―♪ 月は輝く 南の国~ 夢から覚めた善幸― (美乃里から聞かされる予想だにしない出来事は続いた)
第三十二話
―♪ 月は輝く 南の国~ 夢から覚めた善幸―
(美乃里から聞かされる予想だにしない出来事は続いた)
朝、目覚めると、まだ昨日のミニチュアジャングルで流れていた音楽が聴こえてくる。聴きながら料理長と三人で話しているような気分だった。
自転車を降りると、酒井のおばちゃんが入口の敷居にめり込んでいる泥をブラシで擦っていた。善幸は一声掛け、さっさと厨房へ入っていく。美乃里はいなかった。この時間なら、もう学校に着いているだろう。
「親方、おはようございます。寝坊しました」善幸にとって、初めての遅刻だった。
親方は怒ることも無く「ああ……」と気の無い返事をした。
何故、美乃里は俺を起こさなかったのか。もしかしたら、枕元に置いてあった目覚まし時計を無意識に自分が止めてしまったのかもしれない。彼女が用意してくれた朝飯は食べていなかった。
「善幸、根菜類の下処理が終わったら、それ、一箱だけ捌いておいてくれ」
見ると、冷蔵庫の横に三キロ入りの箱が四つ重ねてある。先週までは三つだった。細魚が大人しく氷の上でキラキラと輝いていた。
善幸は、おばちゃんが洗濯してくれている調理服に着替えながら考えていた。どうしよう……。昨日のデートの件を話さないのはいくらなんでも不自然だ。でも話しはじめたら親方は兎も角、酒井のおばちゃんに質問攻めにあってしまうだろう。美乃里が夕方に帰って来るまで、俺一人で相手をしなければならない。幸いなことに、今日は火曜日だから清水のおばちゃんは来なかった。
ドキッ、おばちゃんが店先の掃除を終え厨房に入って来た。
「善くんさあ……」と声をかけられた。
善幸は手を動かしながら振り向くと、
「遊びに行くんだったら、休みは二日欲しいところだったねえ~」
どういう意味かと推しはかる……。やっぱり、おばちゃんが推奨した『港の見える丘公園』のことは話さなきゃならない。おばちゃんは、きっと若かりし頃の良き思い出に浸りたいのだろう。
「帰るの、遅かったのぉ?」
えーっ、そっちかよお~、まだ午前中だというのに「小ぶりなオッパイに顔を押し付けて乳首をしゃぶってましたあ~」なんて話が出来るかってんだ。親方に、店から摘まみ出されるぜ、もう……。
「善幸、どうだった? 四川料理は」
親方からの助け舟。親方は全てお見通しなのかもしれない。
「あ、報告するの忘れてました。吃驚しましたよ。先ず、店の作りが凄かったです!」
「あいつは、そんなのばっかり気にするんだよなあ。カッコ付けたがるんだ」
「はじめて食べる料理ということもあるけど、何しろ味わったことのない香辛料が沢山ありすぎて舌が吃驚していました。四川料理だから辛いんだろうと思ってたんです。でも、料理長の店は違ってましたね。香辛料を食材の中に隠してあったり、まんまで舌を刺激したり、その上、料理を出す順番まで考えてくれてたようです。本格的な四川料理、俺とても勉強になりました」
「そうか、それはよかったな。料理長もおまえたちに会えて喜んでたよ」仕事しながらも、親方の顔は綻んでいた。
うん? と言うことは、昨日、自分たちが店を出た後、あんな遅い時間でも料理長が親方のところへ電話を入れていたということになる。
「料理長って、何でも自由に決められる立場なんですね。店に入った時間は九時を回ってましたけど、客席は半分ぐらい埋まってました。月曜日だというのに遅い時間までお客さんがいましたよ」
「俺は行ったことはないんだ。そうか、料理長は自由を満喫している訳だ」親方が軽く笑った。
「あ、そうだ、親方にも〝自由〟がどんなものか、訊いてみたらって言ってました……けど?」
「あいつ、どんな能書きを垂れたんだ?」
「残念ですけど、俺たちじゃザックリとしか理解出来ませんでした」
「善幸、そんなことは今の立場で考える必要はない!」親方が突っぱねた。
その通りだと思った。それに仕事中に訊くことでもなかった。
酒井のおばちゃんが話に入ってきた。
