―【四川料理 翔龍】の闇―
ふぅ……。毎日は結構辛いでっすぅ
第四十三話
―【四川料理 翔龍】の闇―
仕事が終わり、善幸が郷原のアパートに来て飲んでいた時のことだった。深夜二時、二人はまだ酔ってはいない。
どうしても納得がいかないと言い張る郷原が、ドンッとガラスのテーブルを叩いた。
「ふざけんなってんだよ! なんで、俺たちの考えたメニューだからって、俺たちだけにやらせるんだ? 他の連中は腕組みして見てるだけじゃねーかっ、いいとこ皿を並べるくらいだろ? 倉持、おまえは腹立が立たないのかっ!」かなり怒っている。
ガラステーブルに罅が入ったが郷原は気にしていなかった。
「俺も怒りを通り越して呆れてるところです。最近、脱力感からくる疲労が溜まってしまって……。睡眠は四時間もとれてないんですよ。うちのかみさんが心配してたっけ、仕事中に倒れるんじゃないかって……」
「おまえはいいじゃないか、奥さんがいるんだから」
こうして二人で飲むことは、一月に一度あるかないかだった。職人同士の休みが重なることは滅多に無いからだ。今日のように二人の休みが前後している時しか飲めなかった。
和食と和食と違い、中華の厨房内は季節に関係なく極度に温度が上昇する。そんな立ちっ放しで過酷な環境下での作業は、若いとは言え睡眠を疎かにすると、忽ち疲労が溜まってしまうことになる。
時間に追われ、追い越され追い付けなくなった時、職人はその店から退場させられてしまうのだ。そうならないために、敢えて、自分の疲労の限界を体得しておく必要があった。
「俺さ、疲労回復させるために、休みの日に十時間寝たことがあるんだ。倉持、俺が仕事中に倒れたの、覚えてるか?」
「連日宴会が重なった四月でしたね。急に郷原さんの身体が崩れていったから吃驚しましたよ。でも、郷原さんは次の日も出勤してきたから、また倒れるんじゃないかって心配でした。ちらちら郷原さんの方を見ながら仕事していたんですよ。揚げ物やってる時に前へ倒れたりなんかしたら、フライヤーの中に頭を突っ込んじゃうじゃないですか」
「寝る時間は、いつも五時間は取るようにはしているんだ。でも、休みの日だからって十時間も寝てしまうと、その日の夜、布団に入っても寝れなくなっちゃうんだよな。むしろ頭が冴えてきてしまって、休みだったというのに疲労がもっと溜まった状態で次の日を迎えることになる。眠れない原因は、“あの野郎”なんだけどさ……」
あの野郎がもう一人増えたのだろうかと思い、善幸は訊いてみた。
「崔以外に誰か現れたんですか?」
「崔しかいないだろっ、何言ってんだよ。あとの連中はロボットじゃないか!」
オーナー達が再び崔を料理長にしたことが郷原と善幸を苦しめていたのだ。二人の身体が悲鳴を上げるようになったのは、猪之良と鈴木が辞めてしまった後だった。今考えれば、雑用をやってくれていただけでも助かっていたということか。その後入ってきた趙兄弟は〝崔ライン〟の料理人だ。崔に対し従順なその態度から、同じ郷里から引っ張って来たに違いない。彼らは、郷原と善幸の指示には従おうとしなかった。
郷原と善幸が、どんだけ頑張ってやっても、果たしてそれだけの成果が出ているのか、またオーナー達に評価されているのかを疑問に感じてしまう毎日が続いた。時折、虚しさが募ってくると、その分徒労感と化していった。
「倉持、気にならないか?」
「何がですか?」
「仕事場での会話だよ。崔と親しそうに話している趙兄弟だよ。それも弟の方。この前な、片言の日本語は話せるのにさ、わざと俺に中国語で話し掛けてきたんだぜ」
「それって、嫌がらせじゃないですか! 未だに俺は話をしたことはないけど、しかし弟って生意気そうですよね」
「生意気そうじゃなくて、生意気なの!」
猪之良と鈴木の替わりに新人の趙兄弟が入って来てから三箇月が経っていた。
