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【砂利道を歩く野良犬たち】      作者: トントン03
第四章 范 悠 との出会い
38/87

―厨房内の不穏― (目を瞑れば香港の夜景が見えた)

第三十八話



―厨房内の不穏―

(目を瞑れば香港の夜景が見えた)


 都心で見る星空の空気は澄んでいた。善幸は料理長の後ろを歩いている。料理長のマンションに来るのは久しぶりだった。

「よく見るとモダンなマンションなんですね」

「寝るだけさ……」

 植え込みからの間接照明が建物の高さを際立たせ、静けさをも照らしていた。ズボンのポケットに手を突っ込みながら歩くのは料理長の癖だった。

 これまでも、大きな宴会が入ると、その前日の準備で遅くなった時には泊ることがあった。料理長は高層マンションの一階に住んでいる。間取りは2DK。昼でも電気を付けなければ真っ暗な部屋だった。


 料理長が部屋の鍵を開けた。

「前から思ってたんですけど、料理長の部屋って、誰かもう一人いそうな気配を感じますね」

「ほお~、じゃあ、探してみるか?」表情が明るくなった。

 料理長は部屋に入っていきなり、幅が二間はあるクローゼットの取っ手に手を掛けると、心の準備はいいかとばかりに善幸の顔を見ながらカタカタカタと折り戸を開けた。

 お洒落なジャッケトやシャツが掛かっている下には、積木やブロック、人気キャラクターの描かれた箱が所狭しと積み重ねられていた。

「うちは男の子だから、ミニカーなんかが好きだったんだ。今は小学校の高学年、もういらないんだよな。でも捨てられなくてさ。ちょうど良かった、女の子でも遊べるオモチャがあるから、近いうちに送ってあげよう」

 以前は香港から家族が遊びに来ていたようだ。料理長は、タンスから着替えを出し、これに着替えろと善幸に渡した。いつもの如く、シャワーは朝起きたら浴びるのが決まりだった。先に浴びてしまうと、眠さが増してきて肝心な話が中途半端になり、そのまま朝を迎えることになってしまうからだった。

「まだオモチャらしいものは何も買ってないんですよ。買う必要が無くなりました。爺ちゃん婆ちゃんにも言っておかないと。さよりは色に反応するみたいで、黒いものを見せると泣くし、赤いものを見せると笑うんです。美乃里の母親が言うには、自分に似たんじゃないかって。そうだとしたら、俺、困るんですけどね」

「なんで?」

「ああ、それは言えないですけど……」

「何だか知らんけど、先日、お祝いの席で見た時、とてもおばあちゃんとは思えなかったな。妙な色気というか魔性の魅力のようなものをお持ちのご婦人、って感じだったぞ。スタイルは良いし、今でも品川プリンスのプールサイドをビキニ姿で歩けるんじゃないか? グラサン外して、しっとり濡れた瞳で見つめられた男は動けなくなるだろうな。彼女がその男を気に入ったりなんかしたら大変だ。手練れた魅せるウォーキングでゆっくりと男に近づくと、ああ……半開きの口許からカメレオンの舌がシャーッか、えっ?」

「止めてくださいよ、あいつの母親の話は。俺、散々振り回されて来たんですから」

「いいから座れよ、赤ワインでも飲むか」

 料理長は冷蔵庫を開け、ゴソゴソと何かを取り出してきた。ガラスのテーブルに並べられたのは、乾き物ではなくオードブルだった。

「これ、いつ作ったんですか?」とりわけ気になった逸品に目がいった。

 懐かしさが込み上げて来た。見覚えのある器に盛られていたものは、あの商店街のおやじたちが好んで食べていた小鯵の南蛮漬けだったのだ。

「これな、ある宴会で作り過ぎた分を、オーナー達に配ったことがあってさ、そしたら彼らの好物になっちゃってね、困ってんだよ。月に一回は持って来いってさ。それにうるさいことを要求してくるんだ。頭は付けとけって。おまえなら分かるだろ、それを付けるってことは、鯵の大きさを気にしなきゃならないってことが」

