表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【砂利道を歩く野良犬たち】      作者: トントン03
第二章 美乃里と善幸との出会いから
14/87

ー美乃里の恋心が芽吹くときー

これまで数多の伏線を張っておきましたが、うまく回収できる(そのような書き方ができるか)が難しいところです。

第十四話



―美乃里の恋心が芽吹く時―


細魚を捌きはじめて三日目。

皮引きも途中プチッと切れることもなくなり、脚のパーツモデルとまではいかないが、お客さんに出せるまでにはなった。後は手際の問題だと自分では思っている。

 酒井のおばちゃんは、ジョッキに生ビールを注いでいる。今日は〝土曜日〟、美乃里は朝から手伝いに来ていた。ランチタイムでは天丼やとんかつ定食の注文が多く、いつもより回転率がよかった。


 忙しいと時間が経つのが早い。陽が落ちようとしている。

「親方、今日の昼は、家族連れのお客さんが多かったですね」善幸は、慎重に細魚の中骨に沿って刃先を滑らせながら話し掛けた。魚を捌きながら親方と会話をするなんて、余裕が出てきた証拠だなと思いながらほくそ笑んだ。

「ああ、今日は二十七日かあ、それに土曜だしな……」

「二十七日? 特別なことって何かあるんですか?」善幸が訊いてみた。

 美乃里は、(あたしは、知ってるよ)といったふうの顔をして、注文の入った【悠の膳】で使う刺身用の食器を善幸の手元に置いた。

「おまえも給料もらってるだろ? うちも二十五日。二十五日って給料日の会社が多いんだよ。だからだ」と答えてくれた。

「それだけの理由ですか?」

「その辺の事情は、おまえも家庭を持つようになればわかるさ」

 あれ、先月はどうだったっけ? と考えてみるが、野菜を只管切っていただけで日々の客の流れなど気にしたことはなかった。

 善幸は、親方の店に来るまで、給料をもらうと半月ぐらいで、ぎりぎりの生活費を残し全部使っていた。次の給料日が待ち遠しくて仕方がなかった。家庭を持ったとしても似たようなものじゃないだろうか。だけど、それではダメなのだろう。家族を養わなければならないのだから。などと考えながら手を動かしている……。おお、そうだった、明後日は月曜日で店が休みの日。美乃里に美味しいご飯をご馳走してやる日だった。覚えているかな? 後で、「先週、ご飯ご馳走してくれって言ったの覚えてる?」って声を掛けてみるか。まあ、覚えているだろう。あいつの方から誘ってきたんだから。きっと、「新宿と銀座だったら、やっぱり銀座かな……」などと言ってくるんじゃないか? それにはこう反応するか、「“やっぱり銀座かな”? へーっ、おまえさ、銀座で飯食ったことあんの? ねえよなぁ~、貧乏臭さが身体から滲み出てるから。しゃーねえ、連れてってやるかあ。但し、真っ赤なミニスカートなんて穿いてくんなよ。カンカン娘と間違えられるからさ」こんな会話になるんじゃないかと筋書きを立ててみた。

