―美乃里の母親を“由紀子さん”と呼んでみたい―
あらすじには書いていない話が続いています。たい焼きで言うと餡子の部分、そのつもりで書いています。成功するかどうかは分かりませんが、この先を読み続けていくと、これまでの話との関係が理解することができるのではないでしょうか。読み続けてもらえるかどうか、興味深々です。
第三十四話
―美乃里の母親を“由紀子さん”と呼んでみたい―
それから五日後、深夜二時に美乃里は善幸のアパートへやって来た。母親と激しい言い合いになり飛び出してきたと言う。どうしても母親を許せなかったらしい。
母親を「何も言わず、あんたはなぜ出て行ったんだよ!」と問い詰める彼女に対し、「話しても、美乃里には分からないことなんだよっ」そう突っぱねる母親。その押し問答が数日間続いたと言う。母親の謝罪無き態度から生まれた確執。二人の溝は深まってしまったようだ。
後日、善幸はそれを見兼ね、母親に了解を得た上で彼女の荷物を自分のアパートへ運んだ。それ以降、六畳一間での彼女との同棲生活がはじまったのだった。
店が休みの日だった。美乃里が学校へ行って居ない時間帯を見計らったのか、母親が突然アパートへやって来た。その恰好は、このアパートへ出向くには不似合いな装いだった。
呼び鈴を押さずにノックを二回。美乃里なら勝手に鍵を開けて入ってくるはずだ。何者かと思いながら善幸はドアを開けた。
そこに立っていたのは、美乃里の母親であることは間違いなかった。昼間に会う母親の印象は間違いのない清楚な女性だった。数日前、美乃里を送っていった時の、月夜の灯りで見る誘惑的な立ち姿で現れた女性ではなかった。その時のインパクトが強すぎた所為で、却って涼やかな目元に好感を抱いてしまった。
善幸は、自分がいつも使っている薄汚れたペッちゃんこの座布団を敷くと、彼女は気にせずに座った。
「男の子の部屋ねえ……」と一言。目線を窓へ向け、外を眺めている。
「寝に帰ってるだけですから」善幸は、突然の訪問の理由を推測しながら、ペットボトルを冷蔵庫から取り出した。この季節、冷えたままでいいのだろうか。また、美乃里の母親をどう呼べばいいのかを悩んでいると、
「善くんは、美乃里の病気のこと、知ってるの?」
重い話をいきなり切り出してきた。話の展開が全く読めないでいるので緊張感が高まった。
「それは、彼女から聞きました。手術すれば治るんですよね。彼女の話だと十年もすれば医療の技術が進んで、もっといい治療法が見つかるかもしれないって言ってました」
「分かってるのならいいの……。うちのお父さんがね、そのことをとても心配しているの。弁膜症だと分かってからは、美乃里の通帳を作って積み立てをしているのよ。自分の本当の子じゃないのにね。美乃里はまだそのことを知らないの」
「そうだったんですか……」
背筋を伸ばし、座卓の上で指を組んでいる姿がイケていた。
「それでね、お父さん、善くんに一度会いたいって言ってるのよ。月曜日がお店休みでしょ? お父さんが善くんの休みの日に合わせるって言ってるんだけど、会ってくれない?」
善幸とすれば望むところだった。
「分かりました。伺います」
揉め事を解決するには良い機会かもしれない。本来なら、同棲する前にお父さんと会っておきたいと思っていた。現場監督のお父さん、どんな人なんだろう。お母さんのこの話を聞いて、益々興味が湧いてきてしまった。ところで、そのお母さんの呼び方はどうする? お母さん、ではいくら何でも早すぎるだろう。かといって、“由紀子さん”? 俺としては背伸びしてそう呼びたいところだけど……。
狭い玄関に置いてあるヒールの高いサンダルが、座った位置からでも善幸の目に入った。母親が訪ねてきた用件は、それ一つだけのようだ。〝失踪の件〟は、美乃里にも話してない訳だから、この場でその話が出るはずもなかった。そもそも自分の娘の彼氏になったのは最近のことで、その相手に身内のナーバスな話などするはずがない。
結局、お茶は出さずじまいだった。会話の広がりが無いまま時間だけが過ぎた。居たのはわずか二十分。その間、座布団からはみ出している素足は二回向きを変えた。
