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【砂利道を歩く野良犬たち】      作者: トントン03
第二章 美乃里と善幸との出会いから
16/87

―目線を逸らさないでいられる関係は“隠し事なんかない”と言い張る関係より 勝っているような気がした―

この後から、美乃里と善幸の二人の関係が深まっていく。その深まり方は美乃里の内に秘めた解決のできない悩み事が切っ掛けだった。

第十六話



 ―目線を逸らさないでいられる関係は“隠し事なんかない”と言い張る関係より

  勝っているような気がした―


 午後九時を回ろうとしていた。客足が止まったようだ。善幸は既に刻んである食材だけで間に合うだろうかと店内を覗いている。お客さんたちが帰りはじめる時間帯でもあった。 

 小上がりには、家族で食事をしている二組のお客さんがいた。「もう帰ろうよぉ、お腹いっぱいだよ~」と女の子がお父さんに言っている。お母さんがバックから財布を出そうとしていた。「よしっ、二軒目に行くか」と冗談を飛ばし、お父さんが立ち上がった。と同時に美乃里がレジへ向かった。

 会計を済ませると、美乃里は卓の上に散らばった食器類を片付けはじめた。ビール瓶とグラスを一箇所に集め、コースター、割り箸、箸置きをトレイに纏めた。まだお客さんがいる店内では、皿にある食べ残しを鍋には移せない。その方がいっぺんに運べるのだが、彼女は汚らしく見えるからやらないみたいだ。先週だったか「偶に気を利かせて皿を纏めておいてくれるお客さんを見かけるけど、飲食関係の仕事をしている人なのかな? まあ、纏められると困る場合もあるけど」そう話していたのを聞いたことがあった。お客さんの店側に対する気遣いって気持ち良いものだった。

 清水さんが、注文の料理が一段落したので、片付けを手伝うため厨房から出ていった。鍋料理を食べた後の片付けは散らかっているので手間がかかる。片付けていると、もう一組のお客さんが帰ろうとしていた。

 すぐさま「ありがとうございまーす」と美乃里が声を掛け、その卓の上を片付けはじめた。今度は清水のおばちゃんがレジへ向かった。

 店内は、男同士で飲みに来ているお客さんが二組いるだけとなった。まだまだ飲み足りないのか、それとも込み入った話をしていて時間を忘れてしまったのだろうか。帰ろうとする気配は感じられない。酒の追加はあっても、手の込んだ料理の注文は多分ないな、善幸はそう判断した。

 美乃里が皿や小鉢を積み重ねたトレイを慎重に両手で持ち、それだけではなくすき焼きの鉄鍋のつるを指に引っ掛け、こっちへ向かってくる。善幸は厨房に引っ込んだ。

 美乃里は、善幸の背後にある作業台に、運んできたものを置いた。

「あのね、善くん」と美乃里が声を掛けてきた。

 善幸が振り向く。

「さっきのお客さんがね、細魚の盛り付け方がとても綺麗だって言ってたよ」

 彼女は、嬉しそうに善幸の顔を見ている。

「さっきのお客さんって?」確認の意味で訊いてみた。

「今帰っていったお客さんだよ」

「細魚は食べてなかったんじゃないか? だって、右側のお客さんは寄せ鍋とブリのみぞれ煮と鯛のあら煮だっただろ、左側のお客さんはすき焼きと刺し身の盛り合わせで、細魚は四切れだけだぞ。他は彩りサラダだったと思うけど。【悠の膳】や細魚の刺し身の単品は注文してなかったんじゃないか?」

 善幸は、記憶していることを言っただけだった。しかし、それは間違いなかった。

 普段から、善幸は店内を時々見ている。親方から、注文伝票に記された品数を頭に入れるだけじゃなく、お客さんの食する様子も気にしながら作業を進めていけ、そう言われていたのだ。 

 昨日も、美乃里が善幸に「細魚って美味しい、それに盛りつけ方がきれいだって、お客さんが言ってたよ」と耳元で言ったので、どのお客さんだろうと客席を覗いて確認してみたが、その時はどのお客さんなのかは分からなかった。

 美乃里は、食器類を流し台に入れると、黙ったまま雑巾を持って、残りの片付けをしている清水さんのところへ行ってしまった。

 このことで、善幸は、なんかおかしいな……と、彼女に対し疑いを持ちはじめた。俺に嘘をついているんじゃないのか……。そんなはずはないと思いながらも、その思いをすぐさま打ち消すことが出来なかった。さっきの二組のお客さんは、細魚の刺し身を注文していなかったのは事実なのだから。

