―范悠から三ケ日オーナーへの手紙―
よーし
第五十話
―范悠から三ケ日オーナーへの手紙―
平成九年七月十六日
三ケ日オーナー 様
拝啓 この便りが着く頃は、梅雨が明けている頃合いでしょうか。香港と言えば、ご存知の通り、ホテル、飲食店、地下鉄等でパワフルに効かす冷房と、そこから一歩出た時の蒸し上げるような外気との温度湿度差に、私は未だに身体が適応できないでいます。その緩んだ身体へ、夕立が雷を伴い叱ってくれているようです。香港とは、そんな夕立の心地良さを感じさせてくれるところでもあります。
皆様、お変わりありませんか。最後にお会いしてからもう三年の歳月が過ぎてしまいました。先月、月影オーナーから頂いた電話では、一線を退いたにも拘らず、意気軒昂たる大田原会長のその後の仕事ぶりには敬服せずにはいられませんでした。色々と懐かしい話をしていたら、あっという間に一時間が経過してしまったくらいです。
普段は用件を簡易的に電話で済ませてしまう無精者の私が、今回、突然改まるように不慣れな手紙を書こうと思い立ったのは他でもありません。
以前より、私と義父とで計画していた出店が、漸く来年の十一月にオープンできる運びとなりました。当初、お伝えしていた出店時期からすれば、大幅に遅れてのオープンとなるわけですが、私共は却って良かったのではないかと思っております。
なぜなら、準備期間が長かった所為もあって、希望通りの店舗を見つけることができた上、その間、知り合いになった水道や電気の設備屋さん、及び友人から紹介してもらった内装屋さんに工事を依頼することができたので、出店費用を大幅に抑えることができたからです。
現在、店舗設計を粛々と進めている段階です。年明け、既存店が閉店するのと同時に内装の解体に入ります。その後、すぐに工事に取り掛かる予定です。来年の十一月のオープンまで十分な時間がありますので、焦ることなく慎重に計画を進めることができるのではないかと思っております。愉しみにしていて下さい。
今考えてみれば、私が『四川料理 翔龍』の店に料理長として就任した早々、オーナーの皆様に碌に相談もせず、無茶な改装工事をやってしまったことが、何ということでしょう、今回とても役に立ってしまいました。将来自分の店を持つために“試しにやってみっか!”などと、冗談半分に思ってやったわけではありませんので勘違いなさらぬようお願い致します。
それにしても当時、その奇抜な改装に、渋い顔をしていた大田原オーナー、困惑顔の月影オーナーでしたが、私には〝ある画策〟があり、結果オーライなら何でも許されると勝手に解釈し、強引に遂行していきました。経営者側としてはハラハラドキドキの連続だったのではないでしょうか。
オーナーの皆様には、余計な金銭的負担と多大なるご心労をお掛けした訳で、今更ながら申し訳なく思っております。
破天荒ながらも、私が調理部門以外に携わってきた店の運営、そこで得た大切なものとは、形に現れやしない料理人たちの本心からの同調でした。それを束ねれば、効果は随所に如実に表れてきます。
私は、その必要性を実感しました。その他にも、『四川料理 翔龍』でしか得られないであろう貴重な体験は、今回の店の運営に欠かせないものになりそうです。これらの経験を生かさせて頂き、念願だった自分たちの店を来年オープンさせるつもりでいます。
中々、面と向かって御礼を述べるのは照れくさいもので言いそびれてきましたが、遅ればせながら皆様に感謝を申し上げる次第です。
ここでもう一つ、僭越ながら、お話ししなければならないことがあります。
それは、唐突ではありますが、将来を考えての『四川料理 翔龍』の店舗展開です。安定した経営体制の構築を視野に入れた発展を考える時期ではないかと思った次第です。
ある程度の店舗数を確保するということは、食材の仕入れの交渉力が上がりますし、展開していく店舗の立地条件を半径十キロ圏内とすれば、咄嗟の客対応として、店から店への職人の移動もスムーズに出来ますし、年間の客入りのばらつき状況を鑑みながらの職人配置も容易に行うことができると思います。
また、店舗展開することにより、店舗名の認知度も高まり、特定の客層を取り込む機会も増えていきます。難なく売り上げを伸ばしながら、持続的な成長を成し遂げることが可能となるのではないでしょうか。
とっとと店を去って行った者が、突然何を言い出すのかと不信感を抱かれるのを承知の上で、差し出がましいことを言わせて頂きました。
現在、崔料理長の指揮命令下で店の運営が成されていることと思います。私の辞職後の店の売り上げは、私が料理長として働いていた以前の、つまり崔調理長だった頃に逆戻りしたと月影オーナーからお聞きしました。大田原オーナーが意味あり気な顔で、どうにかしないと駄目だなあ……と仰っていたこともお聞きしています。
そこで、三ケ日オーナーにもお聞きしたい。このままでいいのか、と。
