―幸せを感じるための夏季休暇―
バッターボックスに立ちたかった。
第四十七話
―幸せを感じるための夏季休暇―
それから二週間後のことだった。
善幸が出勤すると、各職人の夏季休暇の予定表が書き込んであるボードを皆が眺めている。その時だった。突発的なそれも不快感を伴うようなことを趙兄弟の弟の方が言い出した。
「休暇を別な日に変えてくれるか?」彼が善幸の顔を見て言った。
片言の日本語しか話せないため、一瞬、誰に言っているのだろうと思ったが、彼の目線はじっと自分の方へ向けている。自分しかありえない。善幸は激怒した。
「五日前ですよ、今更それはないでしょう! 俺は一月前に予定表に書き込んでますからね、変更しなきゃならないのはそっちの予定でしょう!」弟の方へ鋭い眼光を投げた。
温厚な兄貴の方は申し訳なさそうに下を向いているが、生意気な弟の方は顎をしゃくり上げていた。彼は生意気な分、兄貴よりガタイがよかった。
「大切な用事が、本国であるからっ」引き下がらない。
二人の保護者のような顔して後ろにいた崔は、いつものポーズをとっていた。腕を組み、肩幅より広めに構え立っていた。倉持との揉め事は俺に任せろと言わんばかりだった。
「倉持、考えてやれよ。二人は山東省に帰らなければならなくなったんだ。叔母さんが亡くなったらしい。飛行機の切符も取ってしまったんだ。仕事仲間なんだから、譲ってやらないといけないんじゃないか?」
抗弁が出来なかった。それは練られた筋書き。狡猾な崔が画策したに決まっている。弟の太々しい態度から、これが嫌がらせなのは明らかなのだが、まさか「俺の叔母も二日前に亡くなったんですよ。それに祖母の法事もぶつかってしまって。いや~不幸って重なるもんですね……」こんな言い訳が思い付いても、崔に通用するはずもなかった。代わりに、さよりと美乃里の落胆する顔が浮かんできた。何とかしなければ……。
「倉持、悪いが今年の夏季休暇は無しでいいか?」
一体この男はまた何を言い出すんだ! 腹が立つというより唖然としてしまった。
「何言っているのか、さっぱり分かりませんが? 料理長は時々滅茶苦茶なことを言い出しますよね」
「そんなことはないと思うけどな。倉持の物事に対する理解度が不足してるのかもしれんぞ」
「そうなんですかね。このことに関しては、第三者に訊いてみないと分かりませんよ」
崔が笑みを浮かべ話し出した。
「もう忘れてしまったかもしれないなあ~、倉持がこの店に来て間もない頃のことだ。子連れで披露宴をやったの……憶えてないか?」
「あー、憶えてますよ。盛大にやってもらって感謝してますけど、それが何か?」
「じゃあ、次の日の朝、おまえが俺にお礼を言った後、何て言ったか覚えてないか?」
崔に対し、お礼以外に言ったことってなんだ……。善幸は思い出すことより、巧みな語り口に騙されないよう身構えていた。
「勿体ぶらずに言って下さい!」
「それじゃあ言わせてもらおう。あの披露宴というのは、范の個人的な親しい知人の祝い事だったんだ。それを料理長という立場を利用して知人のためにやってあげた。その知人と言うのが、倉持、おまえなんだよ。そもそも、入って間もない新入社員が結婚したからって、従業員全員で、それも勤務時間内と時間外を使ってだな、店内に手間の掛かる装飾を施し、料理の下拵えを前々日からやってあげる会社なんてどこにある? 話したこともない事務の従業員にとっては、まったくもって傍迷惑な話だ!」
崔は、呆気にとられるような話を昨日のことのように話した。
善幸は、時間を巻き戻すのに苦労していた。
「それを今言われても……。当時は知らなかったんです。俺、知ってたら断ってます」
ここから崔の攻勢が始まった。
「当時の様子から、まったく知らなかったわけじゃないだろ? 前もって范がその計画をおまえに話していたはずだ。そうでなければ、親戚や友だちをあんなに呼べるか? 誤魔化すんじゃないっ!」
全くその通りだった。何も言い返せないことが逆に腹立たしかった。
「俺はな、今更そのことを責めるつもりなんかないんだよ。気になっているのは一つだけだ。言った以上は、きちんとその後始末をしておかないといけない、ということだけだ」
「だから、それって何ですか?」
相変わらずの回りくどい言い方。崔は、尚一層勿体ぶらせた。
「自分の都合で忘れてしまったことを、俺の所為みたいな言い方するのはやめろっ、辞めた郷原もそうだった。やりたいことを主張し、それが出来ないと言い訳だ。最後は開き直りか? いいかっ、披露宴の次の日にだな、おまえはこういったんだ『先輩たちが、何かの都合で休まなきゃならない時があったら俺に言って下さい。俺の休みで補ってもらえれば、少しは恩返しが出来たような気持ちになれますから』とな……。どうだ、思い出したか? 一字一句違ってないと思うぞ」
びくっとした。(そんなこと……言ったような気もする。そう思う反面、一字一句違ってないだって? 十年以上前のことだぞっ、録音して繰り返し聞いて覚えたとでも言うのか? なんて野郎なんだ!)
