表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
迷子のアイリス  作者: 豆内もず
第三話 期末考査、薄雲が広がる。 
9/35

9.栢森あやめは覗き込む

 体育祭が終わって数日が経過した。六月の終わりを知らせるような蒸し暑さが、同時に期末考査が近いことを告げている。

 蒸し暑かろうがテストが近かろうが、午後最後の授業には漏れなく睡魔が付きまとう。俺は欠伸を一つ挟んで、ボールペンをくるくると回した。

 指定校推薦での大学入学を狙っている連中からすれば、一つ一つのテストが今後の人生に影響を及ぼす大きな要素となるのだろう。普段は弛んだ糸のようにだらんとしている授業中の空気も、今日はどことなく張りつめて見えた。

 そこまで重要視しているのであれば、普段から勉強をしておけばいいのにというのは野暮な感想だろうか。お前が言うなという話ではあるが。

 相も変わらず体育祭の話題で意気揚々とマウントを取っている栢森とは違い、テスト前の教室はいつも以上に不安定なのだ。

 数学教師の締めのあいさつに合わせ背中を伸ばすと、ぱきりと背骨が鳴った。

「安堵ぉ。お前数学得意だったよな? コツを教えてくれよ」

 流れのまま身体を伸ばしていると、いつもは部活に直行するよっさんが腰低くごまをすりながら近づいてきた。

 テスト一週間前は部活も休みになるらしく、この期間は俺としては厄介なだけだった。俺は鞄に教材を詰めながら言葉を返す。

「得意じゃねえよ。コツも知らん」

「ほら、なんか画期的な勉強法とか」

「とにかく頑張れ。以上! ファイト!」

「だあくそ! 役立たずめ!」

 自分から聞いてきたくせに失礼な奴め。俺は呆れて息を返しながら、教室の隅で未だペンを握っている男子生徒、やっちこと安田を指差した。

「というか、数学ならやっちに聞いたほうが良いぞ。俺に聞くなんて愚行中の愚行だよ」

「安心しろ。もう断られてる。てなわけで数学を教えてくれ。どうせ暇だろ? みんなを集めて勉強会しようぜ! 代わりに世界史を教えてやるから」

「やだよ。俺、人がいると集中できないタイプなんだよ。評定も落としたくないし、遊ぶのはテストが全部終わった後にしようぜ」

「テスト終わりは部活だっての! というか遊びに誘ってるわけじゃないから!」

「冗談だよ。とりあえず放課後は家でやるから。勉強会なら明日の休み時間にやろう。じゃあな」

 未練がましく袖を引くよっさんを振り切り、鞄を担いで教室を出る。こんな日にホームルームがないのはありがたい。

 茶化して終わったし、評定なんて実はどうでもいいけれど、放課後まで空気を読むことを強いられるのはごめんだ。かと言ってまっすぐ家に帰って勉強と向き合うのも煩わしい。

 俺はいつも通り屋上前に向かった。ひょっとしたら今日の放課後は栢森が来ないかもしれない。あいつは鼻息荒くテストを頑張ると言っていたし。

 油断に溺れた俺は、屋上に到着するや否やぼうっと読書を始めた。


「ふぅん。芥川なんて読むのね」

 目の前で鳴った声に驚き、俺は文庫本から視線を上げる。目を細めた栢森が、五段ほど下から目を細めてこちらを覗き込んでいた。どうやらテスト前でも放課後のルーティンは継続されるらしい。

 文字の世界から抜け出すことに要した五秒の間で、栢森は首を傾けた。

「何よその顔。レインコートを着た幽霊でも見たの?」

「お疲れさん!」

 文庫を背に隠し慌てて言葉を返すと、思った以上に開いていた喉が多く空気を吐き出した。俺の声が空間に反響して所狭しと飛び回っている。栢森は迷惑そうに耳をふさぎ顔をしかめた。

「うるさっ。大声で励まされるほど疲れてないわよ」

「悪い。声を出した俺が一番驚いているよ」

「音量調節機能がご臨終のようね」

 彼女はかき消すように音を手を払いながら、定位置に腰掛けた。俺はいつもはお前がでかい声を出しているくせにという反論を、ぐっと喉元で押し留めた。

 外が曇っていていつもより差し込む光が少ないというのに、栢森の髪は川面のように煌めいている。舞い上がったほこりも相まって、無駄に神秘的に見えた。

 彼女は肩にかかったテールを払い、俺のほうに指を向けた。

「読書をすると自分の世界に入り込む奴っているけど、あんたもその部類なのね」

「みたいだな」

「何で他人事なのよ」

 威圧するように向けられ続ける栢森の視線を避けながら、俺は息を吐いた。

 いくら没入するとはいえ、人の気配くらいは察知できる自負はある。いつもどおりふんすふんすと鼻息を荒くして来てくれていれば気が付けたはずなのに、今日の栢森は意外と大人しい。

 栢森は少し眉をひそめ、指先を隠した文庫本に向けた。

「隠さなくても良いじゃない。誰にも口外しないっていうのがここでのルールなんだから。知られて恥ずかしい本でもあるまいし」

「そうだな……」

「ただ珍しい読み方ね」

「珍しい?」

「付箋よ」

「ああ。これか」

 俺は張ったばかりのパステルカラーの付箋を外し、文字の始まりにそれを貼りなおした。文庫本からはみ出た付箋たちが、踊るように揺れる。自分で買った本なんだから文句も言われまい。栢森の顔色を伺いつつ、俺は言葉を続けた。

