―【ぱっちんマリモショー】と【サタディーナイトフィーバー】の行方 ―
第二十一話
―【ぱっちんマリモショー】と【サタディーナイトフィーバー】の行方 ―
この辺りには、婦人服や雑貨を扱っている店がほとんどで飲食店が見当たらなかった。なので二人は突き当りまで来ると、もう一本向こう側の通りから戻る恰好で店を探すことにした。善幸を当てにせず、彼女は一歩先を歩きはじめた。
「あのさ、問題のマリモの大きさなんだけど、五本の指で包み込める大きさじゃなきゃね。女の子に気づかれないように、そおっとそれを掴んだらヒュッと引っ張る、女の子がお尻に違和感を覚えるよね、振り向く前にすかさずそれを離すんだ、パチンッ。それからの強制でない驚きのキャーッ。このリアルな成り行き、こーれなんだよねえ~、わかりますか?」
「ダラダラと長話してるけどさ、この話って、男同士で話しているのなら盛り上がるのかもしれないけど、女の子相手に話す内容じゃないと思うよ、善くん」
「ごもっともなご意見ありがとうございます。でも、これで終わりじゃないんだ」
「ええっ? この話の続きがまだあるの?」
「あった棒よ、最後まで話を聞かなきゃ本質が理解できないだろ? 詰まらない、くだらない話だったで終わらせたくないんだよ、俺は。だから、わからないことがあったら途中でもいいから遠慮なく質問してくれよ」
呆れているのだろう。彼女の返事はなかった。
これ以上、この話をするのはやめておこうかとも思った。が、その店での印象深い出会いを、彼女はどう反応するのかを知りたかったのだ。興味の無い話をし続けるのは気が引けるけれど、彼女ならこのまま聞いてくれそうな気がした。
――ミラーボールがクルクルと回っている店内の暗闇から、あるフロアレディの人影が迫り来る。
「それでね、聞いてくれてる?」
善幸としては、判断のしようが無かった。
「聞いてるよ、最後まで聞いてあげるから心配しないで」
この時、彼女に対しこれまでとは違った親しみを覚えた。
「ある日、店に行ってね、一人ボックス席で辺りのバニーガールの姿を見ていたら、俺のところに女の子が来たんだ。『はじめまして、ローズでーす』って挨拶してきてさ。『はじめてですか?』って訊くから、『先週の土曜日に来たよ』って言ったら、立ったまま背を向けてお尻を突き出したんだ。なぜだかわかる?」
「マリモを引っ張れって? それよりローズって名前、陰気臭いというか重苦しいというか、笑えるね」
美乃里は、話が詰まらなくても、付き合ってくれようとしていた。
「確かに。俺もそんなイメージをもったよ。店内の暗さで、薔薇そのもののイメージがズシンッと重たく感じることに加え、血が固まる直前の色を連想しちゃうからね。薔薇ってさ、昼間見るのと夜見るのとでは印象が違い過ぎる。それに、彼女が『タンポポでーす』なんて言ったらお客さんが怒っちゃうよ。だってさ、とっくに通過してしまった三十路を気にしないマダムって感じだったから。ローズで正解なんじゃないか? タンポポは二十歳前後だろ。他の女の子は皆二十前後だったな。歳喰ってんのは彼女一人だけだった」
「分かり易いけど、言い方に遠慮がないね、善くんは……」
「おお、俺って正直だからな。またさぁー、頭に付けてるウサちゃんの耳が似合ってないのも気になった。自分でもわかっているみたいだったけど。でも、恥ずかしい表情なんてこれっぽっちも見せてなかったんだ。堂々としてたね、彼女。その後ろ姿は、バンッと張り出している腰骨に両手を掛けて、左足に全体重をのせ右足は爪先立ててた。男に裏切られてきた疲れからなのかしらんけどさ、切なさを感じたなあ……。意外にも、お尻に喰い込んでいる黒のハイレグ姿が凄くカッコ良かった。その裏腹なところが、俺は何とも色っぽく感じたよ」
「彼女、後ろ向いてお尻を突き出してるんでしょ? 早く引っ張ってあげないと」
「そーこなんだよ、今考えれば思いやりが必要なところだったな。でも、俺、ずっとその尻をみてたんだ。そしたら、引っ張らないんだと思って、彼女、座っちゃってさ」
もうマリモ遊びに飽きたの? と彼女が訊いてきたので、
「どうかなあ……。飽きたというより、もっと興味をそそるものと出逢えた? そんな感じかな」
