―善幸の左腕は包帯巻き―
追い出すのに手古摺っている善幸。ところが、崔も善幸を追い出そうとしていた。そのために、双方考えている手口とは何か。またその結末は、勿論片方が【四川料理 翔龍】から追い出されることになる。崔を上手く追い出せれば、善幸は料理長に就任。だが、確か善幸は自分の店をオープンさせるのではなかったのか。一体この後どういう展開になるのか――。細かいところは筆者にも分からない。
第五十五話
―善幸の左腕は包帯巻き―
崔をこの店から追い出すことが、こんなに悩ましく手間の掛かることとは思わなかった。折角、百合根という鮮度の良いネタを手に入れたというのに、その使い方が分からず持て余しているのだ。考えていても埒が空かない。そう思った善幸は、諦めずに先ず出来ることからはじめていくことにした。
近々、善幸は、親方から直伝のマナガツオの西京漬けを手土産に三ケ日オーナー宅へ持参するつもりでいる。
オーナーに持って行く食材なら、崔を通さずに注文しても山下は断れないはずだ。早速、事務所へ電話し、山下に一・五キロ程度の鮮度の良いものを七、八尾、今週中に押さえるよう伝えた。彼からは「分かりました」と事務的な返事が返って来た。
食せば、絶対に喜んでくれるだろうマナガツオの西京漬け。これこそ、「倉持君、意地悪してたのか? もっと早く喰わせなきゃダメだろっ」と怒られてしまうほどの逸品。今回は、大田原会長と月影オーナーの分も作り、漬け具合が一番食べごろになる日にお届けしようと考えていた。
その前に――。善幸は、崔が厨房に居ない時を見計らってジンに話しかけた。
「ジンさん、給料は、崔料理長から貰ってるって此間言ってましたよね?」と親し気に訊いてみた。
「え?」
ジンは、手の動きが緩慢になり耳を欹てた。
善幸は、何気なく他の職人にも聞こえるような声で、
「そのことなんですけどね、来月から職人の給料が個人の銀行口座に振り込まれることになったんですよ。それで、口座番号を教えてもらいたいと思って。ジンさん以外にも料理長から給料を貰っている職人がいたら、その口座番号も聞いておくようにと三ケ日オーナーから直々に頼まれたんです」
ジンは、訝し気な表情になった。
「それ、料理長は知ってるのか?」
善幸は、彼らが押し殺している崔に対する不満を焚き付けてやろうと考えていた。彼らの原動力は単純なもの。金で動いている、ただそれだけだ。現在、崔がそれを牛耳っているのだ。
「料理長には、オーナーの方から話すらしいです。まだ話さないようにと言われてるんですよぉ」
「なんで、オーナーが倉持にそんなことを言ってきたんだ?」
「わかりません。ただ、オーナーにそう言われたら、そうするしかないじゃないですか。何か、問題でも?」
「いいや、別にないけどさぁ……」
ジンは、何か目論見でもあるのかと首を傾げたが、損するような話ではなさそうだ、と思い直したみたいだ。
「そのことで、一つ訊きたいことがあるんですけど」
「なんだ?」
ジンは、素揚げしている青梗菜の茎を油こしで掬い上げると、一旦作業を中止した。
「料理長から給料を貰っている他の職人って分かります?」耳許で言ったが、しかし他の職人にも聞こえる声で。
「全員だよ。倉持だけだろ、店から直接貰っているのは」
「全員だったんですか? それは凄い!」
「凄い? 何が?」
「あ、いや。それじゃあ、皆の口座も教えてもらわないといけませんね。それ、ジンさんにお願いしてもいいですか? ただし、くれぐれも料理長には気づかれないようにお願いしたいんですけど……」
顎をさすりながら、ジンは暫く考えていた。
「ああ……。来週中には分かるようにしておくよ。ところで、倉持、それって損する話じゃないよな?」ジンは念を押してきた。
損をさせたんでは、他の職人たちに恨まれたら敵わないとジンは思ったのだろうか。その不安を取っ払うために、善幸は大きく頷き「勿論、得になる話です。その代り、料理長から貰っていた先月の給料と五月十日に口座へ振り込まれる金額を俺に教えてください。全員のです。この条件を呑んでもらわないと、直接口座へ振り込むことは出来ません。そこんところ、どうですかね?」と、ここだけは職人たちに明確に聞き取ることができるように話した。給料が増えたのは自分のお蔭だ、そう思わせるためだった。
先ほどから、二人の話に聞き耳を立てていた職人たち。自分たちにも関係のある話らしいぞと、こっちをちらちらと見ていた。