辞めた猪之良と鈴木の穴埋めで入ってきた趙兄弟は、当時のことは知らない。ポカンとしてる顔つきからして、この話を理解してはいないようだった。
「倉持、また俺に対して腹を立ててるのか? 相手を恨む前に、自分の胸に手を当ててよーく考えてみろ!」最後に“馬鹿者っ!”とでも付け足したい言い方だった。
この大物然とした態度がいけ好かない。きっと崔は、邪魔者を挑発し怒らせる天才なのだろう。そう思ったら、怒りがすぅーと引いていった。だからと言って、すんなりと引くわけにはいかない。
「怒ってなんかいませんよ。それじゃ、俺、どうしたらいいんですか? 好きなようにしてください」
すると、
「簡単なことだ。さっきも言ったが、今回のおまえの夏季休暇は無し。その分、他の職人の休暇に回してやろうじゃないか。それがおまえの願いなんじゃなかったのか? そうすればお互い貸し借り無しってことになる。これで、どうだ?」
『講釈は丁寧に 結論は単純明快に!』まるで標語のようだ。崔との対話では、いつも抜き差しならぬ緊張感が走り息が詰まりそうになる。やることなすこと用意周到で敵ながら〝あっ晴れ!〟と言う他はなかった。
「返事が無いということは、承諾したということでいいな? 趙さんたち、休みを取っていいぞ」
想定通りに事が運んだ崔は満足そうな顔をしている。それに対し、趙兄弟の相好を確認したところ、これと言って嬉しくもなさそうだった。
今日帰って、さよりと美乃里にどう説明すればいいのだろう……。善幸は、新たな問題を抱えてしまい、半分投げやりな気持ちになった。
めずらしく、さよりが玄関のドアを開けてくれた。
「お帰り、お父さん。また疲れた顔してるね。溜息なんか付いちゃってさ。溜息を付くと幸せが二つ逃げていくってよ」
「二つもか? 勘弁してくれよ……。家にある幸せが無くなっちゃうなぁ、さよりのために増やそうと努力してきたのにな……」
無造作に靴を脱いだ。
「大学卒業したら、あたしが増やしてあげるって。もう少しだから頑張ってよね、お父さんっ」さよりが、その靴を揃えながら言った。
「ダメよ、さより、適当なこと言っちゃ。溜息一つで、幸せが二つも逃げるわけないじゃない。一つの幸せを作ることがどれだけ大変なことか、こういうことも学校で教えてもらいたいものだわ。家族皆で作り上げてきた幸せなの。溜息如きで逃げてしまうなんて、冗談じゃないわ!」
我が家には幸せが幾つあるのだろうか……。会話が弾んでいく過程での「実はな……」は辛かった。かと言って、切符のキャンセルのことを考えれば、明日という訳にはいかない。
「バレた? でもさ、幸せの感じ方って、人によって違うんじゃない?」
さよりは、いつの間にか大人になっていた。親の知らないところで、見る見るうちに身心共に成長していたのだ。もしかして「仕方ないよ、仕事じゃ……」ってなことを言ってくれるかもしれないと、善幸は淡い期待を抱いた――。
「そうねえ。人間生きていれば、不平や不満はいくらでも出て来るもの。言いたい放題よね。でも、不平不満の多い人って、幸せの感じ方が鈍感になっていると思うのよ。文句を言ってるだけじゃ幸せにはなれない。幸せを掴むための努力と行動を起こすことが大切なんじゃない? ただ、自分だけの幸せを手に入れようとしたら逃げて行ってしまうものよね」
きっと、親方の思考ロジックに影響を受けたのだろう。そこへ、美乃里は近づいていっている。同じように、自分もそこへ引き寄せられているのは間違いなかった。
「へえ、いつものお母さんじゃないみたいだよ、そんなこと言うなんて。いつもは目に見えることしか言わないのにさ。そもそも超現実的じゃない、お母さんって」
考えてみれば、家族三人でこんな観念的な話などしたことがなかった。
「これって、目を大きく開ければ見えてくることなのよ。それに、誰でも分かっていることなんじゃない。お母さんが思うに、本当の幸せって、凍った池に勢いよく撒いたバケツの水だと思うの。サアーッと滑って行って、じわじわっとどこまでも広がって行く。するとね、下からキラキラと光る氷が現れるの。宝物を見つけたような気分にさせてくれた……」
