―義理の父親との生活―
有り得ぬ義理の父親との二人だけの生活が始まった。苦悩と誤解の狭間で起こったこととは。
第二十四話
―義理の父親との生活―
これで、仲睦まじい関係が出来上がった。彼女は、もう一方の掌を重ねてきた。
「お父さんの話、まだあるけど聞くぅ?」
「とっと、それはね……」
善幸は話の腰を折ろうとする。美乃里はどんだけお父さんのことが好きなんだ? 呆れてしまった。しかし彼女は「お父さんと釣りに行ってた頃の話なんだけど」などと、この寒空の下で話すには酷な思い出話をしようとしている。
「聞きたくないの?」
この問い掛けに「そんな話、どうでもいいだろ!」とも言えなかったので、
「お父さんと一緒に釣りに行ってたって?」と返した。
彼女は、善幸の肩から顔を起こした。
「そうだよ、なに吃驚してんの?」
“吃驚”の意味合いが違い過ぎていた。義理の父親と、そんなに一緒にいたかったって? 善幸には考えられないことだった。
「あのさ、それ、今聞かなきゃダメ? 他に話すことがあるんじゃない?」
話さなきゃいけない話は、母親が居なくなった理由だろ! 何故それを先に話さないっ、そうは思ってみたものの、彼女の話ゆえ侮れない何かが隠されているような気がしてならなかった。
けど、美乃里はそば屋で〝マリモ〟の話を最後まで聞いてくれたし、況してやその中身は戯れ事だった。それと比べれば、彼女のこれまでの話は、徒や疎かでは聞けない話ばかりだ。それにしても、どうでもよさそうな義理の父親と釣りに行ってた話なんかは勘弁してほしいところだ。いくら夜景を楽しめる場所とは言え、この寒さが眺める時間を短縮させようとしていた。
「ここら辺で、穏やかな話を挟んでおいた方がいいと思って……」
ということは……やっぱりそうなんだ。母親の話は相当話しづらいらしい。善幸は、一先ずその話を聞くことにした。
「確かに、おまえの身の上話はどれも衝撃的だから参っちゃうよ。ここいらで、ほのぼのとした話を聞きたいな。心温まるようなさ」
二人が話す度に吐き出される息は、外灯に照らされながら上空へと吸い上げられていく。善幸は、くっ付いているとはいえ、身体全体が寒さで凝り固まっている彼女のことが気掛かりで仕方がなかった。心臓の弁膜症……詳しいことは分からないが、闘う必要のない寒さと早くおさらばしなければならなかった。
「でも、善くん、寒いんじゃない? 大丈夫?」
彼女が、逆に訊いてきた。
「俺のことはどうでもいいんだよ。寒きゃ、温まるような話よりさ、もっと温まる四川料理を食べに行こうぜ、な?」
「くっ付いていると、善くんの体温を奪えるから大丈夫。今日この場所で、この話を完結しておきたいんだよ。じゃないと、話すタイミングを逃してしまいそうだから」
「いつでも話せるだろ」
「今日話さなきゃいけないような気がするんだよ。それとも、善くんが聞きたくないというのならやめるけど」
「寒くないの? 大丈夫」
「あたしなら、寒くない。ダウンジャケット着てるから。これね、とても温かいの。お父さんに買ってもらったものなんだけど」
薄暗いこの場所でも、テカテカと光っている真っ赤なダウンジャケットが眩しい。彼女のお父さんは、なんでこんな派手な色の服を買ってあげたのだろう。彼女が好みそうな色じゃないし、本人だったら多分この色は選ばなかったはずだ。
「そのダウンジャケット、随分と派手だね」
彼女が本当に気に入っているのかを確かめてみる。
「似合ってる?」
「高校の時の友だちとスキーに行ったことがあるんだ。俺、スキーはその時が初めてでさ。それで、御茶ノ水のヴィクトリアにスキーウェアを買いに行ったんだよ。俺が選んだのが上下の黒のウェア。失敗だったね。初心者は黒を着ちゃいけないんだ。目立つからさ。知らないで買っちゃった。それと帽子がね、ピンクの毛糸のものを選んだんだ。なぜか自分でもわからないけど」
善幸は、途中で自分が何を話したいのかが分からなくなった。
「ふ~ん、でどうだって言うの?」
「えーとね……」