 作業を中断したまま、善幸の目線は彼女を追っていた。

 美乃里は座卓を拭いている。拭き終わると、四本のビール瓶をキャリアに差し込み、それを手に持って厨房へ入ってきた。善幸の目線を避けながら、後ろを通り過ぎる。彼女が流し台で洗い物をはじめた。二人は背中合わせ状態になった。

 善幸は考えた――明日、この気まずい状態で彼女と二人で飯を食いに行っても、会話もぎこちないものになり、結果、つまらない一日となってしまうのではないかと。俺のことだから、デート中、話しているうちに、今日の話題が出てきてしまい「どうなんだよっ、あれは嘘だったのか?」と彼女を問い詰めてしまうかもしれない。だったら今、親方やおばちゃんたちが居るこの場で、はっきりさせておいた方がいいのではないか? 明日は、愉しく二人で過ごしたいと善幸は思った。

 善幸が思い切って後ろを振り向き、話を切り出した。

「さっきの話なんだけどさ、細魚の注文はなかったんじゃないか?」

 彼女からすれば、終わったはずの話がぶり返したみたいで、どう応えていいのか困っている様子だった。背後からでも、彼女の顔が曇っているのが見て取れた。

 善幸は暫く黙っていた――。

 が、それでも彼女は何も言おうとしない。洗い物をし続けていた。善幸は無視されたような気がしてならなかった。

 突然、善幸が、「どうなんだよ!」と声を荒らげてしまった。それは、自分でも理解できない苛立ちだった。

 おばちゃんたちは、ゴミと空になった発泡スチロールの箱を外へ出しにいっていた。僅かに開いていた勝手口のドア。そこから善幸のがなり声が漏れてしまったようだ。小走りで、おばちゃんたちが何事かと厨房に入って来た。

「親方、何かあったの?」と、酒井のおばちゃんが訊いている。

 親方は、何も言わず、水に浸しておいた砥石を取り出すと包丁を研ぎはじめた。

 先程から、美乃里の洗い物をしていた手が止まっていた。汚れている皿を見つめているようだ。身動き一つしていない。いや、身体が僅かに震えていたのかもしれない。皿の上へ振り注ぐシャワーの音が、厨房内に五月蠅く聞こえはじめた……。


 親方は黙ったななだった。シャー、シャーとリズミカルに包丁を研いでいる。

 善幸は、責め立てるつもりなどなかったのだ。ただ、何も言おうとしない美乃里に対し、段々苛立ってしまっただけだった。

 誰も何も言わない状況がいけなかったのかもしれない。善幸は感情が抑え切れず、追い打ちを掛けるように言ってしまった。

「おまえ、昨日、お客さんから『盛り付け方が綺麗だ、高級料亭で食べてるみたいだ』って言ってきたよな、あれ、全部嘘だったんだろ?」

 言ってしまった後、思いがけない方向へ話が向かっていこうとしていることに、自分でも不安を感じた。きっと親方が何か言ってくれるに違いない、内心ではそう思っていた。

 ところが、親方は、他人事のように横で知らんぷりをしている。包丁の刃先を親指の腹で擦って研ぎ具合を確認していた。

 善幸は、もう話の決着は自分でつけるしかないと思った。

「おい、俺をからかって面白いか?」勢いから出た一言だった。 

 唖然として、その様子を見ているおばちゃんたち……。善幸の話を聞いていても原因が判然としないため、何も言えないようだ。

「何か言えよ、黙ってちゃわからないだろ!」と、善幸が更に問い詰めていく。

「どうしちゃったの? 善くんっ」

 酒井のおばちゃんの後ろにぴったりとくっ付いている清水さんが、堪らず声を掛けてきた。

 善幸は、それには応えず、彼女の後ろ姿を睨んでいた。

 突然、美乃里が動き出した。厨房の片隅に置いていた着替えが入っている紙袋に私物を詰めている。店を出ていこうとしているのだろうか……。


 酒井のおばちゃんが呼び止めた。

「美乃里ちゃん、ちょっと待って!」

 お客さんたちの視線は、横を通り過ぎていく美乃里を追っていた。酒井のおばちゃんもそこを小走りに通り過ぎ、彼女が閉めた扉をまた開けて追って行った。

「善くん、何があったの? 美乃里ちゃんと明日デートするんじゃなかったの?」清水さんが怪訝そうに訊いてきた。

 何も応えられなかった。善幸は、想定外の美乃里の行動に興奮さめやらぬ思いの中で動けないでいる。善幸は、衝動的に言ってしまったけれど、間違ったことは何も言っていないんだと思い込み、気持ちを鎮めようとしていた。