 善幸は、後一時間もしたら客が引くだろうから、そのとき、親方や酒井のおばちゃんに分からないように、声を掛けてみるつもりでいる。

 美乃里が、シャーッと細魚の皮を引いている善幸に近づいてきた。

「善くん、覚えてる?」

 あっれ、もしかして先手を打たれたか、いや、違う話かもしれない。

「何を?」と取り敢えず訊いてみる。

「やっぱり忘れてるんだ。別にいいけど……」

 癇に障る言い方だった。

「だから何だって? はっきり言えよ!」

 やっぱり、あの誘いのことだったんじゃないか? そう思ったらムカッときた。

 美乃里は、善幸の過剰反応に困った顔をしている。

 フライヤーでとんかつを揚げている酒井のおばちゃんが、何事かと振り向き、「どうしたの、善くん。びっくりするじゃない、突然大きな声を出して」

 そこへ、今度は親方が口を挟んできた。

「穏やかじゃねーな、二人とも。いつからそんなに仲良くなったんだ?」

 二人は接近し始めている、親方の目にはそう映っているようだ。二人の関係に雲間が見えてきた、そのうち快晴になるんじゃないだろうかと……多分。

「明後日の休みの日、美乃里ちゃんを食事に連れてってあげる約束をしてたんじゃないの、善くん?」

 あいつ、おばちゃんに話したなと思い、善幸は美乃里を睨みつける。もしかして、親方も知っているのだろうかと思い、今度は親方の顔を見た。

 美乃里は、味方が二人もいるものだから涼しい顔をしている。

「そんなこと約束したっけ?」

 善幸は、忘れている振りして応戦した。嵌め直せばすむボタンの掛け違いを、そのままにしておこうとしたのだ。

「約束したんだろ? なら連れてってやれ、善幸っ」親方は、忍び包丁を入れた白身魚に片栗粉をつけながらそう言った。

「ほーらねっ」と、美乃里。

「ほらねじゃねーよっ」善幸は、なんで段々腹が立ってきてしまうのか、自分でも分からなかった。

「今日の善くん、なんか変。ただ、ご飯食べに行くだけじゃない!」と美乃里が言い返してきた。

 片栗粉をつけた白身魚を、親方はフライパンで焼くのだろうか。と思いきや、今度は海苔にごま油を塗ったあと塩を振り弱火で炙りはじめた。その二つを合体させるつもりでいるようだけれど、どうやって? 気がそっちへ引っぱられて行くにつれ、次第にムカついていた気持ちが静まっていく。

「…………」

 善幸は間をおきたかった。何か言うにしても、もう少し気持ちを落ち着かせてから、と思ったのだ。

 酒井のおばちゃんは、今、店自慢の折爪三元豚のトンカツを揚げている。キツネ色に揚がったようだ。二度ほど油滴を切ると網付きバットにのせた。その後、先ほど揚がったトンカツをサクサクッと切りはじめた。背後で、カチャッカチャッと音が鳴りだした。美乃里が余裕の笑みを浮かべながら、洗った食器を棚の上に重ねていた。

「すみませーん」

 店内でお客さんの呼ぶ声がした。七割方お客さんが埋まっている店内で、店の者は狭い厨房に全員集合状態だった。

「はーいっ」

 美乃里の声が高らかに客席まで響き渡った。善幸を疎んじるように、彼女は急ぎ足で注文を聞きにいった。

 善幸は、落ち着きを取り戻すことができた。なぜなら、話が中途半端で終わったとしても、前日に美乃里と喧嘩し「行かない!」と言われたとしても、強引に連れて行くことにした。この約束は必ず果たすと、今決めたからだった。

 酒井のおばちゃんが菜箸を持ったまま善幸に近寄ってきた。善幸が切ったトンカツ用のキャベツを皿に盛り付けながら耳許で、

「あのね、善くん、美乃里ちゃんはね、善くんとお食事に行くのを愉しみにしているの。男の子と二人で食事に行くのは初めてなんだってさ……」

 勿論、親方にも聞こえていた。善幸は、客席でお客さんと注文のやり取りをしている美乃里の姿を覗いた。

「――と言うことだ、善幸」

 やっぱり、親方も二人が休みの日にデートするのを知っていたのだ。

 観念した善幸は、

「なーんだ、そうだったんだ。じゃあ何処に行こうかなあ……。そうだ親方、築地って朝何時頃に行けばセリを見学できるんですか?」

「えっ、築地? デートでか? やめとけ。おまえがいくら興味があるからって、少しは美乃里のことも考えてやれよ。最近は外国人の観光客も大勢見物にやってくるようだが、それまではとても女の子が行くようなところじゃなかった。場内を歩いていると、どっかで殺人事件でも起こったのかと勘違いするような喚き声があっちこっちから聞こえてくるところなんだぞ。そんな騒々しい場内で、江戸時代から使ってるような手押し車を引き廻しているんだ。魚の入った箱を高く積んで、それも腰に手鉤(てかぎ)をぶら下げてな。あぶねーんだよ、奴ら。車輪で、〝あらよっと〟とか言って、小石でも踏むかのように平気で人の足の甲を踏み越えていきやがる、一度目撃したことがあるんだ。俺も仲買いの店が立ち並ぶ狭い通りで鮮魚の下見をしていたら危うく踏まれそうになった。やられてたら、今頃、脚を引き摺って……トホホだろうなあ」

