―【港の見える丘公園】の静寂と光彩 ―
第二十三話
―【港の見える丘公園】の静寂と光彩 ―
二人は、駅で取ってきたパンフレットの地図で『港の見える丘公園』へ行く道順を追っている。周辺の建物内部の煌々とした灯りが、すっかり陽が沈んだことを知らせてくれていた。
角地にある洋館の前で立ち止まった。見ると、ステンドグラスを嵌め込んだドアの奥の方から白熱灯がぼんやりと灯っている。外国人でも住んでいるのだろうか。情趣が感じられる。その左手には、自転車では登れそうにない坂が続いていた。
「この坂を登ったところじゃないかなあ」
彼女が、パンフで確認していた。
「そうみたいね。でも、結構距離がありそうだね……」
二人は曲がりくねったその坂を登って行った。
登り切ったところの交差点には【港の見える丘公園前】という表示板があった。角にぽつんと交番があるが、お巡りさんは留守のようだ。この小高い丘の上には、日が暮れたばかりだというのに真夜中の静けさが感じられた。
暗がりの右手の方から洒落たバッグを肩に掛けた女子大生風の二人が歩いてくる。その後ろにまた四、五人続いていた。
近くに女子大でもあるのだろう。草の絡まるチャペルでお祈りを捧げた帰りなのだろうか。そんなイメージを抱かせる街角の風景だった。
「大丈夫か? 坂道が続いてたけど」
善幸は、彼女の荒い息遣いが気になった。
「このくらいへっちゃらだよ、重病人じゃないんだから」
美乃里は、呼吸を整えてから「でもさ、『港の見える丘公園』っていうくらいなんだから、標高がある程度高くなきゃ港は見えないんじゃないの?」と訊いてきた。
「そうだよな。海抜ゼロから登ってきたようなもんだから。ゆっくり歩いて二十分くらいじゃ、大した丘じゃなさそうだな」
突然、美乃里が善幸の腕を掴んた。そうだった、手を引っ張るとか身体を支えるとかすれば少しは楽に歩けたのだ。
「もう少しゆっくり歩けばよかったね……」
左側に何とも洒落た建物が気になった。その案内板を見ると『山手ローズテラス』と書かれてあった。案内の中にはウェディングというカタカナ文字。ここは結婚式場も兼ねているらしい。美乃里はこの案内板に気づいていないようだ。それよりなにより、善幸が“はっと”したこととは……。
矢印があった。この四階建ての建物に沿って、港の方向へ行けば夜景を眺められる場所に出られるはずだ。
進んで行くと、視界が開けてきた。二十台ぐらい駐車できる広場の先に、上りの階段が五、六段見える。人の気配は感じられなかった。夜景を見るのにはいい時間帯だというのに、寒さが敬遠させているのかもしれない。二人は近づいて行った。
階段を上っていくと、気配があるような無いような……。目を凝らしてみた。暗闇に寄り添って座っているシルエットを発見した。
そこは内側に湾曲している見晴らし台だった。見物人のために雨除けが設置されている。その雨除けを支えている柱に据え付けのベンチが設けられていた。端っこの方のベンチから埋まって行くようで、真ん中のベンチだけが空いていた。この時間帯、それらを利用するのはカップル以外考えられない。
二人は周りを気にしながら、無言のうちにそこへ腰を下ろした。
「大して登って来てないのにさ、この夜景が見えるとはねえ……」
善幸は、眼前の夜景を右から左へ、また右へとゆっくり目線を移動させていく。
「吃驚だね。来てよかったよ。おばちゃんに感謝しないと。勿論、善くんにも……」
「おまえって、贅沢と感謝には敏感に反応するよな。良いことだけどさ」
吐く息が煙のようだ。
「灯りって個性的だと思わない? 色彩豊かだよね。ずっと見ていられるような気がする」
「俺、夜景なんて見た記憶が無いよ。見てもなんとも思わないし。おばちゃんが行ってみたらって言わなかったら来なかったな」
善幸は、山下公園を歩いている時に、美乃里が“何から話そう”と言ったことが気になっていた。寒いがそれを聞くには絶好の場所だった。
「おまえさ、俺に話したいことがあるんじゃないの?」
横を向くと、美乃里は夜景をぼんやりと見ている。
「あそこ見て、ほらっ、海の上に高く立ってる煙突みたいなものが何本かあるでしょ?」
「なんだろうな、あれ。でも、それがどうしたの?」
