最悪の朝
お話の構成上、ここから数話ほど、いやーな空気の話が続きます。
耐えられない!という方は、週末あたりにまとめて読んでいただいた方が良いかもしれません…
何卒最後までお付き合いください(T^T)
———あったかい。
微睡の中で、シェリルの頭に最初に浮かんだのは、そんな一言だった。
自分のベッドは、こんなに温かかっただろうか。
良い匂いもするし、今にも意識を手放してしまいそうなくらい、寝心地が良い。
「………んん……」
無意識のまま、握りしめていた布に頬をすり寄せる。
ムスクのほのかな香りが鼻腔をくすぐり、知らず唇の端に笑みが浮かんだ。
もっと深くその香りを吸い込みたくて、その香りの主に腕を回した…その瞬間。
———ドンッ!
…自分に何が起きたのか、わからなかった。
先ほどまで感じていたぬくもりは一瞬で消え去り、堅く冷たい床の上に尻餅をついていた。
ひりついた痛みがどこか遠く感じるのは、あまりに現実味のない状況のせいなのか、はたまた昨夜の失態がもたらす二日酔いのせいか。
いや、もしかしたら現状を受け入れたくない自分の、無意識の現実逃避だったのかもしれない。
「………え…?」
寝ぼけていた頭も一気に覚醒し、大きく見開いた瞳が映したのは、血の気を失った顔で同じく目を見開いたままこちらを見つめる、ウィリアムの姿だった。
昨夜の衣服から上着を脱いだだけのその姿に、それまでの記憶が一気に蘇ってくる。
アルコールの力が為せる技なのか、普段であれば絶対にしなかったあれやこれやまで一緒に思い出してしまい、フリーズしてしまった脳はさらに混乱の渦に叩き落とされてしまった。
しかも、たった今したたかに打ち付けた臀部は固い床についたままになっており、急速に身体も冷えていく。
(……え、何…?今、一体、何が……)
自分の現状を認識するのも難しく、さりとて自分以上にひどい混乱に陥っていそうな表情の彼に訊ねることなんて、もっとできそうになかった。
張り付いたように乾いた喉からは、搾り出そうとしてもうまく声を発することができない。
まるで永遠にも感じられるような重い沈黙を破ったのは、扉の向こうから唐突に聞こえてきた、控えめに扉を叩く音だった。
「……主?大きな音がしましたが、どうかされましたか?」
「………ぁ……」
訝しげに室内を伺うようなオリバーの声に、掠れたような声がシェリルの喉から漏れる。
その声が合図だったかのように、ばさっと音を立てて毛布を蹴り飛ばしたウィリアムは、そのまま寝乱れた格好で足早に扉へと向かった。
「……まない…」
自分の横を通り過ぎる際、何かウィリアムが呟いたような気もするが、呆然としていたシェリルの耳には単語として聞き取ることができない。
問い返す間もなくウィリアムは扉を大きく開け放ち、驚きの表情を浮かべる家令に構わず、そのまま廊下を歩いていってしまった。
「っ、え…シェリルさん!?ウィル、お前…何が…!」
しばしの間の後、床の上にシェリルが昨日の格好のままでへたり込んでいるのを見て、オリバーが普段では聞けないような焦った声をあげる。
しかし、そんなオリバーの声にも足を止めることのないウィリアムの様子に、しばらく交互に二人を見遣っていたオリバーが軽く舌打ちをした。
そのまま「失礼。すぐに戻ります」と言ってウィリアムの背を追いかける家令の背中を見ながら、シェリルばぼんやりと意識を取り戻していく。
(……ああ…私、嫌われちゃった、のかな)
何か昨日、よくない粗相をしたのだろうか。
生まれて初めての歓迎会に浮かれ、アルコールに酔い、心の中に秘めておこうと決めた想いを欠片でも吐露してしまった。
そのことで、何かウィリアムに不快な思いをさせてしまったのだとしたら。
(だって、あんなに拒絶された)
認識違いでなければ、自分は先ほどウィリアムに突き飛ばされたのだ。
しかも、ベッドの中にいたはずなのに、突然床に尻餅をつくような状態になるまで強い力で。
日頃の穏やかな彼を知っているからこそ、それがどれだけありえない事態であるのかくらい、容易に想像がついた。
つまり、それだけのことを自分はウィリアムにしてしまったのだということになる。
(…何がいけなかったんだろう。お酒に酔ったから?迷惑をかけたから?それとも…ウィリアム様への気持ちに、気づかれたから?)
いずれにしても、このままここにはいられない。
これ以上誰かに見られる前に、まずはここから去らなければ。
二日酔いのせいか、重怠く感じる身体を叱咤してのろのろと立ち上がり、簡単に手で服の皺を伸ばすと先ほどウィリアムが出ていった扉へと向かった。
扉に耳をつけて、周囲に人の気配がないことを確認し、きょろきょろとあたりの様子を探りながら足早にその場から遠ざかる。
向かうのは、ひとまず寮内の自室だ。
まだ早朝だからなのか、幸いにも誰にも見られることなく部屋に戻り、バタンと扉を勢いよく閉める。
そのままバサバサと衣服を乱雑に脱いでいくと、ふと部屋の中にある姿見が目に映った。
鏡の向こうでこちらを睨みつける自分の顔は、崩れたメイクといつの間にか流れ落ちていた滝のような涙で、ぐちゃぐちゃになっている。
「……っ…、ひどい、顔……っ、っふ…ぅえ……っ」
自虐的に笑おうとしてみせたもののうまくいかず、そのままその場に崩れるようにしゃがみ込む。
ぼたぼたとこぼれ落ちる涙は自身の膝を濡らした後、そのまま流れおちて足元に丸まったワンピースに、溶け落ちた化粧の色の染みを作っていった。
しばらくはそのまま動くことができず、気が済むまで泣き腫らしていたシェリルだったが、やがてその涙も枯れ果てた頃、ようやく拳を握りしめて立ち上がる。
ばしゃばしゃと乱雑に顔を洗い、持っていた服の中で最も身軽に動ける質素なものを身につける。
そして、室内を軽く掃除した後小さなかばんにありったけのお金と最低限の荷物を詰め込むと、ベッドの上に鍵を置いて、かばんを抱えたまま部屋を後にした。
———そうして、シェリルは姿を消してしまった。




