ー蛇の頭を消化させるためにはー
第十三話
―蛇の頭を消化させるためには―
親方は、鮗に飾り包丁を入れ、切り身を撚ることにより表皮の“てかり”を強調させる。
善幸は、その親方の狙いを見破った。鮮度の良い状態で下拵えしているという証を、常連客に見せびらかそうとしているのだ。
それにしても、親方の鮗に対する半端ない手間の掛け方に愕いてしまった。それだけに、好き嫌いは別として皿に盛り付けられた鮗は逸品に見えた。それと比べて、マグロやサーモンなんて、入荷した状態のままの柵を引き刺し身にするだけだった。
親方は、酒井のおばちゃんに「ヤリイカのげそを焼いてくれ」と指示を出した。おばちゃんは、ゲソを洗い水気を取ると、赤くなるまで熱した網の上で焦げ目がつく程度にサッと炙った。その後、用意しておいた氷水にジュッと浸けた。熱が取れると、またやさしく水気を取り親方に渡した。
確か、お客さんは、細魚の他に三、四品を盛り合わせせくれ、と言ってたはずだ。親方は、細魚、ヒラメ、鮗、マグロ、サーモン、ハマチにイカゲソで七品を盛っていた。量的に考えても、とても三人前とは思えない。
善幸は、親方の聞き間違えではないかと思い訊いてみた。
「親方、お客さんは細魚の他に三、四品って言ってましたよね?」
「確かに、そう聞こえたなぁ……」
善幸は、注文を受けた美乃里が、親方にそう伝えたのも聞いている。訊いても親方がはっきりと答えない時は何かあるな、きっと何かある、善幸はそう思うことにしている。彼は謎解きをしながら、一つまた一つ親方の癖と謀を見抜いていく愉しさを感じられるようになっていた。
「あいよおーっ」と、親方が美乃里に声を掛けた。
彼女は、大切そうに盛皿を抱えて、お客さんのところへ運んでいく。お客さんがどんな反応を示すのか、善幸は興味があった。
「お待たせしましたあー」
三人の常連さんは、大葉、花穂、菊花それに紅蓼のあしらいを施した盛皿を目の当たりにし、
おおーっ、豪勢だねえ~/盛り付けが綺麗なんだよなあ、この店の親方は……/まーた 何やら我々を悦ばせようと品数を多めにのっけてくれてるよ/このげそはサービスかな?/おい、よく見ろよ、げそだけじゃなく、他もサービスしてくれてるぞ。だってこの盛り方は三人前じゃないだろ/それにしても、旨そうに見えるよなあ/おい、親方に失礼だぞ、旨いんだよ!/ などと口々にお褒めの言葉を並び立てていた。
美乃里は、
「親方の気持ちが入ってますから……」と、接客する者として申し分のない受け答えをした。
「なんかいつも悪いねえ。でも、歓送迎会や忘年会、それに新年会でもまた使わせてもらうからさ。親方に宜しく言っておいてね」
「わかりました。いつも御贔屓にして頂きありがとうございます」
美乃里は、深々とお辞儀をした。
「ところで、美乃里ちゃんって、専門学校に通ってるって前に聞いたことあるけど、なんの専門学校なの?」と、二人の部下だと思われる男が訊いてきた。
この常連さんたちは、店に来るときは大概仕事帰りに寄ってくれる。午後六時前後の早い時間帯だった。親方や酒井のおばちゃんが、美乃里! 美乃里ちゃん、と呼んでいるので、名前を覚えてしまったようだ。
「医療事務の専門学校に通ってます。就職率が良いと思って入学したんですけど、先輩たちの話を聞くと、実情は厳しいみたいなんです」
「そうなんだあ。仕事場は家から近い方が良いだろうし、更に条件を重ねて行けばどんどん狭まっていくからねえ……」
他の客はいなかったので、善幸はその話に耳を傾け、常連さんたちが旨そうに食べ始めているのを覗いていた。
善幸は、さっき親方が言った「確かに、そう聞こえたなぁ……」は、どういう意味だったのか、客席を覗き見しながら考えている――お客さんの注文は細魚を含めると四、五品で、皿に盛り付けたのは六品……。それに、遊び心で添えたイカゲソの暴れ具合も客を喜ばせていた。人数分的に考えたら、そのボリュームは七人前はあるだろうか。随分と豪勢な盛皿だった。
善幸は、客の話から親方の狙いを推察してみる。