 心配になったのか、おばちゃんが、「親方の言う通り。築地なんて男一人で行くところなんだよ。初めてのデートでそんな生臭いところに行かなくてもさ、靴が汚れちまうだろ? そんなところじゃなくて、新宿御苑とか、小石川植物園だとかさ……あっ、そうそう、足を延ばして横浜の【港の見える丘公園】とかどう? 生臭いところより、花の香りがパーっと広がってロマンチックなところへ行った方がいいんじゃな~い?」

「今は、花の香りが漂う季節でもないだろ。寒いだけじゃないのか?」親方が笑いながら言った。

「俺は寒さなんて気にはならないけど……。【港の見える丘公園】かあ、よさそうだねぇ、おばちゃん」

「きれいよお、二人っきりでの展望台からの夜景……。この時期、寒いから……ねっ?」

「おいおい、カツが熱がってやしないか?」親方は変な熱を冷まそうとしている。

 おばちゃんは、ピチピチピチともうじき泡が消えそうな音を立ててるカツをフライヤーから取り出した。それは、もうお客さんに出せそうになかった。このように失敗したものは、おばちゃんが仕事を終えた後に、皆に持たせる弁当の中へ入れてくれることになっていた。

「そうかあ、デートは明後日なんだな……」と親方が呟き、手が止まった。二人に何かしてあげられることはないか、と考えているふうにも思えた。

 善幸は、一度は築地へ行ってみたいと思っていたが、二人のアドバイスを聞き断念することにした。

「おばちゃん、出来上がったトンカツ持っていきますよ」と、美乃里が厨房に入ってきた。

 親方の動きが一瞬止まった。おばちゃんが「あっ、ああ、お願いね」

 美乃里が言った。「善くん、あたし……築地でも構わないよ。でも、夜は銀座でお食事しようよ、いいでしょ?」彼女は、お姉さんみたいな語り口で善幸に訊いてきた。

 三人で話していた要所は掴んでいるようだ。多分聞こえていたのだろう。

「そう……」

 善幸は、愛想のない返事をしてしまったけれど内心は嬉しく感じた。

「あそこで食べてる家族連れのお客さんがね、」と言って美乃里が指を差す。善幸が身体を仰け反って客席を覗き込んでみる。

「細魚のお刺身美味しいって言ってた。よかったね、善くん」

 親方に聞こえるか聞こえないか密やかな声だった。

「細魚の刺し身をね、食べたの初めてだって言うお客さんが結構いるんだよ。あたしも店に来てから知ったの。お父さんと外食したこともほとんどないし……」

 美乃里は、父親と二人暮らしだった。善幸は、おばちゃんから、彼女のお父さんは、橋梁工事の仕事をしているから、現場によっては一箇月以上帰ってこないときもあると聞かされていた。また美乃里の母親は、彼女が中三の頃に家を出て行ったきり一度も帰ってきたことがないらしい。何故、母親がいなくなったのかは話してくれなかった。もしかして、知らないのかもしれない。

「家では食わんだろうなあ、主婦がスーパーで細魚を目にしたとしても、すぐにやめとこう、と思うだろうから。晩御飯のおかずにするには、細魚はボリューム感がなさすぎる。それに、家族全員の分を刺し身にして出すのは捌けたとしても大変だ。口いっぱいに頬張って食べるマグロやブリと違って食った気がしないからな。父ちゃんの酒の肴に干物で出すくらいじゃないか。要するに細魚ってーのは、お店で扱う魚なんだと思うよ。細魚を【悠の膳】のメインにして正解だったな」