「へえー、お母さんって、ロマンチストだったんだあ、信じられない」
「お母さんね、小学生の頃、近くの溜池でそんな遊びをしてたの。家からバケツに水を入れては池へ、何度も往復してたのよ。雪が積もりはじめると出来なくなるから期間限定の遊びよね。明日は出来なくなるんじゃないかって、焦ってやってた記憶があるわ。何かに夢中になりたかったんだね、きっと……。一人で遊んでる寂しさを紛らわせるためだったのかもしれない……」
「お母さんが住んでた十日町の寒さが伝わって来るよ。で、そのバケツの水ってさ、撒いた人の幸せってことなの?」
「それ、素敵な回答よね。まるで幸せを不幸せの人に分け与えるような話に聞こえるわ。でも、そのためには十分な幸せを自分が持ってないと出来ないことじゃない?」
「何でもそうだけど、自分の方に余裕がないと出来ないことかもね」一瞬、さよりが寂しそうな顔をした。
「お母さんね、宝物を手に入れるというより、悩み事を何とかしてほしいという気持ちの方が強かったような気がする。超現実的って、またさよりに言われそうだけど」
善幸は、さよりと美乃里のこんな会話を一度も聞いたことがなかった。
「幸せって難しいものなんだね……」さよりが考え込んでいる。
「そう、一生懸命水を撒き続けないと、キラキラした氷の状態を保つことが出来ないのよ。その代り、かじかんでいた手足が段々温まってくるのよ」
「国語の問題でさ、『自分の幸せについて述べよ』なんて出題されたらどうしよう。この話書いちゃおっかな。真冬でも雪の積もらない湖を探さないと、雪が妨害するからね。でも家族三人で撒くんだから大丈夫かあ」
「真夏には最適の話でしょ? ねえ?」美乃里は善幸の方を向いた。
二人は笑っているが、善幸は笑っている場合ではなかった。
美乃里が横目で善幸を見ながら言った。
「幸せの中でもね、長続きする幸せって、手入れをしないと輝きが徐々に失われてしまうのよ。ここは東京、凍った池を探すのは大変でしょ。でも、さよりの周りにある汚れているものでも試しに磨いてみたら輝きがでて来るかもしれないよ」
「じゃあ……お父さんでも磨いてみるか」
話が一段落したようだった。このタイミングを逃がしたら言い出せないと思った。
「磨く? 禿げそうだな、まあいいや。それでなんだけど、実はな……」
「何なの? 寒そうな顔して、エアコン切る?」さよりの反応は早かった。
「あ、ああ……」
「なに? なになに?」とさよりが急かせた。
「お父さんの新幹線の切符をキャンセルしておいてくれないか。実はな、お父さんは旅行に行けなくなったんだ。おまえたち二人で行って来いよ」
一瞬、さよりと美乃里は目を合わせた。
「ええっ、どうして? そんなのないよっ!」さよりが気色ばんだ。
「お店で何かあったの?」美乃里が訊いてきた。
店で何があろうと、況してや、さよりの前で話せる訳がない。
「急に大きな宴会が入ったんだよ。仕事なんだ、仕方がないだろ」
「切符も取ってるんだよ、お父さん!」
「だから、キャンセルすればいいだろ、お金は返金される」
「おばあちゃんとお姉ちゃんが待ってるんだよ、なんとかして行こうよ、お父さん!」
さよりが食い下がった。美乃里も、
「一昨日ね、麻子から電話が掛かってきたのよ。麻子ね、あたしたちが金沢へ来るのを愉しみにしてるの。色々案内してくれるって言ってた。今ね、皆に食べさせようと、おばあちゃんに郷土料理を教えてもらってるらしいの。美味しいお米を使った料理なんだって。お米が主役の料理なのよ。お米がね、おかずになるのよ。そんな料理、あなた知ってる? 食べてみたいと思わない? 料理人のあなたに美味しいって、麻子は褒めてもらいたいらしいの。だから、ね? 今回だけ……」
「そうはいかないんだ……」
「他の人に代わってもらう訳にはいかないの?」仕事なんだから仕方がない、とさよりにいつも言ってくれていた美乃里の懇願は辛かった。
「今回行けなかったら、永遠に行けないよっ、今まで運動会にも来なかったんだから! あたしの友達にそんな父親なんていない。もう、あたし高一になってしまったんだよ。過去って、やり直しが利かないんだっ、お父さんっ!」