何とも答えようがない。それが彼女に伝わってしまったようだ。
「別にいいよ、善くんにどう思われても」
「だったら訊くな!」
彼女が剥れてしまい、あっちを向いている。何でこうなるのだろう。「似合ってる?」って訊いているのだから、「似合ってるよ」と言って欲しかったんだろうし、咄嗟にそう言ってあげられなかったことを悔やんだ。
左側のお隣さんが立ち上がった。折角の〝まったり状態〟に水を差してしまったようだ。
彼らは、階段を下りて、車が一台も止まっていない広場の真ん中を突っ切って行こうとしていた。
善幸は、彼らを冷ややかな目で追っている。二人とも重たそうなバッグを肩に掛け、学生気分の足跡を残して行く――。視界から消えようとしている彼らの後ろ姿は、金も時間も潤っているように感じられた。自分たちの将来を自由自在に見通せるこの丘で、二人は強い絆を確かめ合っていたのではないだろうか。右側のお隣さんは、知らぬ間にもう何処かへ行ってしまったようだ。これで一気に静寂が増したため、彼女の話を心置き無く聞けそうだ。
「俺、お父さんと釣りに行った話を聞きたいんだけど……」
善幸は、詫びる気持ちも込めて言った。所詮退屈な話なんだろう。それでも構わないと思った。
すると、彼女が妙な動きをし出した。両手を広げて順番に指を折り曲げていく。何をしているのか、呼吸している数でもカウントしているのだろうか。
「急にどうしたの? 胸が痛むの?」
美乃里はニコッとしてこっちを見た。
「うちのお父さんが今度帰ってくるまで何日かを数えてたの」
表情とその仕種からウキウキしている様子が窺えた。
小学校の遠足じゃあるまいし、それに二十歳にもなって義理の父親が待ち遠しいだなんて、一体どういうことなんだ? やっぱりこの話って退屈な話なんかじゃない、そう思えてきた。
「そんなことどうでもいいよ。早く話してくれる、その釣りの話」
「いいよ、話してあげる。そんなに聞きたいのなら」
「頼むわ!」やっと聞き役に回れた。
美乃里は、子供がよくやるようにベンチに座った状態で、足を浮かし前後に動かしはじめた。夜景を眺めている横顔には、更に困らせてやろうという思惑があるように思えてならなかった。
「出張からお父さんが帰ってくるのは、大概金曜日の夜遅くなの。現場に行くのは日曜日の午後だから、土曜日って、丸一日お父さんと一緒にいることが多いの。お母さんが出て行った当時は、たとえ、それが月に一回だとしても、朝からお父さんと一緒に居るのって気まずくて息が詰まりそうだった」
「そりゃそうだよな、義理の関係だもんな」
それが、何でお父さんをウキウキしながら待つようになったのか、善幸はその経緯に取り分け興味を抱いた。
「向い合って朝ご飯を食べてる時なんか、喉に通らなかった……。箸を持ったまま、今日一日どうしようかって考えてた……」
「義理のお父さんじゃなくても、父親と年頃の娘との二人だけの生活じゃ、朝飯どころか夕飯を一緒に食うことも無くなっていくんじゃないか? 話題も無いだろうしさ。逆にベタベタしてた方が気持ち悪いだろ」
彼女が頷いた。
「ある朝ね、お父さんが『美乃里、お父さん、釣りに行ってくるから……』って言うの。釣りなんかやったことがないのにさ。いきなりだから愕いたよ。窓から覗いてたら、倉庫から釣り道具を出してきたの。倉庫に置いてあるはずないのにさ。いつ釣り道具なんか買ったんだろう」
「それ、変だね」
善幸はピンと来た。しかし……。
「お母さんが乗ってた自転車の荷台にね、大きなクーラーボックスと折りたたみの椅子をゴム紐で括り付けてるんだよ。どれほど釣ってくる気なのって思ったね。食べられる魚ならまだいいけど」
「女でも出来たんじゃね?」善幸は、既に過去のことだからと思って訊いてみた。
