ー配慮と踏ん切りー
第六話
―配慮と踏ん切り―
「なーんだよ、キャベツにパセリが入ってやんの!」
串揚げを待ってる間に出てきたてんこ盛りのキャベツのに優史が不満がる。
「こっちのは入ってないよ、取り替えよう優史。店員さんが態と間違えてこっちに置いたんじゃないの?」
文子は、そう言ってキャベツの大皿を交換した。
「先生、ちょっと時間が掛かってるみたいですね。六人分だからかな。でも、美味しいんですよ、ここの串揚げ。優史の嫌いなパセリ入りのキャベツでもツマミにして飲んでましょうか」和彩美は、肇のお相手をしたいらしい。
そこには切り方の違う二種類のキャベツが盛られていた。真ん中には、ざく切りのキャベツで高い山が築いてあり、その周りを千切りのキャベツとみじん切りのパセリを和えたものがドーナツ型に囲ってある。見た目は、アクティブで面白い。でも、何を表現しているのだろうと肇は考えてしまった。
文子は、車のナンバープレートくらいの取り皿に千切りのキャベツを取り分けている。その上からソースを三周垂らし肇の前に置いた。
漂ってきた甘酸っぱいソースの匂い。皆一斉にキャベツの千切りから食べはじめた。縁日の屋台で、焼きそばでも食っているかのようだ。箸休めに、ざく切りのキャベツは岩塩で頂く。肇はそんな喰い方のレクチャーを受けた。
彼らは、この店に来るのは初めてではないのだろう。店員との会話もスムースで、寧ろ馴染客に思えた。
このような飲み会をやる毎に、彼らの実生活の様子が見えてくる。話から、大学入学後の学生生活も充実していたようだ。就職活動も難無くこなし、社会生活も青天井の上りエスカレーターに乗っかっているかのように見受けられる。彼らは、大学や学部が違っても疎遠になることはなかった。
だが、次第に、肇は今日ここにいない教え子達のことが気になりはじめた。
「ところでさ、圭ちゃんとか、田中、それに勅使河原、奴らは元気でやってるのかな?」
彼らのその後の消息を知ってる者がいるかもしれないと思い、皆にさり気無く訊いてみた。今まで、なぜ聞かなかったのか、自分でも不思議に思えた。
「どうしてるんだろう。わからないや、連絡もこないし……」
当時、誰とも仲良かった和泉が素っ気ない返事をした。もう彼らとは関係ない、とでも言いたげな顔をしている。
「そんな言い方ないだろ、和泉っ」
思わず、居丈高な言い方をしてしまった。(おまえも優史と一緒だな!)頭に血が上りかけた。それを抑えるため、肇は大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。その後、気落ちする自分を誤魔化そうと天井に目をやった。
「どうしたんですか、先生。怒っている時の先生の顔を見るのは久しぶりですね。俺は好きですけど」和泉はケロッとしている。
黒縁メガネに爽やかな髪型。和泉はすっかり社会人になっていた。結婚適齢期の女の子にモテそうな風貌である。当然ながら、服装はあの頃とは違う。パールカラーのシャツにノーネクタイで鈍色のジャケットを羽織っていた。揉め事が嫌いだから、余計なことも言わない。それが社会に出てから日増しに強くなっていったように窺える。しかし、彼がいなかったら、こうした飲み会も開くことはなかっただろう。見せつける和泉スマイルは「先生、俺に関しては心配いらないから」そう語っているようにも思えた。
受験生だった頃、お互い悩み事を分かち合い、寄り添い合った仲だ。同じ目標を掲げ、それに向かって束になり猛進していく姿は、見ていて思わず拳を堅く握り締めてしまうほどだった。
