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【砂利道を歩く野良犬たち】      作者: トントン03
第四章 范 悠 との出会い
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―范 悠の憂鬱―

料理長の下で働きだした善幸。何も起こらないはずはなかった。

第三十七話



―范 悠の憂鬱―


 寒さが和らぐ季節に入ったある日、店の従業員全員で善幸たちの出産祝いと結婚祝いを兼ねたパーティーを開いてくれた。勿論、幹事は料理長だ。

午後三時で店をクローズすると、手作り感たっぷりの飾り付けが事務員たちで手際よく施されていく。普段、仕事ではほとんど接することのない人たちだった。


 料理長の声が店内に響いていた。善幸は、何をしたらいいのだろうと戸惑いながら、ただ料理長の横に突っ立っていた。

「善幸、何やってんだ? 早く着替えてさよりと美乃里を連れてこいよ! おまえたちが主役なんだぞ。両親と兄貴は六時までに来ることになってるよな?」

「はい。昨日、俺んとこに確認の電話がありました。美乃里の両親も愉しみにしてるみたいです」

「念の為、酒井のおばちゃんたちにはさっき俺が連絡入れておいたから、あとはと……」料理長は自分のことのようにウキウキしていた。

「料理長、自分たちの為にここまでしてくれるなんて……俺、戸惑ってます」

「今更止めてくれってか? 皆がおまえたちを祝おうとしてるんだぞ!」

 一瞬、善幸は怒られているような気がした。

「まあさ、羨んでる奴はいるかもしれないけどな。でも、みんな喜んでやってくれてる。一度だけなんだから、愉しめばいいんだよ、愉しめば……」料理長は、善幸の気持ちを和らげてくれた。


 そう言われれば、確かにその通りだとも思った。だが、善幸より二年前に入った先輩のことが気になった。彼は、去年籍を入れたと聞いている。同じく結婚式は挙げてないらしい。式を挙げ、その後、休暇を取って新婚旅行に行くということは、人手不足の店では同僚の休日を奪ってしまうことになる。現実問題として、それを考えると躊躇するのは当然。とすれば、今回の自分たちの祝賀パーティー、祝福されるべきことなのだろうが、結果として揉め事を作ってしまうことになりはしないだろうか、と考えてしまったのだった。


 この店に来て七年間鍋を振ってきたという先輩の話も聞いたことがあった。その先輩が言うには、料理人に彼女が出来たとしても、その関係を長く続けていくのは難しいと言っていた。経験の浅いうちは朝が早く夜は遅い。拘束される時間が長いので、仕事の帰りに待ち合わせをしてのデートなどはとても不可能なのだ。その上、土日は基本休めないので、彼女と段々疎遠になっていくと言っていた。

 善幸が親方の店で働いていた頃は、美乃里がアルバイトとして働いていたし、個人商店の女の子たちもいて、まるで自分は二学期の始業式に商業高校へ転校してきた男子生徒のような存在だった。この業界では、自分は超例外といっていいのではないか。四十代の大先輩たちから「なあ、女の子紹介してくれよお、二十代とは言わないからさあ」と、よく懇願されることからも、独身の先輩から今回の披露宴を羨まれているのは間違いなかった。


 善幸は、服を着替えて美乃里を迎えに行こうとした時、

「善幸、親方が亡くなったことを気にしてないか?」と料理長が訊いてきた。

 本心、それが根底にあった。親方が亡くなってまだ一箇月しか経っていなかった。美乃里が気にしているように、今年ではなく来年だったら、二人共こんな重苦しい気持ちにはならなかっただろう。けれど、善幸は、料理長の気持ちを一番に考えることにした。

「気にしてません。親方は吹き抜けの天井を破って参加してくれますよ。間を置いちゃうと却ってじらせることになります。親方のことだから『早くやらんか!』って怒るでしょう。天国って、のんびりとしてて暇だろうから。親方にとっては、却って地獄かもしれませんね」

「そうだな、それに一人だから寂しいかもよ。いや、先に到着しているお袋が、うるさいのが来やがったなあ、なんて言ってたりしてな」

 料理長は、この世とあの世を近づけたようだ。

「善幸、遅くなるぞ、早く美乃里を呼んで来い!」

 善幸は小走りで店を出て行った。



 アパートのドアを開けると、善幸が吼えた。

「おまえ……なにやってたんだよっ、早く着替えろって!」

 美乃里は、さよりにオッパイをあげていた。泣き止まなかったらしい。ハンガーに掛かってある真っ白なさよりの服、それと美乃里の地味すぎるグレーのスーツが、いっそう善幸を苛立たせた。