常連さんは、美乃里が〝自慢気〟に置いた盛皿を見て、「歓送迎会や忘年会、それに新年会でまた使わせてもらうよ」と言ってくれたのだから、確かにこのサービスがしっかりと営業したことになっている。そういうことだったのかあ、とまた一つ理解を深めることができた。が、待てよ、接客も……美乃里も一役買っていたってことか? 連携プレーだった? やるのお、と熱い視線を彼女に投げてやった。
「親方さ、会社帰りに寄ってくれるあんな常連さんが増えてくれるといいんだけどねえ」酒井のおばちゃんが、箸を離さないでいる常連さんを見つめながら言った。おばちゃんはいつも売り上げのことを心配してくれている。
「早い時間帯から店に客がいると、客が客を呼び込むからなあ……」
二人の会話を聞いていた善幸は、客が入っていれば美味しい店だということだから、店の前を行き交う人も今度入ってみようと思うだろう。なるほど、と思いながら常連さんが仕事の話をしながら飲んでいるのをぼんやりと眺めていた。通行人が、また窓越しに店内を覗いていく……。
確かに、暮れ方から座敷で胡座をかき男三人が飲んでいる光景って目を引くものだ。羨ましく感じるだろう。また食べている料理も気になるもので、卓の上に目を落とせば鮮度を光らせ彩り豊かな盛皿がデンッと真ん中にある。善幸は、親方の描いた推理小説『客寄せの謀』の謎解きを試みようとしていた。
遂に、善幸は、大きなハメ殺し窓を設置した理由、それは言わずもがなではあるが、もう一つの小上がりを通り沿いに据え付けた理由を解明することができた。
客はテーブル席より座敷で食事をした方が落ち着く。ということは長居をすることになるから、注文も増えていくことになる。またその理由と関連付けて“親方のサービス営業”とは別な“盛り合せの謀”を解明した。いくら常連客とは言え、三人前の刺し身の盛り合わせを六人前の盛皿に仕上げるのは店の経営上毎回はできないなずだ。だが、親方からは、それを気にする素振りは見られなかった。
何か理由があるはずだ……。
そうかっ、善幸の瞳がキラリと光った。
「どうした善幸、何か問題でもあったのか?」親方が訊いてきた。
だが、訊きながらも親方の手は止まることはなかった。
矢庭に善幸は、「細魚って、昔から食べられてた魚なんですかね?」と尋ねてみた。
「何でだ?」
「手間ばかりかかってボリュームのない魚だから」
善幸は、冬が旬で且つ食べ応えのある魚は他にもいっぱいあるだろう、何故そっちを使わないのかと言いたかったのだ。
親方は、引き攣った笑いが収まると、
「そうか、細いから捌くのが大変そうに見えたか?」そう言うと、今度は静かな笑みを浮かべた。
善幸は親方がまた謀を投げてきたと受け取った。親方の癖である何でもお見通しと言わんばかりの含み笑いが善幸は好きだった。それを解く毎に、親しみが増していくように感じられた。通常、仕事をしている時の親方は無表情だった。
「最初は大変そうだなあ……と思うことでも、実際手を下してみると、然程大したことじゃなかった、なんてこともあったりする。逆に、こんなの簡単だ、そう思ってやってみると、えらく厄介だったり、場合によっては出来なかった、なんてことも多いしな。だから、やりもしないうちから、あーだこーだ考えるのはよせ。先ず、やってみることだ。慣れるまで続けてみることだ。慣れてしまえば、こっちのもの。それにな、相手のことを想いながらやることってーのはよ、労力の打算的な考えなんてもんは消えてしまうし、大変だなんて感じなくなるもんなんだ。これって、料理人として、持ち合わせていなきゃいけない側面なんじゃないかな。でも、それは料理人に限らないんだよ。大袈裟に言えば、商売上、また生きて行く上で大切な心構えの一つなのかもしれないぞ。おまえには、それを理解するのはまだ無理かもしれんがな。でもまあ、その内わかるようになるさ。というか、早くわかるようになってもらわねーと困るけどよ」
善幸は、下を向いてしまった。
「善幸、やってみたいのか?」
善幸はドキッとした。魚を触らせてくれるって? しかし、躊躇ってしまった。細長い魚なので捌くのが難しそうだから。まだ、鯵の方が見慣れているし扱いやすいと思った。でも、たった今「先ず慣れるまで続けてみることだ」と言われた以上、やるしかない。そう思いながらも、善幸は返事ができないでいた。