――親方の決断――(巷で話題の大型店舗出店計画)
南口に和食の大手チェーンが進出してきた。親方の店に来てから一年後のことだった。
ある朝、店の扉を乱暴に閉める音がした。親方と善幸は手を止めた。恐らく酒井のおばちゃんだろう。二人は、おばちゃんが厨房に顔を出すのを待った。
おはようの挨拶をすっ飛ばし、
「親方っ、南口のパチンコ屋の二階にさ、大虎屋が入るみたいよ。来月の二十日にオープンだって! イタタタタッ」椅子にぶつけた爪先を押さえている。
「パチンコ屋の上かあ、それじゃあ、広いなあ……」
親方は、包丁をまな板の上に置いた。
「別にさあ、うちの店に影響はないと思うけど。和食とは言えチェーン店だから味は分かってるし、それに……」
そう言って、おばちゃんは親方を安心させようとしている。が、パッと具体的な言い訳が出てこないようだった。
この二年間、善幸は、只管親方の指示通りに身体を動かしてきた。働きはじめた頃と比べれば、お客さんも徐々に増えてきている。決して自分のお蔭などとは思ってないけれど、率直に嬉しかった。そこに、和食ライバル店の出店の話。まさかうちの店の存続が危うい? そんな不穏な空気が厨房内に漂ってきた。
善幸は、それを吹き飛ばそうと「オープンしたら、俺、偵察に行って来ます!」と言ってみたが、親方は何も言わなかった。
美乃里は、医療事務の専門学校を卒業すると、新宿にある私立の大学病院に就職した。“あれ以来”時間と共に薄れて行った母親に対する嫌悪感。彼女は、母親の失踪の理由は未だに分からないでいた。一時、積りに積もったその気持ちをどう処理したのだろう。必死に忘れようとしただけのような気がしてならなかった。
善幸は、失踪の件をおばちゃんに尋ねてみたことがある。おばちゃんは、「お父さんと違ってお母さんは、血縁をとても気にするタイプみたいね」と先ずそれを口にした。それだけで核心に触れようとはせず、話をはぐらかされてしまった。不自然なその様子から、やはり思うところは自分と一緒なのではないか。逆に、その〝読み〟に確信を持ってしまうくらいだ。おばちゃんは、話の括りとして「その男の人と別れるのに、三、四年費やしたんだぁ……。お母さん、大変だったと思うよ、それにしてもねえ……」そう言っていたことが善幸の耳に残った。
善幸が休みの日は、美乃里が仕事から帰って来ると二人で母親のところへ行き、夕食を一緒に食べることにしていた。話題は、専ら麻子の幼稚園での出来事。彼女は会話を弾ませてくれていた。
麻子にとって、善幸と美乃里は、二組目の両親みたいなものだった。
善幸は、仕事の都合で居ないお父さん役を果たしていた。“本当の熊さん”より一回り小さい熊になって、後ろから抱き付いてくる麻子を微笑みながらじっとしていなければならなかった。
幼稚園の運動会の日は、その日に合わせて現場から本当のお父さんが帰って来る。善幸は、夕方の五時に店へ入ればいいことになっていた。だもんで、我が家の“スター麻子”の運動会には二組の両親が揃うことになる。
園庭にシートを広げての昼食は賑やかだった。皆で我が家のスターを持て囃すわけだから、競技の順位はさて置き、彼女の燥ぎっぷりは、タンポポ組の中でも一段と目立っていた。
善幸は、麻子に〝魚のおじちゃん〟と呼ばれている。炬燵を出す季節になると、鍋料理をするため、鱈や鮭を持っていった。そのお蔭で麻子は魚が好きになった。
突如やって来た当時の麻子の笑顔は、幼いながら固く結ぼうとする口許の力が働いてしまうようで、暫くの間ぎこちなさが窺えた。自然体で生活するようになるには一箇月はかかっただろうか。善幸は、救世主として現れた麻子にとても感謝していた。
駅から、商店街を八百メートル先へ行ったところにある駐車場が、いつのまにか鋼板で囲われていた。その仮囲いに張り付けてある看板には『回転寿司 浜っ子 九月中旬にオープン』と書かれてあった。
善幸がその建築計画を確認すると、三百坪はある土地に、ぶっとい鉄柱で店舗を浮かし、お客さん用の駐車場をより多く確保することができる設計になっていた。仮囲いを黄色く塗って目立たせ、その目立つところの掲示板には階段を上っていく家族連れのパースが掲げてあった。それは、南口の『和食 大虎屋』がオープンしてから半年後の出来事だった。
