―窮屈そうな自由論― (これって、料理人に必要なの?)
第三十話
―窮屈そうな自由論―
(これって、料理人に必要なの?)
山椒が香る。運ばれてきたのは水餃子。フカヒレの姿煮ではなかった。赤いつけダレの中の刻まれている薬味に目がいった。その斑な香辛料の色合いが、分離したオイルにまで溶け込んでいた。明らかに力を抜いた動きで浮いたり沈んだり……。オレンジ色の刻みは柑橘類の皮? 赤黒いのは激辛唐辛子なのだろうか。和食との違いを見せつけていた。
和食では使わない香辛料と調味料、それに生薬さえ使って調理する四川料理が刺激的に感じた。グオーと吠える炎で鍋底の具材を炒り、ひっくり返しながら素早くやっつけていく手際の良さがかっこいい。その作業姿を見れば、憧れを抱いてしまうのも仕方がなかった。
美乃里は二つの取り皿に水餃子を並べ、そこに付けダレをたっぷりと掛けた。二人はそれを料理長の指示通りレンゲにのっけて、ふぅふぅしてから口に入れた。
味など分からなかった。なぜなら、料理長の口からサトシの話が出てきたからだ。善幸は釈然としなかった。今朝、店先でクルミ姉さんとさくらと三人で話していたところ、二階の窓から顔を出し突然いちゃもんを付けてきたサトシ。それも二回もだ。思い出しただけでムカついた。幼い頃からの隣近所の付き合いだったとしても、料理長とサトシがそんなに親しかったなんて……最悪だと感じた。
「ああ、そうだった、中断したさっきの話だけどね、食べてる間に聞くかい?」料理長の方から話そうとしてくれている。
「是非聞かせてください。どうやってこんな素敵な改装ができたのか、その費用調達の苦労話を聞かないで帰るわけにはいきません。今夜、俺、気になって寝れませんよ!」三人の会話からサトシを追い出そうと善幸は声を張った。
「そうかあ、君たちは時々俺のところに顔を出すことになっているから、いつでも話せるんだけどね」
どういうことかと美乃里が尋ねたら、親方がそう決めたとのこと。親方が決めたことは絶対だった。善幸はそれ以上聞く必要はないと思った。
「しかしねえ、この話は大きな声では話せないんだよ、立場上ね。引き摺っていることが今でもあってさ……」
そう言われると余計、善幸は興味をそそられた。
「そこんとこも、是非聞かせてください」
知らぬうちに、善幸と美乃里は、料理長の親しい友人になってしまったようだ。
「勿体ぶっちゃったね、考えてみれば、そんな大した話じゃないんだよ」料理長が無邪気に笑っている。
「だいぶ勿体ぶっちゃってますよ、料理長」美乃里が笑った。
「どの職場でもある悩み事だよ。人間関係ってやつさ。店の売上が原因で、これまでの料理長と俺が交代したんだけど、彼は俺より五才年上なんだよね。それで辞めるだろうな、と思っていたら辞めなかった。副料理長として彼は残ったんだ。俺だったら辞めるけどね」
「そのような状況だったら、俺も辞めると思います」
「でもね、そう簡単にはいかないんだよ。今の善幸には分からない相手の事情ってもんがあるからな」
「その人、プライドってないんですかね、なんの事情だか知りませんけど」
料理長は、シーッと言って話をいったん中断した。
低い声で、「プライドねえ……。でもな善幸、そんなものは大したもんじゃないんだ。少なくとも料理人の世界ではね。却って邪魔になる。俺はね、知人の紹介でこの店に来たんだよ、それまでは香港のホテルの中華料理店で働いてたんだ」
「どうして、香港に行ったんですか?」と、美乃里が尋ねた。
「実はね、親方と喧嘩して店を飛び出したんだ。驚いた?」
「親方と喧嘩ですか……」善幸は愕きを隠した。