「頭を付けるのなら、十センチ位ですかね」善幸は得意げに言った。

「大き過ぎたら二度揚げしても骨が気になる。小さ過ぎると食感が野菜に負けてしまう。中華料理の店としては、うちは鮮魚をよく使う方だけど、でもよ、鮮魚を売り物にしてるわけじゃないから、量的にはそんなに仕入れないよな。だから業者に対して、いつも指定した大きさで持って来い、とまでは言いづらいんだよなあ……」

「あれ、この鯵の南蛮漬け、頭を取ってありますけど?」

「ああ、でかめの鯵は頭を取らないとな。俺たち用だ」料理長は口を大きく開けて笑った。

 そう言えば、料理長が偶に一人で作っていたのが小鰺の南蛮漬けだったようだ。

 暫くの間、二人の他愛もない会話は続いた――。


「あのよ、今朝話してた経理の山下のことだけどな、彼は何でも卒なくこなす奴だ。彼とは仲良くなっておいた方がいい。これといって癖も無いし、おまえとは上手くやって行けると思うんだ。たしか善幸より二つ上だったと思ったけど。もっと若く見えるだろ?」

「スーツ着てなければ、俺より年下でもおかしくないですね。でも、どうして彼と特に仲良くする必要があるんですか?」

 料理長が山下に信頼を置いていることは確認できた。が、わけて自分と親しくさせようとする意図が理解できなかった。

「山下はね、商売を知ってる。父親の影響だろうな。お母さんは日本人なのは知ってるんだけど、もしかしたらお父さんは華人かもしれない。聞いてもはっきりと答えないんだ。まあ、そこはどうでもいいんだけどさ」

「で、そんな彼とどうして俺が?」もう一度訊いてみた。

「ああ、俺が香港へ帰ってしまうと、おまえが心配だからだよ。今いる職人のほとんどは副料理長の崔が引っ張って来たんだ。俺がこの店に来る前から、彼らはこの店に居る、料理長として居たわけだよ。この業界は、職人が辞めたり人手が足りなくなったりすると、知り合いの職人を連れて来るケースが多いんだ。立場が料理長となれば、後輩を連れてきた方が使いやすいよな。善幸も俺に引っ張られて来たんだからさ」

「親方が進めてくれたから、それも料理長の店だから俺は来たいと思ったんですよ。引っ張られてきたわけではありません」

「そうかあ」アッハハと笑うと、料理長は満足気な顔をし話を続けた。

「ここ最近、俺が考えていることってな、おまえが出来るだけ職人たちと信頼関係を築いておいてほしいということなんだ。しかし、現状は崔の息が掛かっている職人ばかり。郷原だけが、誰の伝手も無く入って来たんだよ。彼は入って五年目、前はサラリーマンだったって聞いてる、三十二歳で独身だ。確か、山下と同い年なんじゃないかな。おまえたち、休憩時間によく話してなかったっけ?」

「郷原さんは、うちの店に来る前、ちょっとだけフレンチをやってたらしく、なんか違う、自分に合わないと思って辞めたって聞きました。俺、何度か郷原さんと一緒に飲んだことがあるんですよ。優しい人です。出身は佐世保って言ってました」

「随分と遠くの方からやってきたもんだな。訳アリか?」

「そこは分かりませんけど、実家は佐世保の隣駅の小さな中華屋だそうです」

「将来継ぐ気かなあ。でも男なんだから野望は持たないとな。彼はパンチ力は今一つだけど真面目なやつだ。そうだなあ、仕入れ担当は山下だろ、厨房は郷原と善幸、せめて、その下にもう一人か二人欲しいところだな……」料理長は難しい顔つきになった。


 郷原は、面倒見のいい先輩だった。入ったばかりの善幸が厨房の端っこでボーっと突っ立っていると、近づいて来て「手伝ってくれる? 一緒にやろう」と友達感覚で仕事の手順を教えてくれた。自分の知り合いだからって料理長が付きっ切りで善幸に指導をしていたら、身びいきしていると思われてしまうことになる。それを避けるため、料理長は敢えて入ったばかりの善幸を三箇月間ほったらかしにしていたようだ。今になって考えれば、皆と馴染ませるためだったのかもしれない。


