―遅かったじゃないか?―
当に人生のターニングポイントだった。
第二十八話
― 范 悠 との出会い―
(善幸にとって、人との出会いがこれほど人生を左右するものとは思っていなかった編)
二人は四ツ谷駅前の交差点で信号が青になるのを待っている。時計を見ると九時十分だった。善幸は行く方向を確認している。
「ねえ、あそこが上智大学だから向こう側に渡って、取り敢えずこの新宿通りを皇居の方へ向かえばいいんじゃない?」美乃里が言った。
二人は、電車の中で親方からもらったホテルのパンフレットで場所をすでに確認していた。目印の交差点を右折し二つ目の交差点を越えたところにそのホテルはあるらしい。
下り三車線の車道には車がびっしりと連なっていた。車のエンジン音は信号が青に変わる度に唸っている。
「結構歩いたね」と言いつつ、彼女は軽やかな足取りだった。
大通りから逸れると、車の通行量がぐっと少なくなった。前方に人の歩いている姿は見えない。
「この辺りじゃないか? 同じような高さのビルが並んでいるから、近くまで行かないとわからないか……」
パンフレットではこの信号を渡った先にあるようだ。見過ごさぬよう、彼女が信号の手前から建物を一つ一つ確認している。ホテルのフロントかと間違えそうなエントランスのマンションやオフィスビルが立ち並んでいるからだ。それにしても閑静な通りで、この先にホテルがあるとは思えない。
「あそこじゃない?」
見つけたようだ。彼女が見上げて建物の看板を見ている。
「そうみたいだね、バウヒニアホテルって書いてあるから。でもさ、八時までには行けって言われたのに、九時を超えちゃったな、どうする?」
ホテルのフロントに人が立っているのが見えた。
「どうするって、ここまで来たのに、今更何迷ってるの? 行くよっ」
美乃里がすたすたと入口へ向かって行く。善幸は、こいつ、腹が減ってるだけだろ、と思いつつ真後ろから付いて行った。
ドアが開いた。フロントの奥に見える店名板『四川料理 翔龍』の黒い文字が、真っ赤な下地から浮き上がって見えた。でっかいそれを見た途端、緊張感が走った。親方の弟子と言えども、この店の料理長なのだ。二、三歳年上の先輩の仕事ぶりを見に来たのとは訳が違った。
重厚な木製の扉が開いた。何も気にする様子もなく美乃里がづけづけと中へ入っていった。
待ち構えていたかのように、「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」若い女性店員が近寄ってきた。
「そうです。八時に予約してた者なんですが、遅くなってすみません。【悠の里】の親方の紹介で……」
美乃里は、歯切れの悪い言い方をした。が、その店員は直ぐに分かったようで「はい、お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」それは滞りのない接客対応だった。
二人は店員の後に続いた。彼女は後ろを振り返り、善幸に「ミニチュアのジャングルみたいだね」と小声で言った。
何種類もの観葉植物が中央で幅を利かせ、バナナような葉や大小の丸っこくて厚っぽい葉っぱが臆面もなくこっちを見ている。それらの幹が渾然一体となって、吹き抜けの天井をも突き破りそうな勢いで伸びていた。
それは、オープン状態の二階の客席からも観賞できるようになっていた。二階にはお客さんはいないようだ。クローズしているのだろうか。蒼空に羊雲が描かれている天井と、床が柑子色と亜麻色模様の大理石、店の中央には土気色の池が南国ムードを盛り上げていた。
善幸は、その造形の大胆さに愕いてしまった。このミニチュアジャングルがなければ、もっと客席が増やせるはずだ。ここまでスペースを割いた理由って一体何だろう。
二人は、厨房の入口に近いテーブル席に案内された。大きめの盛皿が六つは置ける四人掛けのテーブル席。店員はその上に置いてある「予約席」の札を外した。自分たちを待っていてくれたんだ、と思ったら心苦しさが込み上げてきた。
