―横浜の街は 漏れ出す訛りに満ちていた―
第二十七話
―横浜の街は 漏れ出す訛りに満ちていた―
「赤ちゃんを抱っこしてた、お母さん……」
ええーっ、おまえの母親、やってくれるじゃねーか! 同時にその愕きもすぐに消えた。
「お母さん、元気そうだった?」と、ソフトに訊いてみた。
「お母さん、優先席に座ってた。抱っこ紐で固定された赤ちゃんのおでこに唇をつけて、小声で話し掛けてたよ。首が固定されていない赤ちゃんの頭を手で支えながらね。赤ちゃんは安心したような顔をして寝てた……」
「そう、偶然って、愕きと不信感が同時にやって来ると手が付けられねーな……」
「あたし、気づかれないぐらい離れた座席から見てたんだけど、お母さんのおっぱいが大きく見えたよ。赤ちゃんに気を取られてるみたいで、あたしのことには気づかなかったと思う。もし、お母さんが気づいたとしたら、すぐに隣の車両に移動したんじゃないかな、きっと……」
「逃げたりするもんかっ、俺は、近寄っていって声を掛けるべきだったと思う」
「その時はね、あたし、お昼前に期末試験が終わって帰る途中だったんだよ。お母さん、こんな時間にあたしが電車に乗ってるなんて思わないもんね。声を掛けたら愕いちゃうじゃない。『高校受験、あんた失敗したの?』なんてさ。でも、あたしが高校に受かったかどうかなんて、そもそも心配なんかしてなかったんだよ」
「たとえそうであったとしても、それはもういいじゃんよ。その時、声掛けてれば、何かが変わったかもしれないよ」
「変わらない、絶対!」彼女はきっぱりと言った。
「どうして?」
「赤ちゃんがいるんだよっ!」
その表情から、彼女は自分自身のことよりお母さんを苦しめたくなかった、そうっとしておきたかったのだろう。もし、お父さんにこの話をしたら、どう思うだろうか。
「お父さんに話したの?」
「話せる訳ないでしょ!」
彼女は、ふくれっ面になった。
「だよなぁ……」
美乃里は、そのことを未だに言えないでいるのだ。帰って来るのを待ち続けているお父さんに対し、申し訳なくて仕方がないからなのだろう。
「お母さんね、椅子から立ち上がったの。尾ノ守駅の一つ手前の駅で降りようとしてるんだよ」
「尾ノ守駅って、あの変な名前のスナックがある駅だろ? その店〝女の園〟だっけ? 一つ手前かあ……。やっぱりな、相手はそのスナックの常連客だったんじゃないか? そんな近くに住んでたんだ。そのうち、どっかでバッタリ、なんてことは考えなかったのかな。お父さんは偶にしか帰ってこないから大丈夫かとは思うけど、おまえが近くにいるんだからさ。お母さん、バカだよ。でも、赤ん坊に罪はないんだよなあ……」
「お母さん、赤ちゃんを大切そうに抱えて、ドアが開くのを待ってた。外はまだ小雨が降ってたの。傘を持ってないのかなと思って座席を見たら、置きっぱなしの傘があるじゃない。だから、あたし『お母さんっ、傘忘れてるよ!』って声を掛けようと腰を浮かしたんだけど、やっぱり声は掛けられなかった……。お母さん、ドアが閉まった後に気づいたみたいでさ、その時の諦め顔を今でも憶えてるよ。赤ちゃんね、真っ赤な服を着てた。女の子なんだね」
善幸は、何気に彼女が着ているダウンジャケットの色を確認してしまった。
「あたし、椅子から立ち上がって、閉まったドアに顔をくっ付けるようにしてホームを歩いているお母さんの姿を見えなくなるまで眺めてた。抱いてる赤ちゃんの真っ赤な服が印象的だったよ」
「そう……」
赤い服を着た赤ちゃん。美乃里の母親は派手好き。それから自己主張が強そうで自分勝手な女。先駆け的な〝美乃里〟という名前は、きっと母親が付けたに違いなかった。
善幸は、この話はここで打ち切ろうと思った。今更、何言っても変わることなど何一つないのだ。寒さに耐えている彼女の姿が切なそうに思えた。
凍てついた空気は、昼間の汚れを濾過していた。
「行こう、ここにいたって寒いだけだから」
善幸は、ベンチから立ち上がった。
何故か、彼女は立ち上がろうとはしない。
「立てよ、遅くなっちゃうだろ!」
これから、四ツ谷にある四川料理の店へ行かなければならない。彼女はそれを気にかけていない様子だった。この場所からだと、ゆうに一時間はかかるだろう。遅くとも九時までには着きたい。そう思うと、じっとしてはいられなかった。
だが、美乃里は一向に腰を上げようとしない。ベンチに腰を下ろした時と同じ格好をしていた。俯き、膝をつけて、こぶしをすっぽりと袖口の奥へ引っ込めていた。
どして立ち上がらないのか、善幸はそんな彼女を不思議そうに見ていた。
彼女が顔を上げた。
