―山下の的確な処理の仕方に脱帽―
起こしてしまった事の重大さを段階的に認識し始める善幸。
一番に考えたこととは、自分の立場より家族の事。
善幸は、自分ではどうすることも出来ない苛立ちを抱えながら、家族と向き合わなければならなくなった。徒では済まないのは分かっているが、問題なのは……。
第五十八話
―山下の的確な処理の仕方に脱帽―
次の日、善幸は、これまでの人生の中で一番空虚な時間を費やすことになった。
朝、いつもの時間に家を出ようとしたが、財布に多少の金は入れておきたかったので、美乃里に「ああ、そうだ、職人が今度結婚することになってさ、ご祝儀やらないといけないんだ。五万円ある?」善幸は嘘を吐いた。
「急に言わないでよ、ちょっと待ってー」
玄関先で、すんなりと渡してくれた美乃里に感謝し家を出た。これで当分は間に合うだろう。
この先、自分の身に何が起るのか、それは考えないようにしようと決めた。悩むだけ無駄なのだ。そは思ってみるが……。
陽が民家の屋根を超えてきた。善幸は行く当てもなく歩いている。十五分後に無意識に辿り着いた場所は最寄りの駅だった。そのホームに設置してあるベンチに座った。態々通勤ラッシュの様子を観察しに来たかのようだ。
午後からは雨が降るという天気予報だった。美乃里から渡されたビニール傘が役に立ちそうだ。
上りの電車を見送った。五分もすれば、またホームは乗客で埋め尽くされる。ベンチに座っている者は誰も居なかった。善幸は、座った状態で傘の柄に両手をのっけた。痛みで眠ることができなかった両腕を交互にみている。触りもしない右腕が、嫌がらせをしているかのようにジンジンと痛みを増していく――。
上りの電車がまたホームに入って来た。乗り込むサラリーマンの姿をぼんやりと眺めている。と、昨日の出来事の詳細が固い殻を割って次々と姿を現してきた。
山下が厨房に来てくれなかったら……。きっと裁判沙汰になっていただろう。いや、まだどうなるかは分からないのだ。話し合いの僅かな余地は残されているのだろうか……。
善幸は、この事件を別な角度から眺めてみた。先ず最初に頭に浮かんできたこととは――どの段階で美乃里に今回の傷害事件を打ち明ければいいのかということだった。
深い絶望感だけを残し、それで締め括るような話し方はしたくなかった。僅かでも将来への希望を添える形で話そうと考えてみるが、しかしそれはとても難しそうで、不可能であることの認識を強めていくだけだった。
明日の山下との話し合いまで、今日一日焦燥する気持ちを如何に抑えられるか、善幸はそれに悩まされることになった。
電車を何本見送っただろう。あれやこれやと考えているうちに、現段階であっても手を早く打たなければ大事になってしまうことに気づかされた。
それは、范料理長から毎月掛かって来る電話だ。「善幸に何があったんだ! 美乃里っ、帰って来たら電話するよう善幸に伝えろっ!」きっとこうなってしまうだろう。
范料理長に知られるということは、山下経由で三ケ日オーナーからの口伝えしか考えられない。善幸としては、この傷害事件はまだ知られたくなかった。不可能であると分かっていながら、それでも自分だけで全責任を取る方法を考えてみたかったのだ。
ベンチから立ち上がり、善幸は空きはじめた電車へ乗り込んだ。
今日一日、どこをどう歩き回って時間を潰していたのかは覚えていない。時計を見ると二十三時を超えていた。漸く通常の帰宅時間となった。歩いていただけなのに頭が重く感じ首と肩が凝っていた。その疲れを引き摺り、翌朝もまたいつもの時間に家を出なければならなかった。
善幸は居ても立っても居られなかった。二日ほど眠れない中で、自分ではどうすることも出来ないことに苛まれていた。
次の日の朝七時半、善幸は四ツ谷駅の改札口にいた。山下は八時半に出勤してくる。まだ時間があったので、店とは反対方向へ歩いて行き、オープンしている喫茶店に入った。店内はコーヒーを飲んでいる客で混雑していた。
何も頭に思い浮かばず時間だけが過ぎた。丁度良い時刻、九時になった。山下は、食材の注文の手配を済ませ、取り急ぎの仕事は一段落している頃ではないだろうか。
善幸は店を出て、電話を掛けよと駅の改札口へと向かった。
案の定、良いタイミングだったらしい。駅に居るのなら直ぐに来てくれとのことだった。善幸は〝ある覚悟〟を胸に秘め事務所へと向かった。
通されたのは、いつもの応接室だった。ソファに深々と腰掛けながらの山下の第一声は「倉持さん、大変なことをしてくれましたね……」