「范を呼んでまいりますので、少々お待ちください。先に、何かお飲み物をお持ちしましょうか?」
善幸たちはビールを注文した。
店内をじっくりと見渡した。外はシーンと静まり返っているのに、店内には客がいる。ミニチュアジャングルを囲むように配置されている客席には、近間の客と思われる家族連れやネクタイを緩めたサラリーマンたちが食事をしていた。これは非日常的な演出の効果なのだろうか。お客さん達は、浄化された空気の旨みと共に食事をしているかのように感じられた。
「善くん……いいねえ~、こんな空間でお食事ができるのなら、お客さん入るよね。親方のお弟子さんが料理長なんだから、味はお墨付きだしさ」
「四川料理の店がこれだぜ。内装だけ見たら何の店かまったくわからない。中華っぽく店内を飾らなくてもいいってことなんだよ。意外性を逆手にとってグイグイ攻めてる感じがする。気分よく食事をしてもらうってことは大切なことなんだな。この規模の店となると、いくら味が良くてもダメだってことなのかも。もう一つプラスアルファがないと」
「でも、このジャングルって、スペース取りすぎじゃない?」
美乃里さえやり過ぎだと感じたようだ。
「客席を増やせば売り上げが上がるってもんじゃないんだよ。食事をしていて体が触れ合うぐらい客席を詰め込んでしまったら、お客さんに不快感を与えてしまうだろ? 折角の楽しい食事が台無しになってしまうよ。それじゃあ、お客さんが離れて行っちゃうんじゃないかな。ギュウギュウに詰め込むなんて店側の都合でしかない。“喰ったらすぐ出ていけ”なんて旨さと安さで勝負してるような店じゃないんだからさ。長く居座わらせる空間を演出しないと。味だけではリピーターは増えていかないってことなんだよ」
「その分析力、クルミさんから早くも学んだみたいだね」
「もうその影響を受けちゃったみたいだな、俺」
「将来、自分の店をもってよね、善くん。そうなった頃、あたし、手伝ってあげられたらいいなあ……」
美乃里は、テーブルに肘をついて目を瞑った。
「何言ってんだよ、そうなったら、嫌でも手伝わせるからなっ」
曖昧な言い方をする彼女に、善幸が喝を入れた。
そこへ、恰幅の良い人が気さくに声を掛けてきた。その人は調理服を着ていなかった。
「おいおい、喧嘩じゃなさそうだけど、穏やかでもなさそうだね、お二人さん……」
二人は料理長に間違いないと思い、立ち上がり頭を下げた。
「座って座って、気を遣わなくていいから。君たちと会うのは初めてじゃないし。俺は親方の店で二人を見かけているんだよ。親方からも電話で色々聞いてるしね」
「えーっ、何をですか?」
彼女は、親方が何を話したのだろうと興味をそそられたみたいだ。しかし、そんなに親方とちょくちょく連絡を取り合っているのだろうか。
「それを話したら長くなりそうだからやめとこう。それより、遅かったね。二人とも来ないかと思ったよ。なんで、こんなに遅くなったの? 途中で大喧嘩でもやっちまったのか?」
料理長は心配してくれていたようだった。
「善くんに虐められていたんです。善くんが意地悪ばっかりしてきて」
善幸は、否定もぜず黙っていた。
「善幸、ダメだろ、虐めちゃ。初めてのデートなんだろ?」
料理長は、眉間に不自然な皺を寄せた。躊躇なく呼び捨てにしたことが、気安さと親しみを感じた。善幸はクスッと笑ってしまった。
美乃里は、料理長を味方に付けようとしている。それにしても、〝初めてのデートなのに〟って、料理長は、親方からどこまで俺たちのことを聞いているのだろう。
「料理長、なら、頑なになった相手の感情をどう解せばいいのかを教えてください」善幸がそう言うと、
「それはね、肩凝りと一緒で、解したつもりになって放っておいちゃあダメなんだ。いいかい、時間をかけて、じっくりと解していかないといけない」
この時、善幸は、意味深な謎かけめいた語り口が親方にそっくりだと思った。
