―美乃里の母親(由紀子)と麻子の訝しさ―
この辺から話がちょい複雑になっていきます。いい話なんですが。
第三十三話
―美乃里の母親(由紀子)と麻子の訝しさ―
半分でも満月のように明るく感じた。
善幸と美乃里は、彼女の家の前で自転車を止めた。昨日との違いは話し声が極力聞こえないようにするため、自転車を並列に止めている。あと三十分で日付が変わろうとしていた。
「今日、暖かく感じない?」彼女が言った。
そんなことより、善幸は本題に入っていく。
「お父さんのこと、何か分かった? それと、朝おばちゃんと話し込んでたみたいだけど良いアドバイス聞けたの?」
「別な話があるって言ったよね。それ、先に話しておきたい」
「どうぞ……」
彼女には話す順番があるらしい。
「料理長のことなんだけど……」
「おーい、頼むから脅かすなよなあ」
善幸にとっては想定外のことだった。何か関係性があるのだろうか。
「予想してた通り、料理長は親方の一人息子だった。朝、うちのお父さんのことを話す前におばちゃんに訊いてみたの」
「おお、やっぱりな。もっと早く訊いておけばよかったよ。おばちゃんもさ、親方の息子だってこと知ってんだったら、もっと早く俺たちに教えてくれればいいのに。料理長の店に最初に食べに行ったのって、三箇月以上前のことだぜ」
「おばちゃんも、勝手には話せなかったんじゃない。親方の親子関係のことなんだから。あたしたちも親方に訊けなかったじゃない」
確かにそうだった。見習いの立場で余計なことは訊けやしない。
「あたしね、おばちゃんと話した後に店の前を掃いてたら、クルミさんが店から出て来てさ、顔を見た途端〝あっ〟て思ったの。昔のことを知ってるはずだって」
「昔のことって?」
「店を料理長と親方と一緒にやってた頃のことだよ。そしたらね、その頃は他に板前さんが二人居たらしいの。おばちゃんは居なかったらしいけど」
「まあな、二十年は経ってるもんな」
「料理長が居た頃の店名は『和食処 木ノ内』だったんだって」
「親方の苗字じゃん。捻り無しかよ」
「話の中で、クルミさんは料理長のことを〝悠ちゃん〟って呼んでたよ。ほら、店で中村電器のおかみさんが親方に啖呵切って話してた時もさ、〝悠ちゃん〟って呼んでたの覚えてる?」
「最初〝悠ちゃん〟って誰だろうと思ったけど、話しの途中から、息子なんだってわかったよ」
「料理長ね……店を出て行ってから、五年間一度も顔を出さなかったらしいの。連絡もなかったみたい」
「ええっ、五年間も? 親方、心配しただろうなあ。一人息子だもんなあ……」
それは、親方にとって酷だと思うくらいの年月だったはずだ。
「料理長が店を出て行ってから一年後に、店の暖簾が【和食処 悠の里】に変わったんだって。クルミさんがそう言ってた」
「店名を変えたんだ、親方……。朝から夜遅くまで息子の名前を呼び続けてたみたいだな、暖簾で……。息子に謝っているようにも思えるし」
「そうだね、いつ帰って来るか分からない人を待ち続けるのって辛いことだと思う」
彼女は悄気込んでしまった。
「遠く離れた場所で、どっちが先に折れるか、その我慢比べってか? 息子が父親に勝ったってことなのかな?」
「そういう問題じゃないと思うけど」
善幸は自分の父親のことを考えてしまった。しかし、それは、あまりにもレベルが違い過ぎる話だった。二人はこの話に気を取られている間に、いつの間にか日付を跨いでいた。美乃里は、興味を引く話ゆえ寒さは感じていないようだ。
「料理長は香港に行っちゃったから、帰って来れなかったんだね。五年後にね、奥さんとよちよち歩きの男の子を連れて店に来たんだって。料理長が子供抱えて店に入ろうとした時、暖簾の前で立ち止まったらしいよ……。クルミさん、店の中からその後ろ姿を見てたらしくて、最初誰だろう? そう思ったらしい。でも、撫で肩を見てすぐに〝悠ちゃんだ!〟って分かったんだってよ。思わず、立ち尽くしている料理長に、駆け寄って抱き付こうとしたんだけど、子供と奥さんが目に入ってきて、店を一歩出たところで足が竦んじゃったんだって。恐る恐る背中に向かって『悠ちゃん?』って呼び掛けるのが精いっぱいだったって言ってた」
「クルミさん、何か話したの?」
