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【砂利道を歩く野良犬たち】      作者: トントン03
第五章 出来上がった厨房内の確執と家族の絆
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―漢方薬のニオイが充満している倉庫へ向かった― (崔と善幸の二人だけの空間)

崔を舐めてたらあかんで……。これからや。


第四十六話



 ―漢方薬のニオイが充満している倉庫へ向かった―

  (崔と善幸の二人だけの空間)


 次の日、郷原は店に来なかった。

 善幸は、午後の休みの時間に何度か電話を入れたが直ぐに留守電に切り替わってしまう。店が終わった後も何度か電話を掛けてみたが何れも留守電だった。一度だけ留守電から通話状態になり「倉持です。もしもし……」と話し出すと返事はなく切れてしまった。

 善幸は、郷原のアパートへ行こうと思った。しかし、終電に間に合わなくなる。もしかしたら、明日は来るかもしれないと思い帰宅することにした。

 その夜、床に就くと、善幸は怠い瞬きを繰り返した――。


 次の朝、厨房に全員が揃ったところで崔が口を開いた。

「皆に報告しておこう。昨日、郷原から連絡があって、店を辞めると言ってきた。引き留めたんだが、決意は固いようだ。暫くの間、一人掛けた分を協力し合って行こうじゃないか。なるべく早く職人を探そうと思っている。それまで、みんな頑張ってくれ」

 頭がぼうっとしていたところに、金槌で後頭部を叩かれたような衝撃が走った。

 崔が近寄ってきた。

「倉持、『週替わりのランチ』はもう無理だな。来週からランチタイムは楊に一任することにした。だから、楊の指示に従ってやってくれ。何か言いたいことはあるか?」

 崔は、心の中でほくそ笑んでいるに違いなかった。

「ちょっと待ってもらえませんか、今のランチメニューで来てくれる常連さんも結構いるはずです。いきなりその中の定番メニューまで無くしてしまうんですか?」

 善幸には〝自分に相談なく決めるな〟などと反論するパワーはもう残っていなかった。相手の様子を窺いながら、自分の職人としての存在感を少しでも示す、それが精いっぱいだった。 

 しかし、却ってそのことが、まるで懇願しているかのように受け取られたのではないかと心配になった。

「いいだろう。それじゃ、おまえの得意な豚の生姜焼きと、小鯵の南蛮漬け定食だけ残しておくことにしよう。本来、酒の肴の一品である小鯵の南蛮漬けを定食として考えるなんて、恐れ入ったぞ。ま、お客さんに人気があるようだから別に構わないが……。それで文句はないか?」

「わかりました。それで結構です」

 これまで、厨房内では中堅クラスの料理人面で振る舞っていた善幸。だが、未だに役職は主任二級だった。上司が辞めて部下が入って来なければ昇進はできない。しかし、入って来た職人と言えば、崔の知り合いの料理人だけだった。これでは昇給など期待できない。崔体制では腕前は昇進する条件とはならなかった。

 范料理長の頃に毎年七パーセントずつ行われていた昇給は、この先、それ以上の割合で減らされていくのだろうか。


 梅雨明けの照りつける日差しは厨房の芯まで熱した。毎年のことで暑さにはなれているとはいえ、早朝からこれでは堪らない。そんな中、善幸は、秋口まで入荷可能な小鯵の南蛮漬けを作り続けなければならなかった。

 味方のいない職場では、不満に対して鈍感にならなければやっていけない。それと合わせて、鬱積を奥歯で噛み潰す術も身に付ける必要があった。


 一匹つづ小鯵の鰓とハラワタを取り除いていく。豚の生姜焼きとは違い、小魚の処理は手間が掛かった。中華包丁では出来ない小出刃でやる作業だからだ。横目で見ながら作業している素っ気ない職人たち……。隣で、一緒に作業をしていた郷原はもう居なかった。



 来年、さよりが高二になれば、夏休みは塾の講習で埋まってしまうだろう。善幸は、金沢に住んでいる義父の母親と、現在一緒に住んでいる麻子に会うため金沢へ行こうと考えていた。この夏しかないと思ったのだ。美乃里にとっても麻子にとっても血の繋がりが全く無い金沢の米寿なるおばあちゃん。勿論、善幸は会ったことはなかった。