「駅から徒歩十分のところに造るんじゃないよっ!」これは、おばちゃんがモップ掛けしながらの独り言で、口癖になっていた。
客足は鈍っていった。大虎屋がオープンした後の三箇月間は、店の売り上げがこれまでの半分もいっていない。その後も思うようには回復していかなかった。
【和食処 悠の里】は、鮮度、味共に近間の和食店より抜きん出ていた。また、見た目でも親方の考えた〝善〟の方が、見栄えがするし季節感を感じさせる。なのになぜ客足が落ちていくのだろう。
善幸は、その理由を今度の休みの日に、料理長のところへ行って訊いてみようと思っている。料理長ならその原因が分かると思ったのだ。
ある休みの日、善幸は料理長の店へ一人で出かけた。
午後の三時頃だった。空いているだろうと思ったら、近所の奥様方と思しき十人程度の団体さんがテーブルに大皿を並べ、高らかな笑い声を上げていた。当然立地条件もあるが、明らかな集客力の違いを見せつけられてしまった。
「裏の小学校のPTAの集まりなんだよ」料理長が説明してくれた。
PTAの集まりでこの店を使うんだあ、と善幸は四ツ谷界隈の生活レベルの高さの違いを感じた。
そんなことより、善幸は二進も三進もいかないうちの店の経営状態をどう思うかを尋ねてみた。
「ああ、大虎屋のことは知ってるよ。親方は、それに関しては気にしてなかったと思うよ。飲食業界って競争が激しいからね。街の再開発での人口増加には敏感なんだよ。乗降客数の変化が顕著になる前に行動するのさ。隙間があると思ったところへはどんどん進出していく」
「そうなんでしょうけど……」善幸は、冷静な料理長の分析に愕いてしまった。
「善幸も知ってるだろ、今度出店予定の回転寿司の先にある丸富薬品の工場跡地。そこに八百世帯の巨大なマンションが出来るんだよ。回転寿司もそれを見込んでの出店だと思うよ。駅からちょっと離れれば、あの辺りは空き地や畑ばかり。地価が安く真っ平だから工事もし易いしな。その上、国道に面しているから、近隣の苦情も心配することなく計画通り工事を進められるんじゃないか。ロードサイド店舗としては、あの辺は良い場所なんだ。ファミレスもそのうち出店して来るだろうな」
それにしてもよく知ってるなあ~、料理長はあの周辺を調べているのだろうか。
親方は、回転寿司出店の件に関しても料理長に話していたようだ。気にしていないと言いながら、内心は徒事ではないと思っているはずだ。
料理長はその話をあっさりと終わらせて、「パクチーって、日本人の口には――」最近食べに行ったというエスニック料理店の評価を下している。その淀みのない話し方から、親方の店が潰れても仕方ない、そう割り切っているかのように思えてならなかった。
帰り際は必ず「ところで、善幸、いつ美乃里と結婚するんだ?」と、料理長はいつも真剣な眼差しで付け加えてきた。
善幸は、帰りの電車の中で、ぼんやりとそのことを考えてしまうのだった。
暖簾を外し片付けが終わり、善幸はおばちゃんと店を出ようとした時、親方に呼び止められた。
「善幸、明日、店は休みにする。昼飯作っておくから、偶にはおばちゃんと三人で食べながら話そうじゃないか。昼頃来てくれればいいからよ」そう言った後、親方はおばちゃんに目配せをした。
善幸は、親方のこの似つかわしくない言い方が気になった。
「分かったよ、親方。帰ろうか、善くん……」おばちゃんが代わりに返事をしてくれた。
善幸は、悪い予感が二つ頭に浮かんだ。
おばちゃんといつも別れる交差点。善幸は、いつものようにおばちゃんの背中が見えなくなるまで見送った。
どっちなんだろう……。善幸は自転車を漕ぎながら考えている。
帰り際、「おばちゃんと三人で食べながら話そうじゃないか」と親方に呼び止められたことが気になり、その夜、暫く寝付くことが出来なかった。
知らぬうちに、青白い光りが差し込んでいた。隣との薄い間仕切り壁にくっ付けて積み重なっている段ボール箱。六畳一間のアパートでは、仕舞えるところなんてどこにもない。これらは、美乃里の家から二人で運んできた荷物だった。近いうちに引っ越さないとダメだな……。その前に、籍だけは入れよう。善幸は寝返りを打つ。と、耳元に微かな寝息が聞こえてきた。