私は、香港に戻ってから、自分たちの店をオープンさせることで精一杯でした。年に二、三度、倉持に直接電話で店の状況を訊くことはありましたが、彼の返事はいつも「特に問題はありません」の一言だけでした。繰り返し訊いても、なんの反応も示さないことが却って、何かあるんじゃないか、と去年辺りから思いはじめたのです。
先日の電話で月影オーナーから、私が居た頃に雇った猪之良と鈴木は辞めてしまったことを知らされました。別に隠していた訳ではないと仰っていましたが、その翌年には郷原も辞めたと聞かされたときには、一人残った倉持は今どうしているのかと、私は憂いを抱いてしまいました。倉持という活きの良い料理職人が息の根を止められてしまったのではないかと心配になってしまったのです。そこに、個人的な感情を持ち込んでいるのを否定するつもりはありません。しかし、それだけで言っているのではなく、『四川 料理翔龍』の将来にとっても大きな損失だと思ったのです。
倉持は、もう年齢的にも調理場を仕切れる料理人になっているはずです。それに、ここが肝所なのですが、彼は信頼できる人間だということです。このことは、三ケ日オーナーも承知しているはずです。私が、職人の中でも当初から目を掛けていたのは倉持です。周りの職人たちから、特別扱いをしていると思われていたのは承知の上でした。しかし、これがいずれ『四川料理 翔龍』にとってきっと良い結果を生み出す、そんな自信が私にはあったのです。大袈裟に言えば、職場の積極的な意識改革の実行。しかし、それは結果的に失敗に終わったようです。その責任は、中途半端な状態で店を去って行った私にあると痛感しています。本来ならば、このような状況になる前に手を打たなければならなかった、遅すぎる、と言われれば返す言葉もありません。ですが、このままで良いはずがない。手遅れにならないうちに、仕切り直しの改革を断行させたい、私はそんな焦りを感じたのです。
今後、現体制をどのようにリセットさせ、成長性があり安定した新たな体制を如何に築き上げていくのか。そのためには多少時間が掛かってしまうことは了承して頂きたい。すぐに変えようとすると、リスクがあるというより、実利の面で大きな損失が出てしまうと思うからです。また、現在働いている職人を一人一人篩分けるような細々しいやり方では、時間が幾らあっても足りません。料理人は、残念ながら、食材を扱うようにはいかないようです。
経営者各位を筆頭に、現場での統括責任者として倉持を、そしてその間に私を据えて頂き、この寡頭体制で店を立て直したい、このように考えた次第です。
私は、その第一歩を、抜け殻となってしまった倉持の気力を取り戻すことからはじめなければならないと考えています。一刻も早く倉持が現場を仕切れるようになり、且つ経営者側との距離を縮め、意思疎通が速やかに行われることを望んでいます。
海を渡ったところに居る私では、統制しようにも限界がありますし、倉持が早く立ち直り本領を発揮するようになれば、次第に私の力など不要となるでしょう。
走りはじめれば、意外と早くその体制を作り上げることができるのではないかと思っています。
懸念は、そのタイミングを逸してしまうこと、倉持を生かすことが出来なくなるということです。そのリミットは、一、二年でしょうか。そこのところを、ご考慮頂けたら幸甚に存じます。
以上、無遠慮に申し上げて参りましたが、この件に付きまして、オーナー皆様方の胸中をお聞かせ願えれば、私としては、そのご意向に沿う形で労を惜しまず協力させていただく所存です。
末筆ながら、お伺いする度に睦まじく温かいお声を掛けて下さった奥様に宜しくお伝えください。
ご壮健にて、この暑さを乗り越えられますようお祈り申し上げます。 敬 具
范 悠
黙然と手紙を読み終えた善幸。顔を上げ、三ケ日オーナーを見ている。読み終えるまで、微動だにしなかったオーナーが先に話しはじめた。
「本当はね、我々としては、この手紙を倉持君に見せるのはまだやめておこうと思ったんだが、呑気なことも言ってられないということになってね……」
オーナーは、手紙の感想を聞きたがっているようだ。
善幸はこう述べた。
「范料理長が私のことをどのように考えていてくれたのか、今、それが分かって愕いています。『四川料理 翔龍』の料理長をこの私にさせたい、范料理長はそう言ってくれているんですよね?」
「大田原さんと月影さんは、范さんのこの提案に賛成してくれた。勿論私もね。問題は、倉持君に話を持ち掛けるタイミングだった。それで、崔さんの夏季休暇の間に話すのが良いんじゃないかってことになったんだよ。次に、この話を誰が倉持君に話すかを相談してたんだ。最終的に、私に白羽の矢が立ってね。大田原さんじゃ、身構えちゃうだろ? 月影さんじゃ話が小難しくなってしまう。三人揃ってじゃ、倉持君も気おくれして話がし辛いだろうしね」オーナーが笑っている。
「はあ……」
「手紙を読んで感じたよ。倉持君は范さんの実弟同然。いや、それ以上かな。強い絆で結ばれているんだね。その信頼関係は度が過ぎるんじゃないのかい?」笑みを浮かべながら呆れた顔をしている。
強い絆……。言うまでもなく、自分でも感じていた。 (つづく)