 そのための夏季休暇を考えてみた。少なくとも、他の職人より二日少ない四日間の夏季休暇は取れるはずだ。家族で二泊三日の金沢旅行の良い想い出を作りたい。この計画なら、四日間の休みがあれば十分可能のはず。思い返せば、これが初めての家族旅行ではないだろうか。考えてみれば、これまで仕事の疲れを取るだけの週一の休みしかなかった。巷で聞こえて来る家族サービースなどというものは、善幸には別世界のことのように思われた。

 金沢のおばあちゃん……義父の母親である以上気に掛けてあげなければならない立場だった。なのに、善幸は金沢大学に進学した麻子にすべてをお任せ状態だったのだ。麻子から「元気でやってるよ」と、美乃里からの又聞きに安心しきっていた。美乃里も麻子には感謝していることだろう。

 義父のお母さん、どんなおばあちゃんなのか、会うのが愉しみで仕方がない。義父を育てた母親なんだ、きっと素敵なおばあちゃんなのだろう。年明け早々、おばあちゃんと麻子で玄関前を雪かきしたらしい。


 帰宅したのは深夜十二時を過ぎていた。

 善幸は、仕事から帰って来るや否や、襖を開けさよりに声を掛けた。    

「おーい、さより、夏休みに金沢に行くぞ! 高二の夏休みは受験勉強で忙しいだろ? 今回しかないんじゃないか?」

 机に向かってたさよりが振り向いた。

「ええ? 出し抜けで吃驚! お父さんも一緒に行けるってこと? 疲れてるから今回はやめとく、なんて突然のキャンセルはダメだよ。ディズニーランドに行くのと違って切符代がかかるんだから。無駄になっちゃう」

「そんなこともあったっけか? しかし、今回はディズニーランドとは違うぞ。おばあちゃんと麻子に会いに行くんだ」

「そうだよね、お父さんっ、だったら早く予定を立てないと」

 さよりは、部屋から出て来てご機嫌な眼差しを母親に向けた。美乃里は久しぶりの笑みをこぼしている。

「お父さんは、もう予定を入れといた。他の職人より早く予定表に書き込んでおかないと取られちゃいうからな。問題は切符だな。まあ、八月の下旬だから大丈夫だろうと思うけど。おまえさ、明日にでも切符買っておいてくれないか?」

 美乃里は天井を見上げている。旅行の費用でも計算しているのだろうか。

 風呂から上がり、善幸は座卓に置いてある缶ビールを飲みはじめた。隣の部屋からラジオの音が漏れていた。


「金沢かあ、二泊三日じゃ無理ね……」美乃里が言った。

「何が無理なんだ? 朝早く出ればあっちでゆっくりできるじゃないか」

「そうじゃなくて、あと一泊できたらなら新潟にも行けたかなと思って。あなたは、うちのお母さんの実家には一度も行ってないじゃない」

「おまえが小学校までいた十日町かあ……。それも豪雪地帯で学校では虐められてたんじゃなかったっけ? 良い想い出なんかないだろ」

「思い出すのはそんなことじゃなくて、お母さんが働いていたスナックのカウンターの端っこで、あたしが閉店時間までじっと待ってたことかなあ……。それを思い出深くしているのはね、当時お客さんだったお父さんがあたしの隣に座って一人で飲んでたことなの。お父さんさ、小学生だったあたしの相手をしようと思うんだけど、どうしていいのか分からないわけよ。小学生でありながら、あたし、そのことが分かっちゃったの。記憶ってさ、固有のものだからねえ……」

「その話聞いたことがあるな。うーん、そう……おまえの十日町かあ。よし、三泊四日に変更だ!」

 襖越しに話を聞いていたさよりが部屋から出てきた。


「想い出作りはさ、二泊三日より三泊四日の方がいいに決まってるよね。そうかあ、お母さんって虐められてたんだあ……。お父さんが同じクラスに居たら助けてあげられたのにね、残念! あたしも、お母さんが住んでた十日町をみることが出来るんだね。金沢で二泊した後、新潟へ移動して一泊ってことでしょ? お父さん!」 