「そしたらね、振り向いて『おまえ、大きくなったなあ……』そう言われたらしい」
「五年経ちゃさ、そりゃ大きくなってるわな」
「クルミさん、しみじみとその話をあたしにしたんだよ。クルミさんの初恋の人って、料理長だったらしいよ」
「ふ~ん、いっぱい年が離れているのにな」
あの快活なクルミ姉さんから、その時の甘く切ない面差しは想像できなかった。
美乃里が、カチャという音に反応した。家の玄関灯の明かりを背に受けて、誰かがこっちへ向かって来る。彼女の母親以外にあり得なかった。
「俺、帰るよっ」
「ダメ、もう遅いよ……」
このまま帰ると言うことは逃げるということ。既に相手の目に留まっている。母親の眉目が次第に明らかになってきた。
「こんばんわ……。帰りがおそいからどうしたのかなと思って」
母親は少し首を傾げている。けれど目線はしっかりと善幸へ向けられていた。
「親方のところで一緒に働いている善くん。昨日、話したでしょ、その人。いつも帰り送ってくれるの」
善幸は、跨いでいた自転車から降りた。
「こんばんわー、倉持です」頭を下げた。
「あなたが善くんなのね。あなたのことは美乃里から聞かされてるから初対面とは思えないわ。いつも送ってくれてありがとう。この辺りは十時を過ぎると人通りが無くなるのよねえ、お蔭で安心していられるわね」
即、善くんと呼ぶところは、商店街の娘たち同様、馴れ馴れしくも悪い感じは受けなかった。それどころか、年齢不詳の女子アナのような声音で、正直ドキッとさえしてしまった。
母親は〝ローズ〟とは大違いだった。あの初めてのデートの時、山下公園で美乃里が言った「美人なんだよ、うちのお母さん。あたしと似てないの」、これは確かにその通りだった。多分、母親はパイル生地の白いワンピースを着ていると思う。月明りの妖しさと相俟って男心を擽った。
母親は、体重を片足にのせて、力の抜けている方の膝を軽く折り曲げている。片手は、男の肩ほどの高さにあるブロック塀へ。月下での端正な顔立ちは謎めいて腰の縊れを利かした立ち姿と釣り合っていた。大雑把に束ね上げた髪というイレギュラーは、何の効果を狙ったものなのだろう。もはや、母親ではなかった。
「明日も仕事だし早く帰らないとね、善くん」美乃里が言った。
すると、
「今度、うちに遊びに来ない? 美乃里から聞いているかもしれないけど、家族が一人増えたの」母親が微笑んでいる。
「お母さん、話が長くなるからさっ」
美乃里は早く話を打ち切りたいようだ。
善幸は、生返事を残して自転車を走らせた。
何も問題はないのだ、そう善幸は感じた。
お母さんが麻子を連れて家に帰って来た。信じて、ずうっと待ち続けていたお父さんが、笑みを浮かべて出迎えた。何も言わずに、お父さんは受け入れた。そこには、麻子を囲んでの偽りの無い団らんが出来上がっていた、そんな印象を受けたからだ。
五年間なんて、お父さんとお母さんの間柄では何でもないことだったということか。その関係に深入りをし、壊すようなことをしてはいけない。たとえ、美乃里であってもだ。
今日、美乃里から聞けるはずだったお父さんの過去――。その過去をそもそも聞く必要などあるのだろうかとさえ善幸は感じてしまった。
手袋は嵌めていなかった。ハンドルを握っている手が凍りそうだ。
昨日と同じ時間、同じ場所で二人は話していた。善幸は、再び家の中からお母さんが出てくるのではないかと様子を窺いつつ話を聞いている。
「昨日、善くんと別れた後、お母さんに聞いたよ」
「あの後って、深夜だぜ」
「話し終わった時は、新聞屋さんのバイクの音が聞こえてた」
だったら彼女はろくに寝ていないことになる。
「お父さんね、バツイチだった」
「やっぱりなっ、俺、その可能性が高いと思ってたんだ。でも、そのことは問題にならないよね。お母さんだってバツイチなんだからさ。それも、おまえを連れての」
「お互いさまだってことを言いたいの? お互いさまじゃないか、そのお荷物の分が余計だもんね」
「俺はね、互いに気にしないで済むってことを言いたかったんだよ」
彼女は頷いてくれた。
「お父さん、子供が好きなんだってさ」
「おまえの話を聞いてれば、それは分かる。おまえのこと、未だに可愛がってるじゃん」