 親方は、まだ包丁を砥石に擦りつけていた。と、今度は仕上げ用の砥石を流し台の下から取り出した。研ごうとはせず、その砥石を見つめている……。

 沈黙が流れる中、親方は一旦視線を高く持ち上げると、徐ろに厨房から客席へ出て行った。そのスピードからして、美乃里を追い駈けるわけではなさそうだ。善幸は、親方の咄嗟の行動が気に掛かった。

 親方の向かった先は入り口にあるレジ台だった。レジ台に置いてある電話をとって、何も見ずにプッシュボタンを押している。美乃里の家? でも、まだ帰っているはずはない。休み明けの仕入れのことで業者へ電話でもしているのだろうか。魚と肉の質が悪すぎて気になるときだけ、業者に直接電話を掛け、文句を言っているのを聞いたことはあるが、それ以外、親方が電話をしている姿なんて見たことがない。通常、仕入れに関しては、親方が口頭で酒井のおばちゃんに伝え、業者に電話を掛けていた。だから、こんな時間に電話をするのは変だなと感じた。それに厨房にも電話はあるのだ。

 酒井のおばちゃんが戻ってきた。息を切らせている。

「追いついたんだけどさ、何も話してくれなかった。美乃里ちゃん、自転車置いて走って行っちゃったよ。涙を流してたんじゃないかな……」

「そう……」清水さんは善幸の顔をじっと見ている。

 善幸は、それを無視するかのように片付けをはじめた。

 親方が電話をかけ終えて、厨房に入ってくるや否や、

「善幸、ここ片付けたら美乃里の家へ行って謝ってこい」ぼそっと、そう言った。

「どうしてですかっ」と善幸は抗った。

 いきなり「謝ってこい」と言われても、間違ったことなど何も言っていない。そんな親方の突然の言い付けに釈然としなかった。おばちゃんたちは、片付けをしながら事の成り行きを見守ろうとしていた。

「おまえは、これまで嘘を吐いたことはないのか?」

「ええっ?」

 えらいところから話を切り出してきたな、何を言われるのだろう。親方が事の成り行きを黙って聞いていただけに、善幸の鼓動が早まった。だが、何か応えなければならない。

 そこで、「吐きまくりでしたけど。でも、今回の場合は違うじゃないですか」と反論してみた。

「どう違うんだ?」

 そう訊かれると答えることができなかった。(間違ったことは言っていない)とも言えなかった。

「善幸よお、相手のことを想って吐いた嘘は許してやらなきゃダメなんだよ。気持ちを汲んでやらんとな。そもそも美乃里の吐いた嘘は腹を立てるようなことじゃない。それどころか、結果的におまえに不快な思いをさせたとしても、それは感謝すべき嘘なんだ。そう思わなけりゃいけないんだよ。嘘にもよ、色々あって悪いものばかりじゃない。兎も角、先ずそれを見極められるようにならんとな。感情を露わにする前に、縺れた互いの心情を一旦遠ざかって顧みることが必要なんだ。それを身に付ければ、なんか知らんが、自分が興奮状態に陥った時でも、握っているこぶしの力がスーッと抜けていってしまうものなんだよ。その後に現れるのが素直な自分だ。その賢い自分が現れて、詰まらんものを次々と削ぎ落としてってくれる。場合によっては、人間関係の根深い問題なんかも、いとも簡単に解決してくれることだってあるかもしれんぞ。ただ注意しろよ、時間が経ってからじゃ手遅れになる場合があるから。人間の感情ってな、時間の経過と共に色も形も大きさも変わっていくものなんだ。カメレオンとアメーバとナメクジみたいなものか? アッハァー、気持ち悪くて触れねーな。だからよ、先ず、テメエの懐に居座っちまった乱暴者の扱い方に慣れておく必要があるってことだ。ほら、前の……」と言って、指で壁をさした。指している方向は道路を渡った煌々と電気の付いている店だろうか。