「もう一人欲しいって、誰かを入れるってことですか?」善幸が訊いてみた。

「そう、でも日本人がいいな。俺が居なくなったら、日本人は郷原と善幸だけになってしまうからね」

 善幸は厨房で仕事をしていて、ある差異があることに気づいていた。そのことについて尋ねてみることにした。

「職人に中国人と日本人の違いって、何かあるんですか?」

「そんなものはないよ。ただ、味覚の違いはあるかもしれないね。味覚の違いって面白いもんでさ、以前、九州の友達が東京に来たとき、美味しいラーメン屋へ連れて行ったことがあるんだけど、彼は半分も口にしなかった。醤油味だったからだよ。あっちでは、ラーメンといったら豚骨スープ。味と言うより、濃い醤油の色が食欲をなくすって言ってたな。そんな食習慣の違いは別として、面白いのはね、その地域の人たちに馴染んだ甘さと塩辛さの基準ってあるんだよ。地方に行って食べたとき、気づかないか? ちょっと俺には甘すぎるなあ、とかさ」

「そうそう、友達の実家へ遊びに行く途中のドライブインでね、親子丼頼んだんですよ。一口喰ったら甘過ぎて、おばちゃんに『甘すぎて喰えないから作り直してくれない?』って言ったんです。そしたら『あんたの口に合うものなんか作れないよ!』って睨まれて。でも、作り直してくれたんですけど、しっかり料金は二杯分取られました。そうかあ、国と国とじゃ、もっと味覚が異なって来ませんか?」

「本場の四川ではもっと香辛料を利かせる。でもね、中国本土から来た彼らは、俺が指示しなくたって、しばらく様子をみていれば、ビシッと日本人の口に合わせるように作ってしまうんだよ。プロなんだから当然だけどな」

「それなら、四川料理をやっている中国人を入れた方が一から教える必要も無いし、いいじゃないですか? 日本人でなきゃならない理由がわかりませんけど」

「別に差別をしているつもりはないんだ。俺が一人で香港に行った時、助けてもらったのは中国人だった。料理を覚えようと異国の地へ渡り、入った店でやらされたのは雑用や掃除ばかりだ。包丁なんか持たせてくれない。辞めて別な店へ行っても同じだったよ。言葉も通じない。ひとり、黙々と洗い物や掃除をやり続けてたっけ……。不安だけが募った。夜、眠れないから疲労が溜まっていった……。参ったよ」

「知り合いは誰もいない、言葉も通じなかったんですか?」

「無謀だよな。人によって程度こそ違えど我慢し続けていると、いずれ限界がやって来るんだ。俺はね、もう負け犬と思われてもいいから、親父のところへ帰ろうと思った。そんな時だったな、便所掃除しているとき、後ろから肩を叩かれたのは……。その人、俺を雇ってくれた店主だったんだ。包丁を持ってるか? って訊いてきたのが身ぶり手ぶりで分かった。ハッとしたね。諦めかけてたとは言え、俺はこの時をじっと待ってたんだな。包丁をどこに仕舞ったっけ……って一瞬考えちゃってさ。日本語で店主に『ちょっと待ってて!』そう言って、俺はいつも持ち歩いているバックを取りにいった。店主は俺が戻ってくるまで待っていてくれた。バックの奥に入れっぱなしだった包丁を出すと、店主はそれを手にして研ぎ具合でも確認するかのように見てた。日本から持ってきた五本の包丁を一本一本な。そんで、店主が呟いたんだ『和包丁……』とね。その日本語が今でも耳に残ってるよ」

 その頃を思い出しているのか、料理長の口許だけが動いていた。

「店主って、日本に来たことがあるんですかね?」

「あるんじゃないか、そうでなければ、あんなに和包丁に関心を示さない」

「その後、料理長は料理人として働けるようになったんですよね?」

「包丁を持たせてくれればこっちのもの、そう思ったね。俺は、片言の中国語で、誰にでも遠慮なく分からないことは訊いていった。それが早道だからさ。これまでの無駄な時間を取り戻そうとしているかのようだった。そんな中、俺の面倒を見てくれた一人の料理人がいたんだ。名前は范。そのおっちゃんは、ハゲでデブで親しみを感じる人だった。范は、物置みたいな部屋に住んでたこの俺を、自分の家へ来いと言ってくれたんだ。嬉しかったよ、とっても……。そんなわけで、俺は范の家族と一緒に住むようになったってわけだ」