「さよりの運動会に一度も行けなかったもんなあ。そのお詫びも込めて、今回は三泊四日の金沢・十日町北陸の旅ってことにしよっか?」

 善幸は、迷いを取っ払って言った。

「お父さーん、新潟は北陸じゃないみたいよ」

 こんなことで、二人から拍手を浴びるとは思わなかった。一般的な家庭であれば、年に一度の家族旅行ぐらいはしているもの。善幸の場合、仕方なかったとはいえ今頃になって心苦しく感じてしまった。 

 さよりの大学受験が終わったら、また旅行の計画を立てよう。出来れば、年に一度は家族旅行をしたい、強くそう思ってしまった。


 翌日、美乃里は越後湯沢までの上越新幹線と、そこから金沢行き『特急 はくたか』の切符を買ってきた。昨日の続きの会話をしていた。

「へえー〝マックスとき〟って二階建ての新幹線なんだ。ロンドンのバスじゃあるまいしさ、屈んで乗り込まないと頭がぶつかるんじゃない?」さよりが母親に訊いている。

「外人さんなら頭をぶつけちゃうかもね。でもね、二階建てじゃない新幹線もあるのよ。そっちの方が良かった?」

 愉しそうに会話をしている二人。さよりも美乃里も、善幸さえ、一月後の家族旅行を待ち遠しく感じている。缶ビールを飲みながら、以前、美乃里に訊いたことを善幸は思い返していた。「今、蓄えはいくらあるんだ?」この質問に、彼女は〝一千二百万円なら……〟即答だった。その金額は、俄かには信じ難い金額だった。いつの間にこれだけの金を貯め込んだのだろう。驚きと共に感謝するも、救われたという思いの方が強かった。銀行からの借り入れは、担保が無ければ借りられないと諦めていたからだ。Xデーはあと三年もいらないかもしれない。唯一、借りられるとすれば、兄貴以外にはいないと踏んでいた。


 きっと、何も言わずに崔から指示された通りに仕事をやっていれば、何の問題も起らなかったのだろう……。



 善幸は、せめて自分が考案したこれまでのメニューの原価を知っておきたいと思った。原価を知るということは、崔と互角に戦える武器を手にすることと等しい。しかし、崔に直接訊くわけにはいかない。本人が不正しているというヒントを教えるはずがないからだ。


 そこで、経理の山下なら単価も仕入れ先も知っているだろうと思い、それとなく彼に訊くことにした。ただ、以前この話を郷原に話した際に、「山下が教えるわけないだろう」と言っていたことが頭を過った。


 善幸が休みの日、山下が昼食を終えただろう時間帯に電話を掛けてみた。ところが案の定、崔に確認しないと勝手に教えることは出来ないと言われた。これは想定していた回答だったが、本来隠すようなことではないはずだ。逆にメニューを考案した職人が知らない方が不自然。それに、范料理長が居た頃は三人で原価の計算をしていたのだ。あの頃、事務所で昼飯を一緒に食べていた仲だったはずなのに……。職場で話す機会が減り、疎遠になってしまったことが原因なのだろうか。


「以前、料理長は范でしたが、今は崔なんです。悪気はないんですよ、倉持さん。知りたいのは当然だと思います。知らなければ、金額が設定されているメニュー作りは出来ませんからね。しかし……。一度、崔料理長に相談してみてくれませんか? 了解取ってくれれば、詳細な関係資料を渡しますから」

悪気はなさそうだった。また、彼の立場を考えてあげないといけないとも思った。


 翌日、善幸は、崔と二人だけになるタイミングを計っていた。二人だけで話をするためだった。

 昼の時間帯が過ぎた頃、崔は中国から仕入れた食材が置かれている倉庫へ行こうとしていた。

 善幸は何かを取りに行く振りをし、その後を付いて行った。

 崔が倉庫の扉を閉めた音を確認すると、そおっと取っ手に手を掛けた。ヒヤリとした薄暗い倉庫内は、積まれている漢方薬の食材のニオイで充満していた。

 先に入っている崔は、食材を確認しているようだった。そおっと入って来た善幸を見て見ぬふりをしているのは間違いない。

 善幸は、自分から話を切り出そうか、それとも相手が話し掛けてくるのを待とうか、と悩んでいたら、

「あのよ~倉持、何をこそこそ山下から聞こうとしてるんだ?」

「何のことですか?」

「惚けてるのか? おまえ、もうメニューを考えるのはやめろ。これは命令だ。余計なことは考えずに、俺が言った通りに仕事をしていればいい、分かったか?」

 その態度、厨房で指示を出している崔とは明らかに違っていた。言葉遣いもさることながら、敵意と恨みをたっぷりと含んだ処し方は、高圧的で本性丸出しだった。      

 善幸は、こんな言われ方をされても、不思議と以前のようにムカつくことはなかった。ダメもとで、こう言い返した。「先日、言いましたよね『おまえの得意な豚の生姜焼きと小鯵の南蛮漬け定食だけを残しておくことにしよう』って。その原価を知りたかっただけですが、何か問題でもあるんですか?」

