―市ヶ谷駅 “夜の釣り堀場の水面に”―
善幸は、仲間意識を持たせるための布石を打とうと考えた。これがかなり厄介だった。
第五十三話
―市ヶ谷駅 “夜の釣り堀場の水面に”―
年間を通し、一番売り上げが落ちる二月に入った。
そんなある日、善幸は、趙兄弟二人と一人の職人に指示を出しながらランチの下拵えをしていると、崔が普段とは違う興奮気味の言い方で、
「倉持、おまえに言ったはずだぞ、自分で考案したランチメニューに関しては責任を持ってやれと。何度も言ってるじゃないか!」
善幸が無視していると更に、
「なんでおまえが人を使ってやってんだ、全部自分でやれ!」命令口調になった。
かなりご不満のようだ。
そんな崔に対し、善幸は冷静に対応した。
「俺が最初に提案したことと違って来ているからですよ。料理長が限定三十食って言ったの、忘れましたか?」
「屁理屈をこねるなっ!」
崔と善幸の会話では最近よくあるパターンなのだが、崔のキレるのがいつもより早かった。
「俺の考えたこのランチメニューは、今では五十食を優に超えてるんです。ホールスタッフが三十食じゃ少な過ぎるから増やしてくれ、と言ってきたんですよ。料理長に断りなくやってしまったことは謝りますが、けど、それがどうしたというんです? 店にとっては新たな人気メニューが誕生した訳ですよね。売り上げが上がって、経営者も喜んでくれていると思いますよ。それに、料理長も数が出てるのは分かってましたよね、毎日見てるんですから。俺一人でやらなきゃならない道理ってなんですか? 手が空いてる職人が手伝うのは当たり前のことです。違いますかね?」
「なんだ、その言い草はっ!」
「部下に対して、嫌がらせなどしてはいけない!」善幸はビシッと言ってやった。
しかし、めずらしくそれ以上のことは何も言わなかった。この言い方が成功したようだ。手前勝手な奴には、そいつの癖を習得し真似て言い返してやるのがセオリー。それ以後、この手法を使って崔が腹を立てている時の顔を見るのが一番の愉しみになってしまった。
ただ条件として、顔を崩さずに愉しまなければならない。これもまた乙なものだった。自分でも、真似れば真似るほど崔の十八番である詭弁や反論の仕方、また顔の表情までが似てきたような気がした。
崔のモノマネを終えた後、急に作業している音が厨房内に鳴り響くのは何故なのだろう。だが、こんなのは単なる悪ふざけに過ぎなかった。崔には頭突きを喰らわすつもりで行かなければ蹲るほどの痛みを感じやしないのだ。
だが、善幸が攻めようにも攻められないでいる訳は、〝崔の不正〟の使い方に悩んでいるからだった。拳銃に込めた“一発の銃弾”が見事急所に命中し、崔を店から追い出す役割を担ってくれないと困る。だから、逃げ場のなくなる壁際まで追い込みたい、善幸はそう考えていた。
一昨日、三ケ日オーナーから、明後日、自宅へ来てくれないかとの連絡が入った。電話を受けたのは美乃里。「翔龍」と店名だけしか名乗らなかったので、「どちら様ですか?」と訊き返してしまったらしい。どうやらオーナーは、自分と崔の休日を把握しているようだ。
オーナーとも暫く会っていなかった。善幸は、それを聞いた時、緊張するというよりズシリと重たい心持ちになった。
善幸は次の日に確認の電話を入れた。三ケ日オーナーは、「大田原会長と月影オーナーも会いたいと言ってるから四人で愉しく飲もうじゃないか」そんな意味あり気な言い様で、話を手短に済ませると電話を切った。
初めて会うことになる大田原会長と月影オーナー。三ケ日オーナーからの又聞きでしか図ることのできない人物像が頭に浮かんできた。
約束していたのは午後五時だった。善幸は、三ケ日オーナー宅にその十五分前に到着した。調理場での近況を報告しなければならないことが纏まらず、エントランスの前で立ち尽くしていると、五時になってしまった。否応なく、善幸は部屋番号のテンキ―を入力した。
最上階まで上がる。玄関ドアが開く。と、そこには緊張をほぐしてくれる奥さんの笑顔があった。広めの廊下を通り、リビングに通された。
ソファーに深々と座っていたオーナー三人が立ち上がった。再び緊張が走ったが、「あれ、どうした? 強張った顔して。来る途中で財布でも落としたのか?」と、初対面とは思えない接し方だった。恰幅の良いお爺さんがにこやかに迎え入れてくれた。
この人が大田原会長なのだろう。高らかに孫を持ち上げている姿が似合いそうだった。その図体にすっぽりと納まる月影オーナーが話を繋げた。
「それじゃあ〝就任祝い〟として、中身もたっぷりと入った新しい財布をプレゼントしなきゃならないねえ、倉持君」