 善幸は、そのストーリーの展開が読めてしまった。

「そこに、娘さんが居た。その娘さんが今の奥さんなんですよね? 違いますか」

「そう、最初にあった時は怖がってたな。出ていけ! てな顔をして睨まれたからさ。でも、父親が連れてきてしまったんだから諦めるしかない。親父にペットでも飼うつもりで世話をしてやれ、とでも言われたんじゃないか。数日のうちに睨みつけてた彼女の目が変化していったんだ。俺もここに居たいと思ったから、彼女と目が合う度に愛想笑いをしてたよ。居候は気を使わないとな、ハッハ」

「突然、若い男と暮らすようになるんだから、ビックリを通り越してドッキリですよねえ」

「まあな。あの時、彼女はどう思ったんだろう……。それにしちゃあスゲーよな」

「何がですか?」

 料理長の口から面白い話が出てきそうだ。

「四、五日経ったある日の夜、俺が部屋にいるとさ、一階には響かないようなノックの音が聞こえたと思ったら、『可以進入?』つまり入っていい? って声が聞こえてきたんだ。善幸、初対面の日から一週間も経ってないのにだぞっ」

「えっ、ちょっと早くありませんか?」

「馬鹿野郎っ、香港だぞ!」

 黙るしかなかった。

「早速、彼女は『中国人が学ぶ日本語』ってな本を持ってきた。俺たちはベッドの上で一冊の本を広げて一緒にお勉強さ」

 善幸は、料理長が自分を揶揄っているんだろうと思った。

「それ、勉強する体勢じゃあないですよね?」

「そうとも。とっても勉強しづらかったよ。椅子並べて机ですりゃあ良かったかな? その方が捗ったか、いやーっ」料理長は善幸を見てニヤッとした。

「……そんなことはあり得ませんね。人妻であれば、あり得ない話ではないですけど。昔見た映画で『卒業』って知ってます? その映画の主題歌はサイモンとガーファンクルが歌ってますけど」

「サウンドオブサイレンスだろ? 知ってるさ。ダスティン・ホフマンが主役だったな。娘の母親のミセスロビンソン……と。でもな、映画のようにはいかなかった」

「どうしてですか?」

「俺の場合はな、娘の母親は……タイプじゃなかったんだ。アホ、そういう問題じゃなくてよ、人としてやっちゃいけないことってないか?」

「いや~料理長の場合はわかりませんよ、もし好みの人だったらどうします?」

「まあ、結末はどうなるか分からないけど、監督として映画の制作の準備にかかるわな。鍋なんか振ってる場合じゃねーよ」

「残念でしたね、料理長っ」タイプじゃなくてほんとによかったと思った。

 娘の部屋は料理長の隣だったということらしい。父親が最初から仕組んだとも考えられる。何がともあれ、料理長の生活は、范の家に引っ越した日から一転してしまったのだ。


「中国語が片言しか話せない俺と日本語を知らない娘が言葉の壁を少しづつ壊しながら近づいていった。メルヘンの世界みたいだろ? 俺はね、仕事から帰って来ると、毎夜、部屋でベッドに寝転がってドアを見つめていた。忍び足で近づいてくる彼女の気配を感じ取るためにな。彼女は期待を裏切らなかった。扉をさするようなトントン……。そして、返事いらずのカチャ……。俺の胸がドッキンコでよ。数日後からは〝カチャ〟だけになったんだ。彼女がノックもせずに入ってくるようになってさ。どうだ善幸、俺たちの親密になっていくプロセスが伝わって来ないか?」

