―范 悠の思惑― (用意周到の力)
第三十九話
―范 悠の思惑―
(用意周到の力)
あと一年後に、料理長はこの店から居なくなってしまう。香港は近い、などと言われても行ったことのない善幸にとっては未知の遠さだった。喜々一緒に仕事をした親方との日々――。それは、懐かしむ昔日となってしまうのだ。
半年前、善幸の下に入ってきた猪之良。歳は二十。美乃里より眉毛が濃かった。それだけではなく、出勤時に襟元から覗かせている胸毛も半端ではない。「良い体してるな」と訊いたところ「高校で柔道やってました」と答えた。彼は、高校を卒業した後、東京で運送会社に就職したという。辞めた理由は単純だった。料理が好き、だから料理人になりたい。将来の夢は自分の店をもつことだと言った。彼は、料理長から「善幸の指示に従って仕事をしろ」と言われたようだ。
猪之良は、善幸が同時に二つの鍋を火にかけて作業している時でも構わず訊いてくる。
「先輩、四川料理なのに何で干瓢があるんですか?」
「それはね、料理長の創作料理でよく使うんだよ。縛る時に重宝だから。こういったものって、あるようでなかなかないんだよ。言っておくけど、人が鍋を振っている時は近づいちゃダメだ」
猪之良が訊いてくる内容に因らず、締め括りに注意を促すことが多かった。彼が来てから、善幸はどんな質問にもきちんと応えてきた。しかし、今でもしょうもないことを何度も訊いてくる。
「先輩、三段せいろ、今日の宴会で使いますよね、どこにありましたっけ?」
「昨日のヴィラ美容室の送別会で使ったよな。昨日のことだぞ! おまえが仕舞ったんだよ」善幸が咎め気味に言うと、
「そうでしたっけ?」猪之良は、怒られ気味の注意をされても気にしないタイプなようだ。
「あそこの吊り戸に入ってるよ……」善幸は指をさした。
その五分後、彼は何かを探している。
「先輩、俺の包丁見ませんでした?」
「見たよ、見た見た。えーとね、おまえの背中に刺さってねーか?」
一瞬、彼は自分の背中を見ようと首を回した。その流れで身体も回転させはじめた。皆の笑いを取ろうとしたようだ。職人たちがクスクス笑っている。が、善幸はそれを無視した。
「倉持、そうイライラするなって」郷原が善幸の肩を叩いた。
「俺、焦ってるんですかね……」
一年って早い。泊ったあの日以来、日々料理長が居なくなってしまうことを考えてしまう……。
「この前、猪之良の面倒は郷原も見てやれって、料理長に言われたんだ。倉持一人じゃ大変だからって」と言いながらも郷原は手を動かしていた。
「ありがとうございます。自分のことだけで手一杯なんですかね、俺……」
この半年で、善幸は、猪之良を食材の下処理が完璧に出来るレベルまで高めておきたいと思っていた。
一方、料理長は、善幸がこの店には居なくてはならない存在になることを願っているに違いなかった。立場は違うにしても、その想いと焦りは因果な関係にあるようだ。
「せんぱーい、油きりのでかいの、どこにありましたっけ?」そう言って、また善幸のところに猪之良が駆け寄って来た。猪之良の出身は徳之島。人懐っこい性格だった。
新人の猪之良が入ってきたとは言え、善幸もまだ駆け出しである。だが、手際の良い包丁捌きは先輩たちから見澄まされていた。中華包丁は料理長から渡されていたが、使ってはいない。料理長も使っていなかった。善幸は、亡き親方を介しての料理長との絆を和包丁を通して感じていた。
料理長が一箇月後に香港へ戻ることが、オーナー達も出席した月例のミーティングで全員に知らされた。その時「ええっ、何でですか?」と、職人たちの口々から驚きの声が上がった。前もって知っているのは、郷原と善幸、そして経理の山下だけだった。料理長は、ぎりぎりまで他の職人たちには知らせていなかったのだ。
このミーティングの一週間後のことだった。郷原と善幸は、料理長から指示された仕事を分担しながらやっていた時、料理長の声が厨房で響いた。皆の手が止まった。全員、料理長へ目を向けた。
