謀略を阻止するためには(ウィリアム視点)
彼女の身体から漂っていたすずらんの香りを残した部屋が静寂に包まれる中、ウィリアムはソファに深く沈み込み、じっと自分の右手を眺めていた。
一週間ぶりに触れたシェリルの身体は、腕の中に抱え込んでしまうと折れてしまいそうなほど華奢だった。
この屋敷を出て寮に向かうときに抱き上げたときも同じことを感じた筈だったのに、その圧倒的な身体の細さに驚きを禁じ得ない。
己の欲望のままにかき抱いたその肌はどこまでも柔らかく、仄かに匂い立つすずらんの香りは甘美な誘惑をもたらした。
これまでも、自分でもらしくない独占欲を見せた触れ合いをしてきた自覚はあるものの、それでもきちんと理性は働いていたし、シェリルが嫌がっていないことを確認する余裕すらあった筈だ。
しかし、今日はそんな余裕すら吹き飛び、ひたすら自分の欲のまま、彼女を抱きしめてしまっていた。
彼女に嫌な思いをさせたくないと言いながら、本当は心のどこかで怯えていた。
街での噂を聞いて、ここから逃げ出したいと思っていないか。
マリーの話を聞いて、同情や憐れみの目で見られるのではないか。
シェリルの優しさにつけこんで、自分の元に縛り付けようとしてしまうのではないか…。
いくら他の者たちにシェリルの様子を聞いていても、この一週間ずっと、ウィリアムは気が気ではなかったのだ。
だが、シェリルはあろうことか、いきなり謝ってきたのだ。
そして相も変わらずまっすぐな瞳でウィリアムのことを褒め称える。
少し潤んだ瞳で見上げられては、まるで自分のことを慕ってくれているのではないかという錯覚さえ引き起こした。
まして、ウィリアムが心の奥底で最も誰かに認められたいと思っていたことを、いとも簡単に言ってのけられてしまえば。
(———…我慢なんて、全然できなかった)
こんなに弱い自分ではなかった筈なのに。
自分のために流す涙は、12歳のあの日、全て流し切ってしまったと思っていたのに。
ぐだぐだと反芻していると、またあの小さな熱と甘い香りを思い出してしまって、不埒な欲望と共に大きくため息をこぼす。
かつて一度だけ経験したことのあるこの感情は、しかし結果としてウィリアムの心に虚しさと孤独を植え付ける結果に終わった。
シェリルがあの女と同じだとは決して思わないが、それでもやはりまだ、同じ痛みを味わう覚悟はウィリアムにはできていなかった。
それまでぼんやりと眺めていた拳を握りしめ、そのまま目元をぐりぐりと擦っていると、かちゃりと小さな音を立ててオリバーが入ってくる気配がする。
今の状況を作り出した張本人を横目でじとりと睨みつけるが、当の本人はどこ吹く風、といった様子だ。
むしろ非常に良い笑顔を返されてしまえば、もうウィリアムには何を言うこともできなかった。
「………主」
「………なんだ」
「いくらお慕いしているからといっても、流石に襲ってしまうのはよろしくないかと」
「ばっ…!!そんなこと、している訳がないだろう!」
「おや、そうなんですか?シェリルさんが茹で蛸のようになっておりましたのでてっきり」
「…………」
「しかも主がものすごい勢いで謝罪しておられるものですから」
「…………オリバー…」
慇懃な態度をとりながら、その顔はどんどんニヤついたものに変わっている。
これは絶対に揶揄われている。
そう理解したウィリアムが地の底を這うような声で彼の名を呼ぶと、ここ数年では聞いたことがないほど明るい笑い声が返ってきた。
その響きが存外優しかったことに引っ掛かりを覚え、ウィリアムがオリバーの方へと向き直る。
するとそこには、先ほどまでのやり取りを完全に忘れたような、冷静な家令の顔があった。
何かあったことを察し、ウィリアムが軽く片眉を跳ね上げさせて先を促す。
「主。トゥアールのギルドの件で、潜入班から報告がありました」
「そうか。誰が黒だった?」
「主の読み通り、まずはギルドの長。そしてもう一人、ここのギルドの主要取引先の一つです」
「やはりか…その取引先というのは?」
「トゥアールの街から馬車で30分ほどの所にある、キーストン領との境にあるザグドの街のダード商会です。表向きは普通の商会として、ライフラインの確保や整備、他の街との食糧の取引などを行なっておりました」
「…待て。ダード商会、だと?」
聞き覚えのある商会の名に、ウィリアムは思わず話を止めた。
その反応に応えるように、オリバーも大きく頷く。
「……はい。一ヶ月前、シェリルさんを襲った一派の雇い主です」
やはり聞き間違いではなかったようだ。
思わずオリバーに剣呑な視線を向けてしまったが、全く関知することなく報告を続けてくれる。
こういうところは本当に頼りになる男だと、つくづく思う。
「ダード商会ですが、裏では色々と悪どいことをしているようです。人身売買や違法薬物の取引、違法な手段で人体実験なども行なっているとか…シェリルさんが狙われた理由も、そこにあると思われます」
「仲間割れか」
「はい、おそらくは」
オリバーの返答にぐっと奥歯を噛み締め、ソファから立ち上がった。
書斎に向かい、引き出しからいくつかの書類を取り出してオリバーに渡す。
ざっと目を通して内容を確認したオリバーが、一礼して部屋を出たのを確認すると、くしゃりと髪を乱すようにかきむしった。
「……さて、これからどうするか…」
あの心優しい少女に知られず、全てを処理してしまいたい。
そのための下準備を進めるため、ウィリアムはこれからのことに思いを馳せるのだった。