鯵は食味の良い魚で、善幸が働き始めてから仕入れが途切れたことがなかった。この魚には旬ってないのだろうか。もしかして、養殖ではないのかと善幸は訝しんでいた。先月だったか、先々月だったか、親方に訊いてみたことがあった。すると「おまえ、養殖だと思ったのか? へえ~」それ以上は答えてくれなかった。この返事で、養殖は使ってないということは分かったけれど、「へえ~」はどういう意味なのだろう。
時々賄いとして親方が作ってくれる鯵のタタキは善幸の好物になっていた。でも、自分から細魚じゃなく、先に鯵をやらせてほしいなどとは言えないし、また折角のチャンスを逃すわけにもいかない……。
親方は、手を動かしながら善幸の返事を待っいるようだ。
思い巡らした末、
「やらせてくれるんですか?」と善幸は言ってみた。
「但し、これから包丁は自分で研げ、いいな」
条件付きだった。これまで、親方に包丁を研げとは一度も言われたことがなかった。毎朝、店に来ると、既に親方が煮付けと蒸し物用の魚の下処理をしていた。カレイ、甘鯛にカサゴ……。一体、親方は朝何時に店に入っているのだろう。「おはようございます」と善幸が挨拶をすると、いつも「おぅ……」と、元気のない返事がかえってくる。善幸が調理白衣に着替えて厨房に入ると、まな板の上には、包丁二本が既に列べてあった。善幸が来る前に研いでくれていたのだ。
善幸は、それを当然のことと思い、気に留めたことはなかった。食材を切れの良い包丁で扱うのは当たり前で、比較したことはないが、それによって味も見た目も違うのだろうとは思っていたが。
親方は、暇さえあれば刃渡りの違う七本の包丁を砥石に擦りつけていた。
研げもしないのに「わかりました」と返事をしてしまった善幸だったが、頭の中では包丁研ぎなんて後でいい、それより先に魚の捌き方を覚えたいという気持ちの方が強かった。
捌きにくそうな細魚の三枚下ろしを習熟すれば占めたものでは? その流れで「今度は鰹をやらせて下さい」と、一応親方に一言断りを入れ、有無を言わさず鰹の尻尾を掴み、ドンッとまな板の上に乗せてグサッと出刃の切っ先を胸鰭の下から突き刺してやるのだ。ここは強引に事を運んでいけば、親方でも「まあ、いっか」と、渋々やらせてくれるのではないだろうか。そんな思惑が頭を過った。
なんせ、鰹を捌く時の親方の身体と出刃包丁の一体感がイケていて、和の料理人として輝いて見えた。だから、善幸は早く鰹を捌けるようになりたかった。
ところが、鰹は二週間前から入荷量が激減し、三日前から一本も入ってこなくなってしまった。これでは捌こうにも捌けない。初鰹が入荷して来る春先まで待つしかなかった。それにしても、旬が過ぎたからといって、鰹は忽然と何処へ行ってしまったというのか。頭を傾げてしまう謎の失踪……。ふと思い浮かんできたインカ帝国の遺跡『マチュピチュ』――住人が雲隠れしたかのように去って行った背景には一体何があったと言うのだろうか……。
春先の初鰹が入荷してくるまでの三箇月間で、細魚だけでなく鯵や今が旬の三陸沖の寒サバも手際よく捌けるようになりたい。欲を言えばヒラメ以外全部だ。いくらなんでも捌き方の全く違うヒラメまでは欲張り過ぎだろう。こんなふうに、善幸は、商店街の街路樹の桜の木が芽吹く前に、目星をつけた魚に慣れておくという目標を立てた。やる気を親方に見せつけてやるのだ。そう意気込んだら背中が熱くなってきた。(俺は和食料理人になる!)と決意したのは、この時だったような気がする。
そろそろ米がなくなるから注文しとかなきゃいけない。それに小上がりの畳も年末までに替えておいた方がいいだろう。椅子とテーブルもワニスでも塗っとけば綺麗になるんじゃないのか、自分でできないだろうか。善幸は経営者にでもなったつもりで考えている。また今日入荷した魚を全て掃き出せるか、足りなくはないかの検討をつけてみる。鮮度が売りの店だから食材を余らしてしまうことが一番のロスになる。表裏の関係で、品切れは原価を押し上げるのと一緒だった。