就任? 何のことかと思ったけれど直ぐに解せた。時間の掛け過ぎではないか? と忠告されているようにも聞こえた。
二人とも想像していた通りの人たちだった。敢えて違いを言うとしたら、人当たりが思っていたより柔らかそうだということか。
「実は、これまで電話ボックスの上に三回財布を忘れたことがありまして、その内、二回交番に届けられていました。中身まであったのはその内の一つだけでしたが、免許証とクレジットカードはどっちの財布にも残っていたので助かりました。再発行って案外面倒臭いですから」
今度は三ケ日オーナーが、「三回かあ、ぎりぎりセーフか? じゃあ、仕事のしくじりは三回までとしよう」そう言うと、オーナー達が揃って笑った。
善幸のノリの良さが受けたようだ。
善幸にとっては初対面だと言うのに、親しい間柄であるかのような会話をしている。本来なら、最初に自己紹介を兼ねて挨拶をするべきところだった。
しかし、三ケ日オーナーが、それを打ち消すかのように「さあ、倉持君、座った座った」と言い、「あっ、はい」と言って座ってしまった。堅苦しい挨拶などいらないと言わんばかりの和やかな強引さを感じた。
善幸の緊張は速やかに寛ぎへと変わった。この後の話は、成り行きに任せた。
何種類もの高価な酒がテーブルに並べられ、それらが奥さんの手料理を引き立てていた。お蔭様で他愛もない会話が盛り上がった。仕事の話といえば、月影オーナーから序でのように出てきた「毎日大変だろうけど宜しく頼むよ、倉持君」の一言のみだった。五時間以上は居ただろうか。
帰り際に、大田原会長から「職場での悩み事や相談事があったら、いつでも言ってきていいんだよ」そう言われ、厨房で一人苦戦を強いられている立場からすれば、それはとても頼りがいのある一言だった。とうとう最後まで、自分からは何も発することなく、柔らかい毛布に包み込まれているようなもてなしを一方的に受けてしまったのだった。
帰り道は、四ツ谷駅へ向かうより市ヶ谷駅の方が近そうだ。善幸は、引っ切り無しに空車のタクシーが向かって来る通りを歩いている。春一番だろう、強い風が吹いていた。
今日は、別にどうってことはなかったのだ。ただの顔合わせ。懇親会のようなもの。フレンドリーに接してくれたオーナー達の様子から、善幸はそう思い込もうとした。
人気のいないホームで下りの電車を待っている……。時間を確認すると二十三時を回っていた。
確か……、そこは釣り堀場のはずだ。何が釣れるのだろうと考えてみる。昼間、電車の窓からみると、スーツ姿でウキを見つめている客を偶に見かけることがある。その人は明らかにサラリーマンだろう。仕事中だと言うのに、何がそうさせているのか。レンズを通して見れば、ホームドラマの主人公を思わせる情景だった。
ホームから見ている釣り堀場……。その水面上に敷かれた黒色の折り紙がめくられると、下からクシャクシャになった銀色の折り紙が現われた。どうやら突風が当たっているようだ。
暫くして、アナウンスが流れてきた。数分後、薄暗い駅のホームから眺めていたその光景が遮られた。
「あなた、行けるの? この前言ったわよね、塾の面談が三月の下旬にあるって。もう直ぐなんだけど。あと高二の夏休みに入る前にもあるのよ、七月の下旬に。両方とは言わないけど、どっちか行けない?」
「二回とも行くよ。ただ、土日以外でお願いしたいもんだな。じゃないと、休みが取りづらいからさ」
「大丈夫、その方が塾も都合がいいから。サラリーマン家庭って、土日がお休みじゃない、だから面談の希望者が多いのよ。平日だったら、あたしたちの希望の時間帯でやってくれると思うわ」
善幸は、ふと大学受験のことで麻子のことが頭に浮かんできた。
「さよりが高二になるってことは、大学受験を念頭に置いて勉強しなきゃいけないってことだよな。ところで、麻子って受験勉強してたっけ?」
「金沢大学受かったのよ、あの子。でも、受験勉強したって印象はないわね。お母さんも気にしてなかったし。塾にも通ってなかったわよ。お父さんだけは内心心配してたみたいだけど。あの子、もともと頭が良いのよ。勉強に限らず、何事も文句一つ言わないでいつの間にかやっちゃってるの」
「俺と違って、勉強するのが苦じゃないんだな。一度、とことん麻子と話をしてみたいもんだ」
「麻子は大学生になったんだから、今はさよりのことを考えてよ。それに、麻子と話している時間なんてあなたには無いでしょ。朝早く出てって遅く帰って来る毎日。時間に追われてるじゃない」
「もう慣れたよ。何度も言うけど、これって料理人の宿命なんだな」
