―披露宴のバックヤード― (恐ろしい執着心の幕開け)
第三十五話
―披露宴のバックヤード―
(恐ろしい執着心の幕開き)
親方の店から【四川料理 翔龍】へ移り一年三箇月が経過していた。善幸は、二人が住んでいた六畳一間から、六畳、四畳半の二間ある木造アパートに引っ越した。生まれてくる赤ん坊を寝かせるスペースが欲しいからだった。
美乃里は妊娠八箇月目に入り、勤めていた仕事を辞めていた。
店内は昼食時のざわつきが引き、スタッフたちは一段落つく時間帯に入った。
今日は六時から宴会が入っていた。善幸がその準備をしていると、料理長が近づいて来た。
「その皿は使わないぞ。丸い皿ばかりじゃ、味もみんな一緒になっちゃうだろ」
「そうですね、分かりました。別なの考えます」
料理長は、腕を組んだ状態で動こうとしない。まだ言いたいことがあるようだ。
「善幸、子供が生まれたら、うちの店で出産祝いをやるからな。仕事が忙しくて式も挙げられなかったもんな。俺としては責任を感じる。だから、うちの店でおまえたちを祝うことにした。文句ないよな?」言い方に強引さが窺えた。
「あの……店でですか? 無休じゃないですか」善幸は、思いも寄らぬ話に戸惑った。
「午後三時以降をクローズにする。遠慮するな、大したことじゃない。副料理長に言ったら『じゃあ、腕を振るわないと!』だってさ。何言っても無表情な彼がそう言ったんだぞ。俺が吃驚したよ。職人だけじゃなくスタッフたちも楽しみだって言ってたよ」
「店をクローズしてまでやることじゃないですよ、料理長。俺、まだ入って一年ちょっとしか経ってないのに……。皆さんの気持ちだけで十分です」
「皆に言っちゃったからもう遅いよ。美乃里の隣で、おまえが赤ん坊を抱いてる姿を集まってくれた皆に見せつけてやれよ!」
料理長は、やる気満々のようだ。
善幸は、挙式とか披露宴など考えたこともなかった。そんな余裕などあるはずもない。ただ籍を入れただけ、これだけでも美乃里の両親は喜んでくれたことに安堵していた。
しかし、料理長は、多分、美乃里のことを想い、披露宴をやろうと計画を立ててくれたのだろう。尚更、断ることなどできない。
「ありがとうございます。美乃里もきっと喜ぶと思います」
善幸はそう答えてしまった。
「お互いの両親や兄弟にも声を掛けておけよ。親戚も呼んでいいんだぞ。親方の面倒見ながら働いてくれていたおばちゃんたちにも連絡しておかないとな。親方は、病院から車椅子に乗せて連れて来るとするか……」
親方は、店を閉めた半年後に入院してしまった。高齢者には珍しい骨肉腫だった。それが股関節に発症していることが医師から告げられたのは、善幸が親方の店でまだ働いている時だったらしい。
善幸と美乃里は、親方が癌であることを入院するまで知らなかった。先週、二人でお見舞いに行った時、親方は「時々激痛が走るのは、腫瘍が周辺の臓器や神経を圧迫してるのが原因なんだそうだ」と話してくれた。
癌の進行状況を主治医から直接説明を受けてるみたいで、すべてのことを分かっているようだった。
料理長がこの店で祝ってくれるという子供の誕生を兼ねた披露宴。だが、善幸には気乗りしない理由があった。それは特別扱いだ。自分が料理長の知り合いであることは職場の皆が知っている。店をクローズして、私事のお祝いなど、本来なら考えられないことだ。料理長の権限の大きさがそうさせているのは明白だった。出来ることなら断りたかったのだが……。
「絶対、あたしは嫌っ!」美乃里の形相が変わった。
「隣に聞こえるって、静かに話せよぉ」
ワンルームのアパートから引っ越して来たとは言え、薄い壁で仕切られたアパートであることに違いはなかった。
