―范悠の胸の内―(意識の覚醒)
“そうは行かない”から始まること。
第五十一話
―范悠の胸の内―(意識の覚醒)
善幸は考えてしまった。料理長とは、電話で「俺も自分の店、持ちますから!」と話している。料理長も催促するように「いつから準備に取り掛かるんだ?」と訊いてきた。あれはどういうつもりだったのだろうかと……。
「我々は、范さんを信頼している。彼は料理人としてだけじゃなく、店舗のプロデューサーとしても凄腕だと思っているんだ。崔料理長には、倉持君の指揮体制が出来次第、うちの店を辞めてもらうつもりでいる。このことは、大田原さんも月影さんも了承済みなんだよ。普段口を出さないオーナーだからといって、潰れるのを待っているような愚かな経営者なんていやしない。我々は、決断したら即断行する。迷わないんだ。あとは、君がどう考えるか、なんだが」
オーナーサイドで、そこまで突っ込んだ話し合いがされていたとは愕きだった。
さよりが大学生になったら自分の店を持とうと考えていた。頭の中が混乱してきてしまった。善幸は「暫く考えさせてください」とだけ言ってオーナー宅を出た。
ガラスが真っ二つに割れるように正面玄関の扉が開いた。善幸は自転車に跨り走り出した。
向こうの紺青色の空に、避雷針が何本も突き刺さっている光景がみえる。放心状態の善幸は、ペダルを回転させながら料理長の手紙の内容を思い返していた――。
料理長は、俺を『四川料理 翔龍』の料理長にさせようと考えていたのだ。手紙の内容から、何が何でもそうさせたいという本気度が伝わってきた。
しかし、この仕事場には、もう仲間は一人もいない。こんな状況でありながら、俺が調理長まで上り詰めることなど出来るのだろうか? オーナー達の一存で“交代だ”、“おまえは辞めろ”などと決断した後、調理場の運営が差し障りなく進んで行くとは思えなかった。どんな小さな組織でも、経営者側の独断により、個人が被る損失が大きい場合には特に、大義名分とやらが必要になってくるはず。それが明確でない下で、崔をどうやって辞めさせることができるのだろう……。えっ、俺の部下に崔ってか? いくらなんでも、それは彼のプライドが許さないはずだ。この場合は、彼は辞めざるを得なくなるだろう。
料理長は、崔の不正をオーナー達には話していなかった。今後も話さないと思われた。料理長にとってみれば些細なことだったのだろうか。だが、料理長は香港へ帰った後の崔を知らない。崔が、再びあれやこれやと不正をやらかしてるとは思ってない。以前から、それを伝えるべきかどうかを悩んでいたが、厨房内のゴタゴタはもう料理長には関係のないこと。面倒を掛けさせたくはなかった。
善幸は、自分しか知らないこと故、経営者と従業員にとって最良の解決策を考えなければならない立場になってしまった。
突然、一石二鳥のやり方が思い立った。善幸は、思わず青信号でブレーキを踏んでしまった。
それは、この数多な崔の不正を利用して脅しながら自ら店を辞めていくというやり方だ。潮合いとしても当に今なのだ。そう考えると、これまで崔から受けた仕打ちなんぞ、屁の河童だと思えてきた。
けれど、オーナーサイドに崔の不正を隠したまま、上手く辞めさせることが果たしてできるのだろうか。それが失敗に終わった時、自分の立場も危うくなる。「倉持、なぜもっと早く言わなかったんだ! なぜ不正を隠してた! それは裏切りだぞっ!」そう言われても仕方のないことだった。
また、それを告げるにしても、そのタイミングが難しそうだ。その時期と手順に因っては一波乱起きかねない。実際、オーナーサイドに告げなければならない相応な時間はとっくに過ぎていた。どうしたらいいものか……と、再び善幸は悩みはじめた。
走り出すと、一旦その問題は保留にし、今度は自分が料理長になったケースのことを考えてみる。先ず、生活していくのに十分な収入を得ることができる。と言うことは、二十三区内に戸建ての家を持つことができるかもしれないということ。また仕事面では、既存店の収益だけではなく、目先の店舗展開や他の新事業にも、そのブレーンとして参画できるのではないか。個人店とは違い、何十倍もスケールの大きい仕事に携わることができる。その面白味は格段に違ってくるはずだ。
仕事の遣り甲斐も重要な要素の一つではあるけれど、決め手になるポイントはまだあった。それは、大きな金銭的リスクがないということと、オーナーが良い人達ばかりだということ。職人も自分の判断で雇い入れることができるだろうから、自分の理想とする体制作りがしやすくなる。
