―絶対に渡ってはいけない危険な橋―
これまでに明らかになっていることとは、
1.善幸は、自分の店をオープンさせたということ。
2.オープン後、善幸は交通事故で亡くなるということ。
3.和泉はさよりの幼馴染みだった。
4.さよりと優史は高校2年の時に付き合いはじめ、高3の時に別れている。
5.美乃里の心臓はそのうち手術しなければならない。
上記のことから、推測できることとは――。実は、ここから推理に入っていきます。
ChatGPT4では解明できません。できるはずがないのです。はやり“人”でないと無理ということでしょうか。
第五十二話
―絶対に渡ってはいけない危険な橋―
そして、正月を迎えた。
善幸にとって、この四日間の正月休みというのはロングバケーションのように感じられた。
由紀子さんと義父は、年末に金沢へ行き、そのままおばあちゃんと麻子と四人で年を越した。義父とおばあちゃん、つまり息子と母親の関係だが、二人が会ったのは何年ぶりなのだろう。そう言えば、善幸も実家に帰っていなかった。実の母親と兄貴に十年以上会っていない。
それを気遣ってか、元旦に美乃里が毎年実家へ新年の挨拶の電話を入れてくれた。善幸はその受話器を受け取ると「元気にしてる? 母ちゃん……」、すると、母親は、やっと決まったらしい兄貴の結婚話を夢中になって話してきた。その聞いたことのない母親の声が心を和ませてくれた。父親が亡くなったのは一昔前。父親が生きていた当時の母親の気苦労が、漸く薄らいできたかのように思える。〝母親の幸せは、これからやって来る〟そう実感させられる瞬間でもあった。
正月恒例の『箱根駅伝』を見ているさよりは、選手の走り方、腕の振り方を注意深く見ていた。
「どっかに行きたかったんじゃないのか? さより」善幸が話し掛けた。
「別に。明日は和泉と……、三人で初詣に行く約束をしてるけど」
知らぬ間に、親とは一緒に行動しない年頃になっていた。考えてみれば、一緒に行動といっても、買い物、外食する以外したことがないに等しかった。
「そう言えば、最近、和泉くんと会ってないな」
「お父さん、これまで和泉と話らしい話もしたことがないのに、会わなきゃいけない理由なんてないでしょ?」
和泉……、高校生になると、男の子を呼び捨てで呼ぶようになるものなのか、善幸は世代間ギャップを感じた。
「いや、いいんだけどさ。ほら、お父さんが休みの時、和泉くんに夕飯を作ってあげてたじゃないか、その時『おじさん、とても美味しかったです』そう言ってくれたことが記憶に残ってるんだよ。口数の少ない男の子だけど気持ちがこもってる。暫く会ってなくても、和泉くんちからピーンと張った糸に乗っかって伝わって来るんだよ、『食べたいから、また作ってよ、おじさん』ってさ」
「和泉はそう思ってないかもよ。『とても美味しかったです』なんてさ、あたしでも友達の家で御馳走になれば言うよ」
「おまえって、お母さんに似てきたな、興ざめするわ~、和泉くんとは幼なじみの割にはその辺り、分かってないんじゃないか。でも、さよりは喋りまくりタイプだから、懐が暖かい和泉くんと丁度合ってるのかもしれないなあ」そう言い微笑んでみた。
「ちょっとお父さん、あのね、懐が暖かいって、お金がいっぱいあるって意味だけど?」
「お金も持ってるってことにしておいてくれよ、一々うるさいぞっ」
「お父さんのその頓珍漢で回りくどい言い方ってさ、あたしやお母さんは慣れてるけど、他の人には通用しないから気を付けようね」
何とも小生意気なさより。美乃里が話に入ってきた。
「さよりは傷つく年頃なんだから気を付けてよね、お父さんっ」
「傷付いてんのは俺の方だろうがよっ、何言ってんだ! おまえたちは、お父さんを悪者に仕立て上げるのが上手くなったな、勘弁勘弁……」
「それよりね、あなた、年末にふらっと行ってきたの。月一で買い物がてら行ってるんだけどね」
「どこへ?」
「あたしたちの想い出の商店街よ」
