―悠がいない厨房―
何も起こらない、始まらない訳がなかった。
第四十話
―悠がいなくなった厨房―
なんと、猪之良が、一週間前に入ってきた年上の鈴木三郎を叱っていた。
「三郎っ、鰺をいつまで弄ってんだよ!。手のニオイ、嗅いでみな」
これは、猪之良がこの店に新人として入ってきた時に、善幸から注意されたことだった。彼は同じことを先輩面して言ったのだ。
それにしても、遠慮の無い猪之良の鈴木に対する態度は兎も角、呼び方が善幸としては気になっていた。
猪之良は、手を洗っている鈴木に、まな板も洗うように指示した。
「いいか、腹骨のそぎ落し方がダメなんだよ。こうして探りを入れながら……ここで刃を立てて、カット。そして、シャー、ほーらな、綺麗に皮が剥けるだろ」
猪之良がやってみせた。
「なるほどお、わかりました」鈴木は素直に応えた。
翌日から、料理長は休みを取り、三日間香港へ行くと言っていた。最近、厨房に居ることも少なくなった。その理由は、これまで贔屓にしてくれていたお客さんのところへ感謝の気持ちを伝えるための挨拶回りだった。身の回りの雑用で慌ただしくなってきた料理長。少し苛立っているようにもみえた。
先月から、料理長は週毎に替えているランチメニューの品数を五品から四品に減らした。自分が居なくなったら五品を考えるのは無理だと判断したのだろう。
数日後、その影響が現れた。ランチを食べに毎日のように来てくれたお客さんが一割減ってしまったのだ。客からしてみれば、昼飯とは言え、写真入りの華やかだった五品のメニューが四品になれば、見劣りしてしまうのは一目瞭然。食事の愉しみと食欲さえ半減させてしまうくらいの印象を与えてしまったのかもしれない。善幸は、この先ズルズルと客足が減っていくのではないかと危惧した。
ランチの時間帯に入った。声を掛け合いながら注文をこなしていく職人たち。無駄な会話と動きを失くすことが作業上の効率を上げ、怪我事故を防ぐことに繋がっている――。
中華レンジの燃焼音が止まった。職人たちは、一通り片付けを済ませた後、午後の休憩時間に入った。
そんな静けさの中で、突然、厨房内に張った声が響き渡った。
「みんな、聞いてくれ、料理長が明日香港から帰って来たら送別会をやろうと思う。協力してくれるよな」提案したのは崔だった。
あり得ない提案に善幸は愕いた。崔に労いの心などあるはずもないと思ったからだ。
翌日の朝、それを知った料理長は、皆の前で丁重に断った。なぜか――過去にこの店を去って行った幾人かの料理人がいた。出入りが激しい職場でもあるのだが、問題を起こして辞めた訳ではなかった。労働時間が長く、一週間に一度の休みが必ず取れるとは限らない職場環境では、身体を壊す者が出て来てもおかしくはない。そんな中、辞めていく者たちの送別会をやったことは一度も無かったらしい。人が辞めるということは、その穴埋めの者が入って来くるまでは、現在居る料理人たちで頑張るしかない。辞めてしまうとはいえ、国籍を問わず頑張ってくれた仲間だった。出来ることなら、誰もがやってあげたいと思っただろう。しかし、送別会に時間を掛けるくらいなら、その時間を職人の休みに回したいと料理長は考えたに違いなかった。だから、端っから責任者である自分の送別会をやってもらうことなど考えているはずもなかった。
それを知ってしまった善幸は、身内や知人まで招いてやってもらった盛大な八年前の結婚披露宴を考えると悄然となった。この異例なことが、禍根を残してはいないかと未だに気になっていたのだった。
善幸は、調理台の上で三日後に予約が入っているレセプションパーティの食材を拾っていた。甘鯛の入荷量を聞こうと辺りを見回した。そうだった、もう料理長は香港へ行ってしまったのだ。頼る人が居なくなったのだ……。
料理長に気づかれぬように準備し、強引に開いた送別会だった。本人の送別会でありながら、途中でその姿が消えてしまった。それは、後味の悪い不可解な去り方だった……。