最後に、善幸は「じゃ、頼みますね」とジンに言い、ネギを切り過ぎて山盛りになってしまった笊を抱え、その場から離れた。
ひと手間省けたと思った。正当な経路を辿るのであれば、二週間以上この〝戦略〟が遅れてしまう。順序からすれば、オーナーにその旨の了解を取ってから進めるのが筋だった。
善幸は、職人たちの給料が全額崔の口座に振り込まれていることなんて、オーナー達は知るはずがないと判断した。経理上の問題で店に損得を与えることでもないし、またそんな些細な事務処理のことなど耳に入るはずもない。だが、今回、その振込手続きの変更だけをオーナー側の耳に入れたとしたら、何かきな臭ささを感じ取り、その臭いの元を辿って行くのではないか。そして、ある疑いに行き着く……。それは、同じ郷里の仲間であり親戚である職人たちとの信頼関係を利用し、崔が勝手に周旋料として抜き取るという卑劣な行為だということ。
善幸は、崔の数々の練達なピンハネを見抜く目利きでありながら、これまでそれを暴く術を一つも持ち合わせていないことに悩み苦しんでいた。だが、これを機に漸く突破口を見つけ出すことができた。発破を仕掛ける次なる段階へ進めそうだ。一旦、重圧から解放された気分を味わうことができた。
取り敢えず、職人たちに対しては、自分は仲間であり味方なんだと思ってもらうよう会話を心掛けることにした。オーナー達とは親密な関係を、より強固なものにして行こうと思っている。現段階では、これが思い描くことのできる精一杯の着想だった。
山下にマナガツオの注文を出してから五日後、天草の漁港で揚がったものが入荷した。二尾入りの発泡スチロールの箱が積み重なっている周りを、職人たちが取り囲んでいる。職人の一人が「ドウスルンダ、コレ?」と指を差し、片言の日本語で訊いてきた。
注文者は倉持だと決めつけている。
「オーナーさんから頼まれてね……」善幸が軽く答えた。
ランチの下拵えは他の職人に任せ、善幸はさっそく朝一で捌いていく。魚を手で持ち上げただけで分かる鮮度の良さに、思わず笑みがこぼれた。
数日後、善幸は、職人七人の銀行口座が書いてあるメモ紙をジンから渡された。難なく第一段階を突破した。その結果が愉しみで堪らない。
その次の日、グッドな漬かり具合のマナガツオを持参して三ケ日オーナー宅を訪れた。
奥さんはいなかった。リビングに通された善幸は、無駄話は他所に、破けないよう二重にした紙袋の中から化粧樽を三つ取り出した。杉の香りがほんのりと香っていた。
善幸は樽の蓋を一つだけ開けた。ふっくらとしたマナガツオの切り身がオリジナルの西京味噌にまぶされ、きれいに並んでいる。自慢げに、「いかがでしょうか?」と心の中でオーナーに問い掛けた。善幸は品物の説明をはじめた。
「――このように調合された西京味噌は、以前、私がお世話になった親方、つまり范料理長のお父様から教えてもらったものなんです。マナガツオっていうのは――」
すると三ケ日オーナーが、
「あのさ、倉持君の下手な説明を聞かなくても旨いのは判るよ。しかし、逸品だねえ、凄いよ! 飾っておきたいくらいだ」
この上ないお褒めの言葉を頂戴してしまった。
「それにしても、こんなにか?」と、オーナーは三段に重ねられた化粧樽を一つ一つ持ち上げ、全部同じ代物なのかどうかを確認している。
「それですが、大田原会長と月影オーナーの分も作っておきました。申し訳ありませんが、三ケ日オーナーから渡して頂けませんか?」
オーナーは照れ笑いしながら「ああ、そうだよな、うちだけじゃ食べ切れない。いやー、二人ともこれを見たら喜ぶと思うよ。倉持君が丁寧に作ってくれた気持ちが、きっと伝わるだろう。ありがとね、うちの奥さんもびっくりするんじゃないか、きっと」
「喜んで頂けて、作った甲斐があります」
「しっかし、これさ、贈答品用だよな。このまま売れるぞ!」
オーナーは本当に嬉しそうだった。
この類のものは、デパートなどでよく出回っている代物だけれど、オーナー達はそれ以上の出来を要求してくる、善幸はそれに応えようとしたのだ。今回は、余計なこととは思いながらも、ギフト用としての見栄えも考えた。その出来栄えは、自分でも上々だと思っている。
長居はできなかった。なぜなら今日は朝からずっと崔が厨房にいるからだ。オーナー宅で話し込んでいるのが分かってしまうと変に勘繰られてしまう。それは避けたい。話す時間は世間話程度で引き上げなければならなかった。