「善くん、料理ってさ、作るだけじゃないじゃない。食材選び、それに器をどれにしようかって迷うでしょ。盛り付けだって自分の好きなように出来るんだよ。最初から最後までね」
そこには誰にも邪魔されない自由がある、おばちゃんはそう言いたいのだろう。以前働いていた職場を振り返れば、上司に言われたことをこなしていればいいだけだった。
「一端の料理人の愉しさってな、その自由を使えるということなんだ。また、その愉しさを感じなきゃ良い仕事なんて出来ない。それにだ〝食〟って、生きていく上で不可欠なものだろ、だからよ、おまえのやってる仕事は有意義なことなんだよ。ただ、俺が教えられるのは〝料理の自由〟までだな。それ以外のことは料理長が知ってる。仕事が休みの日にでも、また美乃里と一緒に行って御馳走になりながら聞いてくればいいさ」
「経験を積まないとね、善くん!」親方が何を言いたいのかを、おばちゃんは分かっているようだった。
午後五時、「お疲れ様でーす」美乃里が学校から帰って来た。
店内でヒソヒソと話声が聞こえて来る。美乃里はレジ台のあるところでおばちゃんと話していた。
何を話しているのかが気になった。善幸は、昨日のデートのことはおばちゃんに当たり障りなく一通り話したつもりでいる。
着替えた美乃里が厨房へ入ってきて、善幸に近づいてきた。
「善くんさ、用意しておいた朝ごはん食べなかったでしょ?」それは小声ではなかった。
(デカいよ、声がっ! 親方に泊ったことがバレるだろ)怒りと驚愕で善幸は声を失った。彼女は学校から一旦自分の家に帰ってから店に来たようだ。
身体が硬直した状態だったが、善幸は平然と言った。
「親方、残りの細魚、捌いておきますか?」
「細魚かあ……あ、ああ。頼むわ」親方は、チラッと善幸の顔を見て言った。
すると、美乃里が「小菊ちゃんのとこの揚げ物だけど、明日までもつね。冷蔵庫に入れて置いた」そんなどうでもいいことを言ってきた。
注文を取ってきたおばちゃんが厨房に入ってきた。
「善くんさ、美乃里ちゃんから聞いたよ。いいデートだったらしいじゃない。親方が心配してたんだよ。昨日、おばちゃんのところに電話が掛かって来ちゃってさ、ねえ、親方?」それも遠慮のない声の大きさだった。
「何言ってんだ、暇だから電話しただけだ!」
「そうだった、そうだった」おばちゃんが笑っている。
善幸は、平箱ごと銀色に輝く細魚をシンクに上げた。いつもこの魚の鱗をこすり落とす時、海でどのような泳ぎをしているのだろうと考えてしまう。その姿が見たくて堪らなくなる。これって、知っているかもしれないお伽の国からやって来た魚なのだろうか……。
善幸は、もう細魚に関しては一端の料理人になったつもりで仕事をしていた。
親方の店へ来てから半年が経っていた。商店街通りの桜が芽吹いている。あと一週間もすると8分咲きになるのではないだろうか。ゴミは強風に飛ばされて、美乃里はここ数日間店の前を掃く必要が無いくらい綺麗だと笑った。
善幸は、季節感を抱くのは入荷される魚種で判断するようになった。
今、初鰹を捌こうとしている。親方から「ほらっ」と手渡された刃渡り六寸の出刃包丁。それは、細魚で使用した三寸五分の物とは違い、ずっしりと重かった。遠くからでも迷うことなく鰹と判別できる縞模様、鮮度を感じさせる。親方が捌いているのを見て、善幸はその手順を覚えてしまっていた。
「善幸、やってみな」と、親方は気まぐれでそう言ったのかもしれない。が、善幸からすれば「待ってました!」となる。一番捌いてみたい魚だったのだ。
親方の鰹の捌き方とは、鰓と腹側に切り込みを入れ、最後に頭をスコンッと落とすと、そっくり内臓も一緒に出て来るやり方だ。極力まな板を血で汚さず、切り口から水を遠ざけながらの包丁捌き、この捌き方がカッコ良かった。此間、TVの料理番組でみたやり方とは違っていた。
厨房の近くの客席から話し声が聞こえて来た。