揉め事は子供の名前のことだった。。出生届の期限まであと五日。
「なんで魚の名前にしなきゃならないの? 馬鹿じゃないの!」
「俺の友達の親に竜二っているぞ。その兄貴は竜一だ。探しゃあ、亀や鶴や虎や羊の付く名前なんていっぱいあるじゃないか。だからさ、動物、植物に限らず魚の名前だってアリなんだよ、気にするなって」
「学校に善くんみたいな男の子がいてさ、それが原因で虐められたらどうする気?」
どうしても嫌だと美乃里は抵抗する。
「俺が学校に乗り込んで行って、そいつを叱りつけてやるよ!」
勿論、漢字で『細魚』などと名付けるつもりはない。善幸は『さより』と平仮名で名付けたかったのだ。
これ以上話していても美乃里を興奮させるだけだと思った。善幸は、日を改めて説得することにした。
そして、三日後。
「平仮名なんだからさあ、魚をイメージされると困るんだよ。『さより』って、当たりの柔らかい印象を受けないか?」
「善くん、最初に三枚おろしにした魚だからじゃないの? そんな理由で名付けられたら子供が気の毒だよ!」
「細魚って、見た目の美しさはこの世のものとは思えない。最初に見た時、そう思ったんだ。こんな魚がいるんだって、見惚れちゃったよ。おまえには理解出来ないかもしれないけど、俺さ、この魚を何千匹もおろしてきただろ、細魚が骨身を惜しまず、俺を鍛え上げてくれたんだよ。それだけじゃない、親方が最初に触らせてくれた魚なんだよな。なんか親方との絆を感じるんだ……。おまえさ、お見舞いに行くたびに衰弱していく親方の身体、せめて痛みを何とかしてあげたいと思わないのか?」
美乃里は、大きな腹を抱え、一人で親方のところへお見舞いに行くこともあった。彼女は、前回行った時に親方から聞いた「転移しているようだ……」の一言が耳に残って仕方が無いようだった。帰り際、寝ていた親方が上半身を起こそうとしたとき、はだけた胸の肋骨を見たら、胸が張り裂けそうになったと言っていた。
しんみりとした二人のやり取りは続いた。美乃里の口数が徐々に少なくなっていく。
善幸が言った。「おまえがどうしてもこの名前が嫌だというのなら、俺、別な名前でも構わないよ。おまえが決めればいい」
最終的にこの一言で、美乃里は『さより』という名を受け入れたようだ。
親方が亡くなった。善幸が料理長の店へ移ってから二年も経っていなかった。
親方は、店を閉めてから一月も経たないうちに、住まいにしていた店の二階の部屋からでさえエレベーターを使うようになっていた。知らぬ間に急激に身体が弱っていったようだ。病院へは美乃里かおばちゃんたちが付き添うことになっていた。
料理長は、主治医から「余命三箇月、そう思っていて下さい」と業務報告のように告げられたと言う。善幸は、親方が亡くなる半年前から料理長に「善幸、悪いが今度の休み、店に出てくれないか?」とよく頼まれていた。病院へ行くためだ。当時、善幸は休み無しで働いていた。
あれは、親方が亡くなる一箇月前だっただろうか。料理長が、「明日、店を休んで病院へ行ってくれないか。親方が善幸に会いたいと言っているんだ……」そう意味あり気な顔で言ってきた。
「親方の具合、どうなんですか?」
「あまりよくないんだ。おまえと話が出来る最後の機会になるかもしれない。明日の午後三時に行ってくれ。その時間に合わせて親方が医者に頼んだらしい。モルヒネを上手く調整しておいてくれってな」
「痛いってことですよね……」
「本人も、おまえと話せるのは最後だと思っているんだろう。『善幸に来させろっ』、だってよ。嬉しそうな顔して言ってたっけ……。余程おまえに会いたいんだな……」
(つづく)