「当時、親方も若かったからねえ、思ったことは躊躇なくバンバン言う。自分の判断が間違ってるなんて親方は考えたことないんじゃないの。あの頃は頑固だったんだ。まあ、その話はいつかしてあげるよ、愉しみはとっておかないとね」
「いつか話してくださいね。あたし、絶対に聞きたい」
料理長は取り繕うような笑みを浮かべた。
「まあ、それが切っ掛けだったかな、和食だけじゃなく他の料理も勉強してみたいと思ったのは。でも、どうしていいのか分からなかった。頼る人は誰もいないしね。一人で生きていかなきゃいけない、そう真剣に考えたのは初めてのことだったよ。アパートを借りるにしても、保証人が必要だったんだよね」
「じゃあ、どうしたんですか? まさか、野宿とか?」心配そうな表情をして美乃里が訊いた。
「新宿を歩き回っていたら、二十四時間営業のサウナを見つけたんだ。不安要素が一つ消えてほっとしたな。当分の間、寝泊りはそこにした。冷静になって考えればさ、然程経験も無く金もない、こんな俺ってどこにでも転がっている若造なんだな。だから、すぐに雇ってくれる店を必死こいて探さなきゃならなかったんだよ。暫く骨休めしてから探そう、なーんて呑気なことを考えてる場合じゃなかった。でもね、親方の元を離れて味わった自由って、新宿の界隈を歩いていても新緑の茂る山頂で深呼吸をしているような清々しさを感じたな。若い頃ってエネルギッシュだからさ、卵の殻を割りたくて仕方がないんだ。もっと自由にやらせてもらえる職場を探して、そこで仕事をしたい、俺はそう思ったんだ」
「俺、今は自由じゃなくてもいいです。親方の店だったら何言われても我慢できそうだから。それまでは……我慢できなくて会社を辞めてしまったんですけど」
「自由と我慢、この関係って難しいよな、善幸。しかし、大切なことなんだ。きちんと頭の中で整理しておかないと、若い頃の貴重な時間を無駄に使ってしまうことになる」
「その関係性って何ですか?」美乃里が話を詰めていった。
「自由を野放図に扱っていると何れ自由ではなくなるし、自由を求めようとすると手の届かないところへ逃げて行ってしまうってことかな」
「ちゃんと聞いておいてよね、善くんっ」
「自由ですかあ、難しそう……。俺、考えたこともないや」
「自由の捉え方なんて人其々だろうけど、自由ってね、なろうと思っても勝手にはなれないんだ。必ず相手が関わってくるものだから。それを忘れてはいけない。自由を得るには、相手を如何に自由にしてあげられるかを考えることでもあるんだよ。ここは絶対なんじゃないかな」
「えっ、それって自由なんですか? 窮屈そうな気がしますけど」善幸が不満気に言った。
「自由を考える前に、不自由をみっちりと知っとかなきゃいけない。そうしないと理解することが出来ないだろ? 善幸はまだその段階なんだよ。それを知ってしまえば、今思った窮屈さなんか難なく受け入れられるようになるものさ」
「自由って不自由の親分みたい。自由が不自由を、こき使ってるって感じですか? 仲が悪いのに一緒にいられる? 聞いてて、あたし、そんな印象を受けました」
美乃里も手古摺っているようだ。
「俺の今の立場は料理長。責任を持たされた上での自由ってもんはある。でもね、意外と自由でありながら不自由なんだ。なぜなら、自由を手に入れ、それを使える立場になった者は、今度は折り返すように自らの意志の下で不自由を選択していくことになるからね」
善幸には、この意味を理解することはできなかった。が、美乃里は「自由をせっかく手に入れたのに、今度は不自由を選択していく? 料理長、自由を得るって相手が関係してくる訳ですよね、その相手って誰なんですか?」と質問を投げ掛けるくらい分かった振りをしていた。
「それはね、自分と関わりのある全ての人さ。その中でも視界には入らない人を探すのが難しいんだ」