「おまえら、中国語で話すな! 中国語が分からない者もいるんだぞっ、いいか、仕事中に中国語で話すのは禁止だっ、わかったな!」
命令だと言わんばかりだった。料理長のこんな言い方をこれまで聞いたことがなかった。
厨房で、職人たちが中国語で話しているのは今が初めてではない。善幸は、料理長が厨房に居ない時によく耳にしていた。料理長が知らなかっただけだったのだ。というか、料理長が居る時は、中国語で故意に話さなかったとも思える。当然ながら、料理長は流暢に中国語を話せた。
副料理長“崔ライン”の一人が、
「すみませんでした。これからは日本語で話すようにします……」と呟くような声で言った。
そこに、逆らわずに黙っていなければならない副料理長の崔が口を開いた。
「料理長がこの店に来る前は、中国語でも話してましたよ。言葉って自然に出て来るものですよね。偶々話してただけじゃないですか。なのに、そんな言い方しなくてもいいんじゃないかと思いますよ」
これは反論なのだろうか、と善幸は首を捻った。
料理長が、崔のところへ近寄って行った。
湯気が立ち上る静まり返った厨房で、料理長と崔の口論がはじまった。
「確かに、言い方は不味かったかもしれない。それに関しては謝るよ。だがね、中国語が分からない職人もいる。日本語なら皆が分かるよな? だったら、皆が分かるように日本語で話したらいいんじゃないか?」
これに対し、崔は、
「私の知っている中華料理の店ですけど、それも一軒や二軒ではありません。そこでは中国語も日本語も飛び交ってます。ここは日本だからという理由で言葉に制限を付けるんですか? 料理に国境なんかありませんよ。偏見があるように感じますけどね。それに、料理長の言っていることを裏返せば、この店では日本語が分からない者は雇わないってことになりませんかね?」
職人たち全員がこのせめぎ合いの結末に注目している。
「他の店のことはどうでもいいじゃないか。例えば、仕事場で二人が他愛も無い話を長々と中国語で話していたとしよう。傍で仕事をしている同僚には話が分からない。そんなことが仕事場で繰り返されていたとしたら、何の話をしているのだろう、もしかしたら自分のことかもしれない、と次第に気になってくるんじゃないか? 少なくとも良い気分はしないよな。そんなことが続けば誤解を生んでしまう。そうなると、仲間意識は薄れていってしまうことになる。崔さんよお~、プライベートの時間じゃないんだ、そうは思わないか?」かかって来い! と言わんばかりに料理長は右の掌を腰に当てた。
〝逆らえない立場〟の崔……。彼が口を開く時はいつも、それが些細な主張であろうと、料理長は楔を打ち込む。このことが〝崔ライン〟の職人たちを萎縮させているようだ。
料理長は、崔を孤立させようと思っているのだろうか。副料理長の立場である彼としては、この屈辱を心の中でどう処理しているのだろう。その顔付きは無表情だった。
「わかりました。仕事中は日本語で話すことにします……」
この沈着なまでの崔の対応が却って善幸には不気味に思えた。
「俺が厨房に居ようが居なかろうが、それは徹底してくれよな。勿論、俺が辞めた後もだ!」料理長は念を押した。
職人たちは、何事もなかったかのように一斉に手を動かしはじめた。
この一件の後、料理長は厨房で善幸の名前を呼ぶ回数が多くなった。
「善幸、明々後日の祝賀会の食材拾っておいてくれ。予算はギリギリだからな。通常はプラス七パーセントみるけど、今回は三パーセントにしよう。しくじるなよ」
三十人以上の団体の予約が入ると、料理長は善幸に食材を拾わせるようになった。失敗は許されない重要な仕事だ。でも、善幸としては愉しい仕事だった。
善幸が厨房のセンターで作業をしていると、料理長が、
「善幸、おまえの考えた『カルパッチョ 活〆鯛の花椒&山椒の痺れ』これな、評判いいぞ。一昨日の歓迎会のお客さんが旨かったって言ってたよ。四川料理でこれを出してくるなんて勝負心があるってさ。この創作料理は、倉持という料理人が考えたって言っておいたから。しかしな、たとえ美味しくても同じものばかり出してたんじゃ現状に甘んじてしまうことになる。それも手抜きの一つだ。料理人って、酸素の薄い水槽で口をパクパクしている金魚と思えっ、いいな!」
