―美乃里の心臓と開業資金―
第四十八話
―美乃里の心臓と開業資金―
善幸は、翌日、仕事から帰って来くると、さよりが自分の部屋へ入りラジオを聞き始めるのを待った。ラジオから、ズンチャッチャ、ズンチャ、ズンチャ、ドドドドドッ、フォーッとのロックのうるさい音が消えた。ヘッドホンを被ったようだ。
善幸としては、現在の金銭面のことは知っておかないと出店計画を練ることはできない。もたもたしている場合ではなかった。
善幸が、台所で片付けをしている美乃里に話を持ち掛けた。その前に、先ず聞いておかなくてはならないことがあった。
「おまえさ、最近、身体の調子はどうなんだ?」
「先々月、病院へ行って来たわよ」
「それで?」
「急にどうしたの?」
美乃里がこう訊き返すのも当然だった。ここしばらく、胸の痛みや息切れがないかを訊いたことがなかったからだ。異常があれば、本人から話してくるだろうし、さよりの心配する様子からも窺えると思っていた。
「どうって、心配だから訊いてるんだよ。医者は何て言ってるんだ?」
「変わりないってよ」
善幸は、一先ず安堵した。
「そうかあ。でも、いずれ手術しなきゃいけないんだから、その時期がいつ頃になるのか知っておこうと思ってさ」
「大丈夫、心配しないで」
「ならいいんだけど……。じゃあ、あと四、五年は大丈夫そうかなあ?」と、希望的観測を言ったら、美乃里はニコッとしてくれた。
「おまえたちが旅行に行っている間にね、料理長から電話が掛かってきたんだよ。話すの久しぶりだったな。料理長さ、来年の十一月に店をオープンするって言ってた。当初の計画より二年も早まったんだってよ」
「そうなんだあ、きっと香港で良い評判が立つ店になるでしょうね。間違いないと思う」
「旅行会社とタイアップして、海外からの観光客を引っ張って来るらしい。そこまでしなくてもお客さんは来てくれると思うけどな。香港ってさ、どこ行っても観光客で込み合っていそうなイメージがあるから」
「それで? あなたは? あなたはどうするの? いつか、自分の店を持ちたいって言ってたじゃない。この前の話だと、あと五年後だとか……」
愕いてしまった。美乃里もそのつもりでいたようだ。遠からず、俺が行動を起こすだろうと――。その時期を待っていたのだ。
「それでなんだけど……。金が必要だよな、ぶっちゃけ。今現在開店資金として使える金はいくらぐらいあるの?」そおっと訊いてみた。
すると、
「そうよね、資金計画を立てないとね。お金がないと店なんか持つことは出来ないもん。あたしね、言ってなかったんけど、医療事務の仕事をしているの。病院の忙しい時間帯だけだけど。さよりが中学に入ってからはじめたのよ。折角、お父さんが医療事務の専門学校へ行かせてくれたんだから、それを生かさないと勿体無いし申し訳ないじゃない。今あるお金はね~、一千二百万円。あと、どのくらい必要なの?」
その金額は、善幸を驚かせた。お礼を言いたいぐらいだった。
善幸は冷静さを保ち「俺さ、自分の店を持ちたいと安易に思ってただけで、金のこともおまえの身体のことも、さよりのことも真剣に考えてなかったんだな……」
「今の仕事で精一杯なのは分かってた。さよりもあなたの身体のこと、とても心配してるの。本当はね、さより、お父さんは運動会に来てくれなくてもいいと思ってるのよ。偶に、お父さんと遊びの喧嘩がしたかっただけだと思う……」
美乃里は、責任を感じている善幸に優しく接してくれていた。
「そんなことはないよ、さよりは来てほしかったのさ。俺も行こうと思えば一度くらいは行けたんだ」
「さよりはもう高校一年生。さよりの成長に関してだけは、お父さんの時計は止まってるみたいね」
「止まっててほしかったよ、出来ることなら後三年間……」
美乃里は、整理ダンスの上に四つ目の写真立てを追加した。
「見て、今回の旅行に行って撮ってきた写真よ。おばあちゃんと麻子。元気そうでしょ?」
立ち上がって、善幸はその写真立てを手にした。
「おお、染めたような白髪、とても綺麗だな。お父さんを育てた母親かあ……。でも、似てないなあ?」
「そうかなあ……」と、美乃里はわざとらしく首を左右に振っている。
「麻子ね、おばあちゃんの耳元で、あなたのことを一生懸命話してた。おばあちゃんね、それを聞いて、お店に行ってあなたの作った料理を食べてみたくなったって」
「俺がおばあちゃんに食べさせる料理なんて、今の店にはないんだ。もう少し待つように言っといてくれよ。自分の店がオープンしたとき、お父さんと由紀子さんも呼んで、皆に鱈腹食べさせてあげるからさ!」
一瞬、美乃里は首を傾げたが、「うんっ」と元気な返事をしてくれた。
善幸は、まだ手にしている写真を見ていた。
「金沢と東京かあ、距離なんか関係ねーんだよな、二人の表情を見ているとそう感じてしまうよ。麻子とおばあちゃんの血は繋がっているんだ。その間に、お父さんがいるんだよ。おまえもいるわけだし。皆、血が繋がってるんだっ」善幸は力強く言った。