「申し訳ありません。店にもご迷惑を掛けてしまいました」
謝罪すること自体、なんの意味も成さないのだ。その所為か、自分の発した言葉がサラッと乾いた言い方になっていた。
「倉持さんが去った後、職人たちは、なぜだか分かりませんが、誰一人としてその時の状況を話してくれませんでした。見ていたとは思うのですが」
「俺が当事者なので、全部わかっています」
「そうでしたね。不明な点はこれからお訊きします。でも、昨日、ジンさんから仕事が終わったあと話してくれたので大体は分かりました」
「あの時、崔料理長の苦しんでいる姿を見ていて、俺は何をやってしまったのかと茫然とした状態で突っ立っていました……」
「倉持さんが厨房から出て行った後、あの状態では起き上がることは出来ませんから、救急隊が三人がかりでタンカーに乗せ、病院へ運んでいきました。料理長の胸の火傷の深さが心配です」
「そうでしたか……」
早く救急車を呼んでやってくれ、当然善幸もそう思った。しかしながら、申し訳ないことをしたという気持ちが、その時は正直湧いてこなかったのだ。
「それでですね……。問題が幾つかではなく、沢山出てきてしまったんですよ、倉持さん」
「わかってます。言い訳しようとは思ってません。こうなったのは私の責任ですから」
「事件の日、私も救急車に乗って病院へ行ったんですが、検査と火傷の処置でほとんど会話ができませんでした。ですから、昨日、また病院へ行って来たんです。頭に包帯を巻いて、顎が……」
「申し訳ありません……」
「倉持さん、思いっきり殴ったみたいですね。顎の骨は折れてなかったようですが、口許がかなり腫れていて、下の前歯が二本折れてるって付き添っている奥さんが言ってました。それと、後頭部から、あんなに出血してしまった原因って一体何だったんですか? 一発殴っただけでは、あんな状態になるとは考えられません」
「実は、殴った直後、料理長が仰向けに調理台の上に倒れ、その高さから床へ落ちて後頭部を打ち付けてしまったんです。全体重が後頭部に掛かってしまったようです」
「CT検査で調べた結果、脳に異常はなかったようです。良かったですね。ただ、頭蓋骨が一部陥没しているようで、その処置を早くしなくてはいけないと脳外科の先生から説明を受けたみたいです」
「治療する順番があると言うことですか?」
まるで他人事のように言っている善幸に山下が切れた。
「倉持さん、あなたが起こした傷害事件なんですよ!」
「分かってます。本来なら、すべて俺が相手と交渉しなければならないということ。それと、山下さんに多大なご迷惑をお掛けしているということも。とても心苦しく感じています」これは、最初に話しておくべきことだった。
「……同じ仕事場の仲間じゃないですか。問題が起こったら、その問題が解決するまで、私は手を抜くようなことはしません」
「本当のことを言うと、俺、山下さんに間に入ってもらって、話しをつけてもらおうと考えていました。都合良く考えていたんですね。俺、明日、料理長に会ってきます」逃げられることではないし、逃げるつもりもなかった。
「倉持さん、私は、自分の立場で出来る精いっぱいのことはしたいと思っています。崔料理長とは長い付き合いでもあるし、倉持さんの心の拠り所である范料理長とは、開店に向けての準備をお手伝いさせてもらっています。私からすれば皆仲間なんですよ。この先も良い形でお付き合いさせて頂けたらと思っているんです。ご存知のように、当時、范料理長と崔副料理長とは上手くいっていなかった。しかし、あれは崔副料理長が、范料理長に何を言われても堪えていたから何事も起らずに済んだんです。立場上、それは当然だし、仕方の無いことだった」
善幸は小さく頷いた。
「倉持さん、私は、あなたが崔料理長と何があったのかは知りませんが、上司に腹を立てたからといって暴力を振るってはいけない。今回の件は、突発的な感情から引き起こした事件だと私は思っています。また倉持さんがすべて悪いとは思っていません。けれど結果的にこうなった責任は、すべて倉持さんにあるわけです」
「分かっています。全責任は私にあります。出来ることなら、自分で何とか出来ないかと思っているんですが……。俺、相談できる人が居ないんです。范料理長やオーナーさんたちにはまだ知られたくない。山下さんも、言わないでおいてもらえませんか? 私から話しますから」
「…………」