 酒井のおばちゃんは、親方との付き合いが長いだけに直ぐに分かったみたいだ。

「サトシ君かい? 怒られるよ、旦那と奥さんに!」

 それを聞いて清水さんが笑った。

「おお、判ってくれたかい」

 親方は、嬉しそうな表情を浮かべた。

 サトシのことはさて置き、「相手のことを想って吐いた嘘は許してやらなきゃダメだ。美乃里の吐いた嘘は腹を立てることじゃない」ってところまでは分かったが、その後の親方の説得力の有り気な話が、今一つ朧気にしか分からなかった。善幸は、置いてけぼりを喰らった感が拭えなかった。やおら、親方の緩んでいた顔が締まった。

「お恥ずかしい話だが、それに関しては、この俺もまだ修行の身でな」そう言うと、親方は、おばちゃんたちに情けなさそうな顔を向けた後、微かな笑みをみせた。

「それとな、きのうからの美乃里の振る舞いを“そう”考えられるのなら、もしかしたら……もしかしたらだぞ、おまえたち二人の間に幸せが挨拶もなしに上がり込んで棲みついちゃうかもしれんなあ~」

 おばちゃん二人が善幸に近寄った。

「善くん、明日デートなんだからさ、親方の言う通り、美乃里ちゃんのところへ今から行って謝ってきなよ、ね?」

 善幸は素直に頷いた。

「良い嘘を吐いてくれる人なんて、なかなかいないぞ。美乃里は良い子だ。いつかおまえが悩み苦しんでいる時、きっと心強い味方になって支えてくれるはずだ。善幸、そんな美乃里を大切にしてやれ」

 親方は、二人の架け橋になってくれている。それだけじゃない、保護者も兼ねているようにも思えてしまった。


 善幸は、大急ぎで片付けを済ませると、最後にコールドテーブルの上にまな板をドンッと立て掛けた。良し、美乃里のところへ行こう! 気合いが入った。

 客席を覗くと、ほろ酔い気分のさっきの常連客がまだ残っていた。

「善くん、早く行きな、おばちゃんが美乃里ちゃんに電話しておいてあげるからさ。〝思いやりから出た良い嘘〟なんてこともあるんだね、面白いねえー」

 酒井のおばちゃんが言ったこの一言は的確だと思った。

 清水さんは、昨日からの〝二人のやり取り〟が関係していたので、美乃里との不穏な空気の理由が理解しづらかったようだ。

「うちのお父さんね、よみうりランドに勤めてるんだけど、ディズニーランドのパスポートも手に入るみたいだから、今度持ってきてあげるね。次のデートの時にでも行っておいでよ」清水さんの心遣いも善幸の心に響いた。


 美乃里が店を飛び出して行ってから1時間が経過していた。

「美乃里のところに行くのはいいが、お父さんは来週まで仕事で帰ってこないと言っていたから、家の中に入るんじゃねーぞ」

 唐突な親方の言葉に、呆然となった。

「確かに、それはまだ早いわ。早すぎてもダメ、遅すぎはもっとダメ。料理と一緒なの。タイミングがあるんだよ、善くんっ」

 酒井のおばちゃんは、昔を思い出しているらしかった。耐え切れず清水さんが吹き出した。

 親方は吹き出しそうになるのを堪えて、「なーにバカなこと言ってんだ。そんなことより善幸、明日横浜の港の見える公園だっけ? そこに行くよな、だったらその帰りに四ツ谷駅で降りたらどうだ? 帰り道だろ。四ッ谷駅からちょっと歩くけど、バウヒニアというホテルがあってな、そこの一階に四川料理の店があるんだ。そこで喰って来たらどうだ? 以前、うちにいた板前が、その店で料理長をしているんだよ。さっき電話を入れといたから。旨いものを食わせてくれると思うぞ。料理長は范という名前だ。店に入ったら店員に呼び出してもらうといい」

「料理長を呼び出すって……。知らない顔して勉強がてら俺らで食べてきますよ。四川料理かあ、そんな本格的な中華料理食べたことないな」

「遠慮なんかしなくていい。奴は、うちの店に居る時は、生意気なことばかり言ってやがる出来の悪い弟子だったんだ。『善幸と美乃里が来てやったぞ!』そう言って呼び出してやればいいのさ」