暗くて判別し難いが、てっぺんに明かりが点滅していた。
「あれね、橋を造っているんだよ。うちのお父さんが、今横浜港に大きな橋を掛けてるって言ってた」
「ふ~ん。おまえのお父さんって、橋を造ってるの?」
「うちのお父さんはね、橋梁の会社で働いてるの」
キョウリョウって何? と思ったが、今はお父さんの話なんかどうでもいい。善幸は、どうしてお母さんが居なくなったのかを早く知りたかった。
そう思いながらも、「じゃあさ、お父さんって今あの橋を造ってるの?」と話を合わせてしまった。さっき振り向きざまにパンチを喰らったような衝撃のある心臓病の話は聞いたのだから、後はお母さんが居なくなった話を聞けば気掛かりはなくなるわけだ。しかし、それは込み入った話であることが予想された。早く聞いて、とっとと親方の弟子の四川料理の店へ移動した方がよさそうだ。寒いところで長いことベンチに腰掛けているのは心臓に悪いに決まっている。
「お父さん、この橋には関係してないの。今ね、栃木県の龍王峡というところで泊まり込んで橋の改修工事をやってる。お父さんの仕事って、普通のサラリーマンと違って一、二箇月間泊まり込みで仕事をすることもあるんだよ。大規模な橋の仕事だと、半年以上同じ現場ってこともあった。そういう時には、最低一月に一回は帰ってくるんだけどね。帰ってきた時は、『久しぶりっ!』て言っちゃうんだあ」
軽妙な口振りから、お父さんとは上手くいってそうだ。
「あたし、料理は下手なんだけどさ、帰ってきたら、お父さんの好きなものを作ってあげてたんだよ。親方のところでバイトするようになってからはね、おばちゃんが、『お父さん、今度いつ帰ってくるの?』って訊いてきて、その日に合わせて余ったもの以外にも色々と持たせてくれるの。多分、親方もね、あたしに持っていかせようと作ってくれてるんだと思う。それを、おばちゃんが渡してくれるんだよ。でも、ありがとうございます、とか、すみません、なんてお礼の言葉はよそよそしいからあたしは言わないの。ただ、お父さんが食べながら『やっぱプロの味だなあ。この鯖の味噌煮は煮込んでる味噌だけで飯が何杯でも食える。現場の作業員たちにも食わせてやりたいよ』そう褒めていたことなんかは話すけど。それで十分お父さんとあたしの気持ちは伝わってると思う。あたしと親方ってね、感性の波長が合うみたい」
「バカ言ってんじゃねーよ、生まれてきた年代が違い過ぎだろっ」
お父さんの話も親方の話もそれくらいでいいんじゃないか? 次はお母さんの話だよな、と思いきや、
「あたしね、お父さんにとても感謝してるの」と妙なことを言いはじめた。
身内でもない親方やおばちゃんには「お礼の言葉はよそよそしいから言わない」なんて言っておきながら、お父さんに感謝している? 意味不明で理解することは出来ないけれど、彼女の話し振りから察すると何かあるのだろう。
「善くん、あたしのお母さんって、中二の時に居なくなったの……知ってた?」
「ああ、おばちゃんから聞いたよ。どうしてなの?」
善幸は、然りげ無く訊くことができた。いよいよ核心に触れようとしている。辺りの静けさと裏腹にドキドキ感が増してきた。俯き、耳を澄ました。
「……お母さんが居なくなったのは中二の夏。それも突然居なくなったんだよ。家にはお父さんとあたしだけになってしまったの。居なくなった当時、出張から帰って来たお父さんと二人で夕飯を食べてる時って、会話もなくテレビを見てるんだけど、とても気不味かった……。お母さんを恨んだよ。お笑いの番組を見てても画面をじっと睨んでたっけ……。来年高校受験だというのに、どうしてこの時期に居なくなったのか信じられなかった。連れ子で結婚しておきながら、義理の父親のところにおきっぱなしで、自分だけ出て行くなんて考えられる? もし、あたしが小学生だったとしたら、同じことをしたのかって〝あの人〟に訊いてみたいよっ」
「おーおっと、ちょっと待った、突然何を言い出すんだよ。おまえのお父さんって、本当のお父さんじゃないってこと?」
美乃里は、ドキッとさせるようなことをサラッと言いやがった。(義理のお父さんと中二の時からずっと一緒に暮らしているって? そんなことあり得ないだろ)善幸は、母親が出て行った理由以上に不可解なことが飛び出してきたことに居た堪れなくなった。