「わかったあ? 善くんはね、解し方を知らないんだよ」
美乃里が強気に出てきた。
「俺、肩凝ったことがないから解し方を知らないんですよ」
料理長が周りのお客さんを気にしながら笑っている。
先ほど案内してくれた店員が、ビールと二品の前菜を運んできた。
「食べてみて、二人にどんな評価されるんだろう、緊張するなあ」
目を引いたのは蒸し鶏だった。それは、まるで藁を敷くように胡瓜の千切りと白髪ネギが入り混じった上にのっかっていた。茶色いソースが掛けられているから、そのままお召し上がれということらしい。その脇に置かれたガラスの器に入っている真っ赤なソース。それはトマトと唐辛子を細かくカットし、煮詰めたようなものだった。ここは四川料理の店、きっと辛いに違いない。
善幸が、食べる前に質問しようとしたら、美乃里が「お味噌ですか? 上にかかっているのは」と料理長に尋ねた。
料理長はビールを彼女に注ぎながら、
「ゴマダレだよ」
すぐさま「そうですよねえ、何言ってんだよ。味噌糞一緒にし過ぎなの!」善幸が叱りつけた。
「始まったね、善くんの虐め。料理長は和食職人だったんだから、隠し味にお味噌を使っているんじゃないかと思っただけだよ」
彼女は、俺との会話の仕方が分かってきたようだ。完成しつつあるボケと突っ込みをチェンジしながらのお笑い芸人顔負けのトーク。それは、今日、横浜の界隈を稽古場とし、知らぬ内に身につけた会話の妙技だった。
今まさに、それを聞いている料理長が評価を下した。
「お二人さん、息がぴったり合ってるよ。お互い良い相方と巡り合えたってことだね。これなら蟠りなんて野郎は、二人の間に長く居付けやしない。助けてえーって逃げ出してしまうんじゃないか?」微笑みながら二人に食べるよう促した。
食べている二人に向けている柔和な笑みが善幸の心を惹いた。このような人柄で料理長が務まるのだろうかとさえ思えてしまったくらいだ。
「ああ、そのソースをお好みでかけて食べてみて」料理長が言った。
二人は、取り皿にのっけた蒸し鶏に、辛そうな赤いソースを垂らした。彼女がそれを口に含むと「あー、唐辛子の香りを感じます。蒸し鶏が凄くジューシー」と言って咀嚼しながら何度も頷いている。
善幸は一口食べた後、首を傾げてしまった。
「どうした、善幸、お口に召さなかったのか?」
「とても美味しいです。ただ、辛いと思ったけどそんなに辛くない。これって、思わせぶりですか?」
「前菜なんだよ、善幸。最初から辛くしてしまうとさ……」
迂闊だった。善幸は話を切り替えた。
「このゴマダレ、和食にも使えそうじゃないですか」
「俺は親方の弟子だから、隠し味に親方の教えが入っちゃうんだろうね。不思議なものだよ。何だと思う?」
すぐに見当がついた。
「醤油と味醂ですか?」
「それは当然だよね」と返された。
善幸はもう一度蒸し鶏を口にした。
「もしかして、マヨネーズですか?」
「当たり。これくらい分かんなきゃな。まだあるけど」と言うと、美乃里が「ちょっと待って下さい、料理長。お味噌は全然入っていませんか?」自信有り気に訊いている。そこへ、善幸が割り込んだ。「おまえは見た目で言ってんだろ? 俺はじっくりと味わってから言ってるの。味噌は入ってねーよ」
「いま、あたしも食べたじゃない。風味で判断したんだよ」
「嘘つけ、味噌の風味なんて僅かなものなんだから、ゴマの香りで消されちゃうんだよ。たとえ入ってたとしても、おまえには分かりっこない」
彼女は一旦引いたようだ。
「君たちは、爪を隠して引っ掻き合ってる雄と雌のライオンか? 味覚的に言えば、そうだなあ……とろみの利いた言葉の投げ合い? そっちの方がぴったりくるか、でも二人の会話を聞いてるととても愉快だよ」
そう言うと、料理長は椅子の背に凭れ掛かった。寛いでいるその姿を見ていたら、時間を忘れてしまい、三人の会話は一晩中このまま続くのではないかと思えた。