「ミルク作れって、俺が与えてる間におまえは着替えろっ」

 善幸は、泣き出したさよりを腕の中であやした。

 見ていたら、美乃里は慌ててはいるが、無駄な動きが多くて一向にはかどっていない。

「ええと……」などと言い、キョロキョロしている。

 善幸は背後から言った。

「おい、紙オムツ忘れるなっ」

「そうだ!」

「そうだじゃねーよ!」

 TPOに関係なく薄化粧の美乃里。今日もそうだった。

 美乃里は荷物を持ち、善幸は赤ん坊を抱えると玄関に置いてあるベビーカーを持った。二人は鉄骨階段をカンカンカンと音を立てて下りていった。



 ホテルのフロントの前を横切りると、二人は店の扉の前で立ち止った。張り付けてあるお祝いの言葉〖ご結婚おめでとうございます。さよりちゃん はじめまして! 末永くお幸せに〗派手な色使いで書かれてあった。二人の緊張が高まった。


 ところが、自動開閉の扉が開かない。

 善幸が美乃里に「開けないと……」と言った。 

 美乃里が重たそうに重厚な扉を開けると、店内は暗く何も見えなかった。物音も聞こえてこない。誰もいないかのようだった。


 次の瞬間、足元が照らされた。これからが従業員みんなで考えた演出がはじまるのではないか。何かが起こる……。

 善幸はベビーカーを脇に置き、眠っているさよりを胸に抱いた。美乃里と店内へ足を踏み入れる。すると、ドンッと鈍い音でも鳴ったかのような振動を感じた。

 店内が全灯状態になり、天井からの照明が目に突き刺さった。同時にクラッカーの爆音に負けない歓声が沸き起こった。二階席からの紙吹雪と枝垂れる紙テープが二人の頭上から降って来た。締めの花火大会で放つナイアガラの滝のようだ。止まらない歓声に二人は呆然と立ち尽くした。耳元で泣いているさよりの声さえ遠くから聞こえてくる……。


 ホールの中央に立っている料理長が、善幸たちを手招きしている。二人は鳴り止まない拍手の中、皆に会釈しながら料理長の方へ近づいていった。

 今日、どのくらいの人たちが自分たちのお祝いに来てくれたのだろう。二人の知り合いなんて、合わせてもそんなにいやしない。しかし、そう思わせるほどの拍手と歓声だった。


 美乃里が二階の参列者に手を振っている。善幸は誰だろうと目をやった。そこには、手摺りに掴まって見下ろしている女の子たちがいた。みんな微笑んでいる。その子たちと最後に会ったのは何時だっただろうか。惣菜屋の小菊、パン屋のミカタ、ケーキ屋のさくらに手にブーケを持っているクルミ姉さん……。凝らして見ると、隅っこで手摺りに膝をつき、手の平に顎をのっけているサトシまでいるではないか。善幸は、まるで商店街を自転車で通り抜けるような錯覚に陥った。


 中央のミニチュアジャングルにセッティングされた十人は座れる大きなテーブル。それは予約席用のもので、いつもは一角に置いてある円卓だった。ビクともしない円卓を移動させるのは大変だっただろう。

 善幸は、二つの椅子の背に立て掛けてある写真に目がいった。親方と善幸の父親の写真だった。誰も居ないところで、善幸一人涙していた親方の死……。おふくろを酒と暴力で家族を苦しみ続けた実父……。だからなのか、父親の葬儀の際は涙は出なかった。しかし、時間が過ぎると違うようだ。


 拍手が止み、店内が静まり返った。

「二箇月前にお母さんになった美乃里さん、麻子ちゃんから花束を受け取ってください」ホールスタッフの女性が司会を務めていた。

 麻子は、身体が隠れるくらいの花束を持って美乃里に近づいて来る。

「お姉ちゃん、おめでとう!」

 また拍手が沸き起こった。麻子がどうしても美乃里に花束を渡したいと申し出たらしい。善幸が初めて会ったとき園児だった彼女は、もう二年生になっていた。本当のお父さんの顔を憶えているのだろうか。美乃里でも未だに訊けない麻子の無類の記憶……。しかし、屈託のないあの笑顔は今も変わらない。

