表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【砂利道を歩く野良犬たち】      作者: トントン03
第四章 范 悠 との出会い
36/87

―親方の最期の教え―

第三十六話



 ―親方の最期の教え―

 

 一人、善幸は総合病院の敷地内にあるバス停に降り立った。前回、美乃里とこの病院に来たのは、バス停の片側に植えられたハナミズキが満開の頃だった。今は乾いた風が木蓮の枝先を揺らしている。その背景では、各階の窓ガラスが一面となって強い陽射しを照り返していた。


 善幸は、本館のど真ん中を通り抜け、C棟へと向かった。

 病室の前で、三時になるのを待った。その前に入ったらいけない、勿論遅れるなど論外、なぜかそう思ってしまったのだ。


 親方の病室は二人部屋だった。入って手前の患者さんの首にはコルセットが巻かれている。やせ細ったお爺さんだった。

 善幸は「失礼します」と呟くようにそのお爺さんに声を掛けた。が、目を閉じたまま動じない。どうやら眠っているようだ。見ると、鈍い灯りに照らされ落ちていく雫……。善幸には、その点滴の音が聞こえてしまった。窓から差し込む光がこのベッドまで届きそうにないのが残念でならなかった。

 善幸は、窓際のベッドに近づき、閉まっているカーテンを開けた。


「……具合はどうですか、親方」

 親方は閉じていた目を開けた。

「おお、善幸……。よく来たな、赤ん坊は元気か?」

 起きていたようだ。待っていたのだろう。

「よく来たなって、この病院は近いですよ。俺があまり来なかったからそう思ったんでしょ?」

「そうじゃない。寝てしまうとな、起きた時、夕方なのか夜明けなのかが分からなくなる時があるんだ。今日は何日だったっけか? そう看護婦さんに訊いてしまうことがよくあるんだ。偶に一日が消えてそっくり無くなってしまうことだってあるんだよ。そろそろ季節感も……」

 親方はゆっくりと話している。顔の筋肉が緩んだのが分かった。その所為か、目尻の深い皺がやに目についた。

「俺も、仕事で凄く疲れて寝てしまった時、ふと目を覚ますと、今何時なんだろうって思う時があります」

「それの激しいやつかもしれんな。病院のベットに居ると、時間の経過や季節感を意識することも無くなってくるからなあ。……おっ、いよいよ来やがったか? なんて考えてしまうことがよくあるんだ」

「何言ってるんですか、親方っ」

 親方は、ベッドの背を少し起こしてくれるように頼んだ。善幸は、ベッドの足元にあるレバーを回した。

 もう陽は西側のビルで遮られようとしていた。少しでも明るくしようと、善幸は窓のレースカーテンを開けた。


「親方、ここからの眺めは最高ですね。敷地内って公園みたい。でも残念だなあ、歩道の枯葉はきれいに無くなっちゃってる。掃かないほうが季節感を味わえるのに……」

「もう冬なのか? 空を見上げているだけじゃ季節も分からねーや」

「まだ冬じゃないですよ。親方と一緒に厨房で仕事してた時は、毎日が真夏のようでしたね」

「遠い昔のことのようだよ……」


 善幸は、クルミ姉さんから渡されたフラワーアレンジの籠を床頭台の上に置いた。パステルカラーのいかにも若い女の子がアレンジしたと思わせる色合いだった。元気が出るというより騒がしくさえ思えた。

「クルミ姉さんが親方に渡してほしいって」

「この前、商店街の娘たちが四人でそこにあるコスモスを持って来てくれたんだよ。病室に花って必要なものなのかもしれんなあ。変化していくものが何も無いと、かえって落ち着かなくなる」

「今度来る時も、季節感が漂うような花を持ってきますね。美乃里にも、そう言っておきます」

「これじゃ、まるで花から生命力をもらってるみたいだな」

 会話の随に見せる親方の笑顔は、押し花のように時間を止めてしまう。

「ところで、善幸、あの商店街の娘たちの中では、クルミが一番年上だったよな。彼氏はいるのか?」

「いないような気がしますけど」 いないことは美乃里から聞いて知っていた。

「もう三十路を過ぎて今幾つなんだ? 小学生の頃、クルミは店先で俺を見つけると近寄って来て、『おじちゃん、あたし、大きくなったら悠ちゃんのお嫁さんになることにしたの』なんて言ってたっけか……」