「ほおー、懐かしいな。以前、皆で焼肉喰いに行ったのが最後だったな。でも、あの時、誰とも会わなかったんじゃないか? この商店街に木枯らしでも吹いて、枯葉と一緒に皆どっかへ消えちゃったのかと思ったよ」
「あなたは行く機会がないからね。親方の店がね、取り壊されていたの。家主が亡くなったらしく持ち主が代わったんだって。クルミさんの話だと、ドラッグストアが入るっていってたわ。反対側の商店街にも大型店があるのにね」
「いつまでも空けておけないもんなあ。場所としては駅から一分。良い場所なんだけど」
「空いていたら? もしかして、あなた……」
今の段階で迂闊なことは言えない。『四川料理 翔龍』の料理長という選択肢が頭の中で固まっているからだ。善幸は話を逸らした。
「クルミ姉さんかあ、元気だった? もう幾つなんだよ。結婚しないのかな。花屋を一緒にやってくれるお婿さんなんていないってか? 当時はよくうちの店で、クルミ姉さんの親父さんと惣菜屋の親父さんと二人で飲みながら嘆いてたっけな。『婿さんがどっかに居ねえかなあ……。早くしねえとうちの娘の鮮度が落ちちまう!』ってさ」
「心配なのはわかるけど、父親って時々娘に残酷なことを言うのよね」
「直接本人に言っている訳じゃないから、いいんじゃないの。ああ、小菊ちゃんはどうしているんだろう……」
「小菊ちゃんね、一度お嫁に行ったのよ」
「えっ、一人娘なのに? というか、一度ってどういう意味?」ドキドキしてきた。
「でも、帰って来たの……二人の子供連れて」
「早く言えって、幸せになってほしかったのにさ……。太っちょだった小菊ちゃん……痩せちゃったんじゃないのかぁ?」この俺が幸せにしてやりたかったのに……などと善幸は考えてしまった。
しかし、美乃里はそれには答えず、
「続きがあるの……」
「勿体ぶらずに続けて言えって」
「……その後、お婿さんもらったのよ、小菊ちゃん」
「えええっ、じゃあ、今幸せってことでいいのか?」
「まあ、小菊ちゃんはね……」
「おい、じゃあ、不幸になっちまった娘が、あの商店街に居るってか? そんなの聞きたくないよっ」嫌な予感がしてきた。
当時の商店街通りの賑やかな光景が蘇って来た。残るは、ベーカリー【小麦の七不思議】を営んでいる一人娘のミカタか、隣のケーキ屋のさくらしかいなかった。さくらとは、外苑のイチョウ並木をデートした記憶が今でも鮮明に残っていた。
「そのことなんだけどさ、お父さん」
突然、さよりが口を挟んできた。当時のことは何も知らないはずなのに。しかし、話しはじめたのは美乃里だった。
「結婚するのよ、クルミさんが」
「なにっ、誰と?」
吃驚せずにはいられなかった。
「お隣の若旦那よ」事も無げに言った。
「ふざけるな!」
ふざけているのかいないかを確かめるため、二人の顔を交互に見てしまった。
二人とも何も言わないでいるので、
「ホントなのか?」再度確認した。
「最初聞いたときは、あたしも倒れそうになったわよ」
一瞬硬直した善幸の身体が骨抜き状態になった。
「考えて見りゃ、うーん……互いにいい歳だったんだな。二人とも理想が高いわけでもないのに、探しても誰もいなかったってことか。駅前商店街の隣り合ってる花屋と電気屋じゃ、商売上なんの関係性も見出せないのによ。肉屋と豆腐屋なら、給料の入る月末に店頭でさ『本日 すき焼きセットの特売びぃー』なんて仕掛けることができるのにな。サトシを愛してしまったクルミ姉さんかあ……。さっき喰ったカレーが逆流して来そうだよ、相性を一切無視してくっ付けちゃったんだ。世の中って残酷だよな……」
「そこまで言う? あなたには直接関係ない話でしょ!」
「親方の店に居た頃さ、クルミ姉さんは『てめぇよ、いつまでもぶらぶらしてないで早く就職しろ!』ってサトシのことを叱ってたんだぜっ」
「サトシさんのことになると手厳しいわね。あれから二十年近く経っているのよ。あなたは今の二人を知らないの。二人はお似合いなのよ。クルミさんね、花屋を閉めるんだって。今、店内を片付けてる最中なの」