「あたし、漠然とですけど理解出来たような気がします」
嘘こけ、と思ったが、「俺も、そんな感じです」と応えた。ここは、絶対に置いてけぼりを喰らってはいけないところだった。
小難しい話は苦手だ。善幸には料理長の話が半分もわからないまま、この先の話を聞いてもどうせ自分にはわからないだろうと思ってしまった。
「ほお、分かってくれたんだ。二人とも親方のところにいるから飲み込むのが早いな。その立場を経験した者でないとなかなか理解出来ないことだけどね。なんだか話がノって来たなあ~」料理長は足を組みかえた。
「あたし、料理長の話、もっと聞きたい。だって、興味深い話ばかりだから。それも、食事しながら聞けるなんて最高です。ディナーショーを超えてますよ。ねっ、善くん!」
ディナーショー観に行ったことがあんのかよ、と思いつつも、ふんふんと二回も頷いてしまった。この話は暫く続きそうだ。
「そうか? じゃあ、君たちの将来のためにもう少し突っ込んだ話をしてあげるかな」
料理長はグラスを手にすると、それを善幸に差し出した。善幸は、何だろうと思った矢先、美乃里がビール瓶を持ち注ぎはじめた。そういうことだったのかと思う反面、仕事中なのに飲んで大丈夫なのだろうか。自由な立場であるからいいということなのか……。
料理長が話しはじめた。
「自由を手に入れた者は、それなりの心構えと覚悟が備わっていないと扱いに困るどころか、身近な人の自由を奪ってしまうことにもなる。そうなると、これまで築いてきた信頼関係は一瞬にして消滅してしまうんだ。信頼関係ってね、壊すのは頗る簡単。その後に残った痼り、これは君たちの間でよく生じるゼリー状の痼りと違って、解すのは不可能に近いものなんだよ」
「どんな痼りですか?」
美乃里が突っ込んだ。
「この場では詳しく話せないなあ……。そうそう、さっき話してたこの店の改装費をどう捻出したかって話に戻るけど、俺は、具体的な改装プランを立てて、それをオーナーさん達に提案したんだ。その準備段階として内装業者にプランの見積りを出させた。そうしたら四千万近い見積りが出てきちゃってね、これじゃいくらなんでも無理だな、と思った。なんせ、俺の狙いは、一流ホテルのロビーによくある大きな観葉植物数本をメインとして造る森林セラピーだからね。照明にも凝ったものだよ。そんなことすりゃあ、金が掛かるのは当たり前。そこで俺は考えた。真ん中にある観葉植物の造作をリース会社にやらせて、年単位でそれを借りることにしたんだ。こっちの条件は、業者の方で年四回の観葉植物の入れ替えを行い季節感を出すこと。お客さんを折々の風情で誘うっていうのは効果的なんだな。先方の条件は、日々の手入れは店側でやってほしいということだった。それが巧くいってさ、すんなりと話の折り合いがついたんだよ。それに因って、ごそっと改装費を減らすことが出来た。それでも、まだとんでもない金額。そこで、次に考えたのは一番金額が張っている什器。椅子、テーブルなんだ」
「料理長、椅子とテーブルだったら、俺のよく行くホームセンターに安いのが色々と売ってますよ」そうは言ってみたものの、今更教えてあげても意味はなかった。
「住居用のものは店舗では使えないんだ。造りが違うんだよ。お客さんが絶えず引いたり出したり動かすだろ、乱暴に扱う場合が多々ある。椅子が壊れたら、お客さんに怪我をさせてしまうよね。だから強度があるものじゃないとダメなんだ。値段が張るのは仕方がない。でもね、既存の什器をよく見たら、まだ十分使える状態だった。そこで、施工業者に予算が無いことを話して、椅子テーブルを補修することで新品同様に出来ないかどうかを相談したんだ。そしたら気持ちよく家具職人を紹介してくれてね、直談判してみたら? って言うから、作業場のある館林まで相談しに行ったんだよ。会ってみたら、現役バリバリのお爺さんでさあ」