 親方の顔は和やかだった。親方はそのホテルのパンフレットを善幸に渡した。

「良かったね、善くん。早く美乃里ちゃんのところに行ってあげな。まだ泣いてるんじゃないかなぁ……」酒井のおばちゃんが急かせた。

 すると清水さんが、

「善くんさ、その恰好のままで行ったほうがいいよ。仕事が終わった後、すっ飛んで来たと思うから。グッと来ると思うよぉ、美乃里ちゃん……。恋愛のことで分からないことがあったら、何でもおばちゃんたちに相談してよね」そうアドバイスしてくれた。

 善幸が、なあるほどねえ、自分ではとても思いつかないテクニックだ、と感心していると、今度は酒井のおばちゃんが、

「それじゃ、風邪引くよ。どうせ美乃里ちゃんちに着いたら玄関の前で二人は無言の会話からはじめなきゃいけないんだからさ、体が冷えちゃうよ」と言うと、

「ほんじゃさ、善くん、ジャンパーだけ着よっか。呼び鈴押す前にジャンパーのチャックを外しておくことは忘れないでね。多少寒くても我慢。調理服を隠してちゃ、意味が無いじゃない」清水さんの指示は細部にわたった。

「聞いてらんねーな、花束はどうするよ?」親方は薄笑いを浮かべて言った。

 善幸は、ジャンパーを掴むと笑いを背に浴びながら「お疲れ様でしたあーっ」と言って元気よく店を飛び出した。


 商店街通りは静まり返っていた。善幸は直ぐにジャンパーを着た。ふと見上げたら、中村電器の二階の窓から明かりが漏れている。サトシの部屋だろうか……。見上げて、照明の消えている看板に一瞥をくれてやった。

 善幸は、事の解決はこれからだというのに親方とおばちゃんたちのお陰もあり、美乃里に会う前から〝問題なしのやったぜ感〟で胸の中がいっぱいだった。

 いつも美乃里が店に来て最初にやる仕事とは、店先に無断で駐めている自転車の整理だった。この時間になっても見知らぬ自転車が三台残っていた。

 善幸は、自分の自転車にピッタリと寄り添っている美乃里の自転車をみている。首を傾げた前輪のタイヤは、善幸の自転車のそれが支えていた。

 善幸は思った。美乃里は着物だから自転車で帰らなかったのか、それとも、早く店から去って行きたかったからなのかと……。彼は自転車に跨ぐと縁石を蹴った。美乃里の家に辿り着く間に、もう一度頭の中で明日のデートプランを確認しておくことにした。


 前方からやってくる車は見えなかった。善幸は、歩道ではなく道路の真ん中を走っている。店が終わったら、酒井のおばちゃんと三人で帰るいつもの商店街通り。なのに、その光景が目新しく感じた。一人だからなのかもしれない。

 暫く行くと、続いていた商店街のネオン灯が行き詰る交差点にさしかかった。信号は赤。車は来なくても一旦停止した。この信号は、三人で帰る時、赤青関係なく一旦止まるところだった。酒井のおばちゃんは、この交差点を右折し、ガード下をくぐって線路の向こう側へ行ってしまう。おばちゃんは、「お疲れ様~、気を付けてねえ」と二人に声を掛け、軽くペダルを踏みこむとブレーキを掛けながら坂を下って行く。善幸と美乃里は、おばちゃんの姿が見えなくなるまでいつも見送っていた。


 美乃里の家に近づいて来た。先の緩やかなカーブの街灯が青白い光を落として道案内をしてくれていた。けれど、この時間帯では、もうその役割は終わっている。佇んでいるこの光景は、それを承知しているかのように思えた。緩やかなカーブに沿って点々と誘う灯りの先には、何かを見限った諦めでも待ち構えているのだろうか。善幸は、若干の不安を抱いてしまった。彼のアパートはこのカーブを過ぎ一キロ程行ったところにある。

 善幸は、いつも美乃里と分かれる信号機の前で足をついた。ここを左折すれば彼女の家がある。距離にして、ここから五十メートルもなかった。

 この道は多分私道なのだろう。真っ暗だった。人影も無く虫の鳴き声さえ凍てつかせる静寂が辺りを取り巻いていた。そんな光景を見ていたら、背中をポーンと押され勢いよく店を飛び出して来たのはいいが、その時の意気込みが一気に消え失せてしまった。

 どん詰まりな道ゆえ舗装はされていなかった。街灯もなく先が見えにくい砂利道だった。土にめり込んでいる小石をタイヤが蹴散らしていく。車一台がギリギリ通れる程の脇道だ。僅かに欠けている満月が、掛かる雲の塊を追いやっていた。地上では不思議と風は吹いていない。善幸は、ブレーキの音を出さねように止まろうと気を遣った。