「それ、あたしも怪しんだよ。でも、たとえそうだとしても、あたしの立場じゃ……何も言えないよね。お父さんがあたしを家から追い出して、女と一緒に住んだとしてもさ。そうなったら、あたし、どうしたらいいんだろうって悩んだよ。新潟のお母さんの実家にも電話できないし。だって、叔父夫婦と爺ちゃん婆ちゃんで暮らしているところへ行きづらいじゃない。子供たちもいるしさ。あたしが行ったところでお荷物になるだけだもん。あたし、あの頃、相談できる人は誰もいなかったんだよ……」
女が出来たとしたら、追い出される可能性まで考え悩んでいたとは思わなかった。これは、血が繋がっていないと言うことの絆の弱さなのだろうか。
「で、どうだったの?」
「詳しく訊きたい?」
「そこんとこ、重要なところじゃん。今更聞いてもしょうがない話だけどさ。結果はどうであれ、今はお父さんと一緒に住んでいるわけだから、俺、安心して聞けるわ」と言いながらも興味津々だった。
「窓から見てたらね、お父さんが小さなバケツで何かを練ってるの。練り終わると、ハンドルにそれを引っ下げて行っちゃった。その日、お父さんが帰って来たのは暗くなってからだった。何か釣れたって訊いたら『釣れたけど、放してきた……』って。せっせと道具を倉庫にしまっちゃったんだよ」
(魚を女と置き換えて考えてみると……)善幸は腕を組んだ。
「その時、お父さん、倉庫に鍵を掛けた?」
「いつも掛けてるよ」
この段階で、善幸はある筋書きを頭に思い描いた。
>鍵の件は後回しにしよう。釣りなんかじゃない、女とどっかで逢っていた。遅かれ早かれ美乃里を追い出し、お父さんは女と一緒に今の家に住もうと考えたのだ。だが、彼女を追い出すようなことは出来なかった。女とそのことで揉めたのだろう。その結果、お父さんは、やむなく女と別れる決心をした。後になって、お父さんが自分のことを考えてくれていたことに美乃里は気づいたのだ。だから、彼女はお父さんに感謝している、そう考えれば辻褄が合うではないか。それ以外考えようがない。でなければ、彼女は今の家に居るはずはないのだ。そう、親方のところで俺と出会うこともなかった。うーん、それにしてもだ……。
「それからというもの、月に一、二回家に帰ってくる度に『美乃里、お父さん、釣りに行ってくるから』って、釣りに出かけるの」
善幸は、出来る限り具体的な話が聞きたかった。そこで、依頼された探偵事務所の調査員になったつもりで質問していく。
「これから、重要なことを訊いていきますので、事実関係を出来るだけ細かく話して下さい。最初に確認しておきますが、釣った魚は一度も持って帰らなかった、ということでいいですね?」
そしたら、彼女も、
「ええ、一度も魚を持ってこないのは、あたしも可怪しいと思ってました。ある日、お父さんが釣りから帰ってきた時、直ぐに庭へ出ていったんです。そして、クーラーボックスの中を覗こうとしたんですが、お父さんは『いいから、いいから』と言って、触らせようともしませんでした。道具を倉庫に片付けて、直ぐに鍵を閉めてしまったんです」
彼女は言われた通り事実関係を詳細に話してくれた。
「鍵を閉める……。倉庫って結構大きかったですよね?」
「はい。四畳半ぐらいの広さはありますけど」
「ほう~、それはデカイですねえ、主に何が入ってたんですか?」
「大したものは入っていなかったと思います。空覚えですが、ほとんど庭の手入れで使う道具。例えば、大きな植木バサミ、草を刈る鎌、それとノコギリとかロープです。あと、セメントや砂利、一輪車も入ってたと思いましたけど」
「ほー、そうでしたかあ……」調査員は考え込んだ。
>そこには、植木屋並みの十分過ぎる道具が入っていた。今でも鍵は掛かっているのだろうか。また、その女とは何時頃から付き合っていたのか。もしかしたら、母親が出ていった理由って、それなんじゃないのか? 善幸は、自力でこの謎を解き明かそうとしている。次から次へと訊きたいことが頭の中に浮かんできた。
「あたしね、ある日、お父さんが釣りに行く後を追ってみようと思ったの。その夜、不安でなかなか眠れなかった。真夜中、目を開けると、雨漏りの所為なんだろうけど天井のシミが不気味で、じっと見ていたら段々心拍数が上がって来たのを覚えてる。落ち着こうと思うと、尚更ドキドキしてきちゃって……」