善幸は不安を感じたので聞いてみた。
「でも、お爺さんですよね、大丈夫なんですか?」
「ご心配無用。孫と二人でやってたんだ。孫は善幸ぐらいの歳だったよ。彼は奥の作業場で、木製の椅子を入念に紙やすりで擦ってた。作業場はニスのニオイが充満しててね、手作り感がいっぱいだった。素敵な椅子が無造作にあちこちに置いてあったっけ。見回してたら、これはイケるなと確信したね。お爺さんに事情を話すと、一言『吝かじゃあねーな……』そう言ってニヤッと笑った。職人って、駆け引きを飛ばすから判断が早い。作業していた孫も話に加わってくれて、新たに購入しなければならない二階の椅子とテーブルの分も予算内で作ってくれるってことになったんだ」
「お爺さんとお孫さん二人でやってる家具屋さんかあ、微笑ましい光景が目に浮かんできちゃいました……。なんか、厨房で仕事している親方と善くんみたい」
料理長も合点がいったようだ。
「遠いからといって足を運ばずに電話で済まそうとしたら、こうはいかなかっただろうな。切羽詰まってる時って、自分の都合で事を運ぼうとしてしまうもの。知らずの内に礼儀を欠いてしまうんだ。それだと人は近寄って来ない」
善幸にとっては重たい話に聞こえた。
「それが片付いた後に、図面とパースを用意し、この条件でオーナー達のところへ交渉しに行ったんだ」
「上手くいったんですよね?」美乃里が訊いた。
当然、善幸もそう思った。
「パースを見て、どのオーナーも吃驚してたよ。天井をぶち抜いて中央に吹き抜けを作り、観葉植物の群生の周囲を二階席の手摺りが回っている。予算からすれば、手摺りは鉄を使って塗装で仕上げるのが精いっぱいだった。でも、これだけは譲れなかったな。イメージは食事をしながらの森林セラピーなのに、目立つところが鉄の手摺りでは似合わない。俺はオーク材にしたかったんだ。それが分かった現場監督は、材料費だけくれないかと言ってきた。彼は良心的だったよ」
料理長は、二階の手摺りを見ながら話した。
「小劇場の二階席って感じがしないかい?」料理長は二人に訊いた。
先に美乃里が感想を述べた。
「やっぱり木製だからなのかなあ、鉄と違って触ると温かみが伝わってきそうな手摺りですよね。光っている焦げ茶色の手摺りに時の深みを感じます。今度、お昼に二人で来た時は二階で食事してみることにしますね。一階とは違った光景があるんでしょうね。ライトの光で葉っぱがもっとキラキラ輝いてそう。お客さんに二階から見下ろされ、一階からは見上げられて注目の的ですね。〝みんな〟嬉しがってますよ。今度来る時にはきっと、円柱に巻き付いている蔓が二階の手摺りまで到達してるんじゃないかなあ」
すかさず善幸も感想を述べた。「料理長、俺にも言わせてください」
「そう、聞きたいね。遠慮なく言ってくれよ」
「正直、俺は店に入った時、あり得ない店づくりだなと思いました。でも、食事しながら料理長と話していたら、奇抜なデザインの愕きというか意外さが薄れていって、どこ見回しても出しゃばった感じは受けなくなったんですよ。植物の吐いた息が壁を押しやって、店内を膨張させていくんでしょうね。力強さと開放感が気持ちよく感じ取れます。もしかして、これが料理長の狙いだったのかなと……」
美乃里より大分上手く言えた。善幸は、得意げに、もう一度店内を見回した。
「言ってくれるねえ、二人とも。俺の狙い以上だったな。参考になったよ。今度改装する時は、二人にアイデアを出してもらわないとな。実際、一人の発想って幅が狭まってしまうものでね、思い切りには調和が伴ってないと失敗するんだ」