「あれだけのお店だもの、料理人は沢山いるじゃない。もう一度、料理長に相談してみたら? 何とかしてくれるんじゃない?」
美乃里は、崔を知らなかった。披露宴でも厨房に居たため会っていなかった。当然、范と崔の関係も――。それを一切話していなかった善幸は、今更面倒臭い話などするつもりもその元気もなかった。
「俺の仕事は、なかなか都合が付けられない仕事なんだ、だからさ……」
美乃里が上手くさよりを説得してくれることを祈った。
「あたしはね、お父さんの疲れて帰って来る姿と、寝顔しか見たことがないんだよ。これって想い出になる? どっかに連れて行ってくれなんて、あたしがこれまで頼んだことがあった? 言おうと思っても、お母さんが全部止めてたんだよ。疲れているから寝かせてあげなきゃ倒れちゃうって……。お父さん、自分から行こうって言ったディズニーランドだって行かなかったじゃない。だから……お父さんとの想い出は何一つ無いんだよ。もし、朝起きて、お父さんが寝たまま死んでたら……。さより、どうしたらいい? 想い出が一つもない中で、お父さんを一生懸命想い出さなきゃならないんだよっ」
「さよりっ、縁起でもないこと言うんじゃないの!」
「だって、このままじゃ、お父さん……過労死しちゃうじゃない!」
「大丈夫だよ、さより。お父さんは、そう簡単には死なないようにできてるんだ。なぜか分かるか?」
「あたしとお母さんが居るからだよね?」
さよりは、今にも涙が零れ落ちそうだった。
「勿論、それが一番目だ。二番目があるんだよ。それはね、貧乏だから」気を逸らすつもりだった。
「何の関係があるの?」不思議がって、美乃里の方が訊いてきた。
「貧乏ってしぶといんだ。働いても働いても大丈夫なように身体が出来てるんだ。小さい頃にお母さんが読んでくれなかったか? 『老人と貧乏』なんて絵本」
さよりは、ちょこっとだけ笑みを見せると、溜まってた涙が一度に零れ出てしまった。
「それ、悲しいお話じゃないの?」
「お父さんもよく知らないんだ、その顛末。でもな、貧乏だったけど、年を取ってから幸せを掴んだって話じゃないのかな。幸せを掴むには一生の中で一番難しい年代だと思うけど。そのお爺さん、どんな幸せを掴んだんだろうね……」
この部屋のカレンダーだけが捲られ、晩秋の風が入り込んでいた。
「あたしとお父さんの想い出作りから、だいぶ話が飛んじゃったね」
「さより、夏休みだからといって夜更かしばかりしてちゃダメでしょ。明日も塾じゃなかったの?」
「誤魔化されたような気がするけど……。取り敢えず今日は寝るかな。おやすみ、お父さん……」
さよりは、善幸への視線を外さぬまま襖を閉めた。彼女は、幼い頃からはっきりと物を言う子だったが、いつの日からか、相手の置かれた立場や心情を汲み取ることができるようになっていた。
善幸は、布団を敷く美乃里の姿をみながら、飲み終わった缶ビールをゆっくりと潰した。
「あたしたちも寝ましょう。考えてても、仕方の無いことだから。今年行けないのなら来年、来年も行けなかったら再来年。それでもいけない場合は、その時考えればいいじゃない、ね?」
「そうだな……」
善幸は布団に入った。
嘘の寝息を吐いていると、電気を消し横になろうとしている美乃里が、
「お父さん! まだ可能性があるんじゃない?」
突然、美乃里が何か頭に浮かんだようだ。
「何の可能性だよ?」
「郷原さんに相談してみたら? 郷原さんだったら、おまえの仕事は俺がやっておくから休んでいいよ、って言ってくれそうじゃない。あなたと仲が良いんだし、どう?」
郷原が辞めたことを、まだ美乃里には言っていなかった。崔の顔が浮かんできた……。
返事もせず、胸に掛けていたタオルケットを肩まで引っ張り上げると、善幸は寝返りを打ち、美乃里に背を向けた。
美乃里は、〝俺〟が隠れている背中を見ているのだろう。「郷原さんに何かあったの?」と訊いてこないところをみると、もしかして、察しが付いたのかもしれなかった。 (つづく)