「はあ? それって何?」
彼女がローズに興味を持ちはじめたのではないかと思ったようだ。しかし、それには答えず、善幸は話しを進めていった。
「で、俺ね、そのあと店に四、五回通ったんだ。毎回ローズを指名したんだよ。彼女ね、俺の隣りに座ってるのが一番いいって。それに、『あんたって、良い人だ』って言われたんだぜ」
「お客さん皆に言ってるんじゃないの?」
「そうかもな。でも、嬉しく感じたよ。ある日ね、彼女から言われたんだ『駅前のマイアミで待っててって。店が終わったら行くから』ってさ」
「ええっ、それで、善くんは待ってたの? マイアミってもしかして……」
ラブホテルと間違えてるようだ。
「純喫茶だよ。でも、深夜二時まで待ってても彼女は来なかった。俺、お金使い果たしてたからタクシーじゃ帰れなくてさ、始発電車で帰ったんだ。来なかった理由を知りたくて、数日後店に行ってみたら彼女は辞めてた」
「なに、その女っ!」
美乃里は、踵をゴンッゴンッと床タイルにぶつけるようにして歩いている。
「俺の記憶に残っているのは、彼女と他愛もない話をしていると、いつの間にか時間が過ぎ去ってた、そこかなあ……」
「それが彼女の商売なんじゃない、違う? 頭叩いてあげようか?」
「俺ね、ローズは今でもどっかの店で、あの腰を振ってそうな気がするんだ」
善幸の歩くスピードが遅くなった。
「もういいよ、善くん。詰まらない話でもなかったし、くだらない話でもなかった、とは思うからさ」
と言って、彼女は、突然目の前の店へ入っていった。
「あれ、そこは蕎麦屋だよ」
善幸は呼び止めた。確か、美乃里はパスタが食べたいと言ってたのに、どうしたというのか。不可解に思いながら善幸も店内へ入っていった。
サラリーマンのお昼時のピークは過ぎていた。店員は、客が来たことに気づかないようだ。二人は、中ほどの四人掛けの席に座った。
「蕎麦でいいの?」
善幸は、お品書きを手にしている彼女に尋ねた。
「お腹が空いてるからなんでもいいんだよ」ぶっきら棒な言い方だった。
美乃里は大した迷いもせず、蕎麦が一口分ずつ盛られた大きめの四角い笊と、天ぷらの盛合せがセットになっているものを選んだ。(えっ、天ぷらかよ)と善幸は思ってしまった。店の賄いで、天ぷらととんかつを合わせれば、週に三回は出てくるからだ。
しかし、善幸は、何も言わず店員を呼んだ。
「へぎ蕎麦天セットに、カツ丼とカレー南蛮とぉ……」
「善くん、いいよ、三つで。それでお願いします」
店員は注文を繰り返した。
「ホントにここでよかったの? イタリアンの店に行きたかったんじゃなかったっけ?」
「いいの、急にお蕎麦が食べたくなったの」
美乃里は、身体を小刻みに揺らしながら、店内を見回している。
彼女が訊いてきた。「でも、カレー南蛮は時間をずらして頼んでもよかったんじゃない?」
「どうして?」
「冷めちゃうじゃない。先に二つ頼んでおいて、ある程度食べてから注文した方が、温かいのが食べられるでしょ? 冬なんだしさ、そのくらいのこと気づいてよ。料理人なんだから。それとも〝変な店〟の店長にでもなるつもり?」
本来、それは店員が気を使い「どれか一つ後からお持ちしましょうか?」と客に尋ねるのが筋。しかし、そこまで気を遣って接客する店などなかなか無い。おまけに、女店員はアルバイトではないかと思われた。間違いなく、注文した三つは同時に運んでくるだろう。今回に限って言えば、善幸はそれでいいと思っている。彼女は味覚の活かし方を知らないな、と思いながらも、そのことには触れないでいた。
「ほんでさ、客が店に入ってくると椅子に座らせるだろ、そのあと最初にバニーガールがすることとしてお尻を突き出すわけだけど、それは何故だかわかる?」
「善くん、しつこいよっ!」
「じゃあ、やめようか?」
話すことと言えば、善幸には、他に仕事のことぐらいしかなかった。
「もしかして、またローズが出てくるんでしょ?」
「わからない。俺の話って、自分でも先が読めないんだ。でも、俺がこんなに話すことなんてなかったろ? 賄いを一緒に食べてるときでも」
彼女は、隣の席で一人、鍋焼きうどんをふぅふぅしているが、一向に食べようとしないお爺さんを眺めていた。
