―麻子の深淵―
やっとメンバーの一人である和泉君が登場してきましたが、厨房でのある事件の、そのその後より順次他のメンバーが登場してくることになります。そして、その関係性が……。
【お詫び】
麻子を舞子と誤って書き込んでしまった箇所があるかもしれません。舞子➡麻子です。因みにどちらも昔の彼女ではありません。
第四十二話
―麻子の深淵―
由紀子さんと義父、二人を観察していると、つくづく不思議な夫婦だと思ってしまう。揃って歩けば、当に工事現場帰りのちょいデブな中年作業員と、昼下がりにポメラニアンを抱え青山公園を散歩するご婦人とのツーショットとなる。駄目押しで〝麻子の出生〟の秘密を知ってしまったら、魔訶不思議な夫婦と言わざるを得ない。相反し、善幸だけが途方もなく高い視座から、一途に思い合う素敵な夫婦であることを熟知していた。日常に埋もれる双方の姿からは、人の心を揺さぶる所以はみえてこなかった。
麻子はさよりの手を握って歩いている。美乃里は先頭を歩いている。商店街の方向へ向かっていた。
どうやら以前親方の店だった前を通って行こうとしているようだ。
〝ガード下〟の交差点に差し掛かった。勢いよく自転車でこのガードをくぐり抜けていく酒井のおばちゃんの姿が思い浮かんだ。この交差点は、惣菜屋からはじまる商店街の入口でもある。誰か居ないかと、美乃里が立ち並んでいる店を覗いて行く――。しかし、店頭には誰もいなかった。十年一昔と言うけれど、一人娘の多いこの商店街から、余所者が彼女たちをさらって行ってしまったかのように静かだった。午後二時を過ぎれば、飲食店と同様に商店街も一息つく時間帯ではあったが。
美乃里は、花屋の十メートル手前から、かつての親方の店にゆっくりと近づいていく。閉まっているはずの店先に自転車が五、六台止まっていた。皆が〝その店〟の前で立ち止まった。さよりと麻子が暗い店内を覗こうと更に近づいた。
「お父さんとお母さんって、このお店で働いてたんでしょ?」さよりが誰かに訊いている。
「そうだよ。喧嘩しながらね、多分……」代わりに、知らないはずの麻子が応えた。
善幸も入口へ近づいていき、さよりの後ろに立った。近づくにつれ判明していく事実。経年劣化でもともと外壁は燻っていたが、それが思いっきり燻っていた。そして、窓枠の艶を消している埃。木製扉のめくれ上がった塗装……。今昔の感に堪えなかった。
善幸は、綴じていた厚い記憶の頁をめくっていく――。
麻子がさよりに話し掛けていた。麻子にとっては日常的に利用している商店街だった。
「ここ、いつも真っ暗だよねえ。こんなに駅から近いのに、誰も借りる人がいないなんて不思議。あ、なに? 暗いのに白さが際立っているものは? 不気味っ、ネズミを狙ってる猫みたい。板前さんの調理服? もしかして、親方のじゃない?」
「ええっ」さよりが覗き込んでた体を起こした。
麻子は、店に食べに来たことがあるらしい。しかし、善幸にはその記憶はなかった。
善幸も近づいて、薄汚れている扉のガラスを指でぬぐった。そこにあったのは店の暖簾だった。レジ台の上に無造作に置かれている。麻子が言うように、暗いのにそこだけ光が当たっているかのようだった。
善幸が言った。「麻子、聞こえないか? ドンッドンッザクッって、骨を叩き切る音。壁の向こう側に厨房があるんだ、そこで親方が魚を下ろしているんだよ、きっと……」
「じゃあ、親方、生きているんだあ……」麻子がそう言うと、さよりの様子を窺っている。
「やめてっ、親方って鬼みたいな顔してるんでしょ? もう行こうよ!」さよりがおどおどし出した。
「さより、あの白いのは店の暖簾。だから怖がることなんかないの。親方はね、優しい人だった。お母さんにも優しくしてくれたんだよ……」
「そんなら、あたしにも優しくしてくれたかな?」
さよりのその問い掛けに、「勿論さっ」と善幸は笑顔で応えた。
由紀子さんが、善幸がぬぐったガラスのところから覗こうとしている。由紀子さんの顔が近づいて来た。一瞬、善幸の呼吸が止まった。互いの顔をくっ付けるようにして覗き込んでいると、
「食べてるときね、親方と目が合ったことがあるのよ」由紀子さんがそう言った。
店に食べに来たって? 一体それは何時のことなんだろう。当然、その頃自分も居たはずだ。その手掛かりになることをさり気なく訊いてみることにした。
「そのとき、何を食べました?」