「そう、正解を言わなくちゃね。美乃里が言った通り味噌が入ってる。赤味噌だけどね。良い利き舌を持ってるねえ」
料理長は、美乃里に対しても呼び捨てだった。
「マヨネーズと味噌は合うんでしょうけど、赤味噌ですかあ」善幸は、単なる味噌じゃないことを強調した。
「善幸、見習いの時期ってさ、何故なんだ如何してなんだ、ってイラつくぐらい多くの疑問を抱いてしまうものじゃないか? また、そうじゃないといけないんだけど」
「親方の隣で仕事をしていると、それ、強く感じます」
「また、見習いの時期ってね、誰もが何度も『辞めたいなあ……』って思うもんなんだよ。それはね、やりたいと思うことをやらせてもらえない、やらせてもらったとしても満足に出来ない、そんなもどかしさで苦しめられるからだ。その期間が長く続くと落ち込むよな。仕事が嫌になってしまう。善幸って、そんなことはないか?」
「あんまり激しいのはないかなあ……」
見習いって、そういうものだとは思っているが、親方の店で働いていて不満なんか一つもなかった。
「ところで、善幸は親方のところに来て、まだ半年も経ってなかったよね?」
「はい、まだ三箇月ちょっとです」
「どう、料理人としてやっていけそうかい? その判断をするのはまだ早いか」
「覚えることが多すぎて、真剣に考えたことは無いですけど、でも、辞めたいとか嫌だなんて思ったことは一度もないですね。それどころか最近になって『俺、料理職人になるんだ!』って決めたんです。技術を身に着ける楽しさを感じられるようになったからかもしれません。これまで転職を三回してきましたけど、どの職場もこんな気持ちになったことはなかったですね」
「自分に合った仕事が見つかったってことじゃないの?」テーブルの上にのせている料理長の手が、落ち着きなく動きはじめた。
「今、厨房で邪魔にならないように、親方の脇で仕事をさせてもらってますけど、親方が魚を捌きながら偶にちらっと俺の手元を見るんです。この前、俺が細魚を下ろしてたら、親方に『手際が悪いな……』って言われたんですけど、その後に続く無言の言葉がわかったんですよ。『もっと早く、きれいに仕上がるように考えながら仕事をしろ!』って。その時、俺、教えてもらってる、気に掛けてもらってるんだって感じました。なんか嬉しくなってきちゃって。それも、親方が一日中付きっ切りなんですよ、まるで家庭教師のように」
「普通なら鬱陶しいと思ってしまうかもしれないね。善幸は違うってわけだ」
「料理に限らず見習いって、見て覚えろって言うじゃないですか。親方は、訊けば教えてくれるし、どうしたらいいのか迷ってるとアドバイスやヒントをくれたりするんです」
「ほう、そうなんだ。俺がいた頃は、親方が弟子に教えるようなことは無かったな。怒鳴るだけだったよ。俺が居なくなってから変わったみたいだね」料理長が笑った。
「でも、怒鳴り散らす癖はまだ残ってますから安心してください。親方の今の眉毛は真っ白ですけど、黒かった頃は迫力あったでしょうね」
「誰も近寄れなかったよ。人間ってね、年齢的な体力の衰えに合わせて精神面も穏やかになっていくものなのかもしれないよ」
料理長と話している間に、蒸し鶏はすっかり美乃里の胃袋の中に納まってしまい、もう一品出てきた黄ニラと貝柱とキノコのあんかけがのってる豆腐は、崩れた状態で半分残っていた。
「そうだ、二人ともお腹すいてるんだよね、どんなものが食べたい?」
「お任せします」美乃里が即答した。
そう言うしかない。二人が四川料理と言われてすぐに頭に浮かぶものは、麻婆豆腐とエビのチリソースぐらいなもの。いや、その二つが果たして四川料理かどうかさえ分からなかった。
料理長は、二人に嫌いなものはないかどうかを尋ねた後、料理三品とビールを持ってくるよう店員に指示した。量は少なめにと最後に付け加えたとき、善幸は一瞬、いっぱい食べたいのになあ、とちょっと残念な気がした。