「それで? 注文した物が来るまでだったら聞いてあげるよ」
「それじゃ、急がないとな。店長はさ、女の子をお客さんにつかせる時『はじめまして、何々でーす』って挨拶させた後、次の試みとして、女の子に後ろを向かせ、マリモをお客さんに引っ張らせようとするんだ。つまり、お客さんに引っぱってもらって“パチンッ”した後の、女の子のお約束の“キャーッ”、ここまではいいよね?」
「そこまではわかったよ、何度も聞かされたから。でもそれが何なの?」
「この店に来るお客さんってさ、女の子と上手く話せない男がよく来るんだろうね。店長の思惑はね、ひと騒ぎした後だと、初対面の煩わしい関係を取っ払ってくれるわけよ、それと緊張もほぐしてくれる。だから女の子との会話がスムースにいくんじゃないかって考えたんだと思う」
「ふ~ん、でっ、善くんはどうだったの?」
「善くんって、俺のこと?」
「善くんって人がさ、その店に通ってたってことは、女の子と上手く話せない男だったってことにならない?」
彼女が痛いところを突いてきた。
「俺のことはどうでもいいんだよ。その薄汚れたバッグの中に押し込んでおいてくれよっ」
そう言って、善幸は話を続けようとしたら彼女の形相が変わった。今の一言で本気で怒らせてしまったようだ。
「このバッグにはそんな物入れたくないっ!」彼女は隣の椅子に置いたバッグを膝の上にのせた。
「なにムキになってんだよ、穏やかに話そうぜ」
「そんなもの引っ張って、何が面白いの? 善くんってさ、女の人を見下してない?」」
「やっぱり、無理だったかあ……。おまえに話した俺が悪かった。悪いのはおまえじゃなくて、この俺だっ」
「女の子、嫌がらない? そんなことされて」
「アルバイトなんだから、ほとんどの女の子は仕方ないと思ってやってたんじゃないか。それに、嫌かどうかじゃないんだよ。おまえが考えているほどフロアレディって楽じゃない。それと、女の子を指導するスタッフたちもね。客を飽きさせないための企画力って、この業界ではとても大事なことなんだよ。店長が、俺が最初に起こしたマリモ事件“引っ張って離して、女の子が立ち上がってからのキャーッ”、をヒントに考えたアイデアってーのはね、お客さんが女の子と話しているとアナウンスが店内に流れるんだ、『ご来店、誠にありがとうございます! 皆様お待ちどう様でした、これから始まる【ぱっちんマリモショー】をぞうぞお楽しみ下さい!』そう声を張り上げる。すると、五、六組踊れるくらいのダンスホールの中央に、店長とスタイルの良い女の子が登場するんだ。広いホールに二人だけ。女の子は店長にお尻を向ける。店長は輝いている大理石の床に片膝をつき、左人差し指は天井をさした恰好で待機だ。その姿を見てたら、ジョン・トラボルタを思い出したな、思いっきり笑っちゃったよ」
「サタデーナイトフィーバーでしょ? 三年前だったよね、流行ったのは。あたし見に行ったよ。衝撃を受けたっけ。ドラマチックな映画だった」
「話が繋がったね、よかった。それでね、客席についている女の子も一斉に立ち上がり、お客さんにお尻を向ける。これでスタンバイオッケー。流れてきた曲はニック・ニューサの『お祭り騒ぎ』なんだけど」
「ちょっと違くない?」
「ここは日本。それも飲み屋街のおやじ達が来る店なんだよ。トラボルタのように手と足をキメながらのステップじゃ、酔っぱらい同士ぶつかっちゃうだろ。お客さんの平均年齢を考えれば、ニックニューサの曲が丁度いいと店長は判断したんじゃないか? お前、この曲知ってた? 歌詞の冒頭はね〝そんな目をして わたしを見ないで~え〟サビがね、〝冷えたベッドは 猫でもぉ~ あっためてくれるわ~あ~〟なんだけど?」
「その曲、聞いたことあるよ。テンポの良い曲だよね」
彼女は、曲付けの話にのってきたようだ。
「俺も好きな曲だよ。飲み屋街を一人で歩いてて、流れてきたりなんかしたら最高だと思うね」
「それは、男の人じゃないと分からない感性かも」
「いいから話について来いって。しっくりこない話を一方的に話し続けるのって心苦しいもんじゃん」
「でもね、善くん、聞き続けられるかどうかは相手によるんだよ」