目覚ましが鳴った。美乃里は居なかった。善幸を起こさずに仕事へ行ったのは、昨日帰って来た時、「明日は、昼ごろに店へ来くればいい」そう親方に言われたことを、空で彼女に話していたからだろう。
店に着いたのは十一時半だった。自転車を降りると、クルミ姉さんが何もせず後ろ向きに座っていた。ひと仕事終えたところのようだ。
店に入ると、おばちゃんが座敷のテーブルに料理を並べている。三人だけじゃないのか、誰かのお祝い事でもあるのだろうか、そう思ってしまうほどの品々がテーブルを埋め尽くしていた。
善幸は、何かがはじまりそうな気配を感じた。
「善くん、吃驚した?」おばちゃんが言った。
「どうしたんですか、目出度い事でもあったんですか?」
「おお、来たかぁ」厨房から親方が出て来た。
私服のままの三人が座敷に上がった。
「親方もお酒は久しぶりじゃない?」との返事には答えず、「この前の検査結果どうだった?」これには「変わらねえよ」いつもの捨て台詞調で応えた。
親方の身体のどこが悪いのだろう。高齢だから病院通いをしていてもおかしくはない。善幸は思い返してみた。親方が薬を飲むところを見たことがあったか、病院へ行ったなんていう話を聞いたことがあっただろうかと。
善幸としては、直接それを訊くのが怖かった。親方は今でも身体つきは華奢でも三十キロ入りの米袋を難なく持ち上げていた。
善幸はが親方の顔色を窺っていると、ビール瓶を手にし「ほら、善幸っ」と差し出してきた。手にしたグラスに注がれる琥珀色の液体の上の白い泡が盛り上がっていく……。
何だろう、この和み……。改めて、親方に強い親しみを覚えた。しかし、何でか怪訝な顔つきになってるだろう自分の顔に不満を抱いていた。
親方とおばちゃんが昔の話をしている。知らない職人の名前が聞こえてきた。おばちゃんが親方に問いかける「一昨年だったと思うよ、大阪で店を出したって藤田から電話が掛かって来たのは」親方は微笑みながら会話をしている。この寛ぎが心地よい反面、店内の空虚感がマッチしていなかった。
善幸は、人通りを窓から眺めていた。親方は、俺に話したいことがあるから態々今日休みを取ったというけれど、三人では食べ切れないほどの料理は、大切な人を待っているかのように思われてならない。けれど、その参加者が現れる気配は感じられなかった。
鰯の刺身を食べた。梅雨時期の鰯は脂がのってて旨い。表層を泳いでいる鰯は雨で海水が薄まると活発に上下に泳ぐようになるらしい。口を開けっ放しで泳ぐので大量のプランクトンを飲み込む。だから脂がのるんだと親方が教えてくれた。別盛で、二週間前から入荷している五島灘の鯵も、身の厚みで脂がのっているのが分かった。
「これは?」と善幸が指を差した。
「旬を味わい四季を愉しまないとな。大名竹の素焼だよ。殿様が喰って『こりゃあ、旨い!』と言ったらしい。こんなのは大虎屋では食えない。以前、うちの店で出したことがあるんだ。善幸は、はじめてだったな」
皮ごと焼いている理由が分かった。皮を剥いていくにつれ、独特な香りを放つ。焼く手間を考えると、チェーン店で提供するのは不可能であることが分かる。その横には、鞘ごと焼かれた空豆が色合いよく盛られていた。
話がある、と言いながら、なかなか切り出そうとしない親方。それを見ていて痺れを切らしたのだろう。おばちゃんが話し出した。
「ねえ、善くん、食べながら聞いてくれる?」
「改まって何ですか? おばちゃん」
「愕かないでよ、実は……。来月いっぱいで店を閉めることになったの」
やっぱりな、善幸の予感は当たった。途端に、自分が糸の切れたやっこダコのように思えてならなかった。
「売り上げが落ちて来たからですか? 親方……」力なく言った。
「正直、それもある」親方が応えた。
親方が手を掛けているグラスを見たら、ほとんど減っていない。大虎屋が開店し、暫くすると回転寿司がオープンする。やっぱり、この二店舗の集客力の大きさが脅威となってしまったのか。これが、もし、ファミレスだったとしたら、影響も限定的だったのではないかと考えてしまった。