親方は、ぽーっとしている善幸を、ほったらかしにしていた。が、待ちきれず、
「ほら、善幸っ、やってみな。やりたくないのか?」と急かした。
思わぬお言葉で、善幸は我に返った。
「やらせてください!」
親方は、今使っていた小ぶりの出刃包丁を善幸に手渡した。
善幸はいつも使っている薄刃包丁と、この出刃包丁を見比べている。
「これはな、本当はこれくらいあったんだ。使いはじめて……そうだなあ、おまえの年齢をそろそろ越えるかな」
親方は、包丁の切っ先より五センチ長いところを人差指で示した。
「ということは、二十三年で五センチ……」
「そうだ。野菜をこの三箇月間無心に切ってきたからわかるだろ。包丁が切れなければ、いい仕事は出来ない。これってな、料理人に限らないんだよ。どんな職人でも道具を見ればその人の腕がわかってしまうんだ。誤魔化しが利かない世界。取り組む姿勢さえ道具に現れてしまう、怖いくらいにな。だから、職人は言葉じゃないんだ」
「…………」
善幸は、道具のことなんて頭になかった。況してや自分で包丁を買おうなんて思ったこともない。いつも、まな板の上には切れる包丁がのっかっていたのだ。
「おまえは、どうして料理職人になろうと思ったんだ?」
虚を突かれた思いがした。志を持って来たわけではなかった。興味本位だけでちょっくら覗いてみただけ……。善幸は、渡された出刃包丁を見つづけるしかなかった。
「初心を忘れてはダメだ。この先、その想いを腕に託して、只管お客さんに伝えていけばいいんだよ。そう思いつづける強い気持ちが一番大事なんだ」
親方の目をちらっと見て、また俯いてしまった。善幸は、凄く重いものを手渡されたような気がしてならなかった。
「嘘や誤魔化しの利かない仕事。だからいいのかもしれない。善幸、おまえに合ってるといいなあ……」
親方は目を細めた。
傍らで、酒井のおばちゃんと美乃里がこの会話を聞いていた。酒井のおばちゃんが善幸の肩をポンッと叩く。美乃里は、胸の位置で拳を二つ作って善幸を見つめていた。二人とも、俯いている善幸を満面の笑みで励ましてくれているようだ。
「善幸、こっちのまな板に替えろ。魚、肉、それに野菜のまな板が大中小それぞれ三枚ずつあるから使い分けなきゃダメなんだ。ごっちゃにして使うなよ」
「わかりました」
ニオイが移るからだ。そのくらいのことは分かっている。閉店後の片付けの時、まな板を洗っても多少の生臭さは残っていた。
親方は、氷が敷かれた発泡スチロールの箱を調理台の上にのせた。その整列している細魚を数尾片手で掴み、善幸の右手に握られている出刃を奪い取った。
これから、正しい捌き方を実践してくれるらしい。
「それとな、魚の大きさによって包丁も替えないと駄目だ。やり辛いからな。これ、細魚を捌くには丁度いい寸法なんだ。この出刃はな、探そうと思っても見つからない。さっき説明したように俺が長年かけて作ったものだから。というか、そうなってしまったと言った方が正解かもな。善幸、おまえにやるよ。いいか、今日から細魚担当だからな。こんなべっぴんの魚を最初に捌けるなんて、おまえはついてる。乱暴に扱うなよ、いいな」
親方の口癖、最後に「いいな」をよく付ける。善幸は、親方という立場で職人たちを育ててきた広範な経験からの大様さをそこから感じ取った。
あっという間だった。親方は、いつものスピードで四、五匹を捌いてしまった。その後、包丁を一旦水洗いすると、まな板ごと善へ渡した。
はじめていいのだろうか……。親方が見ている。何も言わない。一瞬、緊張感が走った。
善幸は、実践してくれなくても、いつも親方がやっているのを横で見ているから、捌く手順はわかっていた。先ず、二枚ある尻鰭を取り、細魚の鱗を包丁の背で綺麗に落としていき――。渡された包丁を握った。
「腹わたはな、傷つけないように取り出すんだ、いいな」
掴みにくい胸鰭を起こし頭を落とすと腹を割いて、切っ先を中に突っ込み腹わたをかき出した。上手くいった。が、二匹目でドロっと内蔵がまな板の上に広がってしまった。言われた矢先に、切っ先で腹わたを無理やり引っ張り出そうとして破いてしまったのだ。それをどかそうとして、また切っ先で弄くってしまった。まな板の汚れが広がっていった。