善幸は、興味と面白味を抱きながら仕事している自身の姿が頭の中に浮かんできた。自分次第ではあるものの料理長という責任のある役職、俺ならやってやれないことはないと思えてきた。
夢ではないだろうか、と疑ってしまうような話だった。ほとんど他力に因るものではあるけれど……うん? これって勿怪の幸いってやつなのか? もし本当にそうであるなら、美乃里の心臓の手術をなんの不安もなく受けさせることができるし、さよりの大学進学の費用の心配もなくなる。なんとも、願ったり叶ったりの好条件の話だった。
「倉持を料理長にさせたい」、と范料理長がオーナー宛に書いた手紙は、偏に店のことというより自分の将来を見据えてのことだったに違いなかった。
一方、都内で、個人が店をオープンさせることは人生を掛けた勝負事。それは重々承知していた。今回のこの手紙で、はっきりしたこととは(善幸が店を持つことなど不可能だ、やっても失敗する可能性が高い)料理長はそう踏んでいたということ。もし、出店して失敗したら……家族はどうなってしまうのか。だから、こっちの道を選択しなければならないと暗に言いたかったのだろう。
このように考えれば、すべての辻褄が合う。実際、そうすることが正解なのだろう。しかし善幸としては不満を感じた。それどころか腹立たしくさえあった。どうして、本人に何の相談もなく、この話をオーナーに話してしまったのか、これに関しては疑問を抱かずにはいられなかった。
右へ曲がると、下って来た坂を今度は上って行かなくてはならない。行きはよいよい帰りは辛いの百メーター以上はある上り坂だった。善幸は頂上へ向かって強くペダルを踏み込んだ。
翌朝、善幸は、いつものように調理服に着替えて厨房へいくと、遅い夏季休暇を取っている崔が、例の如く腕を組んで予定表を眺めていた。確か、奴の夏季休暇は明日までだったはずだ。厨房の壁に掛かっている薄汚れた円形の時計は、七時四十五分を示していた。
「おはようございます。国へ帰られてたんですか?」善幸は、普段なら付け加えない一言を添えて挨拶した。
「え? ああ、まあな……。ところで倉持、言い忘れてたことがあったんだ。俺が休みを取る前日に、三ケ日オーナーから鯵の南蛮漬けを頼まれていたんだよ。明日にでも届けてくれないか。遅れてしまったことを謝っておいてくれ」
「その件でしたら、三ケ日オーナーから、料理長が休みを取っている間に催促の電話がありました。早く持ってくるように言われたので、届けておきましたけど……」
予定表を確認している崔は、それを聞くと怪訝そうな顔になり、ちらっと善幸の顔を見た。「ならいいが……」そう言うと、また予定表に目をやった。
善幸は、他の職人に挨拶することも無く、またされることも無く下拵えをはじめた。
やる仕事は昨日と変わらない。だが、明らかに違うことがあった。それは晴々とした気分である。気持ちを押し殺し、手足を動かしているだけの日々が一変したのだ。今日の和包丁の切れ味はいつになく心地よかった。
善幸は、崔に対し、他の職人にも聞こえるような声で言った。
「料理長、新しい昼のメニューを考えたので、これから三十食限定の下拵えをはじめていいですか? 来週のランチに間に合わせたいので。少しはメニューを変えていかないと、お客さんが飽きちゃうじゃないですか」
「聞いてないぞ、そんなこと。いきなり何言ってんだ。おまえは、時々勝手なことを言い出すよな!」
「料理長が休みだったので、三ケ日オーナーに試食してもらったんです。この料理の許可は得ていますが」
試食なんかしてもらっていなかった。善幸は電話で了解を取っただけ。倉持君がやりたいと思ったら遠慮なく進めて構わない、そう三ケ日オーナーから言われていた。
崔の不機嫌な顔が深まっていく。
善幸は、何食わぬ顔して崔の出方を待った。
「その代りだ、以前にも言ったが、全責任はおまえが取れ。それと、おまえ一人でやれ、もう泣き言なんかは許さんぞっ、分かったか?」
「勿論です!」
前回のように崔の罠にハマるようなことはやらない。だから、三十食限定にしたのだ。これなら一人でも難なくこなせる。担当だった昼の人気メニューの生姜焼き定食は、とっくに他の職人が作れるようになっていた。逆に、煩わしいことが無くなり清々していた時だった。
仕事は自分で作っていくもの、忘れ掛けていた范料理長の言葉が鮮明に甦ってきた。死んだふりなどしてはいられない。噛みつかれたら、まだ使ったことのない尖った牙で、辺り構わず噛みついてやるのだ。