肇は、塾講師としての立場から、人生の岐路であるこの時期を、彼らが迷うことの無いよう勝手にコンクリートの壁で左右を塞いでしまい、受験に有用な潜在能力を引き出し、ところてん式に出口へ向かって誘導しなければならない立場だった。だが、現実は模試で合格圏内だった者が落ち、合格する見込みが五0%以下の者が受かったりすることは稀なことでもないのだ。例えば、受験した次の日に全く同じメンバーで受験したとすれば、合格者の三分の一は入れ替わるという。試験で出された問題の得意不得意というものは、受験生にとって運としか言いようがない。これを〝人生の厳しさ〟その一言で片付けてしまうのも可哀相な気もするが。
さっきから気掛かりで仕方がない。純子と親密な笑みのみで会話している優史。それを冷ややかな目で見ていたら、「ねえ、先生。電話で話したことわかりました?」そう言って、文子は片目を細めた。
付き合っているのは誰と誰なのか? と遊び心で問い掛けてきたのだ。驚かすつもりなのだろう。でも、その答えは簡単だった。五人の内の二人。しかも女子が三人で男子が二人だ。それに、問い掛けてきた文子は違う。これ以上、答案の見直しは必要なかった。
「うーん、薄っすらな……」
肇は、「もう、判ったよ」とは言わない。また目線を天井へ向けた。(この場の空気、どうなっても知らんぞ!)と、肇はそんな起爆剤を背負わされた気分になった。(優史よ、さよりは……今どうしてるんだっ)天井へ向けていた目線は優史の顔へ向かった。
笑みを浮かべ、優史が純子にビールを注いでいる。肇は、その様子を窺っていた……。
暫くすると、大学受験まで後四箇月、当時、最終面談のときに一人で現れたさよりの姿が目に浮かんできた。
―さよりの内奥―
さよりの決心は固かった。国立大学一校しか受験しないという。高三になってからのさよりの面談はこれで二度目だった。前回も前々回も欠席していた。夏休み入る前の面談には、彼女一人だけで現れた。これまで、いつも一緒に来ていた両親の姿はなかった。店が忙しくて来れないのだろうか。さりげなくお父さんのことを聞いてみたことがある。しかし、何も言わず俯いているだけだった。高三になって受けた模試の偏差値は、どの教科も見事な右肩下がり。どう足掻いても、もう国立大学は不可能と思われた。それは本人も分かっていたはずだ。もしかして、両親に何かあったのだろうかと、肇は心配になった。四川料理の店はとっくにオープンしているはずだ。上手くいっていないのだろうか……と。
肇は、無言のまま俯いているさよりを眺めているより他はなかった。面談としての役割は果たせないまま、彼女は一礼すると部屋を出ていった。
立場上、個人的な事情に深く立ち入ることは出来ない。しかし、肇はその数日後にさよりの自宅へ電話を入れてみた。だが幾度か掛けたが繋がらなかった。引っ越したのだろうか、だとすると何故? 肇は思い倦ねる……。
ある日、授業が終わった後、優史に聞いてみたことがある。彼は「わかりません……」とつれない返事をし、顔を背けてしまった。
さよりは、十二月の最終面談にも出席せず、その後も塾で姿を見かけることはなくなった。当時の優史の様子から察するに、さよりとの付き合いは終わってしまったのではないかと思われた。
彼らが大学生になり、その後こうした飲み会の時に、思い出したかのように訊いてみたことがあった。「そう言えば、倉持さよりはどうしてる? 元気なのか? おまえたち、まさか彼女のことを忘れはわけではないよな?」すると一人づつ「心配いらないですよ」、「大丈夫、全然大丈夫だから」、「そのうち現れたりなんかして?」、「さよりのこと、そんなに気になるんですか?」と口々に返してきた。しかし、いくら訊いてもそれ以上は話さない、というか話したくないようにも思えた。それに、明るく冗談っぽく言われると、余計苛ついた。それ以来、肇は気掛かりでありながらも、さよりのことには触れないでおいた。