親方が言った助言「腹わたを傷つけないように」の意味合いには、魚身にそれが付くと血生臭くなるし、まな板もその分汚すことになるからだった。この後、善幸は親方が言外に含めた意図を頭の中で補いながら作業を進めていった。
親方は、そのぎこちない手つきをみて、
「すぐに慣れるさ。鰹のように、捌き方によっては頭を落とすと同時に腹わたもそっくり外せる方法もあるが、細魚の場合は細長いからそれは無理なんだ。腹わたはな、鮮度の良いものだとしっかりしているから取り出しやすい。鮮度が悪いものだと、傷つけなくてもまな板の上で広がってしまう。善幸、この細魚はどうだ?」と質問をしてきた。
鮮度がいいも悪いも比較したことがないから判断がつかない。横目でみている親方が若気ていた。そんな親方の顔に、善幸は反抗するような眼差しを向けた。
持っていた包丁を一旦置いた。
「鮮度抜群です、親方っ!」善幸は直立不動の姿勢をとった。
「だろ?」
親方は軽やかに返し、安心した面持ちで笑みをこさえた。
善幸は、頭をはねられ内蔵を抉り取られた七匹の細魚を洗おうとしている。
「洗ったら水気をよく取るんだぞ、濡らしたままじゃダメだ。まな板の上もしっかりと拭きとるんだ。三枚に下ろす前に水気は十分取っておくのを忘れるな。それも手早くな」
水気を取るのかあ、そりゃ水気を含んだぶよぶよの刺し身なんて誰も食いたかないのはわかるけど、それだけじゃなさそうだ。臭みが回ってしまうということか? 善幸は手を動かしながら色々と考えてみる。
「親方、この黒いの、何ですか?」
こんな綺麗な魚が……なんでだ? と疑問に思ってしまったのだ。背が青緑色で腹側はきらきらと銀色に輝き綺麗な魚なのに、腹の内側が真っ黒だ。とても残念に思えて仕方がなかった。
「それはな、腹膜だよ。細魚は表層を泳いでいるから、強い陽の光が腹の中まで通さないように日除けの役割をしてるって、仲買いの親父から聞いたことがある。紫外線防止なのかもしれんな。真夏によ、ご婦人が被る日除け帽子のようなものか? 細魚って、よく人に例えられるんだ。見惚れるほど美しい容姿なのに実は腹黒い奴だ、とね……」
「聞かなきゃよかったあ」
「でもな、善幸、細魚の腹膜が真っ黒じゃなきゃ生きられない別な理由があるんじゃないかな」
「何ですか、それって?」
「それはわからない。ただ、平穏な日々が続くと、遅かれ早かれ退屈になってくるのと一緒で、パッと見で美しいものって、時間が経てば素っ気なく飽きてしまうもんなんじゃないか? それによ、今の世の中よ、正義は誰もが当たり前と思いつつも、それに従わねー連中が後を絶たないから争い事は絶えねえんじゃないか。そんな中で、鎧を身に付けている者は強そうに見えるが、その勢いは長くは続かないとくらあ~。強さイコール正義じゃないところが人間様の愚かなところなんだ。滅茶苦茶な世の中だよなあ……。わかり切っているつもりで生きているんだ、皆よ。だからよー、どうしてなんだ? と心揺らぐ不可思議に感じる方へ惹かれたりもする。せめてもの慰めなのかもな。しかしだ、それって思いの外、身体にも精神的にも良いものだったりしてな、ハッハ」
何が可笑しいのか、善幸は笑えないでいた。
「善幸、そんなものがよ、もっともっと身近にあったら素敵だと思わないか? ところがな、いっぱいあるんだよ、平穏な日々の中に……。気付かないだけさ。勘違いするな、わからないことじゃなくて、不可思議に感じることがだぞ。一つだけ、より素敵だと思える条件を付けるとすれば、それは本能的に吸い寄せられてしまいそうになる不可思議……だろうか。どう思うよ、善幸?」
善幸には親方の言っている意味が判然としなかった。というより珍紛漢紛。
そこで、
「親方、明日まで時間を下さいっ」
そう返事をしたら、親方が大口を開けて笑った。
善幸が手を動かし始めると、「悠の膳、四つ入りましたあーっ」と、美乃里の声が厨房に飛んで来た。
取り敢えず、善幸が「あいよおー」と元気よく返した。 (つづく)