「へえ、俺はぎりぎりセーフってこと?」
「この話ってさ、善くんの心に残っているものが何かあるんだと思う。そこに、ちょっとだけ興味が湧いたの」
「心に残っているものねえ……。そうだな、それを見つけるためにも最後まで話さないとな、俺、頑張らせてもらうよ!」
〝心に残っているもの〟もう既にしゃべってしまった。美乃里は気づいていないようだ。
「でも、心に残るものがわかった時点で話はやめていいからね。蕎麦が伸びちゃいそうだから」
彼女は、厨房の方に目を向けた。
「でさ、『お祭り騒ぎ』が流れてくると、ミラーボールが二つしか回っていなかったのが、こんなにあったのかと思うくらいクルクル回り出して、客と女の子とボーイの一体感が生まれて店内もお祭り騒ぎになるんだ。〝挨拶〟を知らないお客さんは突然のことでこの展開に驚くよね、オイラ、どうしたらいいんだあ? なんてさ。だから、初めて店に来たお客さんのために、店長がホールの真ん中で〝挨拶〟の仕方を自ら手本となってやってるんだよ。女の子のお尻についているマリモを曲に合わせてさ、せわしく、パチンッ、パチパチパッチーンッとね。でもね、あれじゃ六十代だと速くてついていけない。選曲も考えなきゃと思ったね。もう一曲用意しておいた方がいいんじゃないかな。例えば、古い曲だけど、湿っぽいスナックのママとお客さんがカラオケでよく歌う『新宿育ち』とかさ、焦らずゆっくりと『女なんてさ 女なんってさぁ 嫌いとぉ 想ってみぃても~ チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャチャチャ、ひとりでぇ~』ここまでで止めとくわ。ここ、蕎麦屋だから」
「それ知ってるよ、あたしが中学生の頃、お母さんが掃除機をかけながらよく歌ってた。『男なんてさ 男なんてさ 嫌いと言ってはみても~ 貴方の名刺を胸に抱くぅ~ チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャン、チャチャチャ、一目~惚れさあす~ にくい人ぉ~ 恋に弱いのぉ 新宿育ち~』間違ってない?」
彼女が小さな声で口ずさんだ。
「俺より歌いやがったな、『恋に弱いの~』ねえ。これ、デュエット曲だろ、おまえが歌った後に歌うと、男は調子狂っちゃって、喉にきなこ餅がひっかかった状態になるんじゃないか?」
「フロアレディ十年勤め上げて、やっと歌いこなせる曲ってこと?」
「深いねえ、言うことが……」この時ばかりは、いつもと違う美乃里の一面を垣間見た気がした。
美乃里は、先ほどから鍋焼きうどんを食べている隣のお爺さんに目を向けていた。(熱いんだから小鉢に入れて食べればいいのに……)そう言いたげな顔をしている。何も語らず、突然暗くなってしまった美乃里……。
「でもさ、ふつう子供がいるところで歌う曲じゃないよな、おまえのお母さん、もしかして水商売やってなかった?」
返事がなかった。
「うんっ? お母さんって、スナックで働いてて客とデュエットしてたら、そのまんま歌詞にのめり込んじゃって、その夜……。ほんで、おまえが、ぽろっと? なんてパターンじゃあるめーな?」この言い方は、善幸特有の、時として人の気持ちなど省みずに言ってしまう癖だった。
彼女は一点を見つめている。
「え? ええっ、おい!」
美乃里は、何も言おうとしなかった。
「当っちゃったのぉ? まさかとは思ったんだけど……。下手に冗談言えねーな。で、おまえのお母さんの名前って、まさかのまさかだけど、『サチコ』じゃねーよな?」
「…………」
「おおーっ、テナーサックスの音色が聞こえてきそうだよ、ヤッターッ!」
話を聞いていない振りをしているだけなのか、それとも彼女は『サチコ』という曲を知らないのだろうか。母親ってどういう人なのだろう。思い浮かんだイメージがローズと重なってきてしまった。
「……まだかなあ」彼女は、また厨房の方に顔を向けた。
「厚めのサツマイモと南瓜の天ぷらでも揚げてるんじゃないか。でもさあ……」
これ以上、母親のことをいじるのはやめた。だが、彼女は気にしている素振りはみせていない。母親が中二の時に居なくなった理由を善幸はまだ知らなかった。