「わかりました。三ケ日オーナーにもまだ言ってません。倉持さんと一度会ってからと思ってましたから。崔料理長にもその件は伝えておきます。しかし、彼の意向を妨げることはできません。このことは承知しておいてください」
「助かります。知られてしまったら仕方がありません。なるようにしかならないと覚悟はしています。なにしろ、今回の事件の結末がどうなるのかが分からないと、自分としても対処のしようがありません。でも、あの時、山下さんは何の用事で厨房に来られたのですか?」
「三ケ日オーナーから電話が掛かってきたんですよ。電話を倉持君に代わってもらおうとしたら、それっきりだったから、それで事務所へ電話を掛けたと仰ってました。一体どうしたんだ? と。だから、私が厨房へ行ったわけです」
厨房内で起っている騒動は、崔が電話を保留にしたから、三ケ日オーナーには知られずに済んだようだった。
「そうだったんですか、山下さんが来てくれなかったら、どうなっていたことか……」
「それより、解決しなければならない問題が多すぎます。だから、崔料理長とは順序立てて交渉していかないといけません。かと言って時間を掛けてしまうと、ややこしくなる場合の方が多い。昨日、料理長が今回の件をどのように考えているのか、大まかにですが聞いて来ました」
善幸は固唾を呑んだ。
「先ず、傷害罪で訴える。それと、慰謝料として三千万円。その他、治療費や入院費それと付随する費用、また休業損害や逸失利益等の損害賠償を要求すると言っていました」
それを聞いた瞬間、俺の人生は終わったんだ……そう思った。
「とてもそんな金はありません……」
「慰謝料だけで三千万円、かなり感情的になっていると思います。しかしですね、料理長からすれば、相手が金を持ってるか持ってないかは関係ないんです。ただ、仲裁する側から言わせてもらうと、金が無い者に払わせることは不可能だということです」
「俺、どうすればいいんですか?」なんて訊いても仕方がない。憂悶は一つに絞られた。俺の家族はどうなってしまうのか、どうしたら自分と切り離すことが出来るのだろう、ということだった。すべての問題を素通りし、善幸はそこへ直結させた。
落胆し切っている善幸を見つめながら、山下が言った。
「倉持さん、それでなんですが、私は料理長に言ったんです。そんな不可能なことを要求し続けても意味がないのでは? いつも沈着冷静な料理長らしくないですよ、とね。倉持という人間は悪い人間じゃない、今回このような障害を料理長に負わせてしまったけれど、それは二次的、三次的に増幅されてしまった災禍だった。だから、二人にとっては不幸な出来事だったんだ、そう考えることは出来ませんか? と尋ねました」
「で、なんと?」
善幸の身体が固まった。
「都合良く考え過ぎじゃないかって。まるで、おまえは倉持の味方なのか? と言わんばかりでしたよ」
「そうでしたか……」
「昨日、病院へ行く前にジンさんから電話をもらったんです。彼は、料理長が倉持さんの顔面に受話器をぶつけたのを見たって言ってました。〝事〟の発端はそれだって」
だからと言って、何がどうなるというのか……。
「私は、その後、暴力を振るったのは倉持が悪いけれど、その切っ掛けをつくったのは料理長で、百パーセント倉持が悪い訳ではないと反論しました」
そうは言っても、受話器を顔面にぶつけられたことと、歯を二本折るほどの力でぶん殴ってしまい大火傷を負わせてしまったこと、これらを天秤に掛けるまでもなかった。山下の何とかしてやろうという気持ちは伝わって来るが、却って逆効果になるのではないかとさえ思えた。
「で、ですね、料理長は、少し考えさせてくれって言うものですから、私は一旦事務所に戻ったんです。そして、仕事が終わった後、また病院へ行きました」
聞いても、もう意味がないのではないだろうか――。
「料理長、冷静になって考えてみたそうです。これから和解するための条件を話します」
「条件? ど、どんな条件ですか?」
諦めの境地だった善幸は、思わず身構えてしまった。
「非現実的なことを言い続けていても仕方がない。だが、せめて倉持に三千万円だけは払わせる、そう言いました。つまり、損害賠償は、三千万円でいいということです。それと、傷害罪で訴えることもしないと言っていました。これが一番重要なことではないですか? 裁判になると長引きますし、その間も収入を得ていかなければならない。高校生の娘さんもいらっしゃいますよね。倉持さん自身、仕事が出来るかどうかも分かりませんしね。そうなると差し当たり、奥さんが一番苦労することになる」