「グッと近づいた感じがします。ナイスですね~! この話、もっと聞きたくなりましたよ。けど、止めときます。聞いてしまうと、俺と美乃里の話を詳細に話さなければならなくなりそうだから」 

「急ブレーキ掛けるなって、白けるだろ。隠すようなことでもないだろう」料理長の笑いがはじけた。

「でもね、料理長、男と女が納まるって、そういうことなんだと思いますけど。初めてのデートで彼女の家に泊って……目が覚めた時、俺、迷いが無くなったような気持ちになったんです」

「おまえにとって、美乃里は比類ない相手だったということだよ。でもよ、その過程って愉しいものだよな。年を取っても、はっきりと記憶に残ってるんじゃないか?」

「料理長の場合、初対面の日から一週間も経たないうちに一つの部屋に居たわけですよね? それもベッドの上。あり得ないシチュエーションじゃないですか、衝撃的ですよ」

「何でも〝初めて〟のことってよ、冒険をしてるみたいで先へ進むのには勇気がいるんだけど、不安が膨らんでくると、たじろいでしまうもんだよな。でも、女ってその姿を見透かすんだな。違うんだよ、女は……」

「違うって?」

「及び腰の男を目の当たりにした女は、なりふり構わず相手に突進していく。一緒に滝壺へ落ちていく覚悟があるんじゃないかって思うくらいにな。そんな気持ちは、がっちり受け止めてやらないといけないだろ?」

「けりを付けたってことですね。木ノ内から范に名前を変えたってことが」

「当時、もう日本には帰らないつもりだった……」

「親方のことは考えなかったんですか?」

 善幸は、店名を『和食処 悠の里』と変えてまで息子のことを待ち続けた親方の気持ちが痛いほど分かっていた。  

「善幸、俺はそんな器用じゃないんだ。あっちもこっちも考えられなかった。とは言っても、やっぱり心配だよな。俺は中村電器のおじさんに電話して、何かあったら連絡してくれるように頼んだんだ。サトシのことも気になってたしな。訊いたらさ、毎度親子三人で元気のいい喧嘩してるって言ってたよ。お互い言葉を詰まらせながら話したっけ……。親方や職人たちと仕事していた厨房や、店主とその家族が活気づけてるあの商店街が、毎夜寝ようとすると頭に浮かんでくるんだよ。そのまま夢の中へと引き摺られて行くんだ」

「俺にとっても『悠の里』の厨房とあの商店街は、一生忘れることはありません。美乃里との出会いの場所でもあるし」

「そうだよな。善幸が親方の店で働いている姿は、会ったことが無くても俺にはよく見えてた。親方が電話でおまえのことばかり話すからさ。実の息子のことを話しているようだった。だから、善幸とサトシは俺の弟ってわけだ」

 料理長は、冷蔵庫から二本目のワインを取り出した。壁掛けのディズニーの時計を見たら、午前四時を回っていた――。

「料理長、香港のご両親は、料理長をよっぽど良い人だと思ったんですね。同じ厨房で働いていたんだから、親父さんはそれを見抜いたということですよね?」

「お蔭で、俺は逼迫した状況から抜け出すことができた。考えてみればさ、浮浪者みたいな俺を家に住まわせるなんて、何の得にもならないことだよな。それが俺の胸にずしんときた。世話になっている身分だけど、この家族、なんとかしてやらなきゃって思ったな。一人娘だし、助けてもらったお礼みたいな気持ちもあったのかもしれない。いや違うな、そんなんじゃない、〝范〟という名を心に刻むような気持ちだった。今思うことは、我慢ってよ、土の中に埋まったまま腐っちまうものや、人に踏みつけられ蹴飛ばされて動かなくなった状態で、ハイさよなら~ってな場合もあるということ。人間の非情さって、あっちこっちで見受けられるもんなんだ。その非情さに知らぬ振りをしている間は無くならない。俺の場合は、救いの手を差し伸べてくれた人がいた。今考えれば、運が良かったんだよ」

