ほんとうは、会いたかった
———勢いというのは、本当に怖い。
オリバーの後ろを半ば呆然とした面持ちで歩きながら、ぼんやりとシェリルはそんなことを思っていた。
十数分前まで、確かにクレアの部屋でごはんを食べながら話を聞いてもらっていたはずなのに。
気づけばあれよあれよという間にオリバーを呼び出され、そのまま連れ出されてしまったのだ。
仕事終わりの作業着のままで、よく見れば袖口にはペンのインクが滲んでしまっている。
こんなみすぼらしい格好で、立派なお屋敷の廊下を歩いていることに改めて恥じ入りながら、シェリルはできる限り身体を小さくしながら、必死でオリバーの背を追っていた。
「……シェリルさん」
「…はっ、はいっ!」
階段を登り、長い廊下をしばらく歩いた先、一つの大きな扉の前でオリバーが足を止める。
そのまま振り返って名前を呼ばれたから、咄嗟にシェリルはきゅっと身を竦ませ、裏返った声で返事をしてしまった。
その様子に、それまで無表情だったオリバーの顔がふっと緩む。
この屋敷内で過ごさせてもらっていた時には見ることのなかったそんな表情に、シェリルもそっと肩の力を抜くことができた。
「そんなに緊張しないでください。これから処刑でもされに行くみたいですよ」
「え、あ、いや…えっと…」
気分的にはまさにそんな感じです。
そんな本音を言うことはさすがにできなくて、苦笑いを浮かべることしかできない。
シェリルの内心をわかっているのかいないのか、オリバーは扉に視線を向けると、小さな声でぽつりと漏らした。
「…ありがとうございます、シェリルさん。あなたの方から主に会いに来てくださって」
「え……?」
「正直、困っていたんです。あなたが街に行った日から、主がまるでポンコツのようになってしまって」
ポンコツ、という言葉の響きにぎょっとしてオリバーを見るが、その内容とは裏腹に、彼はとても穏やかで嬉しそうな笑みを浮かべている。
その表情の意味を問う前に、オリバーは重厚そうな扉を軽い音でノックしてしまった。
「……誰だ」
「オリバーです。主、少しよろしいでしょうか」
「ああ、入れ」
室内から、くぐもったウィリアムの声が聞こえてくる。
懐かしくも感じられるその響きに唇をむずむずさせていると、オリバーが扉を開く前にくるりとこちらを振り向いた。
「シェリルさん。主は結構面倒な人間ですが、私たちにとっては大事な主人です。なので、どうか受け入れてやってください」
「え…あの、それはどういう…」
咄嗟に口をついて出た質問に答えてもらえる余裕はなかった。
オリバーが大きく扉を開いた先には、扉同様重厚そうな執務机と椅子、そしてソファーセット一式が置かれている。
執務机の向こう側には大きな本棚が壁一面に設えてあり、一目でこの部屋が執務室であることに気づく。
書き物の途中なのか、ウィリアムはこちらを見ることもなく、一心に書類へペンを走らせていた。
そのまま無言でシェリルに一礼し、音もなく扉が閉められる。
扉の向こうに消えていったオリバーの言葉の意味を考えることもきっと大切だが、今は、せっかくもらったこの時間を大切にしようと、シェリルは心に決めた。
こくりと喉を鳴らし、ゆっくりと執務机に座るウィリアムの元に歩を進める。
あと一歩で執務机に手が届きそうだ、というところで、ようやくウィリアムがペンを置いた。
「…どうした。何かあったの、か……っ…、シェ、シェリル!?」
そのままこちらを向いたウィリアムがぴしりと硬直し、その後大きく目が見開かれる。
がたたっ、と大きな音を立てて立ち上がった拍子に、立てられていたペンが倒れてインク壺ごとひっくり返してしまった。
みるみるうちに真っ黒になってしまう机に、むしろシェリルの方が慌ててしまう。
急いで書きかけの書類を救助し、ポケットに忍ばせていたハンカチでインクを拭いた。
真っ黒になってしまったハンカチは、シェリルが森で襲われた時に持っていたものだ。
あまり良い思い出が詰まっているものでもないから惜しくはなかったが、ここまでインクで染まってしまっては、洗ってももう取れないだろう。
「っ…よかった、これでひとまず、安心ですね」
「…っ、すまない…」
「え?何がですか?」
「驚きすぎて、みっともない姿を…それに、君のハンカチを汚してしまった…」
「ああ、いいんですよ。元々、捨てようと思っていたんです。手持ちが足りなくて、街では買えなくて…だから、お給料日になるまでは使うしかなかっただけですし」
「いや、しかし…!」
「…ふふ」
慌てふためきながらシェリルに謝罪するウィリアムの姿に、思わず笑みがこぼれてしまう。
その声にパッと顔を上げたウィリアムの顔が、街で噂されているような人物と同じだとは到底思えなくて。
きょとん、とこちらを見つめる様子がさらにおかしくて、気づけばくすくすと肩を震わせながらシェリルは笑ってしまっていた。
笑われているのだと理解した途端、ウィリアムの表情が憮然としたものに変わるが、そんな反応すらも楽しくて仕方がない。
(……うん、大丈夫。この人のことを、私は知ってる)
どうして、会うのが怖いなんて思ってしまったんだろう。
実際に目を見てしまえば、こんなにも嬉しい気持ちが溢れてしまうのに。
たった一週間しか離れていなかったのに、心の中がぽかぽかしたあたたかい気持ちで満たされていく。
そんなふわふわした高揚感そのままに、シェリルはとびきりの笑顔で、ウィリアムにこう言った。
「……お会いしたかったです、ウィリアム様」