 渡された花束のカサブランカが美乃里の地味な服装に映えていた。彼女は、それを知っていて服を選んだかのようだ。手でぬぐってもこぼれ落ちる涙……。いつものように薄化粧にしたのも、もしかしたら、それを考えてのことだったのか。

 麻子は、お父さんとお母さんの間に座った。そこには、疑いの無い本物の親子が存在していた。善幸は肩の荷が下りた気がした。祝福してくれている三人の視線を強く感じる。母親の由紀子に焦点を絞った。美乃里から【港の見える丘公園】で聞かされたあの禍々しい女のイメージは今は全く感じられない。それどころか、とんと移り気のない夫に対する情感は、どこまでも深いことを実感させられた。何故なのだろう……。

 目を移すと、義父は固い表情をしていた。美乃里を見ては俺を見ている。何かを懸念しているといった面持ちだ。善幸はそれを推し量る――。

 善幸は眼力で義父の懸念を取っ払った。

〝お父さん、心配はいりません。美乃里の心臓は俺が治してみせます。だから、俺より先に死ぬようなことは絶対にあり得ないんですよ!〟そう誓ったのだ。 


 善幸が美乃里たちを迎えに行ってる間にやり終えたテーブルの配置と店内の飾り付けは、仲間たちが一致団結してやった証だ。それに店内の装飾は、皆で数日前から準備しないと出来ないものだった。知らぬところで計画は練られていたのだ。

 今日、親族同士の初顔合わせが出来たのは、この披露宴のお蔭だった。善幸の親族は、おふくろと兄貴だけだ。そして、美乃里を見守って来た義父と母親と麻子が円卓を囲んでいた。

 その並びに座っている料理長の穏やかな笑みとぶつかった。善幸は感謝に満ちた笑みで返した。再び首を回し視角を広めていくと、人生初めての幸福感を味わうことができた。




 昨日、最後まで善幸たちは歓声と拍手の中にいた。きっと片付けが終わったのは、深夜零時を回っていたに違いない。スタッフ全員にお礼を言わなくてはと思い、今朝、善幸は誰よりも早く出勤した。一人一人にお礼を言うためだった。

 最初にやって来たのは、料理長と経理課の山下だった。

 善幸は、深々と頭を下げた。

「そんなに恐縮がるな、善幸。みんな気持ちでやったことなんだから。あっそうだ、紹介しておくよ。経理を担当している山下君だ。お互い顔は知ってんだろ?」

 二人は、向き合うと同時に頷いた。昨日、彼からもお祝いの言葉を掛けてもらっていた。山下は、料理職人ではないので接触する機会はほとんど無かった。大きな宴会が入ると、彼は厨房に顔を出す。料理長と打ち合わせをするためだ。念入りにクシを通した髪型に薄墨色のスーツ姿が決まっていた。彼をみて、自分より二、三歳年上だろうと感じた。

「彼はね、係長だけど課長以上の仕事をするんだ、そうだろ?」

「違いますよ、調理長。そんなことありません。父親が食品関係の商社をやっているので、五歳から中学までは山東省に居たんです。その後、姉とおふくろと三人で東京に戻って来たんですよ。私は、北京語が話せるから仕事上重宝がられてるだけです」

 自己紹介も兼ねて話す様子から判断すると、誠実そうな人柄が感じられた。

「実はね、善幸、彼のお父さんにもお世話になっているんだよ」

「そうなんですよね、父が料理長と取引が出来たことをとても喜んでいます。香港にいる料理長の義理のお父さんも紹介してもらって、父がとても感謝してました」

「お互い協力しあわないとな。こっちこそ山下のお父さんが食品商社の社長だったお蔭で、色々と特殊な食材や香辛料が手に入るから助かっているんだよ。良いものが安く手に入るし、そのお蔭でメニューの幅も広がったんだ。分かるだろ? 善幸、昼飯時にサラリーマンが並ぶ理由?」

「漠然となら分かりますけど……」

 朝一からこの手の話は辛い。料理長は、まるで休み時間に趣味の話でもするかのような調子でしゃべっていた。

「それ、分かったうちに入らないぞ。普段、喰い慣れない具材を使うことで食通の気を引いてるんだよ。それにさ、多種の香辛料が手に入るもんで、それらを調合してオリジナル性を高めた味で、うちの店は勝負できるってことなんだ」