「善くん、実はね、先週の木曜日に病院へ行ってきたんだよ。いつも心臓を診てもらっている循環器の先生のところなんだけど」
美乃里は、一番気掛かりなことを口にした。突如、善幸の耳に例の“固有の耳鳴り”が激しく聞こえ出した。
「弁膜の調子が悪くなったのか? どうなの? 大丈夫なの?」
善幸は、寒さに耐えながらここに居るのが心臓に悪いのではないかと改めて心配になった。
すると、
「子供が産めるってよ。先生がね、今の状態を十年ぐらいは維持できるだろうから、今から五年以内だったら心臓の手術をする前でも子供を産むことは可能だって言われた。だから、心臓の手術をする前でも後でも子供を産むことができるんだよ、あたし!」
彼女の語気は、徐々に強さを増した。
善幸は胸を衝かれたようで言葉が出てこなかった。
「ねえ、聞いてる? 子供が産めるんだってっ」
彼女の息遣いは荒かった。瞳が異様な輝きを放っている。
「急に何言いだすんだよ。だから何なんだよ、もう行くよ」
善幸は、思いもよらない話にちょっと愕きはしたが、すぐに安堵した。彼女の身体に異変が起こったわけではなかったからだ。
「頼むからさ、立ってくれよ」
「…………」
「大切な話だとは思わないの?」
「何が?」善幸はキョトンとした顔で訊き返した。
「あたしのこと、善くんに全部話したんだよ」
「だから聞いたって」
「それだけ?」
「そうだよ」善幸は素っ気なく応えた。
そう言われて、不服と言うより不思議そうな顔をしている美乃里……。
善幸は、深刻な話であることを分かっていながら、何故か突き放したような返事ばかりをしてしまった。
美乃里が立ち上がる気配は全く感じられなかった。
傍らで、彼女の前髪が地面に引っ張られている姿を眺めながら、善幸は今日一日の出来事を振返えっていた。
――散策してきた夕暮れ時の山下公園。前方に見える氷川丸の船首に向かって二人は歩いて行った。歩きながらの彼女の突飛な打ち明け話。その話に釘付けにされた。更に話を遡れば、東京駅の大丸で買った量産品のトートバッグに行き着くまでの経緯。その前に、駅の地下街で何を食べようかと店を探し回り、やっと決まって入った蕎麦屋。そこでローズとマリモを薬味にして啜ったへぎ蕎麦……。今朝、商店街の各店先で顔を合わせた四人の娘たち。“揚げ立て”惣菜屋の小菊に、〝焼き立て〟パン屋のフジヤマミカタ、その七軒先の花屋のクルミ姉さん。それに、巷で評判のパンケーキを一緒に食べに行ったケーキ屋のさくら……。彼女とは、黄金色に色づいた外苑のイチョウ並木を恋人気分でぶらついたりしたっけ……。これらの些細な出来事に関わった人の誰もが心に留まる名前となってしまった。
詰まる所、全てはこの丘へ美乃里と二人で訪れるためのプロローグだったということなのか。どうであれ、善幸は、現在進行中のこのシーンを、この丘でエンディングしなければならなかった。
善幸は、止まっている時を破った。
「行くよ、じゃないと置いて行っちゃうぜ!」
「一人で帰るからいい、ほっといてくれる……」
二人の関係は一気に冷え切ってしまった。善幸はそれを無視する。この先の二人の歳月を考えたのだ。
善幸は上から言葉をぶつけていく。
「動きたくないなら、俺が負んぶしてやるよ」
彼女は、意地悪そうな目つきを善幸に向けた。それは、はじめて見る目色だった。
「へえー、どこまで負んぶしてくれるの?」
「どこまでって、どこまで負んぶしたらいい?」
善幸は、公園入口にある交番までの百メートルを想定している。そこでタクシーを拾って関内の駅まで行こうと考えた。ところが、
「あたしの体が温まるまで」
彼女は、なんとも小戯れたことを言ってきた。
「よっしゃ、わかった。俺、何しろおまえを負んぶするから。それでいいな?」
善幸は、今いる見晴らし台から階段を二段下りて後ろを向き、負んぶする体勢をとった。
彼女の腕が首に巻き付けられた。善幸は両足を抱え立ち上がった。身体の重さがじわっと分散されていった。
「ぴったりだな」と善幸が言うと、
「ぴったり?」その意味を考えている様子の美乃里。
善幸は、急ぎ足で公園を後にした。彼女は善幸の肩に、少し突き出た顎をのっけた。
二人は、『港の見える丘公園前』の交差点に立っていた。勿論、〝荷物〟は背負ったままだ。
「タクシー来るかなあ」善幸が呟いた。
首に纏わりついている彼女の髪が暖かい。善幸は、走って来る車がタクシーかどうかを見極めていた。
「歩いて行かないの?」耳元で彼女が呟いた。
善幸は愕きなどしない。
「俺が倒れたら、おまえ、困るだろ?」と言い返した。