「美乃里から聞きましたよ。クルミ姉さんの初恋の人は料理長だったってこと」

「あの商店街には不思議と一人娘が多くてな、一人息子なのはサトシだけだ。善幸、サトシはどうしてる?」

 美乃里は、引っ越した後も母親のところへ頻繁に顔を出していたので、必然的に商店街を通って行くことになる。その時、誰かと会いやしないかと思い、其々の店の中を覗き込んで行くらしい。見つけると、自分たちに子供が出来たという報告を皮切りに、この商店街の近況について色々な話を聞かされるという。

「美乃里の話だと、看板の取り付け工事をやりはじめたみたいで、今度二トントラックを買おうとして親父さんとまた揉めてるみたいですよ」

「しょうがねえ奴らだなぁ。親子二人で上手くやって行かなきゃいけねえのによぉ」

「それと、店の看板でも揉めてるって言ってました」

「看板? あんな立派にこさえた看板を取り換えるってか?」

「いや、看板はそのまんまなんですけど、キャッチコピーを変えるとかで揉めてるらしいんですよ」

「あれ以上の名文句はねえだろうよ……」親方が皮肉った。


 善幸には、親方の呆れた顔が、この世の終わりであるかのような顔つきに見えて仕方がなかった。このまま話し続けても大丈夫なのだろうか、ふと心配になってきた。


「最後の、『中村電器の馬鹿野郎!』で揉めてるみたいなんです」

「俺も当時から気になってはいたんだが……」

「俺が思うに【家電業界のお人好し 中村電器!】ここまでで良かったんじゃないかな。ところがね、バカ息子の方が……」善幸はどうでもいい話を自ら引っ張ってしまった。

「サトシがどうした?」

「これじゃあインパクトが弱すぎる! とか言って、カットすべき〝それを〟頭にもって来ちゃったんですよ!」

 親方はそれを聞いて、ゆっくりと目を閉じてしまった。

「詰まらない話をしてしまって……」

 親方は目を瞑ったまま言った。

「いや、血圧が低かったもんだから助かったよ。しかしよお、通行人がその看板を見てだぞ、一瞬立ち止まったからって店先に積んである乾電池を買ってくれるわけじゃなかろう。足早に去って行くだけだ。サトシも、今のままじゃ店が潰れるのは分かっているようだが、下手に足掻くと上手くいかねえもんなんだよ。看板なんて所詮、人の気を留めるだけのものでしかない」

 さっきより声が掠れてきたように思えた。しかし親方は話し続けた。

「その看板の取り付け工事を、これから始めるのか? よう分からんが……。商売ってーのは儲けることより継続していくことの方が何倍も難しい。他の業者が簡単に真似できない強味をもっていないといけないんだよ。それに、強味は時間と共に薄れていくから、絶えず新鮮な強味を持ち続ける努力、これを怠ってはいけないんだ」

「親方の言っていること、俺にはよく分かります。でも、あいつじゃ、到底理解出来ないでしょうね」

「中村電器の先代が甘やかしちまった息子、それが今の親父だ。それと、当時毎年三キロづつ太っていく母ちゃんとの間に生まれたサトシは一人っ子だ。その所為もあって、どっちの親も可愛がり過ぎたんだな、蜂蜜漬けで育てられてきたんだよ。でもよお、良い親子なんだ。何事も起らなければ、そっとしておきてえよなあ、善幸……」

「正直、あの親子、羨ましく感じる時があります。でも大人になったら、育った環境の所為には出来ないと思いますけど」

「人の世で生き抜くことってえのは、生死の狭間に居ると思わなきゃいけない。これは、大袈裟に言ってる訳じゃないんだ。あの親子は商売をわかってないんだよ。散々言って来たんだがなあ。勘違いしていることに早く気づいてくれればいいが……」


 この会話、とても末期癌患者とは思えなかった。僅かに残っているエネルギーを出し切ろうとする思いが伝わってきた。


「今の家業を展開しながら、親父さんと上手くやって行ってほしいと俺も願っています。俺が親方の店に来た頃、彼のことを好きになれなかったんですよ、今でも好きってわけじゃないけど。でも、親方や料理長の話を聞いていたら結構良い奴なんだって、最近思えてきました」