 胸までしかないブロック塀の上段の角が丸みを帯びていた。善幸はブロック塀を乗り越え目線を庭へと忍び込ませる。季節的に精彩を欠く庭だったけれど、枯れ葉もなく隣家の庭と比較すれば、きれいに手入れされている様子が見てとれた。

 駐車場のスペースを埋め尽くしている植木鉢が五十以上はあるだろうか。それらは、脚代わりにブロックを立てて、その上に敷いた長手のコンクリート平板に整然と並べられていた。煉瓦色の丸型と角型の植木鉢から、窮屈そうにくねって顕現する太い幹の姿形は、盆栽などに興味のない善幸でも歳月の重さを感じてしまう。

 剪定をやっているのはお父さんに違いない。出張の多いお父さんと聞いているから、水遣りは彼女がやっているのだろう。外水栓に取り付けられ丸められたゴムホースが玄関の脇にあったからだ。

 家は平屋建てだった。庭とは対照的に薄汚れた外壁が目についた。これでは昼でも白黒でしか現像できやしないだろう。

 じっくりと観察してしまった善幸。彼女の家に特別な関心があるわけではなかった。時間稼ぎ……そう、単なる時間稼ぎにすぎなかったのだ。

 玄関の天井にまん丸の照明器具が灯っている。薄っぺらい玄関ドアの両サイドの磨りガラスから出迎えの明かりが漏れていた。夜遅くに、誰かがやって来るのを待っているかのよう。

 呼び鈴は門扉にはついていなかった。善幸は自転車から降りた。キィーッと錆びた鉄門扉を開けて玄関ドアへと向かった。

 おばちゃんたちに言われたことを思い返している。今やっておかなければならないこと、それはジャンパーのチャックを外すことだった。

 呼び鈴を押した。

「どちら様ですか」と訊きもせずドアが開いた。

 彼女の物憂げな顔が現れた。

「ドアを開けるときは、誰なのか確認しないとダメだよ……」

 寒さは、二人の背中を丸めさせると、しんみりとした空気を漂わせた。

「おばちゃんから電話があったから。それにドアの覗き穴で確認したよ」

 か細い声だった。彼女は、善幸の胸元に目線を落としている。

「そう……。ああ、その恰好で寒くない? 何か引っ掛けてきたら」

 見ると、彼女は、フィット感のあるピンクのスウェットパンツに白のトレーナー姿だった。

「寒いんだから、上がったら……」

 彼女は、こぶしを袖口に潜らせていた。

「親方にね、中に入るなって言われたんだ」

 彼女の口元が少し緩んだのが分かった。

 彼女は、一旦中へ引っ込み、温かそうな赤のダウンジャケットを羽織ってきた。その間、善幸は親方から言われた「美乃里に謝ってこい」、この話を切り出さなければならないのだが、どのタイミングで言ったらいいのかを思いあぐねていた。そこで思い付いたのが、話の途中でどさくさに紛れて言うのがベストなのではないか、ということだった。その為には、すべり出しからノリの良い話をしなければならない。

「えーと、明日のことなんだけどさ、」善幸は、彼女の沈んだ気持ちの切り替えスイッチに手を掛けた。

 ところが、

「あたし、謝らないからっ」

 突然、差し伸べた手を払われてしまった。

 そもそも、これって互いの〝決まり悪さ〟なんだから、こっちの都合の良いタイミングで話を切り出せるとは限らなかった。

 どう対応してよいものかと考える間もなく、善幸はアドリブで言いはじめる。

「謝ることなんか期待してないさ。親方に『おまえが謝ってこい』って言われたんだから」

 美乃里は「自分が嘘ついていたのにどうして?」と訊かないところをみると、矢庭にその意味合いを理解したのだろう。それとも、ここに来る間に親方と電話でその辺の話をしたのではないのか? との疑問が頭を掠めた。