話は五、六分で終わった。最後に、職人たちの銀行口座が書いてあるメモ紙を三ケ日オーナーに手渡した。その理由を差し障りなく話すと「ああ、いいよ。職人の振り込みの件は、経理の山下に言っておくよ。倉持君、何かをやろうとしてるね? それを待ってたんだ。我々は傍観させてもらう。頑張ってな!」三ケ日オーナーはニコリと笑ってくれた。
困ったときは相談にのるよ、やることには口を出さないから、そんな粋な計らいをしてくれているオーナー達だった。
オーナーのツマミ専属料理人としての仕事が新たに加わってしまったようだ。この先もオーナー達を吃驚させるようなツマミを作っていかなくてはならない。これはこれで、善幸にとっては都合の良いことだった。暫くの間、会えずにいて距離感を感じているところだったからだ。オーナー達との間柄を取り戻せただけでなく、更に盤石なものになっていきそうだ。
小走りで跨った自転車の前輪は、得手勝手に転がって行った。善幸は漕ぎながら考えていた……。
自分の置かれた立ち位置が御し難いことであることに気づかされたのだ。それは、オーナー達が何かをしてくれるわけではないということ。それに、現場を任された者が、その職権を使って現体制を立て直し、採算の取れる繁盛店へと導いていかなくてはならないということ。果たして、自分にその手腕があるのか否か、オーナー達はそれを見極め判断を下そうとしているのだ。投資をしているのだから、私情を挟むようなことはしないだろう。
善幸は、急く心を押さえ、給料が初めて職人たちの口座に振り込まれる五月十日の翌日を待つことにした。
待ち遠しい五月十日の五日前から、崔の振る舞いは明らかにいつもとは違う不自然さが感じられた。現場責任者でありながら、朝一で入荷した野菜やら肉魚類の、これまでやってなかったチェックをはじめるようになったのだ。それに、忙しい時間帯だというのに、目的もなく調理台を手で撫でながらウロウロしている。まるで見張りを怠っている番兵のようだ。
また、崔は厨房に居るかと思ったら突如居なくなり、二、三時間後に戻って来る。が、また出て行く。これを繰り返すせわしない行動をとっていた。これまでのお決まり外出パターンだと、朝、厨房にちょっと顔を出した後は直帰コースだったはずなのに――。
何かがそうさせている。それは一目瞭然だった。三ケ日オーナーから経理課に指示した〝振り込みの件〟が崔の耳に入ったに違いない。
数日後に判明する職人たちの振込金額。その怯えからではないだろうか。
崔の目は泳いでいた。一方、職人たちからは、振り込まれる給料の額を気にしながら仕事をしているソワソワ感が感じ取れた。当然、善幸もピンハネしている額を知りたくてうずうずしていた。総額にすると、結構な金額になるのではないだろうか。
職人たちに給料が振り込まれた次の日の朝、誰よりも早く出勤したのは善幸だった。待ち遠しかったその日……。何と言っても、出勤して来る職人たちの顔色を窺うのが興味深かった。
善幸は厨房に入って来た一人の職人に挨拶をする。「おはようございます」と。言葉は発しないまでも、彼は軽く会釈をしてくれた。明らかにこれまでとは違う態度だった。
八時、ジンが厨房に入ってきた。
「おはよう……」と、先に意味深な顔つきで善幸に挨拶してきた。
善幸も、「おはようございます」と返す。
ジンは、二か所の出入り口をキョロキョロと確認した後、
「二割はキツイよな……。みんなも同じだと言ってたよ。しかし、それはあんまりだよなあ~」そう善幸の耳元で呟いた。
最初の目的が一つ果たせた。一歩前進したのだ。このことで、崔の〝求心力〟は大きく失われていくだろう。善幸は腕を組み深く頷いた。
崔が厨房に姿を現したのは午前十時過ぎだった。この遅い出勤時間っていうのは、結構なダメージを与えた証しではないのか。
崔は、今日の十八時半から予約が入っている歓迎会の段取りをジンと話しはじめた。
ここは間髪入れずに責め立てたいところだ。しかし、確かな責めたてる材料は他にはなかった。せめて、百合根のピンハネが使えたら、一気に崔を追い詰めることが出来たかもしれない。それが悔やまれてならなかった。
職人たちの給料が個人口座へ振り込まれる二度目の給料日である六月十日の翌日、何食わぬ顔をして仕事をしている職人たち。給料が増えたのは倉持のお蔭だなんて感謝している者は誰も居ないかのように思えた。唯一、ジンだけは気兼ねなく話し掛けてくれた。