「俺の場合は、親方に拾われたんです。物凄く運が良かった……」

「運は要のところで使わないとな、でもそれも運かもしれん……」

 二人は目を見合わせた。


「善幸、我慢という種を発芽させる力ってえのが努力だとしたら、それを踏みつけないように水をあげる人が居てもいいんじゃないか? 終わりのない我慢は、恐ろしくて耐えられねえからよ。人って、強くなれる時と、指で額を突かれただけで倒れちまう時がある。俺はね、世の中の理不尽に対し、我慢し続けて、その挙句、我慢しきれなくなって死んでしまった人を知っている」料理長は瞼を閉じてしまった……。


 違うところは確かに多い。性格が全く違うと言えばその通りだ。親方と料理長……。善幸は、親方の痩せこけた面差しを、料理長の厚めの頬肉を削ぎ落し蘇らせた。


「香港ってどんなところなんだろう。一度行きたいなあ。夜景が綺麗で、海面がキラキラしてて、ごちゃごちゃしてそう。香りの港かあ……」

「俺が戻ったら、さよりと美乃里を連れて遊びに来いよ。連れ回して目に焼き付かせてやるから。第二の故郷にしてやるよ」

 今日の善幸は、自分でも感心してしまうくらいタフだった。年齢の差なのだろうか。料理長はうとうとし出した。寝なくて大丈夫なのだろうかと心配していると、突然ソファの背に凭れかかっていた体を起こした。


「ところで、この話をするのはまだ先にしようと思ってたんだけど、早めに知っておいた方が、善幸にとってもいいと思ったんだ。勿論、今の店のことだ」意味ありげに言った。

 今日、善幸を自宅に呼んだのはそれを話すためだったらしい。尽きない話のネタを持ってる料理長。それにしても、前置きが長すぎやしないだろうか。そろそろ空が白んで来そうだった。


 多分、話の内容は、今居る職人たちの間で起こっている問題ではないのか。料理長と副料理長の素気無い関係が善幸は気に掛かっていた。


「仕事をしているだけでは皆のことは分からないですよね。俺としては、親しくなるためにも色々と知っておきたいところです。況してや、口数の少ない副料理長の人柄なんて、闇の中ですから」

「そうだな、実はその崔のことなんだよ……」


 この店には、表面化していない人間関係から生じる様々な問題があるように感じられた。二人を見ていて仲が悪いのは周知されていることだった。厨房で副料理長が職人に指示したことは、その場で悉く料理長が変更してしまう。これが何度も続くと、むごい仕打ちでもしているかのように思われた。

 先月のことだった。貸し切りの宴会が入り、副料理長の立てたそのプランを料理長が理由も言わず全部変更してしまったことがある。副料理長の立場は丸潰れだった。それ以来、料理長に対して、副料理長はものを言わなくなってしまった。


「副料理長がどうかしたんですか?」

「実はな、彼、食材の仕入れ先から便宜を図った見返りに金を受け取ってたんだよ」

「えっ、本当ですか!」

 突飛な事実を知りショックを受けた。善幸は、この時から副料理長に対する見方が変わった。

「食材はすべて崔が担当していたんだ、俺がこの店に来るまでだけどな。俺は店を任された者として、すべてを確認しなければならなかった。食材を一通り確認していたら、疑問を感じてきたんだよ。特に単価の高い食材の質と仕入れ値とのギャップにな。そこで、俺は主な仕入れ先を廻ってみることにした」

「謎が解けたんですね?」

「案の定、業者は、料理長が俺に代わったことが分かると言葉遣いを変えてきた。今度は俺に鼻薬を嗅がせようとしてきたんだ。『これまでの取引条件というのは――』なんて説明し出した。頷きながら心の中で笑ってしまったよ。他の仕入れ先を廻ってみても同じだった。崔は結構な額を懐に入れてたようだな」