料理長は、他の職人にも聞こえるようにそう言った。しかし、この「いいな!」で親方を思い出してしまった。
「料理長、お客さんには俺の名前を出さないで下さい」
「なぜだ? いいじゃないか、料理人の評価って経験年数なんかじゃないぞ。人によって、一年間の下積みの違いが如実に出て来るからな」
そう言うと、料理長は皆の方に顔を向け言った。
「皆も頭に入れておいてくれ。仕事の出来るものが現場を仕切る、そうでなくてはいけない。当たり前のことだ、そうじゃないか?」
誰も何も言わなかった。反論のある者は遠慮なく言って来いというスタンスは料理長の常套手段だった。
勢い付いた“ 郷原→善幸→猪之良”連帯ライン、そして経理課の山下。料理長は、香港に帰るまでの一月間でその結束力を高めるつもりでいるようだった。
午後三時、ランチタイムが終了した。職人たちが休憩に入る。同時に料理長から声が掛かった。
「郷原、善幸、事務所に来てくれ。打合せしよう」と。
それは単なる食事会。これまでは月に一回、多くて二回だったが、先週あたりから、料理長の用事がない限り山下も交えて食事をするようになった。
握りが美味そうに盛られている大きな寿司桶が二つ。テーブルの上に置かれていた。
「猪之良も呼びたいんだが、そうなると、あまりにも露骨だよな。あっそうそう、来週、新人が入ってくる。鈴木三郎っていってたな。居酒屋のバイトをやってたらしい。俺の見立てでは、機転が利きそうな奴だ。善幸より一つ上だったかな。仲良くしてやってくれ。お、美味そうなマグロだな、喰おう」
その新人を〝連帯ライン〟に組み込もうとしているのは見え見えだった。
「二人共、これから肝心要なことを話すから、耳の穴をかっぽじってよく聞いておいてくれ」
郷原と善幸が頷いた。
「勢いってな、途中で止まってしまうと、後は下流へ流されるだけなんだ。猪之良を育てるのはまだまだ時間がかかる。今度入って来る鈴木は、階段を三段跳びで上がれる脚力を持っていると俺は踏んだんだ。でもまあ、暫く見てみないとわからんけどな」
料理長は、自分が居なくなった後の店の体制がどうなるのかが心配で仕方ないのだろう。だから〝連帯ライン〟の職人でしか作れないメニューを増やしているのだ。常連客がその味を求めてやって来る。自ずと〝連帯ライン〟に頼るしかなくなる。手際よく魚を捌けるのは自分しかいない。料理長の話では、〝崔ライン〟は七人。こっちの〝連帯ライン〟は、新たに入って来る鈴木と経理の山下を含めれば六人だ。大きな気掛かりは、来月には料理長が居なくなってしまうことだった。
「いいか、自分が今やってる仕事って、他の職人で事足りるのであれば体制に影響はないよな。それでは個人としての価値は無いんだ。人数の問題ではなく、店を運営していく上で欠かすことのできない存在、そんな料理人が求められているわけだよ。そこでだ、個人というより、先ず俺たちのライン全体の強みを考えたい。即ち、それは、和と四川との融合を意識したグラデーション料理だ。火力を操りながら香辛料を使うも、一方で鮮度を生かした創作料理と合体ではなく融合させる、ということなのかな。芯まで火を通さず仕上げる料理の仕方って、分かるよな? 善幸」
「タタキとか湯引きですかね?」
すぐさま、あの頃親方と厨房で仕事をしている光景が頭に浮かんできた。
「揚げ方だって、中が冷たいままでカリッと揚げる方法もあるし。ステーキならレアとかミディアムか、でも肉類と違い魚介類の豊富さの利点と鮮度を生かせば、幾種類もの食感を愉しむ料理が考えられるよな。調理の仕方を加味すれば限りがない。和の料理人だった者が他の料理人になると、その経験をフルに活用しないと勿体無いじゃないか。だから、技量に関しては、〝崔ライン〟の職人たちより、断然俺たちの方が優位だ。ともあれ、提供の仕方も考えながら、お客さんに食の幸せを感じさせる方向へ導いていかないといけないんじゃないか?」