美乃里の表情が硬くなった。多分、料理長が注文した一品にフカヒレの姿煮が入っていたからだろう。善幸は、胸騒ぎを共有しようと、彼女にパタパタと二回瞬きをしてみた。彼女は、パタッ、パタパタッと相好を崩し打ち返してきた。この時ばかりはヤケに息が合ってしまった。待っていることの楽しさが倍増された。
「俺、親方の店で働きはじめた初日から『野菜を切ってみな』って言われたんです。いきなり包丁を持たされたもんだから戸惑っちゃって。包丁なんて使ったことがないのと一緒だったし」
「まあ、他の板前が辞めてしまったわけだから、親方は早く覚えてほしいという気持ちもあったんだろうね。善幸は親方にとって最後の弟子だと思うよ、もう七十を超えてるから。俺が思うに、親方なりに何か考えがあってのことじゃないかな。教え方を今風にしたというのは……」
「俺ってラッキーだったんですね」
「それは、どうかな。職人ってね、教えてもらうことに慣れてしまったら、後で苦労するもんなんだよ。その辺は、親方も気にしてるところだろうね。それにしても、親方は、いい意味で善幸を甘やかしているようにみえるよ。可愛くて仕方がないんだろうな」
「親方の前だと、何故か素直になれるんですよ、俺」
「他では反抗的だったのか?」
料理長は、腕を組んで上目遣いで善幸を見ている。
善幸は首を横に振り、慌ててそれを否定した。
「それはね、信頼関係があるからなんだよ。それが無くなったら、すべてが狂って来る。でもね、容易く壊れるものではないんだ。なぜなら、それを大切なもの、かけがえの無いものであることを無意識に感じ取っているからさ。だから何が起ころうとも、それを壊したくないという力がお互いに働くんだ」
「俺、親方について行こうと決めたんで、その辺の揺るぎはないみたいです」
「我慢を強いられていても、興味が出て来ると真剣味が増して我慢が薄らいでいくもんなんだよ。よかったら、苦い我慢を飲み込むコツとやらを教えようか?」
「是非、お願いします!」と、善幸の代わりに美乃里が返事をしてしまった。
「アッハァー、残念でした。そんなのはないの。強いて言えば、苦にならなくなるまでやり続けること、かな。それが辞めない理由にもなってるんだけどね」
料理長は、ここでも親方のクセを感じさせた。
「なーんだ、期待しちゃったじゃないですかあ」
善幸は、そんな方法が本当にあったらいいなと思ったのだ。
「料理長、善くんって手先が器用なんです。見習いなのに、先々週から細魚を下ろしているんですよ。酒井のおばちゃんが言ってましたけど、入ったばかの見習いに、親方が魚を触らせることは今までになかったって。善くんに料理人としての素質があると親方は思ったんじゃないですか」と、彼女が重たい話に割り込んできた。
素質がある? 善幸は今朝、クルミ姉さんにも料理人としての素質があると言われたばかりだった。
「そうなのかい? まだ善幸の仕事ぶりは見てないからわからないけど」
「細魚って太い菜箸に似ているじゃないですか、善くんはそれを上手に捌けるんです。まだ親方のようにはいきませんけど。あたしも、近くで見てて職人としてのセンスを感じました」そう付け加えた。
料理長は、笑いを堪えている様子がありありだった。
善幸は、思いもよらない彼女の褒め言葉と、偉そうな口振りに愕いた。それも本人のいる前で堂々と言い放ったのだ。善幸にとっては衝動的な言動だった。
「ほお、善幸を応援している気持ちがこっちにも伝わってきたよ、美乃里は、善幸の応援団長というより、女房気取りのようだな」料理長が神妙に頷いた。
「気取り? 気取りなんですかねえ」彼女は真顔だった。
善幸は、美乃里を見つめている料理長の面差しでそれを確認した。
「おばちゃんたちも良い人だし、俺、親方の店で家族の一員になったような気分で毎日仕事をさせてもらっているんです。家に帰ると缶ビールを片手に、つくづく親方のところに来てよかったーって考えてしまうんですよ」善幸は率直な気持ちを語った。
「あたしもいるんだけど」