>うちの子、落ちるんじゃないかと思ってたんだけど、よかったわあ、卓君と一緒の学校に行けて。/一年間の送り迎えは大変だけど、交代で出来るから助かるわ。一貫校だから、もうこの子たちも受験で苦しむことは無くなったしさ、ホッとしたよねえ。/でも……愛里ちゃんは落ちちゃったじゃない、可哀相だったわね……/合格発表の日、声掛けられなかった、あたし。お母さんもガックリきてたし……/愛里ちゃんの方が、気落ちしているお母さんを気遣ってるようにも見えたしね……。
名門小学校に合格した母親たちの会話だった。
桜が咲き始めるまでの束の間は、そんな店内の会話から、お客さんたちの新たな生活の前触れを感じ取ることができた。
善幸は、捌いた鰹の四本の柵を親方に確認してもらっている。触りもぜず見ていた親方がニコッと笑い「もう一本やってみな」と指示を出した。
善幸は、積んである発泡スチロールの箱から大きめのものを選んだ。もっと早く綺麗に、それだけを考えながら捌いていく。十本も捌けば、要領よく出来るようになるのではないだろうか。
そこへ、美乃里が嬉しそうに「善くん、明日、話したいことがあるんだけど、いい?」背後から小声で訊いてきた。
善幸は、改まってどうしたのかと思い振り向いた。
「今日話せるだろ。家まで送っていく途中にでも聞くよ」
朝から雨が降っていた。といっても小雨。二人共自転車ではなく歩きだから、話を聞くには好都合。悩み事なら早く聞いてあげたいと思ったが、表情から悩みではなさそうだった。
美乃里のお父さんは今日の午後、千曲川の現場へ向かうと聞いていた。もう、家には居ないだろう。明日は月曜で店も休みだし、彼女の家に泊るのならどんな話でも聞ける。よし、泊まりでいこう! 彼女の学校も春休みに入っていたからだ。
「明日、話したいの……」
「えっ、明日? ふーん……分かったあ」善幸は諦めた。
どうやら、込み入った話らしい。
仕事が終わると、いつものように三人で店を出た。おばちゃんは合羽を着ている。雨でもいつも自転車だ。二人は「お疲れさま。気を付けてね」と声を掛け慎重に走り出した。
傘を差していると歩道を並んでは歩けない。善幸が先頭になって歩いて行った。だからという訳でもないが、言葉は交わさなかった――。
この信号を左に曲がれば彼女の家。歩きなら、家まで送らなければならないほどの暗い道だった。二人は所々にできている水溜りを避けながら砂利道を歩いて行った。
その途中、美乃里が、
「明日、善くんのアパートに十時に行くから」
「え、ああ、そう、待ってるよ。久しぶりに明日の夜、料理長の店へ行ってご飯でも食べる?」
「明日は行かない……」沈んだ声が返って来た。
善幸と美乃里は、月に一、二度料理長の店へ行き食事をしていた。彼女の都合が悪いときは、一人で食べに行くこともある。昼時の店内の様子も見たいと思ったからだ。
もう臆することなく料理長の店へ行くことができるようになっていた。一人暮らしをしていると、実家へ行くのさえ躊躇うことがあるのに料理長には全くそれを感じなかった。
何気に見えて来た彼女の家に、いつもとは違う光景を見つけた。玄関の欄間から灯りが漏れていたのだ。
「あれ、お父さんが居るの?」
「現場へ行ったよ……」その一言だけだった。
多分、お父さんが消し忘れて行ったのだろう。彼女は「おやすみ……」と言って背中を向けた。
先日、嬉しそうに「庭のスズラン、もうじき咲き始めるよ」と言っていたのに、踏み石にのりかかろうとしている葉っぱを足で蹴って行った美乃里。彼女は、ドアを閉めるまで一度も振り向かなかった。
昨日、美乃里を送り、アパートに着いたのは零時を過ぎていた。風呂にも入らずそのまま寝てしまった。彼女が来るまで、まだ時間があったので、善幸はシャワーだけ浴びることにした。
洗った髪を拭いていると、ドアをノックする音がした。
「開いてるよ」
彼女は二つレジ袋を持っていた。一つには『小麦の七不思議』とプリントされていた。
「お風呂に入ってたの?」
「昨日、そのまま寝ちゃったからさ、シャワーだけだと寒いな。雨、止んだ?」
「止んだよ。だから自転車で来たの。小菊ちゃんのお店でマカロニサラダとから揚げ買ってきた。それと、ミカタさんのところでクロワッサン、焼き立てだってよ」