そんな肇の憂いを他所に、組子欄間から部屋の中へ揚げ物の香ばしい匂いが漂ってきた。薄っすら笑みを浮かべている五人の教え子たち。その〝当事者〟じゃない和彩美と和泉が、バレないように澄まし顔をしている。
「っで、付き合っているのは誰と誰?」文子がしつこくまた迫ってきた。
肇は、面倒臭そうに、
「あーのなぁ、だいぶ昔のことだけど、先生が恋愛相談のカウンセラーやってて一儲けした話、おまえたちにしなかったっけ?」勿論、そんなの嘘。
意外な展開に教え子たちは黙ってしまった。それをいいことに、よぉーし! と思い、肇はゆっくり目を瞑った。
暫くしてから、目を開ける。遠くを見透かす目で言った。
「みんなも目を瞑ってごらん……」
肇は場の空気を一変させた。
嘘がバレていない所為か、素直に文子と和彩美が目を瞑った。続いて、膝の上に拳をおいて和泉が瞑る。仕方なく優史も瞑ったと思ったら薄目を開けているようだ。その隣にいる純子が下を向いた。肩までかかる髪が顔を隠した。瞑ったかどうかは分からない……。
「いいかい、その出来た黒い紙に、自分の好きな色で円を描きなさい」
一瞬みんな躊躇ったが、流石に飲み込みが早い。従いてきた。
肇は数学の講師。今、教壇に立っている。静まり返った教室。一人ひとりの姿形を見回すと……頭の中に突然湧いたこの意味不明な講義を悔やんだ。なんと、薄目を開けていた優史までがマジに目を瞑ってしまった。
純子は、俯いたままだった。何かを教示する準備は整ったのだが――。
閃きが降りてきた。(これだ!)肇は、胸の位置で両手の人差し指を立てた状態で手を組んだ。一人を除いて、彼らの閉じた瞼が微動している。
肇も目を瞑り、大きく息を吸った。
「えーいっ!」言霊を打った。
全員、目を開けた。店内の隅から聞こえて来る話し声も聞こえなくなった。一瞬、凍てついた場の空気で、熱々の揚げ物たちもぶるっと身震いしてしまう有り様か。
肇の身体は硬直し、手が震えだした。
肇は、遂に怪しき恋愛カウンセラーを超えたのだ。あの頃、教壇で似たようなことをやった記憶がある。それは、受講生の眠気を覚ますためだった。
さてと、この後、どうもっていこうかなあ……と肇は悩んだ。
「失礼しまあーすっ」
おーっ、グッドタイミング! 女性店員が入って来た。元気のいい声だったので、間仕切りの障子が共鳴した。彼女は、肇の方を向き、ニコッとしてから軽くお辞儀をした。大きな声を出して、「どうしたんですか?」と店員が訊いてこないところを見ると、もしかしたら肇が道化しているのを見破ったのかもしれない。
店員は「お待たせしました。遅くなって申し訳ありません」と言い、大皿を片手で座卓に置こうとしている。彼女の右腕の総指伸筋が隆起した。皿の真ん中に陣取っているソースの入った壺が重たそうだ。肇は、運んできたモノに静かに愕いた。そして、何事もなかったかのように振る舞った。
澱んだ漆黒の海原に浮かばせた赤錆びた貨物船。ほお、煙突から湯気が出ている。半端なく揚げ立てなのは間違いない。衣で覆われて見えない歪な形の揚げ物たち。カツなのか、白身魚なのか、牡蠣なのか……。左舷にはシースルーの野菜群、シシトウと親指ほどしかないが一丁前のキャロットに素揚げしたパプリカが彩りを添えていた。キノコは、暴れている舞茸のみ。みんなの視線が釘付けになった。
この寒さを意識しての店側の演出は、間違いなく客の目を一瞬にして奪ってしまうものだった。
というわけで、肇は、店員に助けられた。でも、やはり何かが足りない。大皿から目を逸らす。と、去っていく女性店員の後ろ姿が目に入った。唐突に、目力で引き留めてしまった。
和彩美と文子が熱いうちに食べようと、皆のぶんを取り皿に分けはじめた。箸で衣を刺しながら、何かを確認している。形では具材はわからない。どうやら、肇の分を取り皿にのっけているようだ。カツがダメなのは二人とも知っていた。手渡しやすい位置にいる和彩美の方が早かった。