善幸は、マグロ三貫を平らげた後、鯛、北寄貝、シマアジ二貫を処分した。間に巻物を挟むと、今度はウニの軍艦巻きを摘まみ上げた。
郷原が言った。
「俺、フレンチをちょっと齧ってただけで、和食の経験はないんですよね……」
「出汁の取り方はマスターしてるじゃないか。大丈夫、俺のいる間は俺が教えてあげられる。それに善幸もいる。心配すんなって。おまえは先輩なんだから四川料理を善幸に教えてあげろよ。お互い出し惜しみせず協力していくことだ」
「わかりました、料理長。でも、先に日本料理をやっとくべきだったなあ……」
「一生懸命やってきたことって、成果がどうであれ、それは決して無駄なんかじゃない。捨てるところが無い食材ってあるよな、考え方はそれと同じだ。リサイクルみたいなもんか? 無駄を無駄にはしない。これまでの貴重な努力を無駄にするな、使い方を考えろ、ということだよ。無駄の使い方によっては、バーナーのようなパワーを出せる人だっているはずだぞ」
「そう言われただけでも、パワーが出てきました」郷原は目を輝かせた。
「どんな料理でも他に負けない強味ってあるんだ。それが分かってないといけない。訊くけど、四川料理の強味って何だ?」料理長が二人に訊いた。
郷原は(何か答えなきゃ……)と焦っている。善幸は分からないと首を横に振った。
「郷原、分からないか? 四川料理のことはスーッと出てこないとダメだろ。あのな、四川料理の強味っていうのは、出来た料理をテーブルに置いたとき、調理している時の熱さ、出来立てってことだな、それと香辛料の香りがプーンと立ち上る瞬間じゃないか。それをお客さんが感じ取ってくれる、無意識にね。お客さんは料理しているところは見れない。食べる前に、腹減っているときに嗅ぐ香辛料の香りは刺激的なんだよ。火力の勢いでは他の料理に負けない。四川料理だから幾種類もの香辛料を使用しているから、カレー粉を使う料理と違って単独の香りを引き出した料理で幾多の勝負ができる。最もアピールできるところはそこなんだと俺は思ってる」
郷原は納得したようだ。そこで彼が質問した。
「料理長、話を聞いてて一つ気になったことがあるんですけど、今働いている職人たちの間に二つのラインが既に出来上がってるってことでいいですか?」
ここ最近、崔に対し、隔て心を剥き出しにする料理長の姿勢が鮮明になっていた。それに郷原も気づかないはずはなかった。
「郷原、誤解しないでくれよ。俺が居なくなってもラインなんか作らず、皆が協力し合ってやっていってくれることを願っているんだ。しかし……、もう強引に前に進むしかない、俺はそう判断した」一か八かのような言い様だった。
料理長は、申し訳なさそうな表情を浮かべている……。
「俺、料理長が香港に帰っても、今言われた通りにやっていきます」善幸が言った。
「勿論、俺もそう思ってますよ。ただ、いつもの冷静な料理長とは違うような気がしたんです」そう郷原が投げかけた。
「残されたおまえたちが心配なだけなんだ。俺が言いたいのはな、どこの店へ行っても、必要とされる料理人にならなきゃいけないってことなんだ」
料理長は、この一月の間にそれを叩き込もうとしていたようだ。
「分かりました。俺、この店でそうなれるように頑張ります!」
料理長の意向が郷原に伝わったようだ。
今の話を聞いていたのだろうか……。タイミング良く、山下が事務室とパーテーションで仕切られた応接室に入ってきた。
「お揃いですね、ここで食事をするときは、必ずと言っていいほどお寿司ですよね。美味しそう、俺も戴きますね」山下が料理長の隣に座った。
事務職である山下にとっては遅い昼食だった。このメンバーで時折り食事をしているのだが、そんな時は、彼は昼飯を食べずに待っていた。
料理長は、駅前にある馴染みの『鮨 葵』に山下の分も考えて注文を入れていた。
(つづく)