「細魚の刺し身定食だったわ。親方がね、この定食は善幸が作っているんだって教えてくれたの。まだ見たことないだろうから、厨房を覗いて来てみなって……。そのとき、善くんを初めて見たのよ」
由紀子さんは麻子を連れて何度か店に来ていたようだ。品定めされていたのだろうか。親方は何も話してくれなかった。
善幸は、自分の第一印象がどうだったのかを知るために、
「どうでした?」と訊いてみた。
「とても美味しかったわよ」
由紀子さんのお惚けも一流だった。
「俺って、人からあまり良い印象もたれないからなあ……」
美乃里と麻子が笑った。
何とも不可解な表情をしているのがさよりだった。
「あたしと同じ名前の定食なんてあったんだあ」
「さより、皆が美味しいって言ってくれる細魚の刺し身定食なんだよ、それにお父さんが作る定食なんだから」美乃里が〝さより〟という自分の名前を好きになってもらおうとしている。
「お父さんが作ってたのかあ、ならいいや。でも偶然同じ名前なんて可笑しいね」
「魚の細魚をみたら、きれい過ぎて吃驚するぞ。人間のさよりも負けてないけどな」義父は、偶にポンッと相槌を入れるように皆の話に参加してくる。
どうやら、さよりと名付けた理由を義父も知っているようだ。美乃里は一体どこまで話しているのだろう。
その頃の話に、再び由紀子さんが触れてきた。
「そう、店に酒井さんが一緒に働いていたでしょ? 彼女とはね、何度かお話したことがあるの。色々と相談に乗ってくれて。ほら、あの頃はあたしと美乃里がよく喧嘩してたじゃない。どうしていいかわからなくてね……」
「へえ、そうだったんだぁ」美乃里は、知らなかったと言わんばかりの顔をしている。
「彼女とは今でも個人的なお付き合いがあるのよ。近いからスーパーでもよく会うのよ。つい話し込んじゃって、あたしたち気が合うのね」
当時は美乃里も酒井のおばちゃんに相談していた。不倫した挙句、自分の子どもを置き去りにして失踪したのに、突然ふらっと帰って来た由紀子さんをおばちゃんは責めなかった。おばちゃんは、由紀子さんが仕組んだ〝荒療治のトリック〟を由紀子さんから相談を受けた段階で見抜いたということだったのだろう。
「どんだけ覗いていたって焼肉はメニューにはないって親方が言ってるぞ。皆が見てたんじゃ親方も仕事がやり辛いだろ。そろそろ行こか? 三時に間に合わなくなる」義父が言った。
そうだった、善幸は今判った。一番最初に〝荒療治トリック〟を見破った人は酒井のおばちゃんでも自分でもなかったのだ。その人は、今、三歩下がったところにいて、その位置から自分の〝家族〟を眺めているのだ。
善幸はもう一度店内を覗いた。そして、瞳を激しく動かす。忽然と甦った記憶のさなか白く輝く栞を挟み込み、続きを残したままその場を立ち去った。
焼肉店に入ったのは三時ジャストだった。さよりが「ぎりぎりセーフでしょ?」と現れた店員に言うと「四時までですけど、よろしいですか?」と言われ、皆で顔を見合わせた。
せっかく朝飯も喰わずに腹を空かせて来たというのに残念! との思いが皆の顔に現れている。さよりのしょげた顔が可愛いかった。
「さより、学校の給食は一時間もないんじゃないか?」義父が言った。
そう言われて思い直したさよりは、肉が並んでいる冷蔵ケースに近い席へと走った。
麻子とさよりは、すかさず大きな皿に牛タンとカルビをてんこ盛りにして持ってきた。「猛獣が喰う餌みたいだな」と大人たちに言われながらも、さよりは、トングで肉をごっそり掴まえると熱してある網にのっけた。ジューッ、音と共に蒸気が立ち上った。
「六人分だもん、まだ足りないくらいだね」お腹が空いているさよりは、トングを麻子に渡した。
焼き方は麻子姉さんにお願いしたようだ。
麻子は、広げられるだけの肉を残して、取り過ぎた分を皿に戻した。左手にトングと右手に箸を使って器用に広げて焼いている。
「育ち盛りの男の子じゃないから、食い放題じゃなくてもよかったんじゃない?」美乃里が言った。
「選ぶ愉しみってあるだろ。さよりは、まだじっとしていられない年頃なんだよ。それに、北口の焼肉屋の前を通ったけど、客は入ってなかったから、どうなんだろうかと思ってね。さよりが中学生になったら考えようか。入学祝いには、新宿の叙々苑にでも行ってみるのもいいかもしれないな」義父のこの思いつきに誰もが賛成した。
麻子は忙しい。皆の皿にタレを注いでいる。また手際よく肉をひっくり返している――。