 親方はそう分析した。なるほどねえ、と善幸は小さく頷いた。

「そうだねぇ、確かに。うちも細魚の刺し身なんか出したことないもん。お腹を満たすのに細魚はねえ。それだったらトンカツだね、やっぱり!」そい言うと、おばちゃんは、掌の二倍はあるトンカツをトングで摘んだ。今日はトンカツがよく出る日だった。

「美乃里、棚からすき焼き鍋を出してくれ、大きいやつな」

 親方がすき焼きの準備をはじめた。

 美乃里が吊り戸棚から親方から言われた鉄鍋を取ろうとしている。けれど、三、四個重なっていたので背伸びしても手がとどかない。それを見かねて、善幸が彼女の背中から覆い被さるようにして鉄鍋を取ってあげた。

「ふふ、ありがと……」

 美乃里は仰け反って善幸の顔を見上げた。


 月末の土曜日は忙しい。お客さんの呼び声が遠くから聞こえてきた。 

「すみませーん」

「はーい!」

 彼女が速やかに反応した。

 空いてきたかと思ったら、ぞろぞろと、中年男女十一名の団体さんが入ってきた。その後すぐに、二組の家族連れが続いた。そのお陰で、あっという間に客席の三分の二が埋まってしまった。

 忙しいというのに、さっきっからお客さんそっちのけで狭い厨房に四人が固まっているのは明らかに効率が悪い。なのに、親方は何も言わなかった。こうして四人で固まっている様子は、凍てつく時期に寒さを凌いでいる小ぶりの猿団子のように思えた。居心地の良さで身体が離れられないでいるのだ。

 三日前から細魚を捌くのを許され、なんと、先ほどから盛り付けまでやらせてもらっている善幸は、仄かに感じていることがあった。それは、職人の世界って厳しいと聞いているのに、それを全く感じないということだ。また、自分が知りたい、やりたい、身につけたいと思ったことが親方に見透かされているのか、手許にその仕事がスーッと回ってくる。他に板前もいないし、見習いは自分一人だけだから大切に扱われているように思えた。

 仕事場である厨房は、ヴォーと空気を引いていくシロッコファンと、グーンと唸りつづける冷凍冷蔵庫の音が無味乾燥な空間を創りだしていた。そこへ、酒井のおばちゃんと美乃里の親しみのある会話が入り混じり中和させ、余った分で善幸の心を和ませてくれている。これまでの職場では味わったことのない円やかな旨味を感じた。

 善幸は、この店でずうっとやっていけたらいいなあ……そう思いながら細魚を捌いていた。

 美乃里がニコニコ顔で戻ってきた。

「親方、奥の小上がりで食事をしているお客さんがね、細魚って見たことないんですって。一尾持ってって見せてあげましょうよ」

 どのお客さんだろうと思い、善幸がちらっと店内を覗くと、二人とも小学校低学年と思われる兄妹が其々親の隣に座って食事をしていた。子供たちはすき焼きで、小太りのお母さんはトンカツ定食。お父さんの【悠の善】の細魚を子供たちが取りづらそうに箸で摘んでいた。

「そうだなあ……」

 親方は、何かを探している。

「これでしょ? 親方」

 おばちゃんが、親方に差し出したのは、エイヒレを出すときに使う竹ひごで編んだ塵取り状の笊だった。

「ああ、それだ。それにのっけて出してやってくれ。あっ、ちょっと待った」

 エイヒレなら上に紙ナプキンを敷けばいいが、生魚じゃそうはいかないと思ったのだろうか、親方は熊笹を二枚取り出し、シャッシャッと飾り包丁を入れると笊の上に敷いた。

 それを渡された善幸は、まな板の上に転がしておいた大きめの細魚を一匹を笊の上にのっけた。良い感じで尻尾が笊からはみ出している。その作品を受け取った美乃里は「いい感じじゃなーい」と一言置いて客席へ向かった。