「そうですかあ……」

 そろそろ先輩たちが出勤してくる時間だった。昨日のお礼を軽い会釈だけで済ますわけにはいかない。一人一人に丁寧なお礼を言いたいと善幸は思っていた。

「仕入れ先は中国とは限らないんだ。最近、東南アジアの国々との取引が出来るようになったのも山下のお蔭なんだよ」

「そうなんですか」

 善幸は、料理長が山下をやたらと褒めちぎっている。

 料理長が説明する「うちの店にあるお茶っ葉って良い品ばかりだろ。その目利きも彼が現地に行ってやってるんだ。なかでも台湾の高山茶、飲んだら驚くぞ! 台湾には富士山を超える峰が幾つもある。南国の地でありながら、霧や雲がもくもくと沸き上がる高地ってえのが理想的な育成環境なんだろうなあ」

「へえー」

「今度、その高山茶、善幸にも飲ませてやるって。話だけじゃ、あんまりだからな。香りや風味を何度も感じるために、料理を一口食したくなる、そんなお茶なんだ。メイン料理が脇役になってしまうほどだ。定期的に買っていく常連さんさえいるくらいだからね」

「料理長がそれ程絶賛するお茶なら、気安くお客さんには出せませんよね」善幸は疑問を投げかけた。

「そうだな、そのお茶は特別な宴会の時だけしか使わない。でもな、普段、店で出してるウーロン茶やジャスミン茶だって、そこそこのお茶っ葉を使ってるんだぞ。分からなかったか?」

「えーと……」

 善幸は、ウーロン茶やジャスミン茶の良し悪しなど気にしたことは無かった。

「おまえは食材の下準備だけで精一杯みたいだもんな。お客さんに対して出すものすべてに注意を払わないといけない。それだけじゃなく、目にするもの、肌で感じるものすべてにだっ」

「はあ……」

「お茶ではお客さんからお金はとれないよな。うちの店の場合、お客さんが席に着くと、夏でも、酒を飲まないお客さんには最初に熱いおしぼりとお茶を出す。おしぼりを使ってからの啜る最初の一口、これが決め手になる場合もあるんだよ。金のとれないお茶なのに良いお茶っ葉を使っている店。お客さんの中には、それだけで店のレベルを上げてくれる人もいる。うちの店はね、ホールスタッフの女の子に、美味しい茶の入れ方を教えているの、知ってるだろ? ウーロン茶とジャスミン茶の出すタイミングも指導する。お客さんが『すみませーん、お茶もらえますか?』なんて聞いたことあるか? お客さんで席が六割以上埋まると、ホールスタッフの一人がお茶担当になるんだ。知らなかったろ? このルールはホールスタッフが決めたんだよ。これって、結構手間が掛かるんだよなあ。こんだけ、お茶にこだわった店なんて他にはないぞ!」

「そうですか」

「こら、善幸っ、さっきっから聞いてんのか聞いてないのか分からんような返事ばかりすんな!」

「料理長、俺、ちゃんと聞いてますから」

「ならいいけどさ。まあ、そんなわけで、山下はこの店に居なくちゃならない社員だってことだ。知ってるだろ、うちはこの店だけじゃなくて、仕出し弁当を埼玉の和光市で作っていること。彼は経理だけじゃなく営業も担当しているんだよ」

 料理長は、山下の肩を叩いた。

 料理長は、まだ言い足りないようだ。

「店の規模が大きくなるとさ、食材を仕入れる側と料理を担当する側の連携が大切になってくる。チームワーク、うちの店は上手くいってるようだ。毎年、行事があると利用してくれる法人の幹事さんに、もてなし方も料理も褒められる。そうそう、山下、おまえを早く課長にするよう部長に言っといたんだけどなあ」

「え? 料理長だったんですか? この前、仕入れの件で佐々木部長に呼ばれたんですよ。海外へバンバン飛んで行って、良い食材をもっと探して来てくれって。それと、来年は課長代理じゃなく、課長だ! とも」笑みがこぼれていた。

「そっか、よし! これでラインは引けたぞ。来年の厨房班は、郷原を主任にさせて、善幸の下に新人を付ければ取り敢えずいいだろう」

 ライン? 料理長は何を考えているのだろう。

「そのうち、俺は香港に戻んなきゃいけない。戻ったら向こうの親父さんと一緒に店をやろうと考えてる。うちの奥さんも父親と俺が一緒にやるのを愉しみにしているんだ。叶えてやらないとな。親父さんが死んでからじゃ後悔しか残らない。生きてるうちに軌道に乗せて安心させないとよ。山下、その時は協力してくれよな」