そこは、この世界に入れば誰でも感じる諦めの境地だった。
「時間の余裕って、自分で手に入れるものじゃないの?」
美乃里の言いたいことは分かっていたが、そのことには触れないでおいた。
「まあさ、今の俺の楽しみといえば、さよりの成績表を見ることぐらいだろ、本人も段々良くなっていくのが愉しいみたいだし。三学期の成績も『はいっ、お父さん!』って、また自分から渡してくるんじゃないか?」
「さよりね、和泉くんと同じ大学へ行こうと頑張ってるみたい」
「へえ、仲良いんだな。成績は和泉くんの方が良かったんじゃなかったっけ?」
「その差は縮まって来てるそうよ」
「そう……。どっちかが落ちたってことにならなきゃいいけどな。落ちるなら二人いっぺんにバサッとやってほしいもんだ」
「な、何言い出すのよ、まったく! 親でしょ? 今から落ちる心配なんてする? 変な人っ」
「絶対なんかないんだよ、人生には……」
「いい~い、これから受かるための努力を二人はしていくの。二年後の宝くじの当選番号をじっと待ってるのと訳が違うのよ!」
「はあ? 二年後の宝くじねえ、俺の周りに、大当たりして悦んだっていう知り合いは居ないぞ。随分と縁起が悪そうな例えを出してきたもんだな」
「だったら、今の取り消すわ!」
毎度のことだが、話が噛み合わない。
「そりゃ俺だって、二人が合格することを願ってるんだよ。あたりまえだろっ」
美乃里は、納得したのか、呆れているのか分からない顔をしている――。
「ところで、塾の面談、行く気があるの、無いの、どっち?」苛立っていたようだ。
「曜日は月曜日か火曜日にしておいてくれないかな。面談が終わったら三人で飯でも食いに行くか?」
「あなたの話にいついていくのは大変だわ」
「いつまでも同じ話をしていられるかよ、料理が冷めちまう」
「なら、五人でどうかしら? というのはね、同じ日に面談しようって、和泉くんのお母さんと話してたのよ」
「いいねえ。じゃあさ、五人で食事することにしよう。愉しみだな。いい機会だから、さよりが将来何になりたいか、それとなく訊いてみるか。前から気になってたんだ」
「まだ決めてないと思うわよ。それより、ほら、あなたはあなたで具体的な計画を立てていかなきちゃいけないじゃない? 違うの?」
善幸は急かされていた。「実は、俺さ、自分の店を持つのはやめたんだよ」これを、いつ言い出せるのだろう……。
その前に、片付けておかなければならないことがあった。それが、善幸の胸に重く圧し掛かっていたのだ。
それは、先週三ケ日オーナー宅に呼ばれた時のこと。何気ない会話の中で、オーナー達の喉元で燻っていたあの時の言いたかったことが、今頃になってはっきりと聞こえてきた。「グズグズ何をしてるんだ? 早く行動を起こさんかっ、無駄な時間を費やしている場合じゃないだろ!」この口調が日に日に強くなっていく。昨夜なんか、床に入ると「早く、崔をやっちまえ!」とさえ聞こえてくる有り様だった。
さよりの模試での偏差値が六十を超えてきた。三月下旬に行った塾の面接では、さよりの担当である肇先生から「努力の成果が表れてますね。この勢いが持続できれば、どこの大学でも狙えますよ」と、思ってもみないお言葉をいただいた。
しかし、それを聞いても、さよりは平然としていた。それが大物然とした態度にも見え、この時ばかりは我が子は天才ではないが、秀才に違いない! と思えてしまったくらいだ。
今回の面談で、今はまだSクラスでも、高三になればその上のクラスへ行ける手応えを感じ取った。
担当の肇先生は、さよりの苦手な科目である数学を教えていた。勿論、本人次第ではあるのだが、きっとその成績も良くなっていくことだろう。先生を気に入らなければ、その科目の偏差値も良くなってはいかないものだ。初めて会った肇先生の印象はとてもよかった。これも何かの縁なのだろう。
受講生は思春期であるため、講師が、時には激しく揺れる感情をコントロールしながら、やる気を引き出すのは至難の業だと思う。これは、担当教科を教えることより、重労働なのではないだろうか。善幸は、塾講師と料理人との仕事上の共通点ってあるのではないかと考えてしまった。
そんなことを考えながら、善幸は、今、厨房でトントントントンッと、リズミカルに食材を切っている。
ここ最近、職場で崔から理不尽な扱いを受けることもなくなった。善幸としては、毎日が単調過ぎて〝苛立ち〟が常態化してしまうほどだった。
四月に入ってから、昼時にスーツ姿の若者が増えてきたように思われる。この近辺の会社の新入社員なのだろう。善幸は彼らを常連客にしなければならなかった。