「四人掛かりだったな」

 気を良くした親方が笑った。つられておばちゃんも笑い出した。一足遅れて協調された三人の愉快が厨房内の隅々を埋め尽くした。


 午後十時を過ぎた。お客さんが引いていく時間帯だった。

 泥酔一歩手前の常連客二人が、よろつきながら席を立った。週二で飲みに来る商店街の布団やと婦人服屋のオヤジ連中だ。二時間ほど飲んで居ただろうか。

 レジ台に片肘をついている布団屋のオヤジが言った。

「今日はいつもの半分しか飲んでねーな。勘定も半分じゃねーか、美乃里ちゃんよぉ」

「ふら付いてますよ、大丈夫ですか?」美乃里が伝票を見ながら言った。

「俺らがふら付いてんじゃなくて、地球の回転速度が遅くなったり、速くなったりしてんのおー、最近、中央線も乱暴な運転しやがるし、年寄りに優しくねーよなぁ、違うか、布団や」

 布団やのオヤジは、今にも吐きそう……。

「近いとはいえ、車に気を付けて下さいね。えーと、合計で九千八百円になります」

 その時、一旦天井を見上げ、吐くのを堪えた布団やのオヤジが、

「ほおー、はあー、大して飲んでねーのによぉ……どうしちまったのか……」

 その様子を見て心配している婦人服屋のオヤジが、「おい、布団やっ、大丈夫か?」と背中を擦っている。

「うーっ、いいからいいから、俺が払うって、九千八百円だっけぇ? うん? うちの安売りの布団セットと一緒の値段じゃねーかよ、真似しやがったなーっ」そう言った矢先、

「うっ、ゲボッ、うおおーっ、ゲボーッ、ゲェボーッ、かあーっ、ぺッ」

「バカヤローッ、店内で吐くんじゃねーって言ってんだろ! あ~あ、美乃里ちゃんごめんなぁ……」

 美乃里は、嫌な顔をせず「車に気を付けて帰って下さいね」

 この二人、これがはじめてではないようだ。

 結局、支払いを済ませたのは婦人服屋のオヤジだった。最後に、

「そうだ、親方に言っといてくれよぉ、偶には商店街の集会に顔出してくれってさ、それに偶には一緒に飲もうって」

 美乃里が親方の代わりに言い訳をした。

「板さんが辞めてしまったから、抜け出せないんですよ」

「若いのが一人いるだろ? 若いのがっ」

「……もう少し時間ください」

 美乃里は、ざわつきが無くなっていた店内に気づくのが遅かったようだ。レジから話し声が厨房にまで届いていた。

「善幸、一端の板前として美乃里が認めてくれるように頑張らないとな」

 一瞬、ムッとした善幸の表情。それに気づいてしまった親方が、力強く笑った。今度は、親方の笑い声がレジまで飛んでいった。

 親方の笑いが治まらぬうちに、ゴム手袋をはめ食器を洗っているおばちゃんが言った。

「親方、あんまりだわ、それって。善くんはこの店に来て、まだ半年も経ってないんだよ。それなのに、もう細魚を捌いているんだから。それだけでも凄いじゃない」

 一瞬ムッとした善幸の心情を、おばちゃんは察知してくれたようだ。善幸は、親方のところに来てから、自分の性格が若干かもしれないけれど、穏やかになったような気がした。

 店内にはお客さんが一組だけ残っていた。閉店時間を回っている。美乃里が布団屋のオヤジの吐物を処理した後、笑みを浮かべながら厨房に入ってきた。

「今日は、お客さんがいっぱい来てくれましたね、親方」

 美乃里は親方に目配せすると、片付けを始めている善幸に近づいた。厨房へ戻ってくる度に、善幸の身動きが気になって仕方がないようだ。

 美乃里が「おばちゃん、あたしが洗うよ」と声を掛けた。忙しい時、ゴム手袋が出来ない場合もある。おばちゃんは、仕事が終わると必ずハンドクリームを塗るけれど、手の甲はいつもカサカサだった。