「それは心細かっただろうね、わかるよ。不安感って、夜になると如実に膨れ上がったりするからね。寝むれたとしても良い夢は絶対に見れないよな。朝起きると、夢は覚えてないのにやり場のない鬱積した疲労感だけがどっと襲ってくるもんなんだ」
「あたし、眠ったかどうかさえわからなかった。夢と現の間で苦しんでいたんじゃなかったかな……。それと、早朝、お父さんが音を立てずに出て行くから、それに合わせて起きなきゃいけないと思って、物音に敏感になってたんだと思う。でも、ガタッと何かを落としたような音で直ぐ起きたんだよ。お父さん、前の晩に作っておいたおにぎりとお茶が入っている水筒をリュックに詰めて出て行ったの。あたし、お父さんの後を追って行った」
「女かもしれないんだろ? お父さん、おにぎりを用意する必要はなかったんじゃないか?」
「本当に釣りだったらどうするの? もしそうだったら、お父さんは朝ごはん食べてないからさ、釣りしている後ろから『あたしの分、ある? 一緒におにぎり食べよ』って声掛けられるでしょ?」
美乃里は、お父さんが自分を捨ててしまうような人じゃない、心の片隅でそう信じていたのだろうか。少なくともその望みは僅かでも持っていたようだ。
「あたしね、気付かれないように、距離をとって追ったの。帽子も目深に被ってね」
「釣りって何処に行くんだよ? あそこからじゃ、自転車で海は無理だろ?」
「勿論、海じゃないよ。着いた所は住宅地なんだけど、心を癒してくれるような憩いの場所だった。自転車で四十分ぐらいかかったかな、結構遠かった。ついて行くのもしんどかったよ」
「川?」
「溜池だった。早朝でも、結構釣りしている人がいるんだね。子供を連れたお父さんとか、お爺さんとか。その池はね、学校のグランドの二倍ぐらいあったかな。自転車で行ける距離でこんな素敵な場所があったなんて愕きだよね。お父さんは何でこの池を知ってたのか、それも不思議に思った」
「だからさ、その場所に住んでるってことだろ?」
彼女は、それには反応しなかった。
「お父さん、自転車から道具を下ろして、釣りの準備をはじめたの。それを見てたらさ、確信しちゃったよ、誰かを待ってるって……。だってさ、折りたたみの椅子に座り込んだまま釣り竿も持たずに、ぼうっと池を眺めているんだから。釣りなんかどうでもいいって感じだった。あたし、その日はお父さんに声を掛けられなかったの」
善幸もその立場だったら、声を掛けられなかっただろう。その日に来なくても、次回現れる可能性だってあるのだ。不倫相手なのだろうか……。それなら旦那の都合で来れない可能性も十分考えられる。
「釣りってさ、いきなり一人でやり始めるものじゃないよな。一度知り合いに連れて行ってもらって、面白くなってハマったりだとかさ。だから、おまえが疑いを抱くのも無理はないと思うよ」
「それで次の休みの日に行った時、もっと近寄って行って木陰からお父さんを暫く見てたの。そうしたらね、お父さんと同じ年代のおじさんが隣にやって来て『おはよう。どうだい、娘さんの方は?』って挨拶したんだよ」
「おまえのことを知っている人だった、そういうことなんだな?」
善幸は、そのおじさんを訝しんだ。
「後ろ姿だったから誰かはわからなかった。でも、親しそうな間柄に見えたよ。その時、娘さんってあたしのことなの? って。確かめるように、あたし二人の話に耳を傾けてた。それに考えたくもないけど、お父さんに血の繋がった娘がいるんじゃないかって考えてしまったの。新たな疑問が出てきたから、頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃってさあ……」
「もしそうなら、話が複雑になるな。俺にはついていけないレベルの話だ」
善幸は、予想だにしない展開をわくわくした気持ちで待ち受けている。
「残念だけど、その日はわからなかった」