「何かの序でじゃないと、こんな話なんかできないんだよ……」
確かにそうとも思った。善幸は、彼女の高ぶる感情を抑えようと、
「母親が幼い子供をおいて出て行くかよ、そんなことはしないって……」力無くそう言ってみた。
山下公園での心臓病の話から、複雑な内情をドラマの如く展開していく美乃里。その言い振りは、感情の起伏に富んだ語り部のようだ。「善くん、怒らないでね。これ、全部作り話なの」そう言って、辺りの〝親密な周辺〟など気にせず、煌めく横浜港の夜景に向って笑い飛ばしてほしかった。
美乃里は、母親が出て行った理由を、これから話そうとしている。だが、なかなか話そうとしない。待っていたけれど肩透かしを食らった。
「でもね、お母さんのお陰で、お父さんは人格者だってことがわかったの。お母さんは、それを分かっていたから出て行ったんだよ、きっと……」
「人格者? 大袈裟な気もするけど。でも、俺、この話の展開について行けるかなぁ……」
これは、ドラマの筋書きなどではないのだ。多感な時期の娘を、義父のところに置き去りにし、母親が失踪してしまった。そこにどんな理由があったとしても、これはまかり通る話ではない。当時、彼女がどんな心境で生活してきたのか、その話を黙々と聞いてあげなければならない。ただ、彼女が言った〝お母さんは、それを分かっていたから出て行ったんだよ〟って、話を省略し過ぎじゃないか? 一旦態と核心を宙に浮かしたかのような気がしてならなかった。
「もうあたしの頭の中では整理がついたことなの。だから、この話を善くんが聞いても悩ませることはないから」
「悩まされても一向にかまわないよ。そんなこと気にすんなって」
美乃里は、夜景から善幸の顔へ目を向けた。そのままじっと見つめている。もしかしたら、この話をするのはやめておこうかと考えているようにも思えた。
善幸は夜景に目をやった――。
美乃里が話し出した。
「あたしね、お父さんが高校受験を心配してくれてたってこと、当時は分からなかったの。どこの高校を受験するのかを決めるのに、中三になると学校で親を交えて面談ってするよね。お母さんはいないし、お父さんも行けないから先生とあたしだけだった。お父さんに相談しても分からないだろうしさ。最終的にあたし一人で受験校を決めたんだよ」
「そう……」
善幸は、義理のお父さんに、直接訊いてみたくなった。実の娘をおいて出て行った母親であり、自分の妻である〝女の人〟のことを今どう思っているのかを。とても興味深く思えたからだ。
「お父さんね、年末になってあたしに訊いてきたんだよ『どこ受けるんだ? 受かりそうか? 滑り止めはたくさん受けとけよ』って。今思えば、娘の受験を本人だけに任せっぱなしにしてていいのだろうかと思ったんじゃない。それにしても遅すぎるよね。心配しているのなら十月頃に訊かなきゃ。タイミングを逃しちゃったのかな。一度逃すと、今度現場から帰ってくるのは半月後か一箇月後だもんね。気を使って買ってくるお土産も、あたし一人しかいないのにいっぱい買ってくるんだよ。それでさあ、どうでもいいお土産の説明をはじめるの。受験のことを訊きたいくせにさ……。かなり心配してたみたい。あたし、それに気づいてあげられなかった。あたしの立場って、極力お父さんの厄介者にならないように、ひっそりと暮らすことなんだと思ってたから。だから、中学を卒業したら働かなきゃいけない、働かなきゃいけないんだって無理やり思い込もうとしてたんだよ。あたしだって、高校ぐらい行きたいじゃない……」
「そりゃそうだろっ」共感していることを強く示した。