「おまえと郷原のことを考えてだな、職人たちのいる前で言ってやったんだぞっ、調子に乗るんじゃない!」

 多少声を張り上げても聞こえない場所だった。善幸は険悪な目つきで対抗した。

「それじゃ、俺の考えたランチメニューはもう出さないってことですね? 分かりました。そもそも原価も分からないのにメニュー作りなんて出来るはずもない、そう思いませんか? 崔さん」

「倉持、不満なのか? この店が嫌なら郷原のように潔く辞めたらどうなんだ? おまえなんかもう必要としていないんだよ。それが分からないのか? 来週から新たに料理人が二人来ることになっている。郷原が抜けた穴埋めと“いつ辞めるか分からない職人”対策として入れることにしたんだ。だから、遠慮しなくてもいい、范のところへでも行ったらどうなんだ? おまえら、仲が良かったじゃないか。また特別扱いしてくれるだろうよ。言っておくが、これは強制ではない。言い掛かりは御免だから、予防線を張っておくことにするよ。いいか、辞めるか辞めないかは、おまえの自由だ。勝手にしろ。但し、居る限りは俺の命令に従えということだ、分かったか?」

 善幸は訊いてみた。

「俺に余程の恨みがあるみたいですね?」

「それは、とんでもない思い違いだな。おまえって、俺に恨みを持たれるほどの料理人か? 思い上がるのもいい加減にしろっ!」


 崔は鼻で笑ったが、間違いなく結構な恨みを持っているに違いなかった。〝おまえら、仲が良かったじゃないか〟唐突に出て来たこの言葉が引っ掛かった。この作為のある嫌悪感を推察すると、それは自分というより范料理長に対してなのだろう。

 范料理長が辞めてから、もう十年以上が経っていた。当時、時として厨房では范と崔の意見の対立があった。元料理長の立場だった崔の力を排除しようとする范に対し、一見真面そうな理屈で押し切ろうとする崔。そのせめぎ合いは、いつも范の勝利で終わっていた。

 この言い合いは、立場の優位性が無かったら永遠に続いていただろう。范と対立する度に部下のいる前で受けた屈辱。当時、崔は副料理長としての立場さえ潰されていたのだ。きっと、崔には范の心の声が聞こえていたに違いない。(俺のことが気に食わないのなら、さっさと辞めたらどうなんだ?)と。

 そもそも范に向かうはずの怨恨だったはずだが、崔の執着心は想像以上に根深かったようだ。善幸の顔をみる度に、鮮明にあの頃のことが蘇ってしまい、その恨みが尋常ではない段階まで来ていたのではないかと思われた。

 だが、そのことが却って善幸の気分を楽にさせた。崔の本音と目論みが浮き彫りになることで、夢を現実に変えるまでは意地でも辞めてやるもんか、との想いが沸々と湧いてきたからだった。


 冷淡な目線を向けながら、善幸は言った。「残念でしょうが、俺は辞めるつもりはありません」



 この時から、善幸は下っ端同然の一作業員に成り下がったことを覚悟した。

 確か、美乃里が言っていた現在の貯金額一千二百万円の蓄え、これがあれば、あと三年この店で我慢しさえすれば自分の店を持つことが出来るのだ。休みの日にでも飲食店開業のことについて詳しく調べてみようと思う。ただ、この店に居る以上はメニュー作りにかかわりたかった。この店で范料理長の〝教え〟を十分マスターしておくためだ。


 店のことを考えれば、人気のあるランチメニュー二つを突然止めるわけにはいかなかったのだろう。翌日、崔は、他の職人たちに対し、この二つのメニューを作れるようにしろ、との指示を出した。