「あいつら、俺たちを先輩だとは思ってない。それどころか下にみてる。一応、一通りの四川料理は出来るみたいだけどさ」
郷原の怒りを増幅させている原因は、上下関係を無視した態度だったようだ。
「俺もイライラしてるんですよ。でかい声で飛び交っている中国語。気にしないようにと思うと余計気になってくる。だからかな、最近仕事もしんどく感じるようになってきちゃって。どうしたらいいんだろう……」
「以前、料理長がさ、言ってくれたことあったよな。厨房内では皆が分かる言葉を使えってさ。中国語だけで話されると、俺たちの悪口を言われているんじゃないかって思えてくる。料理長の言った通りになったな……」
「そう言えば、先週の火曜日、ランチタイムに二十人のグループのお客さんが入ってきたじゃないですか、俺ら食材が足りるかなって、不安に思いながら必死こいてやってましたよね。その時、見たんですよ」善幸は一呼吸置いた。
「何を?」
「弟が、こっちを見ながら嘲ってたのを。目が合った途端、奴はすぐに視線を逸らした。ムカつきましたよ、手にしてた玉ねぎをぶつけてやろうかと思いましたね。趙兄弟だけじゃなく、皆何かやってるような振りをしているけど、実は夜の準備をゆっくりとやっているだけで、ランチタイムを手伝う気なんか全くない! これって崔の指示ですよね、間違いない」段々善幸も腹が立ってきた。
「冷静になって考えてみるとさ、今俺たちのやっていることって、割に合わないどころか傍から見たら、ド阿保ってことになるんだろうな」
それは善幸も感じていた。ランチの創作メニューは、崔からすれば「誰も頼んでいないことを勝手にやってるんだから、二人でやれ!」そう言っているわけで、料理長が言い残していった「存在感を示せ、店に必要とされる料理人になれ!」、これは結局のところ、崔が逆手に取り、都合よく利用しているだけだったのだ。
「ランチタイムは、俺たちがやっているんだ。その分、他の奴らは楽をしている。夜の営業まで身体を休ませているんだ。このままだと身体も精神もやられてしまいそうだよ。おまえは大丈夫なのか?」
「大丈夫な訳ないじゃないですか。この状況がいつまで続くんだろうって、帰りの電車の中で毎日考えちゃいますよ。それと……」
善幸は、話していいのだろうかと一瞬躊躇した。
「倉持、何を悩んでいるんだ? それ以外に問題が何かあんのかよ?」
味方は郷原しかいない。経理の山下は現場には居なかった。善幸は、一人で抱え込んでいる場合ではないと思い、打ち明けることにした。
「郷原さん、話は変わるんですけど、料理長が辞めてからの食材の質って、疑問に感じませんか?」
「食材は倉持がひろってるだろ、疑問ってどういうことだよ?」
郷原は、鮮魚に関しては目利きではなかった。魚介類は、前日の漁獲量、鮮度、産地、購入量、それに仲卸業者に因っても価格の違いが出て来るもので、それを〝変だなあ……〟と勘繰るには、鮮魚の仕入れの経験を積んだ者でないと相場勘は掴めない。善幸は、その仕入れ値と質の面倒な関係の説明はせずにズバッと切り出した。
「俺、料理長から聞いたんですよ、崔のこと……」
「崔? 奴は何でも無難にこなすし、経験を積んでるからスキルは高いよな。これまで、ミスをしたことなんてみたことないぞ。反面、誤魔化しも上手そうだけど。あれれ、もしかして、そっちか?」
「実は、仕入れ業者から金をもらってたんですよ。業者を固定する計らいの見返りと、食材の質を落としたその差額なんですけどね」
「崔の性格は未だによく分からないけど、そうだったのかあ……。でもよ、隠してないで早く言えよ。知ってるのは倉持だけか?」
「俺だけだと思います。知ってても人に言えることではないから」
「それもそうだな……」郷原は考え込んだ。