しかし、
「それは違うと思う。〝家族というものは血縁関係にあるもの〟そう思ってない? あたしたちが羨ましがってる、あなたはそう思ってるんじゃない? でも、それって違うの。あたしたちはね、そんなこと、どうでもいいと思ってるのよ」
「なんだよ、その言い方。何にも分かっちゃいない、そう言われているように聞こえたぞ。俺を馬鹿にしているようなさあー」
「怒った?」
「何言ってんだか分からないのに怒れねえよ。おまえって、時々意味不明なこと言うよな、超現実的なのによ」
善幸は手にしている写真立てを置き、座卓を挟んで互いに向かい合った。
「それより、あたしたちの将来のことを考えましょう。親方があたしたちのことを心配しているかもよ。天国にも行けずに文句言ってるんじゃない、『善幸、自分の店を持つんじゃなかったのか?』って。あなたは中々口には出さないけど、それが本来の目的。夢を現実にするんじゃなかったの?」
美乃里は、その準備をしてくれていたのだ。でなければ、一千二百万円も貯まっているはずがなかった。
話しの途中、声のトーンが上がってしまった所為で、善幸はさよりに聞こえているのではないかと気になった。部屋から出て来ないところを見ると、最近ハマっている騒がしいロックを聞きながら勉強をしているようだった。
「開業資金は、いくらぐらいかかるの?」美乃里が訊いてきた。
「まだザックリとしか調べてないんだけど、三十坪程度の店舗を借りるとして、半年分の運転資金も考えると、最低でも二千五百万円は必要だと思う」
「半分も貯められてなかったってことね。頑張ったとしても、後十年かあ……」
「でもさ、持ち金だけでやる人っているのかな。みんな借金してやってんじゃないか? 俺はね、さよりが大学生になったらはじめたいと考えているんだ」
「ということは……あと三年?」
この一言は〝いくらなんでもそれは無理っ〟と言っているのだろう。
「お金を借りるとしても、うちは担保がないから無理なんじゃない?」
「俺、担保なしで貸してくれるところを調べてみるよ」
「金利がバカ高くならない? サラ金から借りるつもりなの?」
「そんなところから借りないよ。何言ってんだよ!」
美乃里は目をつぶり考え込んでいる。
「二千五百万円は必要なのかあ……。何とか、一千五百万円ぐらいで、自分たちのお店が持てないかしらね」
善幸は、『店舗開業の手引き』の掲載してある不動産物件に目を通していたので、出店したい立地条件での物件取得費に関しては大方見当がついていた。取得費が大きく異なってくるのは立地条件だった。
善幸は、出店可能な物件条件として、最寄りの駅の乗降客数が五万人程度の場所で、出来るだけ徒歩五分以内を考えていた。美乃里の言う「何とか、一千五百万円で……」だと、十坪のカウンターだけのラーメン屋の居抜きがいいところだった。
善幸は、美乃里に、先日から頭に引っ掛かっていることを訊いてみるこにした。これをはっきりさせておかなければ先へは進めないからだ。
「ところで、今ある一千二百万円ってさ、開業資金として全部使っていいのか?」
美乃里は、大きく頷いた。生体弁、人工弁どっちの人工弁置換の手術をするにしても、健康保険を使うのだから、被保険者が支払う医療費は然程取られないと話してくれた。このことに関しては、医療事務をやっているだけあって把握できているようだった。
また、さよりの大学の費用は、義父が今でも毎月振り込んでくれる五万円の積み立てで十分間に合うらしい。何ということだろうか、義父に今でも助けられていたのだ。その年月が重たく善幸の胸に圧し掛かってきた。
「お父さんのことを考えると、申し訳なくて自分が情けなくてさ、何て言ったらいいんだろう、わからないよ……」
「そこはさ、俺って恵まれてんなあ、ラッキーッ、て考えたらどう?」
「おまえは、変なところでノー天気だな」
この計画を遂行するにあたり、先々の問題が山積みなのに、二人は将来の話を意気揚々とした趣きで締め括ろうとしていた。
美乃里の心臓は、あれから二十年以上故障することなく動き続けている。さよりが大学生になるまでは大丈夫なはず。あと四、五年は、間違いなく持ち堪えられるはず。善幸はそう確信したのだった。
職場では、すっかり口を閉ざすようになってしまった善幸。その方が思い煩うことが減るからだった。
善幸は、仕事のことは何も考えないようにしようと休憩時間は一人で外へ出て行くことにしている。といっても、行き先は、店の裏にある公園だった。
そこは、ぐるっと高層マンションに囲まれた近隣住民の憩いの場所でもあった。
本来、外出する時は、私服に着替えなければならないところだが、夕方五時までの一時間半の休憩だし、また近場なので、たとえその姿を見られたとしても文句を言う者はいないだろうと思い着替えなかった。