「是非、手伝わせてください。仕事がお互いの親族の関係にまで広がって行くんですね。ファミリー同士でのお付き合い。夢が膨らんできました!」

「良い付き合いは連鎖するものなんだよ。宜しく頼む。まだ先だけどな」

 善幸は、気になっていたことを訊いてみた。「料理長、香港へはいつ戻ってしまうんですか?」

「ああ、そのことで善幸と話したいんだ。心配するな、香港といってもすぐそこなんだぞ。近々俺のマンションで話そうや」


 善幸が親方のところへお見舞いに行った時「いずれ、悠も香港に帰る。家族が待っているからな」そう話していたのは憶えていた。再び寂しさと心細さが込み上げて来た。親方が亡くなり、料理長も香港へ帰ってしまう。この時、善幸は二人に守られ、家族同様に扱われてきたことを実感した。

「そうだ、おまえたちの披露宴の料理な、あれ、すべて副料理長が考えてくれたんだよ。彼は厨房を仕切ってたから顔を一度も見せなかったな。一言お礼を言っとけよ。もう来るんじゃないか……」料理長が壁に掛かっている時計を見た。

「そうだったんですか……」

 そう言えば、披露宴では一度も見かけなかった。善幸は、副料理長だけ帰ってしまったんだと思った。無駄口を叩かないで仕事をする副料理長。そのような姿を毎日見ていると、こんな特別扱いは許されないと行動で示したのではないか、そう善幸は勘繰っていたのだ。

 副料理長は、時刻表通りに走る電車のような人だった。午前八時、厨房に姿を現した。 

 すると、順番が決まっているかのように職人たちが副料理長に一声掛けていく「おはようございます」そこへ善幸が近づいた。

「副料理長、昨日は有難うございました。あの料理、すべて副料理長が考えてくれたって聞きました。来てくれた友達や身内の者が言ってましたけど、高級食材って、やっぱり旨いものなんだなあって感心していました。俺、干しアワビが出て来たときは目を疑ってしまいましたよ」

「皆に一切れずつ出しただけだ。味見程度だよ。気にしなくていい。費用は俺が出してるわけじゃないしな」副料理長は目を合わさずにさらっと言った。

「うちの店のメニューには無い料理ばかりでしたけど、副料理長のオリジナルだったんですか?」

「以前うちのメニューにあったものだよ、全部な……」

 出してくれた料理は、見た目も味も非の打ちどころのないものばかりだった。どうして今は出さなくなったのか、善幸には見当もつかなかった。ただ、メニューを決めるのは料理長だ。経営上のことはすべて料理長が指示する。と言うことは、一つも残さずメニューから排除したのは料理長ということになる。人間関係だから誰しも合う合わないはあるにせよ、料理長がこんな嫌がらせみたいなことをやるだろうか。そこが引っ掛かってしまった。 

 善幸の知る限りでは、副料理長は部下を威圧するような態度をとったことはなかった。言い換えれば、存在感が薄いとも言えた。

「お蔭様で、盛大な披露宴になりました。とても感謝しています」

 その時、二人の会話の聞こえるところで、料理長は腕組みをしていた。

「一生に一度のこと、そういう時は、皆で祝ってあげるのは当然だろ?」と副料理長が言った後、善幸と一瞬だが目を合わせた。

 副料理長は、調理台に並べられている食材に目を通しはじめた。

 そこで、善幸は、思い付きで言ってみた。

「先輩たちが、何かの都合で休まなきゃならない時があったら俺に言って下さい。俺の休みで補ってもらえれば、少しは恩返しが出来たような気持ちになれますから」

「そう? じゃあ、皆に伝えておくかな……」

 ちょっとだけ副料理長の片側の口角が上がったように見えた。

 それを聞いた料理長が、口を挟んできた。

「仲間なんだから、貸し借りで物事を考えるのはどうかな。その時はその時だよ。皆で助け合えばいいじゃないか」

 皆に聞こえるように言っているが、副料理長に向かって言っているのは間違いなかった。

 副料理長は、それ以上何も言わなかった。料理長は、副料理長に背を向けてボードに貼ってある今日の予定表に目を通しはじめた。


 それから数日後、朝のミーティングが終わった後に、

「善幸、仕事が終わったら俺のマンションに来てくれ。話したいことがある。美乃里に連絡入れておけよ。今日、家に帰んなきゃいけない用事はあるか?」料理長がそう耳打ちしてきた。

「別にありませんけど……」

 何の話なのかはおおよそ察しがついているとは言え、善幸の顔が曇った。 (つづく)




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