「善くんの話を聞いてたらさ、『新宿育ち』を聞いてみたくなった」
ベースとドラムの競り合いが店外から聞こえてきそうだった。
「今度、カラオケで歌ってあげるよ。なんだったら、その後にニックニューサの『サチコ』もどう?」
「『サチコ』? それはいいよ……」彼女が苦笑いをしている。
やっと店員が〝善〟を運んできた。
「お待ちどう様でした。へぎ蕎麦天セットですねえ。直ぐに他のものも持ってきますから」
彼女は、前に置かれたへぎ蕎麦を見ている。緑色がかった喉越しの良さそうな蕎麦だ。だいぶ待ったが納得のいく〝善〟だった。
「天ぷらが揚げ立てだね、熱が伝わってくるよ」と美乃里。
「俺さ、親方のところに来てから思ったんだけど、揚げ立てじゃないと天ぷらって言わないんじゃないかと思うんだ。冷めた天ぷらと食べ比べてみると全然違うじゃん。だから別物なんだよ。夏場に解けてしまったアイスクリームをスプーンで掬って口に入れるようなもんさ」
腕を組んだ善幸をみて、美乃里が微笑んでいる。
「これ、二人前はあるね。へぎ蕎麦ってね、越後名物なんだよ」
美乃里は、壁に貼ってあるへぎ蕎麦のポスターを見ている。そこにはへぎ蕎麦の簡単な由来が書かれてあった。
「へぎ蕎麦が食べたかったの?」
「別にそういう理由じゃないけど、へぎ蕎麦は好きだよ。新潟に住んでた頃、よく食べてた。懐かしくなったの」
へぎ蕎麦のポスターは三箇所に貼ってあった。善幸にとって、由来など自分の舌を唸らせない限り関心を抱かせるものではなかった。
「どうしたの? 早く食べないとのびちゃうよ」
善幸が急かすと、彼女はポスターから目を逸らした。歪な形をしたそばつゆの徳利を摘み、
「善くんも食べてみて、のびる前に。緑っぽいのはね、〝ふのり〟が入っているからなの」
「ふのりかあ、ふのりねえ。俺、へぎ蕎麦食べるの初めてだよ」空腹感が増してきた。善幸は割り箸を取り、パチンッと割った。
美乃里は、ワサビをつゆに溶かしたそば猪口を彼に渡した。
二人は、蕎麦屋を出た後、バッグを買おうと大丸の一階を見て回っていた。シーケースに飾られた商品を見ては素通りする美乃里。と、彼女はある店の前で足を止めた。
「この店どうかなあ……」
棚に等間隔に配置されたバッグを丁寧に眺めている。バッグがダウンライトで照らされていた。大切そうに管理されているのが窺える。
二人は店の中へ入っていった。
「値段がわからないよぉ」彼女が低い声で言った。
善幸も値札を目で探してみたが見当たらない。と言うことは、
「そんなに高いの?」
(すし屋なら時価ってやつかあ? 貧乏人お断りって店のようだな)こんな文句を言葉に出しては言えないムードが店内に漂っていた。恥をかかない金額を持ってきたはずなのに不安が頭を擡げた。
「どうだろうね……」
彼女の目に留まっているものは、奥の棚に陳列してあるトートバックだった。
「見てるだけじゃ、店員も近寄ってこないのか。俺さ、今日給料袋ごと持ってきたんだ。この後行く『港の見える丘公園』ではお金は使わないだろうけど、その後行く四川料理の店では、親方は気にすることはないと言ってくれたけどさ、一応払うつもりで行かないとね。だから、十万円までのバッグだったら買えるけど?」
「そうねえ……」
「俺、ブランド物の値段なんて、どのくらいするのか知らないからさ、足りなければ来月の給料まで待てば買えるのかな、どう?」恐ろしやブランド品。
十五坪ほどの店内に二人の女性店員がいた。一人の店員が、二十歳前後の娘とその母親の接客をしている。もう一人は、コの字型のガラスケースの上でスカーフを見栄え良く折りたたんでいた。なぜか、そこの囲いから動こうとする気配が感じられない。彼女が抱えている紺色の薄汚れた帆布バックをチェックしての客対応なのだろうか。それとも、俺たちのイケてない姿恰好の所為なのか? どっちにせよ、善幸は無性に腹が立ってきた。
「あの店員、俺たちを見下してるんじゃね?」
店員に、聞こえてしまったかもしれない。
「善くん、行くよ……」
彼女は、善幸の腕を引っ張って店を出た。値段だけでも訊いておこうぜ、と言ったが、彼女は何も言わず首を何度も横に振った。 (つづく)