「あの商店街のオヤジ連中ってな、株と競馬と麻雀が大好きなんだ。平日は株で、今日は一万円儲けたあ、とか母ちゃんには言ってるが、昨日は十万やられたことを言わない。土日は競馬で、その夜は麻雀とくらあ。半端仕事しかしねえ連中でよぉ、しくじった時は全部母ちゃん任せだ。背伸びして、斜め上からひっぱだいてやりてえ奴らばっかりだよ。しかし、サトシも他の娘たちも、みんな良い子なんだよなあ……」

「店で飲んでるオヤジさんたちが、大声出して話しているのを聞いてましたから、俺も大体のことは分かってました」

「ところで知ってるか? 善幸、サトシが誰を好いていたかってこと」

 親方がそう訊くってことは、自分が知っている人だってことだ。パッと見からだと、やっぱりスタイルの良いパン屋のミカタか? いやあ、甘酸っぱそうなケーキ屋のさくらかもしれない。おっ、まさかとは思うが、惣菜屋の小菊じゃあんめえな? 小菊は渡せねーぜ。

 考えてみれば、あいつが誰を好きになろうがどうでもいいことだった。でも、一応訊いてみた。

「誰なんですか?」

「聞いて驚くなよ、これを知っているのは、おばちゃんと悠と俺だけだ」

「…………」

「実はな、おまえの奥さんなんだ」親方がニヤッとした。

 善幸の目が俄かに真ん丸になってしまった。


「このことはな、善幸がうちの店に来る前に分かってたことで、サトシが美乃里のことが好きだと言うのなら、何とかしてやろうと思ってたんだ。ところがよ、その矢先におまえが求人広告を見てやって来た。でな、おばちゃんと暫く美乃里がどう反応するのかを見守ることにしたんだ」

「テレビで見たことがありますよ、上野動物園の発情期に入ったパンダのお見合い。でもそれ、一対一でしたよ」

 善幸の知らないところで、よりによってサトシが絡んでいたとは青天の霹靂だった。

「人の見合いも似たようなもんさ。おおかた四、五回もやりゃあ、ここら辺で妥協しとくかあ、なんてな。ハッハ、くっ付いちまうもんなんだ。中村電器の親父と母ちゃんもそのパターンさ。おもしれえもんだよなあ。互いにしっかりと選ばないと、ああなっちまう。まあ、あいつらはああなるしかなかったんだがな。夫婦なんてもんはよ、諦めと腹をくくることで、生活を継続していくことができるんだ。周りを見てみろ、それができないからお互い文句が絶えねえ。商店街のどの番いも例外じゃない。ま、奴らじゃ、互いに選り好みはできねえ連中だから仕方がねんだけどよー」

 親方が空咳を三回した。


「俺と美乃里もそうみたいです」善幸は率直にそう思った。

「似たもの夫婦なんて、そうそういやしねえ。出会い頭は、衝撃というかせめて喰いつきたい刺激はほしいよな。ホテルのレストランに行って、幕ノ内弁当は喰いたかねえだろ?」可笑しいのか苦しいのか、判断がつかない親方の面様だった。

 今、潤んでいる親方の瞳は、身体の痛みの所為ではない。厨房で、おばちゃんたちと会話を愉しんでいる時の瞳だった。

「そう言えば、以前、美乃里がサトシさんって良い人だよって言ったことがあったなあ……」

 しかし、もう決着がついたことだと思い、それ以上考えないことにした。

「美乃里はな、おまえを選んだんだ、おばちゃんもおまえたちを見ててお似合いだと言ってたよ」

 当時の突っ慳貪なサトシの態度は、それが原因だったのだろうか。

「あれから十年くらい経ったのか?」

「そこまで経ってませんよ、親方……」

「生き急いでるのかもしれんな……」

 親方は、そう言って小さな溜息を吐いた。

 善幸は、疲れてはいないだろうか、痛みはあるのか、と時間を追う毎に心配になってきた。

「子供の名前、さよりにしたんだってな。漢字か? って、美乃里に思わず訊いちまったよ」痛むのだろうか、親方は笑いを堪えている。

「それ、俺が付けたんです。平仮名ですよ。いい名前でしょ? この良さは、親方と俺にしか分からない。そこが一番気に入っているところなんですよ」

 親方は、また瞼を閉じた。

「なあ……善幸、四川料理を悠にしっかりと教えてもらえ。和食に幅をもたせる手っ取り早い方法は、香辛料の使い方をマスターすることじゃないかと悠を見てて思ったんだ……。いずれ、悠も香港に帰る。家族が待ってるからな」