「クルミ姉さんが、専業主婦になるってか? サトシって、いつの間にそんな甲斐性のある男になったんだよ、愕きだな」
「今、サトシさんと会ったら、別人と思うかもよ」
信じ難い、善幸は今すぐ会ってみたくなった。
「あの頃は、朝っぱらからビッグなことばかり言ってやがってさ、夜は栄ちゃんの歌が二階からよく聞こえて来てたのは、おまえも知ってるよな?」
「知ってるよ。夜の九時になると、結構ボリューム上げて歌ってたよね」
「飲んでた客が帰った頃に、俺が店先で一息ついてたら、『乗ってくれ ハァーハッ』なんて調子っぱずれの声が聞こえてきて、売れ残りの懐中電灯をマイク代わりにしてさ、胸を肌蹴て歌ってたっけか。不思議だったのは、髪型が間寛平型なんだよ。フォークソングじゃねーつーの。相変わらず頓馬でキメることの出来ねえ奴なんだよな」
「へえー、サトシさんって、永ちゃんのファンだったんだあ」
さよりは、サトシのことを美乃里から聞いて知ったようだ。
「さよりは矢沢の兄貴を知ってるのか?」
「和泉のお母さんが、カラオケでよく歌うんだよ。ドラマにも出たことがあるっていってた」
「でもな、サトシに栄ちゃんは似合わないんだ。その見苦しい姿を暫く見てたら、親方が店から出てきてさ、『何かあったか?』って聞くから、二階へ指を差したんだよ。そしたら『飽きねえもんだなあ……。ほっとけ、ベイビーッ』って、店の中へ入っちゃったよ」
「と言うことはよ、お父さん、最後までサトシさんのステージを見てたってこと?」さよりはサトシに興味を持ったのだろうか。
「懐中電灯を口元から勢いよく外す時にさ、手を窓枠にガチーンッ、その痛そうな面を見たかっただけだよ」
「激しそうだね、歌い方」
「飛ばしてるツバキが蛍光灯で光って、これがまた気色悪いんだ。傘でも差さねーと、通行人が奴のツバキと汗でビショビショになりそうで気の毒だったよ」
「商店街でのサトシさんの存在感って半端なかったんだね」
「まあな、さよりにも当時のサトシを見せてあげたかったよ。奴、ターンばっかりしてるから、畳が擦り切れてたんじゃねーのかな。そのまま一階に落ちりゃいいのにと思ってたよ。でも永ちゃんは、ジャニーズじゃあるまいしターンなんかしないよな」
「でも、最後まで見てたんでしょ? サトシさんって人を惹きつけるものを持ってるってことだね。さよりもそのステージ見てみたかったよ」
「残念だが、矢沢の兄貴と中村電器のサトシとの違いがさよりには分からないと思うよ。それは仕方がないけどさ」
善幸の鬱憤を鎮めるように、外から子供の笑い声が聞こえてきた。
「あなたは、昔のサトシさんしか知らないでしょ、今のサトシさんはね、看板の取り付けだけじゃなくて制作もやっているの。それは知ってるわよね。でも、クルミさんが手伝ってることは知らないんじゃない? クルミさんね、デザインを担当してるんだって。彼女、華道の先生の資格を持ってるし、ほら、花のスケッチもいっぱいお店に飾ってあったじゃない。絵が上手なのよ、クルミさん。それに、サトシさんは、一昨年から建築の電気工事も請け負ってるんだって。忙しい時は、店番しているお父さんも駆り出されるらしいわ。凄いでしょ?」
「と言うことは、あいつ、社長だってことか?」
「そう言うことになるわね。若い男の子を二人雇ってるみたいだし」
「あん畜生っ! 先を越されたな……」
調子に乗って話していた自分が小さく見えてきた。
「やる気になってきた?」と、美乃里。自分たちの店を持とうとしていた。
その資金を貯めるため、数年前から美乃里は涙ぐましい努力をしてきていたのだ。その努力は、日に日に増しているように感じられた。
「やる気って、何のやる気?」
そう訊いてきたさよりには、話の流れが分かるはずもなかった。
「何でもないのよ。そうそう、サトシさんね〝看板OK〟だって。それにね、応援してるぞ、頑張れ! って言ってた」