「それがね、大好きなんだよ」
善幸は勘ぐってしまった。前妻との子がたくさんいるって? 毎月の多額の養育費で悩んでいるってことなのか? と。
「困ってるんだろ?」
「なにが?」
「前妻との子供のことだよ。お父さんに子供が何人いるの?」善幸はストレートに訊いてみた。ここははっりさせておきたいところだ。
「それがね、お父さん、子供が欲しくて仕方がなかったんだけど、出来ない身体なんだって。それってお母さんと再婚してから分かったらしいの。うちのお母さんね、子供がなかなか出来ないから強引にお父さんを病院へ連れてって検査してもらったんだって」
善幸の目論見が覆された。
「それじゃ、子供は一人もいないってこと? 良いような、悪いような……だな。でもさ、なんで前の奥さんと離婚したの?」
「それ、訊いたんだけど、なかなか話してくれなかった。お母さんね、あたしに話しても大丈夫だろうか、そんな迷いがあったんじゃないかな」
「結局、聞けたのか?」
多分、聞けたのだろう。しかし話しづらそうだった。
「どっちみち、善くんには話さなきゃいけないよね……」
「ここまで話しておいて“お預け”って、俺をペット扱いすんなよな」
美乃里は神妙な面持ちで話し始めた。
「前の奥さんね、ノイローゼになってしまったの。それで……」
「それでって?」
善幸は、最悪の結末を想像してしまった。どうやらそれは当たってしまったようだ。
「お父さん、どうして子供が出来ないのかって、奥さんを毎日のように責め立てたんだって。あたし信じられなかった。いくら子供が欲しくてもそんな理不尽な理由で奥さんを苦しめてたなんてさ。善くん、そう思わない?」
善幸としてみれば、お父さんにまだ会ったことが無いから何とも言いようがなかった。ただ、これまでの彼女の話では、お父さんは人格者なはずだ。それに、この話は我々だけで話し合ったとしても理解できるはずもなかった。
「もういいから。この話は止めよう。考えても俺たちでは分からないことがいっぱいありそうだからさ」
昨日、母親からその話を聞かされた時のショックが甦ってきたようだ。今にも泣き出しそうな顔をしている美乃里……。大好きなお父さんのイメージも崩れてしまったようだ。
善幸にはもう一つ訊いておかなければならないことがあった。それは、母親が男と失踪した理由だ。彼女の今の気持ちを考えると訊きづらいが、聞かないで帰るわけにはいかなかった。
「今朝、おばちゃんと話したよね、なんか言ってた?」
「おばちゃんにね、お父さんの過去のことを話したら『そうだったの……』と言っただけで、お父さんを責めるようなことは何も言わなかった」
「ふーん、昨日さ、おばちゃんは、お父さんの過去とお母さんの失踪と、何か関係があるんじゃないかって言ってたよね」
「そうなんだけど、善くんさ、昨日ここで話したこと忘れた? お母さんにお父さんの過去のことだけを訊けって言ったじゃない」
それは、母親との言い合いを避けるためにそう言ったのだが、
「確かに言ったな。でも、そこが分からないと、おばちゃんでもお手上げってか?」
「でも変なんだよ。おしゃべりなおばちゃんがさ、頷いてるだけでほとんど話さなかったの。最後に言ったことはね、夫婦の関係って、一緒に暮らしてきた家族でさえ理解できないことがあるんじゃないかって……。こうも言ってた。相手の心情を察することって難しいことだけど素敵なことでもあるわね、って。この意味わかる? 善くん」
善幸は、夜空を見上げた。話している間に月が動いてしまったようだ。暫くの間、おばちゃんの言ったことを考えてみた。
――何の抵抗もなく麻子を受け入れたお父さん。それどころか、美乃里の話では、自分の子供が出来たかのように喜んでいたらしい。それに対し母親は、悪びれた様子もなく「ただいまあ~」ってな調子で、誰の子かもわからない麻子を連れて帰って来た。失踪していた五年間を身勝手に剥ぎ取ったかと思えば、今度は意図も簡単に縫い合わせてしまったようだ。しかし、なぜか幸せな親子関係が成立している。善幸としては、そこが不思議で堪らなかった。
「お父さんの過去とお母さんの失踪って、やっぱ密接な関係があるんだよ。でなければ、おばちゃん、お母さんのことをぼろ糞に言うはずだからさ」