「料理長って、経営だけじゃなく、店舗内装のデザインや工事費の資金繰りまで考えるんですね。割に合わないと思いませんか?」
美乃里もきっとそう思っただろう。
「そうは言ってられないんだよ。やるしかないんだ。しかしね、不満を持ちながらやるんだったら、やめた方がいい。店のためにも自分のためにもならないからね。立場や責任、それに報酬がどうのこうの言ってる者は、将来、自分が店を持てたとしても上手くいかないんじゃないかなあ。仕事上、労力を損得だけで判断する者は、料理人に限らず何やらせてもダメさ。信用されない。人ってね、上下関係に関わらず、その辺は無意識に見てないようで見てるものなんだよ」
「俺もそう思います。けど、なんか怖いなあ……」善幸は、何気なしに美乃里の方を向いてしまった。
「あたしは、見られていても怖いものなんて何もない。お互いのことが分かるって良いことですよね」美乃里は平然と言った。
「真っ直ぐに考えれば、そういうことになるね。料理と一緒でさ、常連さんには、見た目だけのこしらえ料理じゃ通用しないってことだ」
「分かりました。それで料理長、図面を持ってオーナーさんのところへ交渉しに行ったんですよね?」
善幸は、興味を抱いたさっきの話へ戻した。
「そう、行ったんだ。オーナー達はパースを見るなり『こりゃ、四川料理の店じゃないな』ってね。最初は渋い顔をしてても説明していくうちに『ほお、良いじゃないか!』そんな返事が聞けると思ったんだ。しかし、三人中二人が首を縦に振らなかった。粘ったんだけどね。相手は投資家さん、如何に高利回りで運用出来るかを第一に考える。単に個人的な好みでオッケーは出さない、ということなんだろうね」
「でも、実際、このように仕上がってる訳ですから」美乃里は、不可解な面持ちを料理長に向けた。
「そう、出来上がっているよねえ……」
黙っていると、
「掻い摘んで話そうか、この規模の店なら料理長と経営者の線引きなんてあってないようなものなんだ。ここのオーナーさん達は、これまで料理長に対して何も言えなかったんだね。すべて任せっきりだったから。人件費をケチったのかは知らないけど、統括する責任者を置かなかったのは事実。この店では、料理長が兼任してたってことになるね。しかしねえ……。仮に、赤字ぎりぎりが続いていても危機感を全く感じない者が料理長をやってたとしよう。そんな場合、その料理長は仕方なく俺がやってあげてるんだ、そんな驕りの態度でやり続けてたんじゃないか。その有り様を煮え切らない態度で見ていたオーナー達は、やっと重い腰を上げたってことだと思うよ。聞きはしなかったけど」
「料理長を交代させよう、そういうことですよね?」美乃里が言った。
「そう、ある知人から、香港で鍋振ってた俺に『やってみないか?』って声が掛かってね。さっき言ったけど、俺と交代した料理長は、辞めずに副料理長としてこの店に残っているんだが……」
この辺から、料理長は声のトーンを落とした。
「しかしね、オーナー側からすれば、知人の紹介とは言え、来たばっかりの者に料理長という役職を任せたわけで、それだけでも博打だったはずだ。不安の裏返しから、『頼むぞっ!』バシッって肩叩かれたしな。その三週間後、まだ結果も出していないのに、いきなり『店の改装をしたいから、その工事費を出してくれないか?』なんて言われりゃ愕かないオーナーさんはいないわ。断られるのも無理はなかったんだよ」
「それで、どうやって工事費を捻出したんですか?」再び美乃里が訊いている。