善幸は、〝あの日〟に『一夫多妻通り』と命名してから、商店街の一人娘たちと真面に顔を合わせたことが無かった。
「惣菜屋の娘さん、小菊って言うんだあ……。パン屋さんがミカタかあ……」
善幸は白を切った。
「そう、ケーキ屋のさくらさんも、皆一人娘。あ、クルミさんもいたね、怒られる」
彼女たちの名前を聞く度に心臓がドキッと反応した。
「皆の名前覚えておかなきゃ。商店街の人達とは仲良くしないとね。じゃあ、食べよっか」と言いつつも、腹は減っていなかった。
彼女は、肩幅しかない流し台で、たまっていたコップを洗いはじめた。
「話があるって言ったでしょ?」背中を向けた状態で話しはじめた。
「何かあったの?」
「…………」
「お母さんが帰って来たの」
勢いよく出ている水道の音が邪魔していたが、彼女の声ははっきりと聞こえた。下水といっしょに流してほしい話がこれから出てくるのだろうか……。だとしても、冷静に聞いてあげなければならない。その前に、自分が冷静にならなければならなかった。
「俺、何でも聞いてあげるよ、でもさ、突然だったね、吃驚だよ」
「…………」
「いつ帰って来たの? お母さん」
母親が旅行から帰って来たかのような訊き方をしたが、内心は穏やかではなった。
「善くん、コーヒーあと少ししかないよ」
「そう、後でスーパーへ買いに行こうか、僕たち二人で……」
話づらそうだった。プ~ンとコーヒーの香りが立ち上っていた。
彼女は、コヒーカップとから揚げと皿に移したマカロニサラダをテーブルの上に置いた。
善幸は、「いただきま~すぅ」と元気のない声を出すと、いきなりクロワッサンを食い千切った。
「うーん、これバターの香りがして美味しいね」
「このポテトサラダ、まだあったかいよ。食べてみて」
一口食べた後、「それより、お母さんの話だけどさ、」善幸は喉に詰まったジャガイモをコーヒーで流し込んだ。
「お母さん、麻子と一緒に金曜日に帰って来たの。何の連絡も無く……」
「え、麻子? 麻子って?」
「父親の違う、あたしの妹だよ」
おっとと、ズシーンと重たいものが喉を通過した。母親がスナックで知り合った客との子? そういうことなのだろうか。
善幸は、その麻子って子が、現在幾つになるかを考えていた。
「その子、もう言葉は喋れるんじゃない?」
「あたしが高校に入った年に生まれたの。今、四歳」
「今日は月曜日……あれ、お父さん、金曜日に現場から帰って来たんだよね。それで日曜日に現場へ戻ったとすれば、昨日まで一緒に居たってことになるけど?」
「うん、一緒に居たよ」
彼女はから揚げを頬張った。
善幸は、昨日母親が子供を連れて帰って来たことを話さなかったのは何故だろう、と思いながら彼女の口元を見ている。
「話を進めてくれないかな」
「不思議な話だから、愕かないで聞いてね」
善幸は身構えた。
「金曜日の夜十時頃にお父さんは帰って来たと思う。お母さんは夕方には帰って来てたんだよ。夕飯作ってあったから。お母さん、お父さんの帰って来る日を知ってたんじゃないのかな……」
(ええっ、お母さんとお父さんは連絡を取り合ってたって? だとしたら、おまえには何も知らせなかったのは何故なんだよ? あんまりじゃないか! 除け者扱いも甚だしい!)善幸は、腹が立ってきた。
「金曜日って、おまえは朝からずっと店に居たからな。でも、お父さんが帰って来た時、お母さんとは五年ぶりの対面で、麻子とは初対面だったってこと、だよね?」
「その通り……」
「お父さん、どんな気持ちだったんだろう。取り敢えず、吃驚はしたよな」
善幸は、お父さんは人格者なんだから、ドアを開けてお母さんと顔を合わした途端「この、馬鹿野郎がっ!」バチンッなんてことは絶対に無いだろうとの予測はついた。しかし……。
「金曜日は、いつものように仕事が終わると善くんに送ってもらって、家に着いたのは十一時半頃だったよね。それで、ドアを開けようとしたら、中から嬉しそうにはしゃぐ子供の声が聞こえてきたんだよ。お父さん一人のはずなのに愕いた。でもね、もう一人の笑い声で分かったの、お母さんがいるって……」
複雑な気持ちだったに違いない。
「それで?」