「善くんって、何でも親方一筋なんだね」

 溜まっていた息を吐き出した後に、彼女が微笑んだ。 

「謝るのって難しいね……」

「素直になれれば出来ることなんだと思う。親方ならきっとそう言うと思うよ。あたしは素直じゃないから……」

「それなら俺も同じさ。でも、親方は頑固なのによくそんなこと言えるよな。素直で頑固? 水と油みたいだよ」

「親方のことは、そのうち善くんも理解できるようになると思う」

 その言葉に、善幸は少しだけ不満を感じた。

「二人の間に入れないや。なんかさ、俺は余所者みたいじゃん」

「親方とおばちゃんとあたしの間には、隠し事なんて何も無いんだよ」

「へぇー、実は、俺も無いんだけど?」

 美乃里は、不満がっている善幸の顔が可笑しかったようだ。それを誤魔化そうとしてか、一旦庭に目を逸らした。庭を見ながら、何かを考えているようだ。

「善くんも仲間に入れてあげよっか?」

「別に。無理に入れてもらわなくてもいいさ。てか、俺としてはもう入っているつもりなんだけど」

 すっかり互いの蟠りは無くなったようだ。二人は見つめ合っていた。この時、目線を逸らさないでいられる関係は“隠し事は無い”と言い張る関係より勝っているような気がした。

 玄関の照明が段々明るく感じられてきた。振り向き、今度は善幸が庭に目を向けた。

「あの植木鉢の手入れはお父さんがやってるの?」

 彼女は中三の頃から父親と二人暮らし。だから父親しかありえない。でも、酒井のおばちゃんから聞いたことは白紙にして、「美乃里のことは何も知らない」という観点から話すのが自然でいいと考えたのだ。

「うちのお父さんは出張が多いから、土の植え替えと剪定以外はあたしがやってるの」

「水をあげるだけでも数が多いから一人じゃ大変だね」

「冬は気にならないんだけど、夏が大変なんだあ……」

 この時、「お母さんは手伝わないの?」とは訊けなかった。それは、〝 知りたい〟という自分勝手の欲求なだけで、相手を想ってつく“惚けた嘘”にはあたらないと思ったからだ。それに、なぜ居ないのかは美乃里から直接聞きたかった。そのうち、そんな間柄にきっとなれるはずだ。善幸は話を変えた。

「あれさ、夾竹桃でしょ?」

「わかるんだ、生物得意だったの? とてもそうは見えないけど」

「実家にあるんだよ。でも、親父が気をつけろって」

「もしかして、毒?」

「知っていながら植えてるんだあ。うちもそうだけどさ。危険なんだから植えなきゃいいんだよ。なんで植えたの?」

「この家を買った時からあったんだよ。この家、中古物件だったの。邪魔だから、嫌いだからって切り倒しちゃうの? そんなこと出来ないじゃない。それにね、夾竹桃の手前に植えてある紫陽花なんだけど、青紫色の大きな花が咲くと、少し遅れて引き立て役の夾竹桃のピンク色の花が咲くんだよ。〝開花の時期が上手く重なったらいいな〟って、あたしが中三の時にお父さんが植えた紫陽花なんだあ。でもね、この紫陽花をここまで増やしたのはあたし。挿し木で簡単に増やせるんだよ。年を追う毎に大きな花を咲かせるんだけど、今年のはボーリングの球と同じぐらいだったかな。梅雨時期になると庭が凄いことになってるから見に来てよ。びっくりすると思う。あと半年後だね。年に一度しか見れないんだからさ、雨の中の、二種類の花の和気藹々としたところをいっしょに見ようよ、善くんっ」

 紫陽花の花がボーリングの球と同じ大きさだって? また嘘かあ、でも俺を楽しませようと思って吐いた嘘なんだから、これは良い嘘。俺にとっては嬉しい嘘だ。どっちにしても、開花したら確かめに来なきゃいけない。そして言ってやるんだ、「ホントだ! この紫陽花、ボーリングの球より大きく見えるよ。おまえの言う通りだったな」って……。

 待ち遠しい要確認の〝嘘〟からの真実の大きさは如何ほどになっているのか、その楽しみも増えたことで、彼女との距離がグンッと近づいたような気がした。店を出て来る時の〝問題なしのやったぜ感〟まで連れ戻してくれたみたいだ。

 善幸は念を押した。 

「梅雨時の花見かあ、いいかも……。見に来るよ、絶対!」

 雨は嫌いではなかった。仕事が休みの日に、アパートで一人、窓越しに雨の振り具合を眺めながら過ごすことがある。雨が強まってくると、もろに軒先に当たる雨音を掻き消すほどの空想に耽っていた。

 美乃里が嬉しそうな顔つきになった。

「それだけじゃないの。紫陽花が咲く前にね、スズランの花が踏み石を包み込むように咲くんだよ。だから、踏み石から外れないように歩かないといけないの。善くんは、スズランの花って見たことある?」