移ろう季節の風が、篭っている建物の熱をゆっくりと冷ましていた。顔に当たるその弱い刺激に何故か心を惹かれた。善幸は、そんなものが他にもあるのではないかと園内を探してみるが――。
この夏、家族との想い出を作れなかった無念さが胸裏を掠めた。見つめているイチョウの木陰……。間もなく、それは脳裏から消したい人物へと変わった。善幸は逃げずに、その木陰へ向かって進んで行くが、次第にその風貌はぼやけてなくなってしまった。
そして、季節の移ろいを探せる日々が過ぎ去り、今、善幸は多少の雨でも濡れずにいられるベンチに腰を下ろしている。白い調理服は目立った。上層階のマンションのベランダから住民が見下ろせば、ベンチで屈んでいるその姿は、餌を啄んでいる白鳩のように見えただろう。しかしながら、そんなことを気に留める余裕は善幸にはなかった。
善幸は、座ると直ぐに店のロッカーから隠し持ってきた三冊の店舗情報雑誌を読みはじめた。それは、昨日、美乃里が本屋で探してきたもので、すべて月刊誌だった。
週刊で発行している専門誌はないのか、明日、美乃里に探させようと思っている。普段、漫画さえ読まない善幸だったが、これを機にこの手の情報誌の愛読者になろうとしていた。
上り坂をゆっくりと下って来る西陽が眩しい。頁をめくる度に、紙面に当たる陽が薄くなっていった。
善幸は、派手な色使いの広告の中で、良さそうだと思う店舗専門の不動産会社や施工業者の社名と電話番号をノートに記していった。
美乃里と話したあの夜から突然湧いてきた本気。それを以って出店計画を進めて行けば、準備期間は三年も要らないのではないか、開業資金さえ都合付けば、来年にでも店をオープンさせることが出来きそうな気がしてきた。
善幸は、関係雑誌を読み漁るだけで、もう成功への王道を歩いているかのような錯覚に陥った。
崔は九月下旬に遅い夏季休暇を取る予定でいる。六日間とは言え、顔を見ないでいられるのだから、善幸にとっては精神的な負担は軽くなる。
その休暇中のことだった。三ケ日オーナーから厨房にいる善幸のところへ、直接電話が掛かってきた。いつもなら、一旦崔が受けてから善幸に回ってくるのだが、三ケ日オーナーは、崔が休暇中であることを知っていたのだろうか。
用件は、小鯵の南蛮漬けの催促の電話だった。崔が休暇を取る前に、三ケ日オーナーはその注文を入れていたようだ。なぜ、崔は善幸に伝えなかったのか。ただ単に忘れていたのではなく、そこに作為的なものを感じた。
話の最後に、善幸は「明日の小鯵の仕入れを多めに入れてもらうよう山下に伝えておきます。多分、明後日の夕方にはお届け出来ると思いますから待っていて下さい」と、三ケ日オーナーに親しみを込めて伝えた。
見抜いていながら、これまで黙っていた崔の不正。今更ではあるが、善幸は三ケ日オーナー宅へ小鯵の南蛮漬けを届ける度に、そのことを打ち明けないでいるのが心苦しく思うようになった。
崔は、范料理長が店を辞めて居なくなると、さっそく翌年には値の張る乾物に手を出した。翌々年には慎重を期し、鮮魚に手を染めていった。それだけではない。その後、生鮮野菜へ手を出すと、またその半年後には、対象を肉類へ広げようと思っているのか、頻りに豚バラブロックを手に取って見ていた。善幸は、無意識に崔の不正を見抜く術を身に付けてしまったようだ。
当時の猪之良と鈴木の会話を善幸は思い出した。鈴木が「猪之良さん、入荷したジャガイモなんですけど、随分と大きさが不揃いですよね」と言うと、猪之良が「玉葱も。あれれ、ニンジンもそうだぞ、見てみな」鈴木は、ピーマンの箱も開けた。「これもですよ!」
善幸は、その会話を余所事のように聞きながら、鶏肉の下処理をしていた。他の野菜の箱を調べはじめた職人たちも首を傾げていた。しかし、崔の不正ではないかと疑っているのは善幸だけだった。職人たちは、偶々野菜が高騰したので事務方が安価なものを仕入れた、そう思っていたのではないだろうか。
その件があった数日後、鈴木が倉庫から揚げ物用の一斗缶の油を二つぶら下げてきた。それを見て、善幸はピーンときた。一斗缶に貼ってあるラベルが青から赤に変わっていたのだ。一応、確認してみた。やっぱり、他のメーカーのものだった。使ってみると、油切れが悪く粘り気が強い。異様に立ち上る煙も確たる証拠を漂わせていた。不正をやっている本人は、誰も気づかないだろうと高を括っているのだろう。もしかしたら、崔は、この先食材の域を超えたところにまで触手を伸ばそうと画策しているのではないか、そんな恐ろしさを抱いてしまった。
崔は、現時点でどのくらいの金を袖の下に入れているのだろう。善幸にとって、気兼ねなく話せるようになった三ケ日オーナーのことを考えれば、毎回オーナー宅へ素知らぬ顔で届けに行くのは辛かった。黙っているということは裏切りではないのか……。范料理長が「崔が反省し、不正するのを止めてくれればいいんだ」と言っていたあの頃の記憶が蘇った。 (つづく)