「オーナー達に断られちゃったんだから出来ないよな。俺はね、それでも何とかして改装をやりたかった。オッケーが出た後の事の運び方は考えていたんだ。思わせ振りの派手な工事をやっていればさ、通行人は振り向くだろ。『おっ、新しい店でも出来るのか、何の店だろう……』そう思うよね。そこなんだよ、『来月中旬 オープン!』なんて目立つように窓ガラスに貼っておけば宣伝効果は抜群。それに店名とメニューも一新するから、前の店との関係性も払拭できる。ただ、失敗すると大変なことになる。新規開店時に食べた店の第一印象というのは、脳裏に焼き付いてしまうからね。一発勝負なんだよ。注意すべき点はね、提供する料理ばかりに気がそそられてしまい、接客が疎かになること。俺はね、開店してから一月間はてんやわんやになるだろうから、お客さんに不快な思いをさせないようシミュレーションをしたんだ。悪い評判って、良い評判の倍の速さで広がって行くからさ」
「わかるような気がします。俺も、新規開店したばかりのラーメン屋に並んで食べたことがあるんですけど、店員がアルバイト丸出しで、棚に出来上がってるラーメンが二つもあるのに、それに気づかず面倒臭そうな手つきで暢気に客のコップに水を注いでいるんですよ。イライラするというか、腹が立つというか。まさか、先に作った方のラーメンを俺のところへ持ってくるんじゃないだろうな、と思っていたら大当たりでしたよ。湯気が消えかかりそうなラーメンで、気分悪かったあ~。そのラーメン、大きめのチャーシューがこんもりとしたモヤシの上にのってるんですけど、どっちも冷めてるんですよ。これじゃ丼を温めるなんて気の利いたこともやってませんよね」
「それって、ありがちな話だな」
「案の定、喰ってみたら熱かっただろう麺とスープが、もやしの下で寒がってました。もう二度とこの店に入るか! って思いましたね」
「良い店に入っちゃったね、ハッハ。憶えておいたらいい。なりたての経営者が〝自由〟を手に入れると周りが見えなくなるんだ。真っ先に利益のことを考えてしまう。そこから数字を弾く。これ、利益の確保だね。自分が客の立場だったら……そこんところが疎かになってしまうんだ。人の振り見て我が振り直せって言うよね、今度は自分の振り見て我が振り直さなきゃならない。判然としない相手と正面から向き合うことになる訳だから。まだ知らなくてもいい話だったかな?」
「料理長の話を聞いてたら、店を持ちたくなって来ちゃいました。今日コイツとそんな話を冗談でしてたんです。俺、将来自分の店を持ちます!」
「その気概は持ち続けないといけない。でもね、焦ることはないよ。俺でもまだ持てないでいるんだから。数年で和食『善幸』なんて店がオープンしてたら、ぶっ壊しに行くからなっ」
「そんな店壊しちゃってください。見習いをやりはじめたばっかりなのに、料理長がしてくれた話は、善くんが背伸びしても到底届かないずっと先のこと。善くん、夢の話なんだからね。勘違いしまくりでしょ」
「仕事中に考えなければいいんじゃないの。ところで、俺の夢って、おまえの何?」
美乃里は、その質問には答えなかった。
「善幸、美乃里の夢はおまえと一緒に決まってるだろ。おまえの今後の成長が愉しみだよ。でもな、一端の料理人になるのを一番愉しみにしているのは親方じゃないのかな」
「俺、まだ三箇月しか経ってませんけど」
善幸は、まだアルバイト感覚でやっているような気もしないでもなかった。
「年配の人に聞いてごらん。人間関係ってね、一概に時間の長さでは計れないもんなんだ。あの時、あの人に出会ってなかったら、なんて話は必ずある。偶然の出会いからはじまるとんでもないことって、意外とあるもんなんだ。ただその出会いは、良いものもあるし悪いものもある。結末がどうなるかは……誰にもわからない。お二人さんの出会いも、そうじゃないのかな?」
「そうなんですよお、善くんとは三箇月前に出会ったばかり。なのに、そう思えないんです。既に何かが起こっているのかもしれませんね」