「でもね、お父さんってさ、出張に行く度に、封筒に〝参考書代〟って書いて、あたしの机の上に置いて行くんだよ。それ、十一月の半ば頃からだったかな、仕事場で受験生をもつ職人さんからアドバイスでも受けたんじゃないかな。突如そんなことをはじめたからさ。最初は、今頃何のつもり? と思った。今から参考書を買ってやりはじめるなんて遅すぎるでしょ。でも、あたし嬉しかった。高校に受かった時も、封筒に〝入学祝い〟って書かれた封筒が机の上に置いてあったんだよ。あたしの知らないうちに置いて、朝早く家を出て現場へ向ったんだね。それ開けた時、ええっ、五万円も! って声出しちゃったよ。高校に入ってからもね、決まった生活費の他に出張に行く毎に参考書代って書かれた封筒が机の上に置いてあるの。当時は、お小遣いのつもりなのかなと思った。でもね、後から聞いたんだけど、お父さん、あたしに大学へ行って欲しかったんだって。だから書いてある通り、大学受験のための参考書代だったんだね。高校生だからさ、洋服代とか友だちとの付き合いで全部使っちゃったけど」彼女はケロッとした顔を覗かせた。
「それはダメだろ」
「だよね、でも結果的にそれで良かったと思う。今考えると、言葉を交わさないお金の入った封筒だけの受け渡しが、却って誤解を深めない役割りを果たしてたんじゃないかって思うんだあ、あたしの勝手な解釈だけどさ。そのお陰で、目には見えない縛られてた紐が、パラっと解けたかのように気が楽になったんだよ……」
それは当人同士でないとわからない心情なのだろう。
「お母さんが家を出て行った後、お父さんはあたしのことを(厄介者だけどコイツを何とかしてやらないと可愛そう)そんなふうに考えているんだと思ってた。お金をあたしに放っているような感じを受けたの。それって、とんだ勘違いだったんだよね……」
美乃里と義理のお父さんとの関係かあ……話の流れは分かるけど、そこに双方の気持ちの齟齬を含むやり取りを加えると理解するのは難しい。善幸は、眼下に広がる夜景に、灌木に邪魔されて見づらい氷川丸の様子を窺っている。
「お父さんって……」美乃里が言った。
話のテーマは、一向にお父さんから振れない。善幸は、お父さんのことを話し続けることに違和感さえ覚えた。
「何も言わずお金を置いていくだけの人だから、その裏腹な〝想い〟をあたしが理解して受け止めてあげないと気の毒だったんだ。あたしは、お父さんを理解するのに時間を掛け過ぎたの。その分、お父さんを苦しめてしまったんだね。でも、お父さんに、あの時はごめんね、なんて謝らないから。あたしは、具体的な感謝で返す。そっちの方が解りやすいと思うから。これ、あたしのやり方なんだよ。謝るってね、責任逃れのようなもの。ただ相手の許しを請うってことでしょ? 違う?」
「そうなのかもなあ……」
善幸は、同意を求められても、意味合いがピンとこなかった。
「相手が許してくれさえすれば、シメシメって、腹の中でそう思っているんじゃないの? そんなこす狡い人って許せない。そういう人は、あたし、嫌いだから! できるだけ自分で何とかしなきゃいけないんだよ、善くんっ」
おい、何で俺で締め括るの? と不快感を抱いた善幸は、
「おまえが言うと、孤独感が漂うな……」と言ってしまった。
この蹴散らすような一言がいけなかったのかもしれない。
「今、あたしが話してたこと、聞いてくれてた?」
彼女は、善幸を睨んでいる。
「勿論!」
またもや軽はずみに言ってしまった。これもいけなかった。
「善くんって、どういう人だったっけ……。今日の善くん、働いている時とは別人のよう……。あたしの全部を理解してくれとは言わないけど、ある程度考え方とか、価値感って同じじゃないと上手く付き合っていけないと思うんだけど、どう思う?」
含みのある言葉であっても、掛ける相手が表面的で心無いものであればすぐに色褪せてしまう。それに、じっと見つめられながら話していると、嘘ってバレてしまうもの。その程度のことは善幸でも分かっていた。
善幸が答えないでいると、
「善くんに真剣味がないことがわかったよ。あたしじゃない人の方がいいみたいね……」
「そんなに急ぐなって。おまえさ、仕事している時の俺しか見てないじゃん。それって、一面しか見てないってことだよ。真面目そうに見えた? 俺」
「見えたよ、違うの?」
「真面目がいいんだ。残念だったな、俺はそんな詰まらない奴じゃないの。カッコつけたがりの世の男どもとは違うのさ。一度、真面目に仕事しているふうの男の日常ってもんを覗いてみた方がいいんじゃないのか?」
ここは自分の立場を嵩上げしておく必要があった。
「どんな日常なの?」怪訝そうな顔つきで訊いてきた。