「そうすると、おばちゃんは、この二つの関係を理解しているってことになるよね」
「そういうことになるな……」
善幸は、理解不能と思いながらも考えざるをえなかった。
考えていると、突然、とんでもなく信じ難いことが頭に浮かんだ。
(ええーっ、プレゼント? まさか……)驚嘆に値するストーリーが、いきなり善幸の脳裡に浮かんで来たのだ。
人を驚かすのが大好きな女がいる。女には十歳になる女の子がいた。新潟のスナックで働いているその女は、客としてやって来たある中年の男と知り合う。二人はどんな話を交わしたのだろう。互いの過去を振り返る二人……。そして、結婚。男心を知り尽くした女とその男は、互いに何の不信感も抱かず日々を過ごしていた。しかし、女はある日突然胡散を残し、連れ子を置き去りにして姿を消したのだ。
その動機とは――。
男は、子供が欲しいばかりに、前妻に精神的な苦痛を与え続け死に追いやった過去を持っていた。日々増していく自責の念からの強いトラウマで、苦悩から解放されることはなかった。そんな男に対し、女は、自分にしかできない衝撃的な荒療治をはじめる決心をした。そこに至る経緯に迷いなど挟む余地は見受けられない。トラウマに因るフラッシュバックの辛さを除いてあげたい、そんな一心な気持ちから思い立った治療法だったのだ。即ち、それは精神科の名医でも度肝を抜かれるようなサイコセラピーだったということか。
女にとって、〝自分だけの赤ん坊〟を手に入れることは難しいことではなかった。五年の時を経て、女は赤ん坊を連れ、突然夫の下へ帰って来た。
これは、勝手な思い込みだろうか。しかし、おばちゃんも同じ捉え方をしているのではないか、と善幸は考えた。
こんな奇怪な経緯を美乃里にはとても話せやしない。話をしたら「絶対にあり得ないっ、何言ってるの善くん!」といつまでも話は平行線で、終いには大喧嘩に発展しそうだ。自分たちの仲さえ壊れてしまう。所詮、彼女には理解出来ない話だった、ということにしておいた方がよさそうだ。
善幸は、一旦それを頭から外した。
「どうなんだろう。これってさ、おまえが分からなくても問題ない話じゃないか? 麻子は、お父さんとお母さんの実の子。そして、おまえに歳の離れた妹ができた。そう思うことはできないか?」
「そんな簡単に処理できる話じゃないでしょ! 昨日、一つ一つはっきりさせて行こうって、善くんが言ったの、これも忘れちゃったの?」
「覚えてるって。でも、気になるんだ。おばちゃんがおまえに言えなかったことがさ」
「善くんは分かってるの? だったら教えてよ!」
善幸は、話を巧みに誑かそうとしている。
「結局さあー、おばちゃんは『美乃里ちゃんには一生掛かっても理解できない』、そう思ったんじゃないの? なら、無理してお母さんに訊くことも無いと思うんだけど。成り行きに任せようよ、な?」
「無理して、忘れようとして、その結果忘れることができたとしても、あたし、お母さんを許すことができるのかなあ……。自信が無いよ……」
「すべては時間が解決してくれるさ」
「それって、都合の良い解決策だよね、でも、やっぱり変じゃない? 順序が逆だと思う。許せたから、忘れることができるんだよ」
そうとも思う。しかし善幸としては、ここは強引に行くしかなかった。
「実の母親だろうよ、時間をかければ大丈夫。俺ね、おまえのお母さんって、凄い人だと思えて来たんだ。なぜかは分からない。分からなくていいと俺は思ってる」
「何を言いたいのか、あたしには伝わらないけど」
「だよな……。今度、お父さんが帰って来た時、おまえんちへ行っていい? お父さんに会ってみたいんだ。それに、挨拶ぐらいしておかないとさ」
「ありがとう。お父さんが帰って来る頃には、スズランの花が咲いてるよ。帰って来るのは金曜の夜。現場へ戻るのが日曜の午後。あたしたちの休みは月曜日。だから、土曜日の夜遅い時間になっちゃうね」
「俺、おまえんちに泊るわ。川の字に二本足した形で皆で寝ようぜ、なっ?」
善幸は、小さな新人を迎えた家族の中に自分も潜り込もうと考えた。彼女は、嬉しそうな顔を一瞬みせた。 (つづく)