「俺もね、香港に行ったのも、この店に来たのも、ある人が切っ掛けとなっているんだ。その人が居なかったら、俺はここにはいなかったし、君たちと知り合ってもいない。些細なことから人生って大きく変わってしまうことがある。良きも悪しきも……。料理人だったら、そのニオイも嗅ぎ分けられるようにならないとな」
「それ、重要ですよね。騙されたこと……今のところ、俺は無いかな」
「じゃあ、これからか? まあ、親方のところにいるんだから心配することはないか。ただ、善幸が親方に隠し事をしないという条件付きだけど?」
「親方に隠し事なんてしませんよ、俺。今日のことだって、全部親方に話すつもりです」
「嬉しいこと言ってくれるね。おばちゃん達と美乃里、それに善幸も加わったから、俺としては安心していられる。この先、親方と善幸は、ベストな師匠と弟子の関係を作っていけると思うよ。また、そうしなきゃいけない。互いに良い巡り合いだったんだ。いつの日か、善幸が一人前の料理人となり、独立して店を持とうとする時は、気を付けないといけないことがある。穿った見方をすれば、社会ってさ、手軽な真実を見せびらかしながらの騙し合いなんだよ。野心のある者が上昇気流に乗ってる時ってね、強引さが際立っているから、どいつもこいつも権力者の面構えをしている。なかなか到達の出来ない〝自由〟を目指して足掻いているんだろうなぁ」
「料理長、〝独立して店を持とうとする時〟って、もしかして自由を手に入れた時なんですかね?」善幸は、そのことがふと頭に浮かび訊いてみた。
「料理人の社会の中ではそうなるのかもしれないな。但し、そうなる前に〝自由〟を理解し、その正しい使い方も出来るようになっておかないとダメだということは既に話したよな」
「善くんは、親方のところで修行しているんだから、それも身に付けられますよね?」
「ああ、それは分からないな。〝自由〟なんて言ったら、親方、どんな顔するか……。面白そうだから、一度訊いてみたら?」
「訊いてみますね。今度来た時、料理長に報告します」美乃里は、善幸のお姉さんになってしまったようだ。
「怒鳴られないように上手く訊かなきゃいけないよ。気を付けて。ああ、そうだった、この店の改装費用の話、片付けようか?」
「引っ張りましたねえ、料理長。いい加減聞かせて下さいよ」善幸が言った。
「あっれ、善幸、美乃里の半分も食べてないじゃないか、そんなに不味いか?」
料理長は、其々の汚れた取り皿の枚数を見ている。
「俺、話を聞きながら結構食べましたよ。だれかさんが大食いなだけです」
「善幸、それはね、美乃里が美味しいと言ってくれてるってことだよ」
「でも、あたし、善くんの倍食べてるかも……」
店員が来て、食べ終わった料理皿をすべて片づけていった。テーブルの上にはポツンと一つだけ水餃子がボールの中に沈んでいる。そう言えば、フカヒレの姿煮を早く持ってくるようにと、さっき料理長が店員に言ってたな……。次はそれが出て来るのだろうか。
突然、料理長の表情が強張った。二人が聞きたがっている話を放ってスッと立ち上がると厨房へ消えていった。
店内では、タンゴかフラメンコか判別の難しい曲が流れていた。
「善くんさ、あたし、料理長の話を聞いてて思ったんだけど、親方の料理に対する心構えを受け継いでるなあって感じちゃった」
「ああ……」
厨房から声が漏れて来た。それに善幸は気を取られていた。
「善くん、元気ないね。どうしたの? あたま使い過ぎた? それとも眠たいの?」
美乃里が善幸の顔を覗き込む。
「目が細いだけだよ」と善幸は返した。
善幸は、厨房から聞こえてくる会話に聞き耳を立てていた。
(つづく)