「おまえじゃ到底想像することの出来ない日常さ。そんなんじゃ、他の男に騙されるぞお~。真面目な女の子ほど騙されやすいって言うだろ?」
「勿体ぶらなくていいから」
「以前、務めてた会社にも仕事振りは真面目だけど、実はその正体ってさ……。あぶねーんだよおーっ、頭の中じゃ何考えてんのか分からない。何かにつけ病的なほど根に持つ嫌な奴だったりさ。家に帰ると、それが露わになったりしてな。ああ、奥さんが可哀想だ。人間ってさ、人に見られている時と見られてない時って違うものなんだよ、男も女も……。で、おまえは、どうなんだ?」逆に訊いてみた。
「真面目って、色々あってさ、だから……」
「いいからいいから。おまえがそうであったとしても、俺はなんとも思わないし、愕きもしない。人間なんて、所詮そんなもんさ」
見ると、彼女は浮かない顔をしている。善幸は、憂いを一つでも取り除いてやろうと言葉を継いだ。
「あれれ、馬鹿だなあ、そんなことで悩む必要はないって。おまえが誤った道に進まないよう俺が見守っててやるから大丈夫だよ」
そう言ってしまった後、嵩上げし過ぎた感が否めなかった。
「なんか、ペテン師のようにも聞こる……」
美乃里は、斑のない夜空を見上げた。
風は何処にいるのだろう。善幸は動かない別な夜景を見ていた。どうやら、この丘は動くもの全てが目障りだと言っているかのように思われた。水平方向には、一等星のように見える警告灯。静けさが夜景の透明度を高めている。
漫ろにあたった冷気が口許を引き締めた。善幸は、寂たるこのエリアを見渡し、辺りに潜んでいる“動物”の息づかいを確認した。
左隣のベンチには、身体を寄せ合っている大学生らしきカップルがいる。二人は、まったり状態で、夜景を眺める暇もなさそうだ。自分たちの世界にどっぷりと浸かっていた。しかし、自分たちの話し声は絶対に聞こえているはずだ。言い合いをしているこっちの様子を窺いながら、尚以って体をくねらせ擦りつけ合っているお隣さんはとても温かそうに見えた。
善幸は首を回し、今度は右隣のベンチを確認する。なるほど……。耳は立てても目を逸らしている静寂も、この寒さを凌ぐ術を心得ているようだった。
善幸は、左右の“静寂”にベールを下ろした。
突如、湾から聞こえて来た固有の初期微動……ドックン、ドックン。山下公園の向こう側にあるはずの観覧車を、急斜面の岩肌から屹立する雑木林が阻む。多分、観覧車から“こんもりと盛り上がった湾”に光彩を放っているのだろう。湾に映るそれは躍動し色を変えて行く――。
幾通りもの光彩を眺めているうちに、善幸は、真っ赤な無数の筋が湾に差し込む瞬間を見てしまった。大河に合流する支流のようだ。“ドックン、ドックンの耳鳴り”が高鳴ってきた。それは、この丘を離れた後も、きっと止むこと無く聞こえてくるに違いない。
美乃里が静寂を破った。
「ねえ、善くん……」
「なに?」
お母さんの話をしてくれるのだろうか。
善幸は、彼女が二人の間に置かれている二つのバッグを退かした。
「なんか寒い……」彼女は身を屈めた。
「寒いなら、俺にくっつけよ」
カップルだとしたら不自然な隙間だった。そもそもカップルなら間にバッグなど挟まないだろう。それも二つもだ。
「あたし、寒くて動けない」
「仕方ねーな、俺の体温をあげるかぁ……」
何とも、尻上がりの気の抜けたような声音だった。善幸は腰を浮かし、彼女にピッタリとくっついた。冷えたベンチからお尻に寒さが伝わってくる。早くそれを温めようと足を小刻みに動かす。互いのデニムが擦れる音……。間違いなく、振動と温もりが彼女の腰に伝搬している……。いやらしく体を押し付け合っていると思われても仕方がない光景だった。
美乃里が、目色を潤ませ言ってきた。
「善くんの手、冷たくない?」彼女は、善幸の拳を見ている。
と、袖口からニョキッと手を出し、太腿の上にのせている善幸の拳に被せてきた。
「冷たいのはおまえの手の方だよ。何でこんなに冷たいの?」
善幸は、湿気を含ませた大袈裟な息遣いでそう言って、両手で彼女の手を包んだ。
「これって、善くんの体温をあたしが奪ってるんだね」
寒さで赤く染まった頬を、彼女は肩にのっけてきた。
「どうぞお、好きなだけ奪ってくれよ……」 (つづく)