今頃、料理長は、香港の夜景を見ながら、家族と平穏な日常を過ごしていることだろう。そのことが善幸の寂しさを紛らわせた。
仕事上、これといった変化はなかった。善幸は、料理長の教え通りにやればいいんだ、そう自分に言い聞かせて日々の仕事をこなしていた。
週替わりの昼メニューは、当分の間は料理長が引き継ぎとして考えてくれた創作料理を工夫さえすれば何も問題はなかった。その仕事は郷原と善幸の二人に任されていた。
ところがある日、再び料理長に返り咲いた崔が言ってきた。「週替わりの昼メニューを続けたいなら、おまえたち二人でやったらどうだ? しかし、それには条件がある。責任は全て自分たちで持てということだ。嫌だというのならやめてもいいぞ」と、二人を冷たく突き放した。
そもそも崔は手間のかかることは一切やろうとしない。自分が料理長だった頃の体制に戻そうとしているのは見え見えだった。
善幸は不安感を抱いた。まだ一週間しか経ってないのに、料理長の作り上げてきた体制が跡形もなく消え去っていこうとしていることに――。
不安はまだあった。それは、料理長の創作メニューがすべて外されれば〝崔ライン〟で事は足りてしまうということだった。そうなると、郷原と善幸の料理人としての存在価値は無くなり、磨り減ったら取り換えればいい歯車と同様になってしまう。嫌な予感がした。今後の職場の人間関係はどうなっていくのだろう。
郷原が声を掛けて来た。
「元気ないな、倉持。頭ん中で変なもの、煮込んでないか? 煮込み過ぎると喰えなくなるぞ」
隣で、今日下ろしたばかりの鍋を郷原が空焼きしていた。
善幸が郷原に擦り寄り、「郷原さん、范料理長って大きな存在でしたね」と耳打ちした。
「居なくなると尚更だよ。料理長と倉持って、師弟以上の関係だったもんな。でもさ、そんなこと言ってられないぞ。猪之良と鈴木が居るんだから。猪之良は仕事を覚えるのに時間が掛かり過ぎるし、鈴木は素直でいいんだけど、頭で考えていることと行動がマッチングしてねえんだよなあ。料理長は俺たちに試練を残していったのかな……」
郷原も感じているようだった。素直さだけでは先へは進めないということを……。
善幸が、「頭を切り替えないと自分がやられそうですよ、郷原さん」と言った矢先、当人同士のやり取りが聞こえてきた。
「三郎、裏の倉庫から油を二缶持って来てくれ」
その声は厨房の隅々まで行き渡る猪之良の声だった。
猪之良は、相手の歳が十ほど離れていてもお構い無しの命令調で言ってしまう。その声の通り道を、毎度、鈴木は大人の対応で掃除しているようで、別段、当事者同士でトラブルになるようなことはなかった。
「猪之良さん、一度にですか?」
鈴木は、無理だと言わんばかりの顔をした。油の一斗缶は十七キロある。それが二つ。軍手しないと指に食い込み、痛くて厨房までは持って来れない。善幸は、柔道をやっていた猪之良の身体と鈴木の身体を見比べた。ラガーマンと角ばったソーダ味の棒アイス、筋力の差は言わずもがなだった。
「いいよ、俺が行くわぁー、おまえはフライヤーの油を抜いておいてくれ」猪之良は、すんなりと事が進まない相手に苛ついていた。
善幸が言った。「鈴木三郎君、一つずつ運ぶより両手で二つ持った方がバランスがとれて運び易いんだよ。先ずやってみろよ。やる前から泣き言は言わないの」
仕舞った、もっとガツンと言うべきだった。先ずやらせること、中途半端な助言など不要だったのだ。
「そうかもしれませんね。じゃあ、ちょっとやってみますね」
鈴木は倉庫へ向かった。
善幸は、その後ろ姿を目で追った。後輩たちの指導なんて自分に出来るのだろうかと思いながら。
二人に辞められてしまっては、教えてきたことがすべて無駄になってしまうと善幸は考えた。手で寒天を握り潰すような伝達は伝える側のストレスとなり、それが深々と積み重なっていくように感じられた。それに比べれば、週替わりのランチメニュー作りなんぞ苦ではないと思えてきた。
郷原がコンコンッと杓子で鍋を叩いた。
