いアイデアだと思うんですよね。そう言った形になれば、気兼ねなくいつでも范料理長に会うことができるようになります」
オープンを愉しみにしているのが山下の表情から窺えた。だが、どうも腑に落ちない。三ケ日オーナーが、自分が突然辞めたことに関して何も言ってなかったなんて、それはあり得ないだろうと思った。しかしながら、山下がそう言っているのだから、それ以上突っ込む訳にもいかなかった。
「三ケ日オーナーには、近々お電話しようと思っています。挨拶もせずに去って行くなんて失礼に当たりますから。それに俺、オーナーさん達には特別な計らいをして頂いていたので……」
山下は、〝特別な計らい〟に関しては何も訊いてこなかった。
「ところで、順番が逆になってしまいましたが、今回の損害賠償の示談書を作成しなければなりません」
山下は示談書をテーブルの上に置いた。善幸は示談書を流し読みしている……。と、既に被害者欄には崔の署名捺印がしてあった。
「この一枚の紙で、すべてが解決したかのような錯覚に陥りそうですが、俺としては、事の重大さを胸に刻んでおかないといけないわけです。この先、自分の家族をも巻き込んで、茨の道を辿っていかなければならない訳ですから」善幸は、加害者欄に署名捺印をしながら言った。
「ああ、そうだった、倉持さん、店を辞める上で書いてもらわなければならないものがまだあるんですよ。一応私が退職届のひな型を用意しておきましたので、これでよければサインしてもらえませんか?」
「本来なら辞めさせられる立場だったんですけど……」
「これは決めたことなんです。この件に関しては気にしないことです。じゃないと、退職金は出ませんよ。あとですね、年金手帳をお渡ししますね」山下は、封筒から取り出して示した。
「俺の年金手帳ってあったんですね」
何から何まで山下がやってくれていたのだ。
「わたしがお手伝いできるのもここまで。この先は倉持さん次第です。経営者としての手腕を思う存分発揮してください。私は、一年後の店主として生き生きと働いている倉持さんの姿を見たくて仕方がないんですよ」
山下は、目を輝かせた。
「このチャンス、掴んで見せますよ、山下さん! 一年後、お礼を言いに必ず事務所へ顔を出します」
「お待ちしていますよ、倉持さん。七月十日に、親父の会社の『極東商会』から三千五百万円が午前中には振り込まれると思います。同日か、遅くとも翌日中にはこの示談書に記載されている崔料理長名義の銀行口座へ、三千万円を振り込んでください。急かせるようで申し訳ありませんが。振り込みを終えた段階で、崔料理長とのしがらみは一切無くなったということになります」
「七月十日に振り込まれる、分かりました。俺は、山下さんに助けられたんですね。何とお礼を言ってよいのか分かりません。感謝しています」
「お礼を言うのは一度だけで結構ですよ。これも仕事の内です。それとですね倉持さん、退職金は三百三十七万円支払われることになりました。急な辞め方だったので、会社にも損害を与えてしまっています。その分少なめですが、それは仕方ありません」
善幸にとって、それは思い掛けない高額なボーナスと同じだった。
「ありがとうございます。本来ならもらえないお金なのに……。すべて山下さんのお蔭です」
善幸は、何度もお礼を言わずにはいられなかった。
そんな感謝も程々に、善幸の頭の中は開業のことでいっぱいだった。この退職金を合わせれば開業資金は二千万円を超えた。この金でやり繰りし、なんとか開店までこぎつけたい。善幸は、たった今、夢へ向かっての第一歩を踏み出す機会を与えられたのだ。
「その三百三十五万円と給料の半月分も、七月十日に倉持さんの口座へ振り込んでおきますね」
「え、そんなに早く?」
すべてにおいて、山下はスピーディで完璧だった。
善幸は事務所を後にした。
梅雨時期のど真ん中だというのに四日ほど雨は降っていなかった。曇り空も釘で固定されてしまい、身動きが出来なかったのだろう。善幸はそんな曇り空が愛おしく思えた。
住宅を主として扱っている不動産会社の営業マンは、店舗については知識不足だった。とりわけ、厨房設備に関しての質問には答えられなかった。中華料理の場合にはガチンガチンッと、五徳や鍋やお玉の金属同士のぶつかる音が五月蠅いので、近所から苦情がくることが多々ある。なので、立地条件によってはそれを想定して防音壁また開口部はペアガラスにすることも考えておかなくてはならない。更に、設備として強い火力が必要だからガス管の径も四十Aは不可欠。一般家庭用では使い物にならない。そのため厨房内はそれなりの防火構造にしておく必要があった。他、厨房内の防水工事、空調設備、グリストラップや排気ダクトの設備等、それらの費用がどのくらい掛かるのかを大まかにでも知っておく必要があった。
設備工事というのは、限られた予算を大きく喰ってしまう費用だった。善幸は、想定外の出費で出端を挫かれないように、初期投資を抑えるため居抜き物件を考えていた。出来るだけ、使い勝手の良い調理器具や大型の冷凍冷蔵の購入に予算を回したいと考えたからだった。
そんな理由で、店舗選びには、近隣とトラブルにならないためにも専門的知識を持っているアドバイザーが必要だった。
善幸は、物件を探しているうちに、店舗物件を専門に扱っている、ある不動産屋の担当者と知り合うことが出来た。条件を事細かに伝え、その条件に合った物件が出たらすぐに連絡してくれるように頼んでおいたのだ。
愈々、大きな山場を越えなければならない時がやって来た。頭の中では、美乃里に説明する大方の道筋は立ててはあった。相手の感情を逆なでしないように、気が立って来たら、間の取り方を上手く使って話せばいい。また、言葉に詰まったら〝大丈夫、絶対に大丈夫だから!〟を連呼すればいいのだ。それでもダメだったら、「うるさいっ、最終的な判断は俺がする!」これで黙らせるしかないと踏んでいた。
振り込み日〝七月十日〟が三日後に迫ってきた。不動産屋からの新たな物件の話はまだなかった。善幸は、今日話すしかない、と思った。その話は、さよりがまだ帰って来ない夕方頃からはじめることにした。 (つづく)