「えっ、料理長はいつ帰ってしまうんですか?」

「そう遠くはないだろう。でも安心しな、悠の持ってるすべての技術をおまえに伝承するまでは帰らせない。その代り、善幸も早く覚えなきゃいけないよ」

「それじゃあ、俺、ゆっくり覚えていきます!」

 自分は一人ぼっちになってしまう、善幸はそんな寂しさを感じてしまった。

「善幸、悠から何でも盗んで行くんだ。あいつは、料理以外のことも色々と分かっている。頼る人が誰もいない香港へ一人で渡ったんだ。だから、必死にやるしかなかった……。しんどい思いもたくさんしたろう。料理人って、いや、人間ってなあ、所詮前へ進むしかないんだ。それを諦めたら終わりだ。だからな、人に付いて教わるだけでは弱いんだよ。いざという時、自分で何とかしなきゃならないという気構えを強く持つためには、経験を積み重ねていくしかない。そこから学んでいくことだ。それを経たうえでの術を一生かけて模索していくということだと思う。しかしだ、人生そう上手くはいかないもんなんだよ……」

「分かりました、親方。取り敢えず俺、料理長が帰ってしまう前にいっぱい技術を身に付けます。今、仕事場で一緒にやってる三十代の先輩が三人いるんですけど、一年も経たないうちに抜かしちゃいますよ! それからってことですよね、しんどいのは」

「その意気込みがあれば、悠より早く自分の店を持てるようになるかもしれんな」

 親方の表情が和らいだ。

「悠も香港に帰ったら勝負すると言っている。あいつの義理の親父も香港で料理人として働いているんだ。親父と店を一緒にやるつもりでいる。これって、悠の女房の願いなんだよ。悠はそれを叶えてやろうとしているんだ。でもなあ、蓋を開けてみないと分からない世界。香港は地価がバカ高いらしい。高額な資金が必要になってくるだろう。ということは、失敗は命取りになる。親父と息子、その師弟関係ってもんはよ、ある時点からライバルになるんだな。そうなった時、上手くやっていけるのか、それが心配だ。親の俺が言うのもなんだが、悠は料理職人としては一流だ。向こうの親父がどの程度の腕前なのかは知らんが、悠は違うと思ったことははっきりと言うタイプだろ、だからよお……」

 親方、苦しいなら……もう話さなくていいから、と思いながらも、

「今の店でも、何から何まで料理長が決めちゃいますね。周りの職人は誰も口出ししません。出来ないんですよ。間違ってないから」と話を続けてしまった。

「職人同士って、互いのレベルはすぐに判ってしまうもの。単なる経験や年齢じゃないところが怖さでもある。そうだろ、善幸?」

 親方は、息づかいを考えながら話している。

「今の俺のレベルでも、先輩たちの動きを見ていれば判断はできます。あの先輩の仕事ぶりには誤魔化しがない、やるなあって関心する反面、手抜きの器用さが鼻に付く先輩がいたりしますね。本人はバレてないと思ってるみたいだけど」

「俺の目は間違ってなかったようだな……」親方は善幸を見つめた。

 善幸は、嘗てない褒められ方をされたものだから嬉しくなってしまった。

「出来ることなら、悠と善幸、おまえたち二人で……」

 親方の声がか細くなった。

 

 ノックの音がした。看護婦さんが部屋に入ってきた。隣のお爺さんに「熊井さ~ん、いかがですかあ」と声を掛けている。しかし、反応が無いようだ。心配になって覗いてみたら、彼女はお爺さんの手首に二本の指先を当てていた。


 無事を確認した後、看護婦さんがこっちへやって来た。「木ノ内さ~ん、腰、大丈夫ですか?」ベッドの背を立て過ぎているのを気にしているようだ。

 親方は「大丈夫だよ」と答えた。それでも苦しそうに見えたようで、彼女はベッドの背を半分寝かせた。

 看護婦さんが点滴のボトルを替えている。善幸の目線は管を辿っていった。そこには、漂白されたゴボウが一本横たわっていた。親方の、はっきりと聞き取れる声と身体は別人のように思えた。