麻子は焼けた肉をさよりの皿にのっけると、次々に皆の皿に配りだした。麻子は義父と由紀子さんと美乃里にビールを注いだ。まるでこのテーブルにだけ店員が付きっ切りでお世話をしてくれているみたいだ。
善幸は見ていられなかった。
「麻子、いいんだって、勝手に取って食べるからさ。立ってないで座って、座って」
だが、麻子は大丈夫と言わんばかりに笑みで返した。その後も皆のお世話を止めることはなかった。
時折、善幸は麻子の顔を見ていた。初めて会った頃の、麻子の笑顔は今も健在なのだが……。
「お姉ちゃん、もうカルビは飽きたよ」さよりが甘える。
「それじゃあ、次は何がいい?」と麻子が訊いている。
麻子はまだ二口ぐらいしか食べていなかった。
さよりはセンマイがいいと言った。「えっ、食べられるの?」と麻子が訊き返した。思いもよらぬ気持ち悪い部位を言うものだから、麻子は戸惑っていた。
それでもさよりが、「食べてみたいの」と言うから、仕方なさそうに麻子はそれを取りにいった。
由紀子さんが、グラスを持ち、一気に傾けていく姿が滑稽にみえた。着物でバーベルを持ち上げる姿のイメージか。唇をグラスから離すと泡は付いていなかった。
それを見つめながら、善幸は麻子のことを尋ねてみた。
「由紀子さん、麻子の成績はどうなんですか?」
「そうなのよ、麻子は来年大学受験するのよねえ。どうなんでしょう」
これに対しては、義父が口を挟んだ。「かあさん、他人事みたいなこと言うなよ。でもなんだな、他人事のように言えるってことは、分かるだろ? 善くん」
どっちかだが、勿論善幸は、
「優秀だってことですよね」
麻子がセンマイを焼き始めた。麻子の両手が再び忙しくなった。
「どうなんだ? 麻子」と義父が訊いている。
義父の瞳に映っている麻子は、かつての美乃里の姿なのか……。善幸はそこに均しさを感じた。
なんと、麻子は眉間に皺を寄せて、
「お父さん、自分の娘なんだから優秀に決まってるでしょ! 自信もってよねっ」はじめて聞く彼女の力のこもった声。
そこには〝事〟を難なくこなしていこうとする脳が働いていた。彼女は優秀なのだ。合点がいったのも束の間、ある気迷いが生じてしまった。それは、麻子が今言った思い掛けない一言〝自分の娘なんだから〟だった。善幸はそこに脆さを抱いた。美乃里と麻子が日頃呼んでいる血縁関係に無い〝お父さん〟、所詮それは拵えものではないのかと……。二人が一生懸命呼べば呼ぶほど、そう感じてしまうのだ。
「麻子、お父さんはね、優秀であってもなくても、どっちでもいいんだよ……」
義父は麻子を掌にのっけた。麻子だけではなかった。今も美乃里を掌にのっけているのだ。美乃里が結婚披露宴で義父から渡された通帳には、今でも毎月五万円が振り込まれていた。と言うことは、十五年以上は積み立てられてきたということになる。
まるで美乃里が弁膜症になった責任は自分にある、そう責め立てているかのように思えてならなかった。断ったとしても、義父は、彼女が心臓の手術をし元気になるまで、その積み立ては続けていくつもりなのだろう。
義父は、“両手”を塞がれながらも、その重さに耐えているどころか、当時と変わらぬエネルギーを供給し続けていたのだ。
一口ビールを飲むと、さよりを見ながら頻りに笑みをこぼしている不動の義父。知ろうとすればするほどぼやけてしまうその背景。そこには、重さや大きさでは量れない悠然があった。善幸は、義父と二人の娘とのそんな強い絆を忘れかけていたようだ。
店に居た時間は一時間を超えていたが、店員は「申し訳ありませんが……」とも言わず、食べ終わるまでそうっとしておいてくれた。
店を出た後、一旦立ち止まり、左右の商店街通りを見ていると、
「お母さーん、こっちの商店街の方が、綺麗なお店がいっぱいあるんだね」お腹いっぱいで動きが鈍くなっているさよりが言った。
確かに道幅も広めだし新しい店舗が多かった。明るく清潔感たっぷりの店ばかりだ。南口には改札口を起点として、線路沿いに商店街が二つあった。
「そうねえ……、でも、お母さんは向こうの商店街の方が好きだなあ」
美乃里は、昔ながらの店が立ち並ぶイケてない商店街へ目を向けた。
「お父さんとお母さんが働いてた店があるから? だからそう思うんでしょ?」さよりは自信ありげに訊いてきた。
当たりかどうかを善幸に答えてもらおうと、美乃里は黙っていた。
(つづく)