善幸の頭は冴えわたっていた。たった一日で、淡白な旬の魚と癖のある青魚を香草とスパイスと西京味噌で仕上げるメニューを考案した。
最近、和食はヘルシーで人気が高かった。善幸は、そのブームに乗ろうと考えたのだ。一見和食のようだが、そこは徒じゃ済ませない工夫を施した。
ランチでは、客に腹いっぱい食わせてはいけない。サラリーマンは、午後からの仕事が待っているので、腹いっぱい食おうなどと思っていないだろう。ランチって、店の味を印象付けるのには絶好の機会、それも味覚というのは最初の一口で勝負が決まってしまうものだった。
善幸の崔に対する見方が変わってから、崔はイラついた様子で厨房内を歩き回るようになり、これまで任せっ切りだった定番メニューの盛り付け方一つに指図を出すようになった。
善幸は、崔の存在など気にせず、マイペースで仕事をこなしていった。時には、辞めた猪之良と鈴木の人材補填として入ってきた趙兄弟を、俄かに使ってやろうと考えながら――。
「そこの趙兄弟っ、手が空いてるなら、ちょっと手伝ってくれっ」善幸が切れの良い指示を出した。
この二人に何かを頼むなんてことは此の方一度もなかった。けれど、指示を出したとしてもおかしくはないのだ。なぜなら、年齢は下でも善幸の方が上司であるからだ。
生意気な弟の方がどんな態度を取ってくるかが見ものだった。
ゆっくりと弟が近寄って来た。
「ハ? テツダッテクレ? オマエヲテツダウコトッテ、ナニ?」
理解はできるが、いまいちよく分からない日本語で話し掛けてきたので、
「おのよ、中国では上司のことを〝オマエ〟という言い方をしているのか? 何か不満がありそうだな? オマエサン」
弟が舌打ちでもしたかのような面構えで「フマン?」
「ないのか? おまえはいつもそんな顔をしてるから分かんないんだよ。それとも生まれつきか? その面を見てるだけで腹が立ってくる。おい、兄貴の方、弟の言いたいことを代わりに言ってくれないか、弟より日本語が上手いんだからさ」
善幸は職人たちの視線を浴びてしまった。辺りは、様変わりした善幸の態度に動揺しているようだ。
物静かな兄貴は、何も言わず、近づいていった弟の腕を掴んで遠ざけた。
善幸は、崔が偶々厨房に居なかったという理由で、こんな態度をとったわけではなかった。三ケ日オーナー宅へ行ったあの日から、使い勝手の良い料理職人という役割を捨てたのだ。思ったことは口にする。違うと思ったら、他の職人に対してだけじゃなく崔に対しても、ずけずけと物を言うことに決めた。なんせ、オーナー三人が味方についているのだから〝束になって掛かってこい!〟そんな気持ちがたぎっていた。
だが、露骨にそれを態度に現わすと、崔は想像の付かない策略を図りかねない。これは非常に危険だと感じた。
そこで、崔以外の職人に対しては、突っ慳貪な態度は控えるようにした。またオーナー達との親密な関係も、崔に気づかれてはならないとの思いを新たにした。それ以来、善幸は崔の日々の行動を注意深くチェックするようになった。
だが、ある日、崔に勘付かれてしまった。
「おい、倉持、なんでこっちばかり見てんだ?」
それには何の反応も示さず、視線を手許に戻した。詰めの段階に入ろうとしているのに、もたもたしてはいられない。この先、スピーディに倉持体制へと移行していくためには、有無を言わさず崔をスパッと辞めさせるタイミングを計りながら、残してもいい職人の見極めと、辞めさせる職人の補填も同時に考えていかなければならなかった。
思い悩んでいるうちに、早くも師走に入った。クリスマスや忘年会の夜の部の予約で、あっという間に二週間先まで埋まってしまった。焦りと忙しさから善幸の頭の中は混乱していた。
通常、腕組みをし職人の作業を視ている崔でさえ、母国の言葉を発しながら鍋を振っていた。作業中の善幸の監視も疎かになっているみたいだった。
善幸は、既にこの店で料理長としてやっていく決意を三ケ日オーナーに伝えていた。その決断に時間は要しなかった。范料理長が自分のために敷いてくれたレールなのだから、異存などあるはずもない。
しかし、善幸は決意したその日から一月以上経っているというのにオーナーサイドに何の連絡も入れていなかった。どのように体制を整えて行けばいいのか、その大雑把な計画さえ伝えていなかったのだ。
連絡をしないまま時間だけが過ぎて行った。(もしかしたら、気持ちが揺らいでいるのか?)そう思われてやしないかと気が気ではなかった。 (つづく)