「はあ?」サトシが応援? 善幸は、安易にその気持ちを信用することはできなかった。
美乃里は、自分たちが店を持とうとしていることをサトシに話してしまったらしい。極力早く、遅くとも来月中には美乃里に話さなければならない。「実はね、オーナー達から料理長になってくれないかって頼まれたんだ、店を任せたいってね。この話、快く引き受けようと俺は思っている」と――。
ずっと夢に向かって、夢を実現させようと頑張ってきた美乃里……。しかし、オーナー達からのこの打診は、ガッカリさせるような話ではない。危険な吊り橋を渡るようなリスクなど無いのだ。決して失望するような話ではなかった。
ものには順序と言うものがある。今はまだ話す段階ではなかった。崔を辞めさせてからでないと、何をどう引っ繰り返えされてしまうか予断を許さない。善幸はそれを危惧していた。本来なら、とても自分の手に負えない存在である崔。慎重を期して行動しなければならなかった。
『四川料理 翔龍』の将来に向かっての店舗展開並びに多角的事業、范料理長の手紙に書いてあったそれらの事業戦略が、遅くとも一、二年後にはスタートすることになるだろう。そんな仕事に携わることができるなんて願ってもないことだった。手腕があるとかないとか、そんなことは言ってはいられない。やるっきゃない、こんなチャンスは二度と来ないのだ。善幸は、使命感に駆られていた。
美乃里は、湯呑を置くと頬づえし〝将来の夢〟を思いあぐねている善幸の顔を見つめていた……。
正月三が日が過ぎた。今日こそ、皆で親方のお墓参りと料理長の新規開店の祈願のため神田明神へ行かなくてはならない。予定では元旦に行くはずだった。家族三人が一つの部屋に居るのに、各々考えることが違う所為か「行かないの?」との声は聞こえてこなかった。
さよりは、突然言われても困る、今日、友達と約束があるから行けない、と言う。仕方なく、美乃里と二人で行くことにした。
お墓の花立てには、正月らしい松に千両の真っ赤な実と大きな黄色と白の菊の花が生けてあった。何とも見事な生け方だ。
「誰か来てるわね……」と美乃里。
二人は、持ってきた花を隙間に射し込んでみた。
「どうもバランスが変だなあ、どうしようか?」善幸が訊いた。
美乃里は、自分たちが刺した花を引き抜きはじめた。
「元旦に来なければいけなかったんだよ。元旦に来れば、会えたかもしれない……」
「誰にだよ」
「わからないの? この生け方でわからなきゃ」
この一言で分かった。
「クルミ姉さんかあ……」
「だけじゃないと思うよ、〝応援者〟も一緒に来てる……」
善幸は、いきなりあの頃に引き戻されてしまった。あの二人は夫婦になったんだ、善幸にはどうもその事実が受け入れづらくて仕方がなかった。
「クルミさんが言ってたけど、サトシさんね、仕事の悩みを相談するために、しょっちゅう悠さんに電話してたらしいの。悠さんから色々とアドバイスをもらってたんだってさ。もうクルミさんには悩みを打ち明けなくなったらしく、寂しがってたよ」
「サトシがそれだけ成長したってことか。そうなら、会ってみたかったな。ほんとかどうかを確かめるためにだけど……」
善幸は、サトシに対してまだ蟠りを抱いていた。美乃里はそんな態度に、呼吸序での溜息を付いた。
掃除するまでもない墓石を真っ白なタオルで拭き終わった後、美乃里は屈んでお線香に火をつけた。
二人は手を合わせた。目を瞑って墓碑を見続けていると、親方の姿が浮かび上がってきた。
善幸は報告と願いを口にした。
「親方、料理長がね、香港で自分の店を今年の十一月にオープンするそうです。勿論、繁盛店間違いなしですから、親方も心配はしていませんよね。心配なのは、料理長の身体です。無理しちゃいそうで怖いんですよ、俺……。だから、大病しないようにしっかりと見守ってあげてください」
美乃里は、まだ手を合わせている。目を開けたままで……。 (つづく)