「見たことはないかな。でも、スズランの花ってさ、気づかずに踏んづけちゃいそうな小さな花じゃなかったっけ? 色は白かな」

「そんな感じ。四月に入ると咲きはじめるの。その時、じっくり見られるよ。香りも良いし、葉っぱも虫がつかないからとてもきれいな緑色をしているんだよ。触るとしんなりしてて柔らかいの。赤ちゃんの肌を触ってるみたい。面白いのはね、花は小指の爪より小さいのに葉っぱが大きいこと。保護者のように花を守っているんだね。あたしがね、中三の頃から株分けして増やしてきたんだよ。この辺り一面に咲くんだから。近所の人も見に来るくらいきれいなの」

「スズランねえ、スナックの店名の中で、キャッツアイの次に多そうだな……」

「スナックって……、善くん、よく行くの?」

 善幸は、苦い思い出も振り払おうと首を横に振った。

 突然、美乃里がクイズを出してきた。

「ここで問題です。スズランに紫陽花、そして夾竹桃、さて、共通していることとは何でしょう?」

「ねえ、それ明日にしない?」

 寒い中、二人は三十分以上こうして話していた。はからずも“互いの決まりの悪さ”はもう取っ払われているので、ここに来た要の目的は果たしたと思った。

「わかった。その代わり、善くんにもう一つ宿題を出しておくね。スズランの花言葉は何でしょう?」

 善幸は、商店街の花屋が頭に浮かんだ。中村電器の隣の店だ。明日は花屋の休日ではないから、一人娘のクルミ姉さんに朝ちょっくら寄って訊いてみることにした。

「明日までに二つも? キツイけど、自力で解いてみるよ」

「わかるかなあ。簡単じゃあないよ」

「俺ってね、寂しくて耐え切れない時には、愉しくて仕方がなかった頃を想い起こすことができるんだよ。と言うことは逆もできるということ。寺の坊さんみたいだろ? 解くのに、これって役に立たないかな? 花言葉ってさ、裏腹な意味合いが含まれていることってない? スズランの花言葉はどうなんだろう」

 彼女が素知らぬ振りをしている。

 美乃里も親方のところで働くようになってから、親方の癖である七面倒くさい問い掛けの癖が付いてしまったのだろうか。親方で徐々に慣れてきたとは言え、彼女に弄ばれるわけにはいかない。そうは思いながらも、今回だけは我慢してそのお遊びに付き合うことにした。   

「俺、頭悪いからさ、難しくて解けないかもな。それはそうと、明日十時でいいだろ?」

「わかった、駅でいいの?」

「自転車、店に置きっぱなしじゃん。だから、俺が迎えに来るから二人乗りで駅まで行こうよ。明日は雨は降らないみたいだからさ」

「お巡りさんに捕まるよ」

「二人乗りでも、一人乗りにしか見えないさ」

 軽く親方気取りでお返しをしてみた。こいつ、深読み出来たかな……と善幸は彼女の顔を覗き込んでみると、顔がサッと冷ややかな表情に変化した。と思ったら、すぐに笑みをみせた。善幸はその笑顔をみて思った。おばちゃんたちは、些細な事でも雲ひとつ無い快晴の笑い方をする。それに、親方でさえ稀ではあるけれど、堪らず吹き出すことがある。だけど、美乃里の場合、どんな時でもにこやかに微笑むだけだ。自ら低く設定した基準値を超える分の可笑しさに関しては、咄嗟に手放してしまう癖があるように思えてならなかった。


 さっきより庭が薄暗く感じられた。見上げると、山々が連なる大陸のような雲が向こうからやってきて月を隠そうとしていた。その動きは緩慢なだけに、襲われてしまったら当分出てこれそうにない。庭木の枝ぶりがいっそう寒々しく感じた。

 善幸は「明日迎えに来るから」とひと声掛けて帰ろうとした。彼女が「ちょっと待って、それじゃ寒いでしょ」と言って近づき、はだけてあったジャンパーのチャックを閉めてくれた。清水さんが言った通り“これは”確かに言葉よりずっと効果的だった。

 美乃里は、「待ってるね、車に気をつけて。おやすみ」と大人びた顔つきで言い、走り去る後ろ姿に、「善くん、ありがとう……」と投げかけてきた。

 善幸は、振り向かずに手を振ってそれに応えた。            (つづく)


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