「中に入ったら、タタタタタタッって麻子が廊下を走って来て、目を細くしてあたしに抱き付いて来たの」
「初対面なのに? 四歳で人見知りゼロかよ、すげえ子だなあ……。おったまげ~、おまえの母親の子らしいやな」思わず余計な一言を付け加えてしまった。
「あたしね、麻子を抱き上げてあげたの。顔を見たら、お母さんには似てなかった。それで、あたしが困った顔をしちゃったもんだから、麻子の笑顔がスーッと消えていっちゃってさぁ……」
「可哀相なことすんなよ。子供には罪は無いんだからさ。以前、おまえもそう言ってただろ?」
「そうだね。だから、これはいけないと感じて、抱いたまま麻子の背中をさすってあげたんだよ。それよりもね、あたし、居間でお母さんとお父さんが向き合って会話している姿が想像できなくて、足が竦んじゃってさ、暫く麻子を抱いたまま動けなかった……」
善幸は経緯を知ってるだけに、お父さんに対して申し訳ないという彼女の気持ちが痛いほど分かった。
「あたし『ただいま……』って、俯いて言うのが精いっぱいだった」
「その時の様子が目に浮かぶよ」
「麻子がね、耳元で『おかえり!』って言ったんだよ。笑いを取ろうとして? まさかね。で、あたし唇が震えてきちゃってさ……。そしたら、お母さんが『遅かったじゃないっ』だって。空白の五年間を素っ飛ばしたんだよ。信じられる? それだけじゃないの」彼女は箸を置いた。
「なによ? また何かが起こったのか?」
「今度はお父さんが『やっと、皆……揃ったな』だって。我慢ができなくて、あたし、麻子を抱きしめて泣いちゃったの」
その時を思い出したのか、彼女は今にも泣きそうな顔になった。
善幸は、俺だったら、どうしただろうと考え込んでしまった。〝絶対、母親を許さない!〟そんな強い怒りを爆発させていたに違いなかった。
「夜遅いから、話は明日にして寝ようということになったの。あたしがお風呂から出て来ると、居間に布団が川の字に引いてあってさ、今日は、仲良く皆で寝るからって、お母さんが言うんだよ。お父さんも、嬉しそうな顔してた。呆気にとられちゃったよ……」
「俺じゃ、お父さんとお母さんの関係がよく掴めないよ。話がぶっ飛び過ぎだ。一番気になったのは、おまえの気持なんか、まったく考えてないってことだよな!」
「あたしもそう思ったよぉ……」
複雑な親子の血縁関係。突然形成された道理が通らない家族構成だった。その渦中に巻き込まれてしまった彼女が遣り切れなさをぶつけていた。
「次の日、朝早く、あたしはお店へ行くじゃない、それで夜遅く帰って来てから訊いてみたの。あたしの居ない間、三人で何をしていたのかを」
「それは興味深いね。お母さんより、お父さんにだけどさ」
「自転車を買いに行ったんだってさ、三人で」
「自転車? あるじゃん二台」
「後ろに麻子を乗せることが出来る自転車だよ。その後、〝あの場所〟へ行ったんだって」
「あの場所って?」善幸は話について行けなかった。
「お母さんが居なくなった後、お父さんとあたしが釣りをしに行った溜池だよ……」
「ああ、隣のおじさんが教えてくれたって池か、でもなんで?」
「それは訊かなかった。お父さんが作ったお弁当を持って行って、三人で食べたんだってさ。ピクニックのつもりだったのかなぁ」
ここまで来ると、もう善幸としてはお手上げだった。
「おまえの話を聞いていると、お父さんは怒るどころか、嬉しくて仕方がないって感じがするな、違う?」
「変でしょ? どう考えても変だよ、あの二人。まだ聞いてないけど、多分、お母さんはお父さんにきちんと謝ってないし、どうして突然居なくなったのかをふつう問い詰めるよね。だけどお父さん、そのことさえお母さんに訊いてないと思う。というより訊く気が無い? そんな感じがするんだよね……」
「お父さんって、事勿れ主義なのかもよ?」
「そういう考え方もできるよね。お父さんね、麻子の前ではぬいぐるみの熊さん状態なの。ちょっかい出して来る麻子を嬉しそうに眺めているんだよ。自分の子供のように……」
「何かあるのかなあ」
善幸がいくら考えても思い浮かぶはずもなかった。