美乃里が不満がった。
「そうだよなあ、一番大切な人を忘れたらダメだぞ。傍にいると、特に大切な人って段々見えなくなっていくものなんだ。どうでもいいように扱ってしまうんだな。だから、相手に勘違いされないように、繊細な気の使い方を身に付けておかないといけない。実は料理もね、似たところがあるんだよ」
「何ですか、それって?」善幸が訊いてみた。
「お客さんにとっては当たり前、されど、料理人にとっては厄介で難しいことって何だかわかるかい?」
善幸は、大切な人を常連客に当て嵌め、〝繊細な気の使い方〟から考え付いたことを言ってみた。
「定番メニューであっても、常連客によっては年齢とか季節の違いで、塩加減や味付けを調整してあげるってことじゃないですか?」
「随分と先に飛んだね。料理人としての気の使い方をそこまで熟知しているのなら何も問題ないよ。しかし、それは非現実的。なぜなら料理人は常連客であることを確認することができないからだ。厨房にいるんだからね。ホールスタッフから逐一それを報告させるほどの手間は掛けられない。それと、お客さんを平等に扱っていないことにもなる。同じお金を払って食事をしているのに一方にだけ特別な計らいをする、これって気分のいいことかい? それをする方もされる方も、傍目が気になってしまうよね。終いには立場を越えたところで、皆が不快感を味わうことになりはしないかな?」
「確かにそう思いますけど……」じゃあ、何なんだろうか。
「常連客も一見さんも同じ大切なお客さんなんだよ。実はね、そのずっと手前の段階のことなんだ。一つは、“常連客”が注文したくなるようなメニュー作りで、この“常連さん”ここが重要で尚且つ厄介なところなんだ。毎回同じメニューだったら、何にしようかと考える愉しみがなくなる。メニューを覚えてしまうからね。それが料理人として一番悩ましいことろなんだよ。つまり、心ときめくようなメニュー作りを続けて行かなければならないということが、とても大変なことなんだ。終わりはないんだからね。諦めたらそこで全てがストップしてしまう。そうなると、次第にお客さんは遠のいてしまうんだ。飽きられてしまうということだね」
「料理長、何となく大変さが俺にも伝わってきました」
「中華料理って、和食の店ほどメニューをいじらないから、その点は助かっているんだけどさ。和食の店は大変だよな。和食のイメージって〝生〟だろ、つまり旬を供するものだよね。季節感を織り込みメニュー作りを考えなきゃならない。それに比べれば、中華の場合は、乾物を使う頻度も高いから、和食ほどメニューをいじらなくて済むし、食品ロスのリスクも少なくて済むんだ。そうは言っても、うちの場合は、ランチとおすすめメニューを週毎に変えてるけどね」
「親方もメニューには悩んでました」
それはつい此間のことだった。
「そうだろうね、俺がいた頃も腕を組んで一人で悩んでたな。メニューって馬券を買うようなもの。予想した馬が一着になるとは限らない。ゲートが開けば、着順と売り上げはお客さんが決めること。メニュー作りって、毎回悩むんだよなあ……。しかし善幸、常連客に目をつけたところはよかったぞ」
「でも、違うんですよね? 〝料理人にとって厄介で難しいこと〟と、常連客って何か関係があるんですか?」
〝一つは、常連客が注文したくなるメニュー作り〟と言っているのだから、二つ目があるはずだ、善幸はそう思ったのだ。
「そう、あるんだよ。馴染みのお客さんってさ、店に知人を連れて来てくれるよね。そのお客さんも『旨い!』と思ってくれればリピーターになってくれるだろ? その繰り返しってわけだ。馴染みのお客さんは、店の味をしっかりと舌に記憶している。以後、その味を求めてやって来る。ってことはだよ、味が変わったり、ばらつきがあると敏感に反応してしまうもので、料理長が変わったんじゃないか、と思われてしまうんじゃないかな」
善幸は深く頷いた。 (つづく)