気分がいい所為か、背負ってる重さは感じなかった。無理を承知で、関内駅まで負ぶって行くのもいいかも知れない。何かを最後までやり遂げたんだ、そんな実感が味わえそうだからだ。
やはり、交差点の角にある交番にはお巡りさんの姿はなかった。やる気の無さそうな交番でも行き交う人たちに安心感は与えているようだった。
役立たずの信号が急がずに赤になった。
待ってもいない返事が返ってきた。
「そうだね……善くんが倒れたら、あたし困る」
善幸の首筋に湿った息が掛かった。
「ということは、俺、日頃から体力をつけておかなきゃいけないってことか?」
「そう言うことになるかな」
正面を向き目を凝らして見たら、バスと覚しきライトが、明るさを増しながら近づいて来る。善幸は、交番の先にバス停があることに気がついた。いつ来るか当てにならないタクシーを待つより、このバスに乗ろうと思った。間に合うだろうか……。
左右を確認し信号を無視して道路を渡った。バス停には誰もいなかった。バスの運転手は愕いたかもしれない。具合が悪いのか、怪我でもしたのか、ぐったりしている女の人を負んぶし、全速力で走って来る若い男に気づいただろうから。
運転手はバス停で二人を待っていてくれた。後ろのドアが開いている。善幸は、彼女を下し先に乗り込んだ。運転手に対して「すみませーん」と一言声を掛けた。
運転手が、「お客さん、大丈夫ですか?」マイクを使い訊いてきた。四人しかいない乗客が全員振り向いた。善幸は運転手に頭を下げて心配ないことを伝えた。
二人は一番後ろの席に座った。バスは座ったと同時に走り出した。
なぜか彼女も息を切らせている。
「善くん、このバスはどこ行きなの?」
「知らない。でも、どっかの駅には寄るんじゃないか。寒いのにいつ来るか分からないタクシーを待つこともないだろ」バスの中は、ほっとさせる暖かさがあった。
二人が歩いて上っ来た坂をバスが下って行く。どうやら関内駅の方向へ走っているのは確かなようだ。
暫くすると、ライトアップされたマリンタワーの上部が見えてきた。窓から、彼女はそれを見上げている。
「ここに来てよかったよ、愉しかった。ありがとう、善くん。また来ようね」
「次回来たときは、マリンタワーに上るぞ。今度はそこからの夜景を眺めようぜ。氷川丸の船内も見学しよう。俺が案内役を務めるからさ」
「今日、どっちも見なくてよかったよ」
「どうして?」善幸が訊いた。
「だってさ、見れなかったことが次回に繋がっていく訳でしょ? あたし……残してきたものって、何でも気になって仕方がないの。見て見て、この建物、オシャレだと思わない?」
バスが赤信号で止まっている。善幸は、彼女が指をさした建物へ目を向けた。二階の窓からシャンデリアが見えていた。
「あれ、二階はレストランなんじゃない? 多分そうだね。窓ガラスがステンドグラスだもん。あそこから見ると、山下公園の全景が見えて、その向こうに横浜港が見えるんだろうな。善くんさぁ、次回来るときは、あそこでお食事しない?」美乃里が訊いてきた。
バスの窓から覗ける範囲は限られていた。彼女の目には、湾に掛かる予定の〝橋桁〟も見えているのかもしれない。
「いいよ。あの店、イタリアンっぽいね」
善幸は、白っぽい建物と手入れされた周りの植栽、それに窓の上の帽子のような赤いテントを見てそう判断した。
善幸は視線を右に移した。ネオンで飾られている氷川丸が街路樹に邪魔されていた。園内の有り様はもう暗くて見えない。それでも暗闇を注視していた。目が暗さに段々慣れてくると、腕を大きく振って走っている人影が浮いて見えた。その人は、もしかして、湾内を歩いていた時、俺たちを追い越して行った年齢不詳のランナーではないのか? 邪魔な街路樹をどかそうと、体を左右に動かしてみる。しかし、バスは否応なく走り出した。見ようと思っても見えない園内暗闇の動画……。それが次第に消えていった。
いつか、美乃里と一緒にこの園内を走ろう。善幸は、自分を追い越して行く彼女のジョギング姿を見たいと思った。
「善くん、何を睨みつけてるの? 怖いよ……」
美乃里が、善幸の横顔を見つめている。
「いつもの顔だよ、ほら……」
善幸は、拵えていた眉間の皺を直した。そして、徐に彼女の手を握った。これで今日何度目だろうと考えながら……。
進行方向へ向けた善幸の顔を、彼女が覗き込んだ。
「イケメンじゃないけど、段々よく見えてきたよ、善くん」
「そう? 嬉しいこと言ってくれるじゃん……」
バスは、二人の身体を揺らしながら走っている――。
車内から見渡す横浜の街は、整然と立ち並ぶ建物の隙間から漏れ出す訛りに満ちていた。
(つづく)