「郷原さん、続きがあるんですよ」
「続き?」思わず、息を止めた。
「料理長が香港へ帰った後、暫くして〝変だなあ〟って思うようになったんです」
「ということは……」郷原は直ぐに分かったようだ。
「崔が、性懲りもなくまたやりはじめたんですよ!」
「でも、どうしてわかったんだ?」
「勘です。でも間違いない。信じてくれないなら仕方ないですけど」
「そりゃ、信じるけどさ、証拠が欲しいところだよなあ……」郷原は、証拠を隠しているのなら教えてくれと言わんばかりの顔つきをしている。
確かに、そう言われても立証出来ることは何一つなかった。料理長からこの話を聞いた時も「立証できるものは何も無いんだ」と言っていたのを思い出した。
そこで、
「山下さんから仕入れ先を教えてもらって、直接行って確認してみるっていうのはどうです? そんなことぐらいしか思い浮かばないなあ」と善幸は言ってみた。
「業者は言わないよ、言うはずがない。それに、上手く証拠を掴んだとしても、どうするんだ?」
「オーナーさんにチクるってことになるのかなあ」
善幸には顔見知りのオーナーが一人だけいた。三ケ日オーナーだ。料理長が居た頃、そのオーナー宅へ、何度か一緒に小鯵の南蛮漬けを届けに行ったことがあった。ある時、玄関先で、手短ではあったけれど、料理長が「彼は、将来の料理長ですから」と、冗談を交え紹介してくれたことがあった。
三ケ日オーナーは、物腰の柔らかい人だった。料理長が辞めてからも、善幸は今だに三ケ日オーナーから頼まれて、小鯵の南蛮漬けを届けに行くことがある。
考えた末、郷原の見立てはこうだった。「それはどうなんだろう。チクったところで、俺たちに何かメリットがあるのかな。崔が辞めさせられたとしても、奴にくっ付いている連中が六人残っているんだぞ。その中から料理長としてオーナーたちが抜擢するようなことはないにしても、体制は変わらないと思うな。よくて現状維持か。俺が思うに、俺たちってさ、今居る職人たちからすると、邪魔な存在なわけよ。そんな現状で、奴らの親分がチクられたという恨みものっかって、連中の本格的な嫌がらせが始まるんじゃないか?」
「だとすると、崔を追い出すかどうかの問題ではなさそうですね」
「俺たちの方が追い出されることも考えておいたほうがいいかもな……」
「郷原さんっ、まさか辞めるなんて考えてませんよね?」
「佐世保に帰って、小さな中華屋を親父と喧嘩しながらやるつもりはまだないよ。それに、いきなり辞めたりはしないさ。おまえ一人を残すことになるだろ。辞めるにしても、お互い目途を付けてからだな……」
善幸は、郷原に強い仲間意識を感じた。彼は、しっかりと先輩をやってくれていたのだ。しかし、彼には郷里に逃げ場があった。
自分だけが取り残され、厨房の片隅へと追いやられていく不安……。脳裏によぎったことは〝自分の店を持たなくてはいけない〟という危機から脱却する一か八かの挑戦だった。それは、これまでも頭の片隅にある軽いノリのライフプランでもあったのだが……。
突然、郷原は気絶したかのように寝てしまった。善幸は郷原の靴下を脱がせベッドに寝かせた。
善幸は、郷原のアパートを出た。
善幸は最寄りの駅へ向かっている――。
この周辺には独身の男しか住んでいないような古いアパートが建ち並んでいた。黴臭い湿気った空気を吸いながら歩いていた。郷原も居なくなったら……。これまでの重苦しさに寂寥感がのっかってきた。
善幸は店に向かっていた。昨日は善幸が休みで、今日は郷原が休みの日だった。
まだ店には誰も来ていない。今日のランチの下準備は、自分一人でやらなければならなかった。