 看護婦さんは、時計を見ながら滴を数えている。紫色に変色している針の跡が痛々しかった。彼女は親方に一声掛け、善幸に会釈すると、すたすたと部屋から出ていった。


「あの看護婦さん、さっぱりしてますね」善幸がドアの方を見て言った。

「一見な……」親方がニンマリと笑った。

「親方、俺、そろそろ帰ります。また来ますから」

「そうだな、また来てくれ……」

 そう言いながらも、親方は名残惜しい表情を浮かべていた。

 善幸は、親方の身体を気遣ったのだ。しかし、親方は、

「どんな仕事でもな、むき出しのものを手を加え形にしていくんだ。見てるだけじゃ商売に結びつかない。そこから如何に感じ取るかだ。いっぱい感じ取れるようになると、事はとんとん拍子で前へ進んでいくものなんだよ。愉しくなっていくものさ。そうなるためには何が必要か、分かるか? 善幸」と最後の問い掛けをしてきた。話はまだ終わっちゃいないと言わんばかりに訊いてきたのだ。

「わかりません」

 考えてもどうせ分からない。善幸は、お決まりの返事をした。

「日常的に使っている飾り気のない言葉っていうのはよ、歳を取れば取るほどその重みが増して来るもんなんだ。時に、その中に詰まっている餡子がずっしりと重たいことに勘づくからだ。転がすことが出来ないくらい重たくなる場合もある。思うに、それって、素直さの中にハート型の餡子を詰めたような食べ物なんだが、喰ってみると想像を絶するほど美味く感じるんだよ。此の方、まだ数回しか喰ったことはないけどな。最期にもう一回食べるチャンスがあるといいんだが……」

 善幸は返事もせず、話の続きを待った。


「善幸、焦ることはないが、早めにその美味さを分かるようにならないとな。それがおまえを大きく成長させて行くものだろうから」

 善幸には、どんな食べ物なのか想像もつかなかった。親方のそんな言い方に馴れているとは言え、今回の“素直さの中にハート型の餡子を詰めたような食べ物”を理解するには、苦戦を強いられそうだ。善幸はいつものように、

「それ、美味しそうですね、親方。どこで売っているのかは分かりませんけど、必ず探し出して喰ってみます!」惚け顔でそう言い返した。

「味わいながら食わんとな。勘違いするなよ、それは、どっかで売ってるもんじゃないし、人から一方的に貰うものでもない。自分でじっくりと時間を掛けて作らなければならないものなんだ。それも、何故か自分だけしか食べられないという条件付きだ。おまえは料理人なんだから、作れるようにならないといけないんだよ」

「それって、食べないといけないものなんですか?」

 後で考えるにしても、今、出来るだけヒントをもらっておかなければならない。昔のように親方の傍で仕事をしている訳ではないのだから。

「栄養源ではないよ。心の毒を中和してくれる解毒剤みたいなものかなあ……」

 善幸が黙っていると、

「それは〝間際〟になると、最も効き目を発揮するみたいだ。不思議なもんで、新鮮味を感じてしまうよ……」親方は穏やかな顔になった。


「今日、親方が話してくれたこと、家に帰ってじっくりと考えてみますね」

「気負わずに考えた方がいい。誰でも夢があるうちは走り続けられる。途中、思い迷った時や思わぬ面倒に出くわした時に、本来の道から外れぬよう〝それ〟を頼りに進んで行けばいいんだ。とんだ間違いを犯さないためのものでもある。底知れない人の拠り所、とでも言ったら分かるか?」

 益々分からなくなってきた。善幸は、一生掛けて理解しなければならない羽目になりそうだ。

「そうだった、最期に、おまえに大切なことを言っておかなきゃな」

「ええっ、何ですか? 難しい話ならまた今度にして下さい」まだあるのかと愕いてしまった。

「美乃里のことだよ。心臓が悪いから、気に掛けてやらんといけないよ」

「分かってます、親方。二度と壊れない心臓手術をさせますから。約束しますっ」

 久しぶりとは言え、親方といっぱい話してしまった。息苦しかっただろうか……。でも、そのようには見えなかった。

 親方が手首を動かしている。「じゃあな……」という合図なのだろう。肘を折ることさえ出来ないようだ。

 善幸は何も言えなかった。コクリと頷くのが精いっぱいだった。親方の顔をしっかりと記憶に留め、部屋を後にした。



 それから一週間も経たないうちに親方が亡くなった。             (つづく)





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