 これまで、タレの調合に関しては全て善幸の担当だった。生姜焼きの二種類のタレと小鯵の南蛮ダレは、考案した善幸しか知らない。料理人である以上、作業工程をみていれば、教えなくてもそのうち出来るようになってしまう。ところが、微妙な工夫次第で味というものはガラッと変わってしまうものなのだ。

 善幸は、どのタレに関しても最低二晩以上寝かせたものを使用していた。甘さ辛さの角がとれる熟成された味は寝かせないと作り出すことは出来ない。その違いは、味付けが全く異なる料理と言っていい。見て覚えろの職人の世界。考えた末、それらのタレの作り方のノウハウを誰にも教えないことに決めた。


 盆休みに入り、ランチ時の客の入りは閑散としていた。反対に夜の時間帯は家族連れで賑わっていた。毎年この時期は、通常とは真逆の現象が起きる。

 一昨日、三ケ日オーナーから善幸に電話があった。小鯵の入荷する時期は、定期的にその南蛮漬けを作ってくれ、と個人的に頼まれたのだ。それは、范が居た頃から続けていることだった。 

 今日、午後の休み時間に、作っておいた小鯵の南蛮漬けをオーナー宅まで届けなければならない。今ではオーナーの家族全員の好物になっていた。  


 善幸は、漬け汁が零れないように密閉式の保存容器に入れ自転車でオーナー宅へと向かった。

最初、奥さんが出て来るが、オーナーが在宅の時は挨拶を欠かさずにしてくれる。「いつも済まないね。ありがとう」お礼を言ってくれるのだ。この小鯵の南蛮漬けは、范料理長が作ったものと食べ比べたとしても、遜色のないレベルまで達しているという自負があった。

 こうして、三ケ日オーナーと気軽に話せるようになったのも范料理長のお蔭だった。



「あと十日かあ、待つのも辛いことなんだね、お父さん」さよりは、『三泊四日の金沢・十日町の旅』が愉しみで仕方がないようだ。

「もうすぐじゃないか。お母さんさ、親方が言ってなかったか? 時間って、速く進めることも遅らせることも出来るんだって」

「親方が? そんなこと言ってた? 聞いたことないけど」美乃里は食器を洗っていた。

「親方はね、時間の速さは自分で決められるって言ってたんだよ。例えば、時間が十分間あったとしよう。でも、人によってその使い方はまちまち。さよりが今デザートとして喰ってるプリン、三分で喰ってその後すぐに勉強すれば、時間の儲けって七分だよな。七分間縮めたことになるという訳だ」

 さよりが首を傾げている。

「変な例えだね。プリンを十分掛けて食べたらさ、味がその時間分愉しめたってことにならない? 七分間の勉強って、どれほど進むのよ。それに比べて、十分間の至福のひととき、これとどっちが有意義? 言いたいことは分からなくもないけど、例えが悪すぎる。よく考えてから言ってよね」

「おい、さより、受験生のくせして出題者に難癖か? なんか心配だなあ、おまえの心優しい性格が変な方向へ曲がって行きそうでさ。親が言ったことは素直に聞かないとダメだ。親方が生きていたら、親方の店でアルバイトさせて、おまえを教育してもらうんだけどな」

「親方の教育に耐えられるかな、あたし……」


 和ませてくれる親方の想い出話を善幸と美乃里がしている時、さよりは好奇心を刺激されるようだ。親方との生死のバトンタッチをしたかのように生まれてきたさより。微かな記憶もないのに、いつも親方のことで二人が話しているとき口を挟んでくる。

「親方には色々と教えてもらったわ。でも、お母さんは口うるさいなんて思ったことはなかった」

「親方の指導方法は、お父さんとは違うんだ、きっと」さよりは引き下がらなかった。

 今、善幸は、整理ダンスの上をみている。三つの大きさの違う写真立てには、親族や、善幸たちと関わりの深い大切な人たちが写っていた。これがすべてだと言っても過言ではない。その中には当然親方も写ってはいるが、残念なのは生まれたばかりのさよりを抱いている写真がないことだった。もしあれば、さよりは親方のイメージをたっぷりと膨らませることが出来ただろうに……。 


「はいはい、ここまで! お父さんは疲れてるんだからもう寝てください。さよりは――」

 これは美乃里のいつもの決まり文句だった。さよりと善幸はお先に就寝となった。 (つづく)


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