下準備に入った。通常、決まり事のように野菜以外の下拵えは、郷原と善幸がやっていた。ランチタイムの売上げの下限は二十万円。これまで、ランチメニューが五種類から四種類に減っても二十万円を下回ったことはなかった。郷原もこの下限は意識して仕事をやっていた。彼は、范料理長の在任中に、范の型破りなやり方で、売り上げを伸ばしてきたことに敬意を払っているようだった。
しかし、その痕跡も今では昼の十一時三十分になると、店頭にスタンド看板として出す『週替わりランチ』しか残っていない。これも無くなってしまえば、この店から范料理長の存在が消えてしまうような気がしてならなかった。だから、絶対に残さなければいけない。善幸は、そんな強い想いを抱きながら仕事をしていた。
百二十人前の豚肉をスライスしていく――。次に下味を付けていくため、長く連なる調理台の上にアルミのトレイを並べた。このランチメニューを提供し始めた頃は、六十人分しか用意していなかった。ところが、週替わりのランチメニューの一つではあるのだが、お客さんの要望で夜のメニューとしても組み込まれることになった。それは、和風と四川風味の二種類の生姜焼き定食だった。生姜焼きと言っても、四川風のものは、豚肉にブレダーパン粉を付けて一度軽く揚げてから甘辛いソースで絡める、当にご飯のおかずにはぴったりの料理だ。それを考案した善幸としては、二晩寝かせた各々のソースと肉との相性の良さをお客さんに味わってもらおうと思い、考えたものだった。しかしながら、この料理、二種類のソースさえ作ってしまえば、なんちゅうことはない手間の掛からない一品料理だった。それが、昼夜の時間帯を問わず、リピート率の最も高い人気メニューとなってしまっていた。
「もう開店するのか? 準備万端だな、倉持。一体何時に入ったんだ?」
厨房に入ってきた崔が、調理台に並べられている食材を見て言った。その後ろに山下が立っていた。
「倉持さん、身体壊しますよ」山下も声を掛けてきた。
崔に対し、皮肉を込めて善幸は応えた。
「一人でやるつもりじゃないと、ランチに間に合わなくなりますからね」
「頑張り過ぎは、身体に悪いですよ」山下が言った。
范料理長が居た頃は、大口の宴会が入ると、山下と予算の打合せのため一緒に居る機会が多かった。今は崔が料理長なのだから一緒に居てもおかしくはない。この数年、善幸は山下と話しをする機会もなくなっていた。宴会のメニューや予算に係わることが無くなったからだ。
范料理長が辞めた直後、山下は、香港での新規オープンのために食品商社をやっている彼の父親が、仕入れのことで相談にのってくれていると話してくれたことがあった。あの頃は、料理長のことで山下と会話が弾んだものだった。料理長が店をオープンさせるのは、香港へ帰ってから一年後かと思っていたが、先月掛かって来た電話では、ネイザン・ロード沿いの店舗の賃貸条件が厳しく、資金繰りに難航していると言っていた。どうしても、料理長はその通り沿いの出店に拘っているようだった。
融資は限界まで借りていて、もう義父と二人で働いて工面するしかないらしい。その為、後三年は掛かるとのことだった。その他のお決まりの話は、ランチの創作メニューのアドバイスと美乃里の身体の具合、それと「さよりは、来年高校受験じゃないか? 幼稚園の頃に会ったきりだ。早いもんだなあ……」
善幸は、今度掛かってくる電話で、料理長に伝えようと思っていることがある。それは、「俺、後三年で店をオープンさせますから、いよいよその準備をしようと思ってるんですよ。どうします、料理長?」三年を強調しようと思っている。それを聞いて、きっと料理長は「おまえがオープンする前に、派手にやるから心配すんな!」きっとそう言ってくるに違いない。
この日、仕事が終わり帰宅した時、何気に〝店を持つことにしたから……〟そう美乃里に言ってみようかと思っている。じっとしてはいられなかったからだ。 (つづく)