毎年この時期は、人事異動による歓迎会で忙しくなる。そういった時にうちの店を利用してくれる常連さんに対し、感謝の気持ちを込めて提供する料理は、満足と驚きを兼ね備えた特別メニューでなければならない。それを考案するのは崔の仕事であり、彼の指示通りに仕上げるのが副料理長であるジンの仕事だった。
朝から、崔は所用のため外出していた。ジンが屈んだ状態で、段ボール箱の中をまじまじと見ている。手には新玉葱のようなものを握っていた。気に留めることもなく、善幸はその前を横切った。だが、それはこれまで扱ったことのない食材のようにも見えたので、仕事をしながらジンの様子を窺っていた。ジンが箱の中へ手を突っ込んだ。底の方から一つ取り出すと、北京語でぼそりと呟いた。何て言ったかは分からないが、手にしているものを指で何度も押していた。
善幸は近寄っていって、
「どうしたんですか?」と声を掛けた。
ジンは流暢に日本語が話せた。
「これ、関西では正月に使われるんだけど、あまり関東じゃ見かけないよな。知ってるだろ、百合根。日本料理やってたんだから」
当時、親方が年末に何度か和え物として使っていたのを善幸は覚えていた。その話しぶりから、ジンは関西で料理人として働いていた経験があるのではないかと思った。
善幸は、この店に来た当時から、ジンとは揉め事もなく円滑に仕事をしてきたが、面と向かって話をしたことはなかった。これまでの彼の仕事ぶりを見ていて、性格的に癖がないというか、上司が代わればその人に従うという何ともシンプルな考え方の持ち主のようだ。どこの店で働こうと、この優れた適応能力を備えていればトラブルを起こすこともないだろう。自分に対しても、特に悪い印象は持っていないように思えた。
ジンは、年齢は自分より五歳年上だが、彼なら店に残ってもらってもいいのではないか? 崔の首を切るのと同時に、職人を総入れ替えするなんてことは不可能だ。だから癖の無い、それでいて仕事に前向きに取り組む職人なら残ってもらいたいところだ。そう考えて行かなければ、人手不足が原因で、接客に支障をきたすことになる。
「倉持、返事ぐらいしろよ」
「あっ、えーと、前の店で何度か扱ったことはありますけど」
善幸も一つ手に取ってみた。
「もっと下の方から取ってみな」
善幸は、手をスコップのようにして、おが屑をどかしながら箱の底にあるものを取り出した。
「なんですかコレ、酷いな……。使い物にならない。でも、なんで百合根なんて使うことになったんですか?」
「料理長が俺に相談してきたんだ。今度の歓迎会で、単価の高いもので何か物珍しさをアピールできる食材はないかって。そこで、百合根はどうかって言ったんだよ。この時期なら単価もガクンと下がる。でも、そのことは客にはわからない。客は『ほう、百合根かあ、どんな味だったっけ……』なんて、物珍しく思わせるのには丁度いい食材だろ。それが店のグレードを上げることにも繋がると思ったわけだ」
「普段食べていない食材の味を、お客さんがこの店に来たことに因って、思い起こさせる的な感じですかね?」
「まあ、遠くはないけど、近くもねーな」ジンはそう言ってクスクスと笑った。
「俺、思うんですけど、いつも同じような料理を出してたら手抜きと同じですよね?」
「ああ、倉持は色々メニューを考えてくれるから、おまえが居なかったらこの店、どうなってたかわからないよな……」
ジンは、他の職人には聞こえないような声で話していた。
「ジンさんがそんなふうに思っててくれたなんて驚きですよ」
「俺はね、この店に来る前は、大阪に五年、京都に三年いたんだ」
「へえ、でなければ百合根なんか扱えないですよね」
「まあな。今月と来月に予約が入っている宴会には百合根を使う予定なんだけど、その調理法をいくつか考えてくれって料理長から言われてる。明日の歓迎会では、今日試作したものを出そうと思ってたんだけど、まあさ、百合根そのものはメインにはならないだろ、引き立て役としてはとても良い食材だけどな」
善幸はピーンと来てしまった。本来、単価の高い百合根のイメージを利用し、客単価を上げる。それで店側にも多少の利益を考えてあげるのだろうが、ほとんどは自分の懐に仕舞い込むという手口。食材の質を落とすことで、業者に対し極力単価を下げさせる仕入れ方法。この店には、上等なピンハネの常習犯である崔が潜在していたのだ。
「いつになく、真剣なんだよな、料理長。倉持がヒットメニューをバンバン出しているからじゃないか?」
「そうかもしれませんね」
遠慮なく同意させてもらった。しかし、ジンは、その真剣さがどこに向かっているのかを知らなかった。 (つづく)