「それより、美乃里ちゃんさ、空いているテーブルの〝備え〟を集めてきてくれる?」

 善幸には、美乃里の手をおばちゃんが庇っているように聞こえた。

 明日は日曜日。今日と同じくらいお客さんが来てくれるだろうか……。

 善幸は、頭の中でざっと今日の売り上げを計算してみた。自分がこの店でずうっと働いていくためには、店の経営が成り立っていかなければならないのだ。


 天気予報では、今日は一日中晴れらしい。朝から風も吹いていなかった。勿論、日曜日だから美乃里は朝から来ていた。明日は約束のデートの日。目覚めの気分は、何某か落ち着かなかった。


 美乃里は窓を拭き、店先を掃き終わった後に厨房へ入って来た。

「善くんさ、もう完璧だねえ」

 美乃里は、親方に聞こえるように細魚の捌き方を褒めた。

「もう三キロ入りの箱を五つ捌いてきたんだから、これだけやれば誰でも巧くなるさ」

 二人のこの会話を聞いて、親方の口元が緩んだ。

 間を置いて、「善幸、その出刃切れるか?」と親方が訊いてきた。

 親方は、白菜でも切るかのように、まな板から飛び出そうなハマチをザクザクと捌いている。

 それは危惧していたことだったが、善幸は「朝、研ぎましたから……」と言ってしまった。

「よぉ、研げば切れるのか?」ふわっと疑問符を投げてきた。

 親方の言いたいことは分かっていた。朝、善幸は、店に来ると調理服に着替え親方の並びに立つ。親方から砥石を渡され研ぎはじめるのだが、その研いでいる手許をしっかりと親方に見られていた。

 見習いが朝一で、一本の包丁に気の済むまで研いでいるわけにはいかない。適当なところでやめてしまっていたのだ。だから、切れの悪さは気づかれていた。数日前まで親方が研いでくれていた包丁と比べれば、とんでもなく切れ味は悪い。研がないで使った方がマシなくらいだった。

「切れなければ、仕事にならない。そうは思わないか?」

 善幸は頷いた。

「いいか善幸、切れる包丁がまな板の上にあってからが仕事なんだ。仕事を始める前に、研いだ包丁を用意しておくのは板前として当然のことだ」

 どういうわけか、親方は水氷の箱の中で静まっている鯵を三尾取り出し、まな板の上に無造作に放った。何を始めるのだろうと思っていると、「見とけ!」と云わんばかりに、鯵をあっという間に三枚に下ろした。

 一尾を細かく引く。タタキにしているのだろうか。もう一尾は一口大の大きさの切り身に……。そして三尾目は三枚下ろし状態のままだ。其々を小皿に盛り、親方は包丁をまな板の上に置いた。

「善幸、ニオイを嗅いでみろ」

 言われた通り、善幸は鼻を近づけて其々のニオイを嗅いだ。

「どうだ?」

 若干だが、どれも鯵の独特のニオイがした。善幸は、親方の言う「どうだ?」がわからないでいた。

「気づかないか? ニオイのレベルの違いがわからないのか?」

 善幸は、もう一度嗅いでみた。ニオイより善幸には見た目の姿形の方が気になった。

「ダメか……」

 親方は判りやすくするために、下した片身を徐ろに手の平で温めてから、グニュッとまな板の上で押し潰した。このニオイと比べてみろ、と親方が言う。

 善幸は鼻を近づけてみる。すぐに判った。

「とても生臭く感じます」

「鮮魚ってな、弄くれば弄くるほど、温度が上がれば上がるほど生臭く感じてくるもんなんだ。だから、切れば切るほど臭みが増していく。もともと鯵は独特なニオイがする。この魚は、それを確かめるのには適しているみたいだな。言わずもがなだが、鮮度が悪いと成り立たない実験ではあるけどよ」

 身を切ると言うことは、結局押し潰すという行為であり、また切る回数が増えれば、それだけ手の温もりも伝わってしまうということになる。善幸は、研ぎの大切さだけではなく、手際と、刃渡りを目一杯使って刺し身を引くことの大切さをこの実験で学んだ。


「研ぎはな、身体で覚えるしかないんだ。“気づき”の世界、その意味はまだ分からんだろうが……」親方は手を洗いながらそう言った。                 (つづく)


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