「お母さんの顔を見るのも嫌になってきそうだよ……」
「嫌になったら、ここに来ればいいじゃん、な? そうだ、明日酒井のおばちゃんに相談してみたら? 良いアドバイスしてくれるかもよ」
善幸は、彼女に母親と衝突して欲しくなかった。
「善くん、変に思わないで聞いてくれる?」
ぐら付くちゃぶ台に彼女は肘をついた。何か別な話でもあるのだろうか。
「今朝、家を出て来るときね、お母さんから言われたの『誰か、家に入れた?』って。初めてだった。お母さんに、あんな目で見られたの……。すごく腹が立った。自分はとんでもないことをしたくせにさ。あたし、デカい声出して、思いっきり言ってやろうかと思ったよ。『お父さんに謝りなよっ!』って」
「感情的になったらダメだって。後悔するだけだよ。麻子がいるんだからさ」
どうして分かったんだろう。歯ブラシは彼女が隠していたはずだ。女の勘なのだろうか。善幸は、母親に対して正体が掴めないだけに怖さを感じてきた。
翌日、美乃里は、善幸より早く店に来ていた。
「おはよう、善くん」彼女はテーブルを拭いていた。
善幸は何も言わず、彼女の顔を覗いた。彼女は、昨日の悩み事をおばちゃんに相談するつもりで早く来たのだろう。来たら直ぐの方が良い。出来ることなら、おばちゃんが食材の下処理に掛かる前がいい。でないと話すタイミングを逃してしまうからだ。
おばちゃんは間もなくやって来る――。
仕事が終わり、いつものように善幸は美乃里の家まで送って行った。
二人は、家の前で自転車を止めた。跨った状態で、今朝おばちゃんと彼女が話していたことを善幸が聞いている。
「でね、お父さんに訊けないんだったら、お母さんに訊かなきゃって。おばちゃんがそう言うの。それが分からないと判断のしようがないって」
「お父さんの過去かあ……」
ハンドルを弄くり、二人は向かい合った前輪のタイヤを擦り合わせながら話している。時期的に、まだ虫の鳴き声は聞こえてこなかった。
「お父さんとお母さんが結婚した時のお父さんの年齢は?」
「お母さんは当時三十一才で、お父さんとは四つ離れているから三十五歳」
「三十五かあ、再婚の可能性が高くね? もしかしたら子供もいるかもよ。その辺まったく分からないの?」
「聞いたことない。大体さ、そんな話、お母さんがあたしに話す訳ないし」
「いや~、おまえの母親は、トワエモアじゃないけど〝ある日突然〟だったんだぜ、人を驚かすのが好きそうというか、得意だと思ったもんだからさ。しかし、その不自然なお母さんの行動を受け入れてしまうことと、お父さんの過去と何か関係があるって思ったのかな、おばちゃんは……」
「そうかもしれない」
「っで、いつそれを訊くの? 早い方がいいよ」
「それじゃさ、遅いけどこれから話そうかな。麻子が寝てる時じゃないと聞けないじゃない」
「明日には分かるってことかあ……」
別れ際、善幸は、お父さんのことだけを訊くようにと念を押した。母親の失踪の理由を問い質せば、父親の話は中途半端となり、朝方まで喧嘩する恐れがあるからだった。
「おはよう、ヨシユキ君」
中村電器のおかみさんが善幸に挨拶してきた。おかみさんは、各種乾電池を山積みにしたワゴンを店先に出していた。善幸はサトシが居るのかと思い、二階の窓を見上げた。カーテンが引かれている。アルバイト的仕事にでも行ったのだろうか。いや、奴のことだ、まだ寝ていると推測すべきだろう。朝っぱらからムカつく野郎だった。
店内では、そそくさと美乃里が動き回っていた。善幸は、厨房に居る親方に気づかれないよう彼女に言った。
「おばちゃんが来たら、仕事をやりはじめる前に話すんだろ? その方がいいよ。俺は帰る時でいいから。おまえの好きなお父さんの過去だからさ、良い話だと思ってる」
「それとは別な話も出来るかも……。それも帰るとき一緒に話すよ」
別な話? 善幸は美乃里の表情から、それが良い話かどうかを読み取ろうとしたが、分からなかった。
十五分後、おばちゃんがやって来た。
「おはようございまーす」
早速、店の片隅で、美乃里はおばちゃんと話しはじめた。 (つづく)