「だからぁ~、鈴木も丁寧に教えていかなきゃいけないってことだな。でも鈴木って、居酒屋を辞めたんじゃなくて、辞めさせられた口じゃね?」
「郷原さん、今、俺の頭を殴りました?」
善幸は、ついた溜息が深すぎて一瞬酸欠になったかと思った。
「軽くな……」
目線を鍋底に落とすと、郷原も溜息を吐いていた。
それから二年の歳月が流れた。その間、鈴木が辞めた。彼は、素直さの中に〝重たい餡子〟を詰めないまま去って行ってしまったのだ。すべては俺の所為……。善幸は自分を責めた。
その一年後、猪之良のお父さんが亡くなった。一週間ほど休暇を取り故郷へ帰っていた猪之良が店に戻って来た。彼は、来月、徳之島へ帰らなくてはならない理由を皆に語った。
――漁師だった父親が脳梗塞で亡くなってしまったので、その跡を継ぐことになったという。問題なのは、一昨年の大型台風でやられた漁船の修理代金だった。父親は、十年間元気で漁師をやったとしても返せるか分からない額の借金をしてしまったのだ。母親からそのことを明かされ、決断せざるを得なくなったという。
善幸の「おまえが漁師を継いでも、返せる額じゃないだろ?」との質問に、猪之良は「このまま料理人を続けていったら、借金がもっと膨らんでいくだけなんです。船を売っ払っても二束三文だし……。もうやるっきゃないんですよ。母ちゃんにも『俺が父ちゃんの船に乗って、高級魚をいっぱい獲ってきてやるから大丈夫、安心しな!』そう言っちゃったんですよ。中学生の頃から夏休みになると父ちゃんを手伝うため船に乗ってたから、近海の良い漁場はわかってます。俺、こんな借金ぐらい返せる自信はありますよ! 倉持さん、高級魚のイラブチャーやアカジン、クチジロって知ってます?」彼は、まかない飯を頬張りながら徳之島近海で獲れる高級魚の話を、訛りを交えながら話しはじめた。「一対一の対決! 高級魚を獲る醍醐味って金だけじゃないんですよ!」彼は得意げにそう語った。
強風で煽られた波が、更に突風で持ち上げられる。その大波を船首が砕き進んで行く。料理人とは違うこの職種は、日々命がけの勝負事なんだということは理解できた。素地はあるのだろうと善幸は思った。
猪之良は、間もなくして故郷へ帰って行った。例外なく、彼の場合も送別会はやらなかった。と言うより、やってあげられる状況ではなかったのだ。その後、補充として料理人二人を雇い入れたが、崔の郷里の中国人だった。その後、郷原と善幸は圧し掛かって来る仕事に苦しめられていった。
今でも、料理長から月に一、二回自宅へ電話が掛かってくる。善幸の休みは不規則だから偶にしか話せなかった。
善幸は、心配させないように、崔とは折り合いを付けながら上手くやっていることだけを伝えた。そんなことより、料理長の近況を知りたかった。香港での店のオープンは何時になるのか、来年? それとも再来年だろうか。さよりも連れて、早くお祝いに駆けつけたい衝動に駆られる。だが料理長はその件をなかなか話そうとはしなかった。
ある日、料理長は漸く声を曇らせ話してくれた。あと五年はかかるだろうとのこと。善幸にとっては予想外だった。戻ったら、一、二年後にはオープンすると思っていたからだ。香港へ帰ってからもう四年の歳月が流れている。資金繰りに難航しているんだ、と受話器の向こうから料理長の沈鬱な面様の画像まで送られてきた。
結局、運転資金を含めた総額は、当初見積もっていた額の三割オーバーになってしまったらしい。これから義父と二人で働いて、その額に届いた段階で始めることにした、仕切り直しだな……と話してくれた。
料理長はどんな店をオープンさせるのか、愉しみでもあり、善幸は大変興味を持っていた。何事にも尻込みせず当たって砕けろ、の料理長なのだから、外国人観光客の多い香港でやろうとしている以上、中華にとらわれず独創的な料理で勝負しようとしているのは間違いない。手伝いに行きたいと思うが、今は遠くから眺めていることしか出来ないのが歯痒かった。
善幸は、受話器を強く耳に当てていた。心の中で「料理長、頑張れ!」と叫びながら……。
(つづく)