「やっぱりさ、えらく喜んだのはうちの奥さんだったよ。いきなりこんなに給料が上がったもんだから。気持ちが昂っちゃってさ、女って現金なもんだよな。皆も言ってたよ、俺のところもそうだって」
「それじゃ、俺は良いことをしたってことですかね?」とジンに訊いてみた。
「心の中では皆、倉持に感謝しているんだよ。おまえの印象はさ、よく料理長とぶつかっているから生意気だと思われてるけど、間違ったことは言ってないし、あいつは店のことを考えてやってるんだ、そう皆は思ってる。今回の件も、皆のためにやってくれたことだと、心から感謝しているんだよ。ただ、直接倉持に言えないだけ。言葉の壁ってやつもあるからさ……」
ジンが話してくれたことが、意思疎通の無かった職人たちとの良好な関係を築く第一歩となった。
それ以来、ジンと作業台を挟み、話をしながら仕事をする回数が益々増えていった。話題は、これまで働いていた店のことと家族の話だった。もう、ジンとは仕事仲間以上のものを互いに感じはじめていた。
ある日、いつものように隣同士で仕込みをしていたら、背後で人の気配を感じた。ジンの会話を切断するように割り込んできたのは案の定、崔だった。
ポンッとひとつ、崔が善幸の肩を叩いた。
「倉持、おまえが考案したメニューの食材に関しては、今後すべておまえが拾ってくれないか。范料理長のときにやってたから出来るだろ? 食材を無駄にしないように頼むぞ。今、倉庫にある食材を確認しに行くところなんだが、おまえも来てくれないか? おまえが使おうとしている食材の在庫を確認しておいた方がいいだろ?」
善幸に対する態度を軟化してきたのだろうか、しかし油断はできない。
「分かりました」
二人は倉庫へと向かった。
厨房と食材置場は、コンクリートの壁で遮られていて、一旦外へ出てから回り込まないと倉庫の中へは入れない。崔と二人だけでここへ来るのは二度目だ。
崔がポケットから鍵を取り出した。
「二人だけじゃないと、話せないことってあるからな……」そう言うと、倉庫の扉を開け、崔はさっさと中へ入っていった。
善幸は、中の電気が付いてから入った。
室内は、冷風機で温度、湿度を一定に保ってある。梅雨に入ったばかりの湿度の高い外気と違い、ひんやりとして乾いた空気が心地いい。十坪程のスペースの、入って右側の壁には冷蔵庫が三台、向かい合って左側に冷凍庫が四台並んでいる。真ん中のスペースには、それらの扉の開閉の邪魔にならないようスチール棚が突き当りまで設置されていて、そこには葉物野菜や根菜類などの段ボール箱が、その種類が一目で分かるように並べられていた。
香辛料と漢方薬の匂いを滲み込ませたこの倉庫……。ここは中国四川省なのだろうかと思わせた。天井にへばり付いている蛍光灯の本数が明らかに足りなかった。
崔がC食材と扉に貼り付けてある冷凍庫を開けた。善幸は、そこへ近づいていった。
「見てみ、食材にはそれぞれ日付が打ってある。その並びにナンバーが記載してあるが、これは管理ナンバーだ」
管理ナンバーと言うことは、パソコン上で産地と取引業者、それに数量、仕入れ価格まで管理されているということか? すべてがそうなのかと思い、善幸は手を伸ばし奥にある段ボール箱も確認してみる。それぞれの箱の同じ位置に、傾くことなく印字されたシールが貼ってあった。この几帳面さからして、多分、山下が担当しているのではないだろうか。
「倉持、これらの冷凍庫には高級食材しか入っていない。奥の冷凍庫が一番良い食材が入っているんだ。冷凍してあっても、封を開けてしまい真空状態でなくなった食材は、早めに使い切らないといけないんだよ。冷凍焼けがはじまっていくからな」
過去に、崔が仕事のことで善幸に指導するようなことは一度も無かった。急にどうしたというのか? また二人だけというこの空間も、居心地の悪さに拍車を掛けていた。
バタンッ、崔はその扉を閉めた。
「後ろを見てみ、冷蔵庫にも食材A、B、Cと書いてあるだろ。あれは食材のランク付けになっているんだよ。冷蔵庫だから冷凍庫と違い、賞味期限には気を使わないとな」
ランク付けのシールなんてどうでもいい。善幸は、管理ナンバーというキーワードに一瞬翻弄された。食材の仕入れ先を調べるため、深夜、山下の居る事務室に忍び込みパソコンを開くということは果たして可能だろうか、などと考えてみる。
崔が、一歩善幸に近寄ってきた。