「なんだよ、その日はわからなかったって。あのな、俺は詰まらない推理小説を読んでるわけじゃないんだぞ! おまえさ、今となってはどんな関係か判ってんじゃんよ、勿体振らずに早く話せよな」
善幸は降参したのだ。自力では手に負えない謎解きだった。
「あの時の成り行きを順序立てて一通り話したいと思ったんだよ、善くんに……。でも、善くんって、時々あたしを虐めるような言い方をするよね」
「そう? そんなつもりはないけど。もしかしたら、俺の育った環境かもな」
「何事も無く大切に育てられて来たんじゃないの?」
「ペットみたいにか? ハハ、金持ちのペットの方がどんだけ幸せだったことか。俺、次男だろ、だから兄貴に金が回ってしまうんだ。兄貴は大学に行ったけど、経済的に二人とも大学に行くのは無理だったから俺は諦めた。と言うより、勉強しなかったから無理だしさ。それとね、我が家には問題があって、オヤジが酒乱なんだ。仕事が上手く行ってなかった頃は最悪だったな。オヤジ、お袋にも手を挙げてさ。身体がデカくて腕っぷしが強いから、中学生だった俺たちでも止められなかったよ。オヤジを押さえつけようとしては殴られて吹っ飛ばされる。一度、兄貴が頭に大怪我したんだ。オヤジに投げ飛ばされた時にサイドボードの角に頭をぶつけてさ、救急車で運ばれたんぜ。警察まで来たよ。親戚に警察官がいて、身内のことだからって適当に誤魔化してくれたみたいだけど。そんなことがあっても、オヤジは変わらなかった。酔っぱらって散々暴れた後は死んだように寝てしまうんだ。朝起きて、オヤジが辺りを見渡しながら『どうしたんだ! 泥棒にでも入られたのかっ』って。二日酔いで頭が痛いくせに、また怒鳴りはじめるんだ。最悪だったな、あの頃は……。そんなことが週に二回はあったかな」
「そうだったんだぁ……」
「俺たち、もう我慢ができなかった。それに、我慢する必要のない身体になってきてたからね。兄貴は高校に入ると迷わず柔道部に入った。そこで鍛えられたのか、自ら鍛えたのかは知らないけど、兄貴の腕が見る間に太くなっていったんだよ。今の俺たちだったら、絶対に勝てる! オヤジをやっちゃおうってね。まさに命がけだったな」
美乃里は目を丸くした。
「えっ、やっちゃうって、何をしたの?」
「玄関で待ち伏せしている兄貴が、酔っ払って帰ってきたオヤジを羽交い締めにすると、俺が紐で足を縛り上げる。不意打ち作戦さ。暴れる前にやっつけないとね。本人も何されているのかわからなかったんじゃないか。調子抜けするほど簡単だったよ。もっと早くやっちゃえばよかったなって、後で兄貴が言ってたっけ」
「お母さんは、それを見てたの?」
「お袋には内緒でやったんだけど、物音で居間から出て来ると愕いてたよ。あたりまえだよな。お袋、その様子を見て『やめないかっ!』とも言えず茫然としてた。兄貴がそんなお袋に『二、三時間縛ったままにしておけよ、解くなよ!』って勝ち誇ったように言い放ったんだ。その後、兄貴と俺は二階の自分の部屋に戻ったんだけど、俺、心配になって十分後に玄関のところへ行ってみたら、お袋が泣きながら紐を解いてたよ。その様子を暫く階段の手摺りから覗いてたらオヤジさ、小便を漏らしちゃったみたいで、お袋がズボンを脱がしてパンツを穿き替えさせてた。床がびちょびちょなのに意味ないよな。そのあとオヤジ、ゲェーゲェー吐きやがってさ。そしたら、すかさずお袋が親父の頭を持ち上げて膝枕よ。寝かせたままだと、ゲロが気管に入って咳き込むからな。以前、それで窒息状態になったことがあったんだ。だから手慣れたもんよ、お袋も……。でもさ、俺、見てられなかった。オヤジ、居酒屋で飲んでて、ツマミにマグロの山かけでも食っちゃったんだろうなあ、そのゲロと小便のシミでさ、ピンクのサンゴが轉がっている砂浜に波が押し寄せたような図柄がお袋のかっぽう着に描かれちゃってて、それを見てたら沖縄に飛んでって泳ぎたくなったぜ、まったくよぉー、まだ行ったことはないけど」
「でも、お母さん可哀想……。善くん、見てただけ? 助けてあげなかったの?」