「美味しそう、はい先生っ」和彩美が皿を差し出した。
気持ちを声音と顔色で素直に表現したその一言が、やに肇の耳元を擽った。
「和彩美さんは、家でお料理するの?」
何気に訊いてみた。
「しますよぉ、お料理だけじゃなく洗濯も。お母さんが私の将来のことを思って、お父さんの分まで溜めておいてくれるんです。だからいつでもお嫁にいけるんですよ」嬉しそうにそう応えた。
和彩美は一人っ子。両親と住んでいる。仕事場が家の近くの郵便局じゃ、出会いも少ないか……。
そこで、肇は、
「和彩美さんって、この三人の女子の中じゃ、『お嫁さんにしたいランキング』ではナンバーワンなんじゃないか? なあ和泉っ」と彼の方に目をやり、遠回しに訊いてみた。併せて笑みも投げてやった。
なんでもキッカケって大切。ひょんなことからとんでもない方向へ向かって行くことがある。誰でもそんな経験が一度や二度くらいはあるはずだ。特に色恋の場合は、この年齢なら寝技を決めるつもりで誰とでも組み手争いをすればいい。またその面白さが堪らない。
投げてきた〝振り〟に戸惑う和泉は、空かさず串に手がいった。ソースも付けず、ガリッ。こいつ、逃げたな。そんなつれない和泉は情けない男だ。
「先生……それって、私が売れ残りみたいに聞こえますけど……」
和彩美は、ガックリしてしまった。
「なーに言ってんだよー、先生ならな、和彩美さんに出会った瞬間から猛アタックだ! 何度断られても絶対諦めない。絶対にだっ」
肇は、白く劣化気味の髪を勢いよくかき上げた。
「本当ですか? 先生……」涙ぐむ和彩美。
「ああ、先生はな、いい嘘しか付かん!」
拙いことを言ってしまった。肇は、泳ぎかけた眼に力を入れた。
「先生の奥さんって、見たことありませんけど、和彩美に似てませんか?」
文子さんがナイスフォロー。
「わかっちゃった? そう、かみさんの若いころを思い出すよ。和彩美さんにそっくりだった……」
肇は、だいぶ細めの代用として、高く盛ってあるエビフライを見つめた。
「先生、なんか可笑しくない?」と文子が訊いてきた。「何が?」と訊き返すと「和彩美」に「さん」付けは似合わないとの指摘。ワサビに醤油ではなくソースを垂らしている、そんな相性の悪さを指摘しているのだろうか。何しろ、文子は話しを逸らそうとしてくれていた。
「そうかもなあ、でも、ワサビちゃんじゃ、ぴったんこだからさ」
肇の不審な眼球移動がまた始まった。二度目の失言は、どうにも眼力では押さえることが出来なかった。
肇は、手の甲で顎髭の伸び具合を確認しながら、そのヤバさを何とかしようとしていた。
「ぴったんこ? 何がですか?」
やっぱり自分に何か問題があるのだろうかと、和彩美は不安そうに訊いてきた。
「和彩美、気にしなくていいんだよ」
肇の度が過ぎた戯言に、頃合いよく純子がストップをかけた。和泉がクスクス笑っている。だが、和彩美は不満そう。でも気にする必要はないのだ。肇がなぜ「さん」付けで呼ぶのか、皆はわかっていたからだ。
ワサビちゃん……。アンパンマンに登場したら人気が出そうな呼び名である。彼女だったら、か弱く愛らしい役どころをゲットできるだろう。砂浜なら似顔絵は簡単。完成度を高めたいなら大きめの貝殻を二つ探してこい! 彼女が幼稚園にいたら、今でもスーッと園児達の中に馴染んでしまうだろう。それくらいピュアだということ。だから、敢えて「さん」付けで呼んでいるのだ。
「先生、串揚げが冷めちゃいますよ」
和彩美が笑ってくれた。
ゴゴリッ、奥歯で噛み砕くこもった音が五月蠅い。顎から頭蓋骨へと響き渡った。黙って皆で味わっている。その表情から、味には厳しい美食家が揃っているようだ。
肇が正面を向くと目が合った。純子が立ち上がり、ビール瓶を持ちこっちへやって来た。
「先生、久しぶりでしたね……」
(つづく)