「話は変わるが、倉持……」
善幸は、異様な空気が漂っているのを感じ取った。
「おまえ、職人の給料の支払いに口出ししなかったか?」
「どういうことです?」
自分から先に話を切り出すのは得策ではない。冷静を装い、先ず相手の話を聞くことが先決だ。職人の口座の振り込みの件は先々月からのこと。善幸は今頃になって何なんだ、と思ってしまった。職人たちの不満を払拭しようとするための期間だったのだろうか。
「おいっ、ここには二人しかいないんだ、惚ける必要もないだろ? 山下から話は聞いている。おまえが三ケ日オーナーに告げ口して、職人たちの給料を銀行口座へ振り込むように頼んだらしいな?」
ここまで話を一気に詰められると、様子見などの意味はなくなる。ぶちまけるしかなくなった。
「料理長、俺が思ってた通り、職人たちの給料のピンハネをしてましたよね? それが見事にバレた訳です。いつまでも悪いことは出来ない。世の中って、そうなっているみたいですよ」
「ほおー、それから? まだ言いたいことがあるなら、言ってみな?」
絶好の機会だと思った。
「なら、言わせてもらおう。あんたは、食材のピンハネもやっているだろっ、それも范料理長がこの店に来る前からだ、違うか?」
「証拠でもあるのか? あるなら出して見ろよ、倉持っ!」
そこなのだ。これに関しては何も言えなかった。不自然なことがどんなに重なったとしても決定的な証拠にはならない。
「自分の胸に手を当てて訊いてみな」
善幸は冷凍庫を背にして、相手の息づかいが感じられるほど接近した状態で話をしていた。
すると、崔がもう一歩近づくや否や、左手でゆっくりと胸ぐらを掴んできた。と思ったら、今度はだらんと垂らしていた崔の右手が素早く動いた。その手が善幸の顎を鷲づかみにすると、ゴツーンッと冷凍庫の扉に後頭部を叩きつけた。その衝撃で一瞬脳震盪を起こしそうになった。
押さえ込まれ身動きできない善幸は、視点の定まらない崔の形相を睨み見つけることしかできなかった。
「俺を誰だと思ってる……。あ~ん? なめたまねをしやがってっ!」
経験したことのない体勢だった。善幸が通っていた半分の生徒がヤンキーだった男子高時代の記憶が蘇った。その頃、何度か喧嘩もしたことはあるが、今回のような一瞬にして相手の動きを封じ込める高度なテクニックにお目にかかったことはなかった。
崔は、胸を合わせた状態で胸ぐらを掴み、相手の背中を冷凍庫へぴったりと押し付けた状態で、体格に見合ったごっつい指先三本を、相手の顎に喰い込ませていた。その体勢は三十秒ほどだったと思うが、やたらと長く感じた。
崔は、相手が手を出してくるのを待っていたのだと思う。抗う様子がないことが分かると、次の段階へと進んだ。顎を鷲掴みしている手をグイッと天井へ突き上げたのだ。身動きのできない身体がピーンと伸ばされてしまい、善幸は爪先立った状態になってしまった。この体勢ではもう反撃のしようがない。身体が密着しているから微妙な手足の動きであっても相手に察知されてしまうからだ。動けないばかりか、口もへの字にひん曲げられているから言葉も発することができなかった。まるで緊縛師が縄で相手の自由を一瞬にして奪ってしまうかのようだった。
崔は、顎に喰い込ませている指に強弱を付け、「わかったかあ~」と無言で言い続けている。催眠術でもかけられてしまったかのような錯覚に陥った――。
善幸は、何も言えず何もできないでいると、崔は冷凍庫に押し付けている善幸の身体を一旦手前に引き寄せた。その後、くるっと向きを変え、人がギリギリ通れるほどの棚と冷凍庫の間へ、まるで腐った生ゴミを投げ捨てるかのように突き放した。善幸は、棚の鋼材アングルに強く左腕を打ち付け、背中から床に倒れた。
それを見届けた後、崔は倉庫から出て行った。
善幸は、左腕を押さえ上半身を起こした状態で、暫くの間呆然としていた――。
還暦になろうとしている男が、これほどの腕力があるとは愕きだった。料理人の仕事をやり続けているだけではこんなパワーは出せない。奴は、ジムにでも通って日々鍛えているような筋肉質の身体をしていた。
今回、倉庫に呼びだされたのは明らかに脅しが目的だ。この先、善幸は、職人たちをコントロールできない厨房の片隅へ押しやられるような気がしてならなかった。
何を考えているのか、何をしてくるのか分からない不気味な男、あいつは一体何者なのだ……。 (つづく)