「いつも酔っぱらって帰って来るオヤジの世話をしているんだよ、俺たち。この時だけやらないからって、責めるなよな」
美乃里は、考え込んでしまった。
「素面の時のオヤジの本心って『誰か、頼むから酒乱のこの俺をどうにかしてくれっ』だったんじゃないかって思うんだ。今、あの頃を思い返すとそんな気がするな」
「お父さん、仕事で何かあったんじゃないの?」
「そんなこと知らねーよ。例えどんな理由があろうとも、お袋や俺たちを五、六年も苦しめていいわけねーだろ、違うか?」
「それはそう思うけど……」
当たり前のことだが、その苦しみは彼女に理解できるはずもなかった。
「ただ、息子たちに縛られたことがよっぽど衝撃的だったんだろうな。二日酔いで起きてきた後でも、親父、それだけは覚えてたみたいだから」
「やっぱり。いくらなんでも酷すぎるよ、親だよ!」
「おまえに何がわかるんだよ、当事者じゃあるまいし。以前さ、ニュースで奥さんが耐え切れずに酒乱の夫を殺したって事件があったけど、あれ他人事じゃないと思ったな。どんなに我慢強い人でも限界ってあるんだよ。被害者が、突如加害者に変貌することがあるってことさ。そのことを誰もが頭に入れておくべきだね。俺はそう思う」
「でもさ、夫婦や親子の間でもやっちゃいけない、許されないことってあるよ、善くん」
善幸には、彼女がオヤジを庇おうとしている理由が分からなかった。
「おまえの場合はさ、義理の親父じゃねーかよっ、だからわからないの。血の繋がりってもんはさ、父親なら実の息子に殺されたとしても〝まっいっか〟で済んじゃうもんなんだよ。要するに、そこに法なんて入る余地はないんだ。血縁といっても特に親子関係の事件を、他人事として裁かなきゃならない裁判官が気の毒に思えてくるな。そもそも法律なんてもんとは馴染まない問題なんだよ。でも、無法状態でいいというわけじゃない。一つだけ条件を付けるとすれば、経済的、肉体的どっちにしても強い立場にある者は、状況の如何を問わず、弱い立場の者を苦しめちゃいけないってこと。これは遵守しなきゃいけない絶対的なものなんだよ。俺は経験上そう思ったね……」
彼女は言い返せないでいる。でも、善幸が一言添えた。「言うは易く行うは難し、なのかな……」
彼女にとっては、苦味の効いた一言だったようだ。
「その後のお父さんって、どうだった?」
「それ以来、親父も力じゃ息子たちに勝ち目はないと思ったんじゃないの。他にも思う事があったのかは知らないけど、次の日から人が変わったようになってさ、酒を一滴も飲まなくなったんだ。一番びっくりしたのはお袋だと思う。けど、もう遅かった。肝臓がイカれているのを知ってたくせに治療しなかったからさ。死んでもいいと思ってたんじゃないかな、オヤジ……。今は入退院の繰り返しの生活を送ってるよ。三年前に仕事を辞めて、兄貴とお袋が面倒を見てくれてる」
「善くんちも大変そうね……」
「余計な話しちゃったな。もう、俺の話なんかどうでもいいって」そうは言ったが、話し切った感で気分は晴れやかだった。
「でも善くん、その結果と言っちゃなんだけど、こうして二人が出会えたんだよ。それで全てを帳消しにできない?」
「余り有るよ。親方にも会えたし、おばちゃん達にもね。俺、人生の大切な人たちをいっぺんに抱え込んじゃった感じがする」
「抱え込んだ? 随分と小生意気な言い方だね」
彼女が苦笑している。
「出会いってさ、人を変えるよな……」善幸は笑みを見せた。
「人生も変わって行くかもしれないよ。それも、いい方向に……」彼女はにこやかな顔になった。
「そうだといいけどな」
二人は、その願いを込めて夜景のまだ掛からぬ橋を見つめた。
「寒い?」善幸が訊いた。
「寒くない……」彼女が強がりを言った。
美乃里は、掌をまた善幸の拳に重ねてきた。きっと彼の体温を遠慮無く奪いたいと思ったのだろう。
善幸は気になっていた。果たして〝マリモ〟がこの後登場するのかどうか、それともう一つ、倉庫の鍵の件……。 (つづく)