「裁判沙汰にはしないと相手は言っているってことですね?」善幸は、再度確認した。
「料理長は、口の中や後頭部、それに胸の火傷の痛みを耐えながら話してくれました。そんな状態でも、料理長だから冷静に考えられたのでしょう。人の好き嫌いでは判断しない。意味の無いことは切り捨てて考える。また、決断が早いんですよね。私は、料理長のそんなところが好きです」
善幸は、山下と崔の関係が思い掛けず良さそうなので意外に感じた。そのお蔭もあって訴訟を免れることができたようだ。
「交渉してくれた山下さんに感謝します。ところで、山下さんに一つ訊きたいことがあるんですが」
「何でしょう」
「損害賠償の三千万円の内訳を話してもらえませんか? というのは、他に請求されるものがあるのかどうかが分からないので」
「ああ、肝心なそのことを話さなければなりませんね。説明不足でした。結論から言うと、この三千万円というのは、今回の傷害事件に関する示談金です。簡単に言えば、この金額で、すべて決着が付いたということになります」
「三千万円以外に請求しない、そう思っていいんですね?」
だが、訊いたところで手に負えない金額であることに変わりはなかった。
「最初、料理長は納得しなかった。あの状態では、半年は仕事に復帰することは出来ないでしょう。その悔しさからしても当然です。その治療期間の給料や賞与の補償もあるし、当然、治療費や入院費、奥さんだって付き添わなきゃいけなくなる。その為の経費だって馬鹿にならない。料理長の奥さんも働いているみたいですから。また、失われた二本の前歯も。それ等に加え、慰謝料。考えればまだまだ出てきそうですよね。だから、私が最初に提案した込み込みの三千万円では納得しなかったわけです」
「じゃ、どうして納得したんですか?」
「私が仕事中の事故として処理をする。それと、料理長に言ったんですよ〝倉持を……潰す気〟ですか? と」
束の間、山下が目を見開いた。と同時に、向かい合って座っていた善幸の身体が反り返った。
「私が一番気にしていたことは、倉持さんを傷害罪で訴えない、ということでした。ですので、料理長からそれを聞いたときは留飲が下がる思いでした。口の中の出血がまだ止まらないみたいで、話すのがしんどそうでしたけど……」
善幸は項垂れるように頭を下げた。
「それでなんですが、損害賠償の三千万円は払って頂かなければなりません」
「そうですよね、何とかしなければならないのはわかります。けど……」
「唐突ですが、倉持さん、今いくらなら払えますか?」
「掻き集めて、一千二百万円くらいだと思います。全然足りませんね……。実はその金、自分たちの店を持とうと、うちの奴もパートで働きながら貯めたお金なんです。でも、去年、俺は店を持つことを諦め、この店でやっていこうと思い直しました。范料理長が、倉持は店に居た方がいい、と三ケ日オーナーから間接的に伝わってきたことが決め手でした。そのことは、まだうちの奴には話していません。しかし、一千二百万円では慰謝料の額には程遠いですよね……」
「お金を借りられる親戚とかいませんか?」
「いません。俺の親戚は、貧乏人ばかりなんで」
「そうですか……」
「どうしたらいいんですかね、俺……」
山下は黙ってしまった。暫くして、
「時間貰えますか、倉持さん」
窮余の一策でもあるというのだろうか。「いいですけど」とは言ったが、善幸はこう付け加えた。「山下さん、連絡は俺の方からさせて下さい。実は、今回の件、まだ家族に話してないんです。俺がどうなるのかがはっきりするまで知られたくはないので……」
「わかりました。それでは、また明日同じ時間に連絡してもらえますか?」
頷くと、善幸は立ち上がった。山下は目を瞑り座ったまま動かなかった。応接室を出た後、善幸は再び空虚な時間を過ごすことになってしまったのだった。
傘を開いたり閉じたり、今日は勢いの感じられない雨が降っては止む一日だった。
隣にいるはずの美乃里が居ないかのような深夜――。善幸は天井を見つめていた。そんな眠れぬ夜、焦点の暈けた思案が浮かんでは消えて行った。
一発殴っただけ、その代償として俺の人生が閉じられて行く。この先、家族を巻き込むことになっていくのだろう。それを考えると、どうしても諦めがつかなかった。せめて、自分と家族とを切り離す画策があれば……。しかし、相手が崔であるだけに、いくら考えても無駄だと思えてきてしまった。
ずうっと天井を見つめていた善幸は(眠ってしまえば……)と考え、瞼に力を入れた。
(つづく)