「それ、経営者に対しての背信行為ですよね? どう処理したんですか? 副料理長はまだ居ますけど?」

「うん、ただ、確たる証拠はないんだ。まあ、俺が勝手にそう思っただけと言われれば、そうなってしまう。立証責任は俺の方にあるからね」

「未だに何も言わずにいるってことですか?」

「そういう訳でもない。これってな、オーナー側が現場の人間に任せっきりにしてしまうと稀にだが起こることで、俺の知人の店でも同じようなことがあった」

「裏取引ですね。犯罪のニオイがして来たなあ……」

「崔はね、知られてしまったことに気がついたんだよ。その後、彼は考えたんじゃないか、俺が問題視してオーナー達に告げ口するだろうかと。その前に潔く辞めてしまおうか、それとも口外しないことを条件に、俺に対し絶対服従の下で店に居続けるか、そのどっちかしか選択肢はなかったはずだ」

「今でも居るってことは、料理長に対し、絶対服従を誓ったってことですよね?」

「崔には子供が三人いる。中学二年の女の子、それと高二、高三になる男の子だ。金が必要な年頃だよな。この店で料理長だった彼が、俺が来たことで副料理長に降格した。でも、オーナー達は彼の給料を大して下げなかったんだ。彼がこの店を辞めて他の店に移ったとしても、今の給料の六割も貰えないよ。引き抜きの場合は別だろうけどね。彼にとっても家族は大切な存在。俺は、三箇月間そのことには触れずに放っておいた。彼が自ら辞める選択をするだろうと思ってね。でも、彼は辞めなかった。この店に留まることを選択したんだよ。っていうことは、生かすも殺すも俺の意のままってことになるよな」

「そうだったんですか……」

「金ってさ、誰でも欲しいと思うものだろ? 男が家族を持つようになると、金に縛られてるってことを人生の過渡期でガツンと認識させられる。良きも悪しきも自分がどう動くか、それともじっとしているか、苦しい状況下で選択を迫られる時ってあるものさ」

「俺にもそのうちやってくるんですかね」

「あると思ってた方がいい。これまで、俺は何度かあったな。善幸、下準備の大切さを判ってるだろ?」

「判りつつあります」とは言いながら、そっちの方の下準備は何をしたらいいのかピンとこなかった。

「俺はね、この件に関しては魔が刺しただけと思うことにしたんだ。彼の家庭を潰すようなことはしたくない。本人が反省してくれれば、それでいいと考えたんだよ」

「でも料理長、知ってしまったことを黙ってるって、経営者に対する裏切りにならないですか? 料理長自身もリスクを引き摺ることになりますよね」

 料理長が笑っている。

「言っちゃあーなんだが、俺は、もっと大きなリスクをこれまでたくさん背負ってきてるんだよ。この件がオーナー達の耳に入ったとしてもだ、彼らは俺に対して何も言えないと思うぞ。彼らの執着していることはただ一つ、儲けだよ。それを鼻先でチラつかせておけば、満足している連中さ。いや、この店のオーナー達は、そこだけじゃないかもしれない。ちょっと違うか……」

 料理長は、鯵の南蛮漬けを摘まむと口へ放り込んだ。咀嚼してはいるが、ちょい首を傾げた状態でじっと一点を見つめている。仕事中でもやるこのポーズは、職人たちに対し無言の威圧感を高める効果があった。

 これで、料理長と副料理長が事務的な会話以外しない謎が解けた。そう言えば、朝の挨拶すら二人は交わしていなかった。

「今日話しておきたいことをこれから話す。まだ酔っぱらってないよな?」

「だったら飲む前に話してくださいよ、そのつもりで来てるんですから」

 やっと本題に入るのだ。時計を見たら、あと三時間で出勤の時間だった。

 すると、突然料理長が「いいか善幸、あと三年で仕事を覚えるんだ! それまでは、俺はこの店に居るっ」

 今日、料理長が一番言いたかったことが分かった。

「病院へお見舞いに行った時、仕事を早く覚えるようにって親方からも言われました。三年後ですね、分かりました」

 料理長は、少なくとも三年は居てくれる。よかった。これで胸のつかえが下りた気がした。

「善幸、明日というか、もう今日だな、おまえは休め。ゆっくり寝た後、家に帰ればいい」

「俺なら大丈夫ですよ」

 これまでも寝ないで店へ行くことはいくらでもあったのだ。

「おまえを休みにしといたんだよ。なんと優しい上司なんだろうなあ」


 料理長は高らかに笑った。                        (つづく)


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