これまで一度も改装したことのない親方の店。外見からでは客を引き付ける要素はどこにもなかった。入口に掛かっている手垢のついた暖簾、それに薄暗い店内。また、鍋物の湯気の所為で黔んでしまった天井や壁が、店内の照度を更に暗くしていた。鮮度が自慢の刺し身は、お客さんの目には赤黒く映っていたのではないだろうか。
「親方はね、善くんにこの店を任せようと思ってたの。いずれ、美乃里ちゃんと二人でやっていけばいいって。おばちゃんも手伝えるしさ。清水のおばちゃんだって声掛ければ手伝いに来てくれる。内装も新しくして渡してあげたいって、親方は考えていたのよ……」
おばちゃんは、一気に悲しそうな顔付きになった。
「善幸、結局な、変化について行けなかったってことなんだ。お客さんの年齢層も変わってきた。前にも言ったよな、生ものって正直な姿を晒しているから、時間がくれば容赦なくシャットアウトだ。経営上、厄介なところがある」
「俺、和食って大好きですよ。親方のところに来て魚の旨さを知ったんです。刺し身の引き方一つで味が変わる。そんな刃物の大切さも教えてもらいました。俺の身体に染み付いちゃってますよ、親方……。美乃里と俺のことは心配しなくて大丈夫ですから。仕事なんて、選ばなければいくらでもあります!」
「善幸……」
そう言うと、親方はグラスに口を付けた。
一息付くと、
「ところで、突然なんだがな、おまえ、料理長のところへ行く気はないか?」
咄嗟のことで、善幸は即答出来なかった。
「嫌か?」
「そんなことないよねえ、善くん。美乃里ちゃんは料理長のことが大好きみたいだし、和食が四川料理に代っただけじゃない。将来のことを考えれば、四川料理も覚えておいた方が良いと思うよ。料理長だったら、親方みたいに親身になって教えてくれるしさあ」
突然、前途のシャッターが下ろされた瞬間から、親方は、悩むのとがないようにと抜け道を用意しておいてくれたのだ。
「俺、料理長の店へ行っていいんですか?」嬉しさと愕きで身を乗り出してしまった。
親方もおばちゃんも頷きながら喜んでくれていた。
話は決まった。善幸としてはこの上ない条件だった。料理長の店だったら、確かに美乃里も大賛成だろう。この話は、既に料理長と話がついていたに違いないと思った。それにしても、先日料理長の店へ行った時、そんな話は出なかった。きっと、手筈を整えてからと言うことだったようだ。何はともあれ、善幸の気掛かりは一瞬にして吹っ飛んでしまったということになる。
しかし……もう一つの気掛かり……。それは「この前の検査結果どうだった?」と、さっきおばちゃんが親方に尋ねたことだ。親方が何かの病気であるのは間違いないようだ。
「まだ閉店はしてないんだぞ。いいか、善幸、後一月あるから、俺が居ないと思ってやってみな。魚を下ろせるようになったからって一人前とはいわない。店の主として支障なく段取れるか、先を見通し継続していけるか、これが重要なことなんだ。調味料一つ切れただけで作業はストップしてしまうんだ。それに、うちみたいな店はストックして置く場所が限られている。だから、一度に保存の良い食材だからといって、大量に買えばそれなりの値段の交渉は業者と出来るが、作業がやり難くなってしまう。その辺を考えてやらないといけないよ。それとな、河岸の仲買いとは、信頼関係を築いておかないと良い魚を回してくれないんだ。これまでのように、身体を動かしていればいいってもんじゃないってことだな」
「俺、親方が居ないつもりで明日からやってみます!」
「そうしな……」
現れた夢路を突き進もうと決めた善幸。そのことが、〝もう一つの気掛かり〟を踏みつけた。
今日、親方として、善幸に話すべきことはすべて済んだようだ。おばちゃんとまた想い出話をはじめている――。
午後から降り始めた雨が止んだようだ。見えない夕陽が濡れた路面へ浸み込んでいた。
閉じた傘を持ち歩く高校生たち――。その騒がしい話し声がガラスを響かせている。善幸は、彼らの汗で濡れた白いシャツが赤く染まっているのを眺めていた。 (つづく)