「俺は記憶力が良くないから、メモを貼ってるんだよ。気になった箇所を後で見返せるように」

「へえ」

「栢森くらい記憶力が良ければこんなことをする必要がないのかもしれないけど」

「そうね」

 自分から話題を吹っ掛けてきたのに、彼女は興味が削がれたように腕を組んだ。

 放課後の第一褒めポイント。早口で言葉を並べたが、どうやら栢森の反応は芳しくない。

 栢森は褒め言葉をカツアゲのように強要してくるくせに、刺さらなかったポイントでは全く興味を示さない。このポイント探しを、俺は密かに栢森クイズと名付けている。

 次なるヒントを与えるかのごとく、彼女は続けて言葉を吐いた。

「というか、テスト一週間前にのほほんと読書なんて、随分と余裕な態度ね。人がいると集中できないだのなんだの言っておいて」

「聞いてたのか」

「聞こえただけ。声が大きいからよ」

 俺は口をへの字に曲げ「お前にだけは言われたくない」という言葉を全力で飲み込んだ。

 教室中に彼女用のスピーカーが搭載されているのかと思えてしまうほど、栢森の声は教室中にとどろくのだ。そんな声に比べれば、俺の戯言など小鳥のさえずり程度にしかなるまい。二度も声が大きいと注意されるとは思わなかった。

 結んだ口を解き、ゆっくりと息を吐き出す。

「余裕も何も、俺には評定が関係ないからな。指定校推薦も狙ってないし、補習を回避できたらそれでいい」

 俺の言葉を聞いて、栢森はじっとりと口角を上げた。

「私は当然学年一位を狙っているわ!」

「朝も聞いたよ」

「志は何度口に出したって足りないのよ!」

 聞く側としては一気に出荷してもらったほうが助かるのだが。

 しかしながら、反芻されるこの話題が本日の正解ポイントなような気がして、もうちょっと探ってみることにした。

「今回の不安箇所は?」

「ないわ。前例がないくらい余裕がある状態よ」

「そりゃなによりで」

「強いて言えば、上手く行き過ぎていることが不安ね」

「なんじゃそりゃ」

 あるじゃないか不安が。いや、もはや不安だけど不安じゃないのか。よくわからなくなってきた。こういうことを言っている天狗はだいたい痛い目を見る、というのが俺の中での定説ではあるが、きっとそれに彼女は該当しない。

 それほどに優秀な栢森先生は、自信満々に息を吐き出した。

「入学してから今まで、定期考査で学年一位以外を取ったことがないの!」

「すげえな」

「これがどういうことだかわかる?」

「……栢森が天才だってこと?」

「そうだけどそうじゃないわ!」

 栢森はふるふると頭を振った。

 今日の栢森クイズは難しい。正解がわからず困惑の表情を浮かべていると、痺れを切らした彼女が立ち上がりこちらに人差し指を向けた。

「揺ぎ無い学年一位。それは本当に幸せなことなのかしら?」

 スカートから伸びる足を見るべきか見ざるべきかという葛藤に苛まれる。見下すのが大好きなのは大いに結構だが、この段差で立ち上がられると目のやり場に困ってしまう。

 俺は泣く泣く焦点を彼女の指先に合わせた。

「つまりはどういうことなんだ?」

「立場を脅かす存在がいないのよ。体育祭と違ってね」

「いいことじゃないか」

「起伏のないストーリーに、あんたは付箋を貼るの?」

 栢森はあきれたように指を振った。

「私が有象無象に勝つのは当然。みんなもそれじゃきっと満足しない。そう言ったのは安堵、あんたよ」

「えっ。俺そんなこと言った?」

「体育祭の前、間違いなく言ったわ。ご存じの通り、私は記憶力が良いの」

「よく覚えてるな……」

 とぼけて逃げてやろうと思ったが、自分の言葉のせいで逃げ道もなくなってしまった。記憶力が良くなくても、自分の言ったことくらいは覚えている。

 そもそもその言葉のせいで栢森の涙を見ることになってしまったのだから、正直失言だったとしか言えないし、それを彼女自身が再利用してくるとは思わなかった。体育祭の時は不安を吐き出していたのに、今回はその兆しが見えない。つまり本当に余裕があるのだろう。

 彼女は胸を張って腰に両手を当てた。

「だからこそ、読者を沸すような対抗馬が必要なの! バチバチと敵意を向けてくれるような相手がね!」

 そんな存在の登場を願うよりも、普段の行いを見直すほうが手っ取り早いと思うが。俺はへらりと笑みを返した。

「対抗馬……。栢森に挑んでくる奴なんているのか?」

「いるかもしれないわ。例えば部活に入っていない、日頃から時間を持て余した帰宅部とか、テスト前にも関わらず暢気に読書をしている奴とか」

 栢森の目がじっとりとこちらを向く。期待を孕んだ瞳が俺の体温を上げた。

「いやいやいや。俺に評定は関係ないって……」

「評定なんて、私にも関係ないわよ」

「だからって俺はそんなに成績が良いほうじゃないし」

「あんたにやれとは言ってない。成績も知らないし。ただの愚痴よ」

 栢森は大きく息を吐き出して首を振った。ただの愚痴なら、前提条件を添えてそんな目をこちらに向けないでほしい。俺の成績は決して悪くはないが、比較対象が学年一位ともなれば話は変わってくる。

 盛り上げ要因として発破をかけてきているのであれば、お門違い甚だしい。俺は逃げ腰で褒め言葉を吐き出した。

「一位になってもまだ先を見据えるその向上心。俺も見習わないといけないなぁ」

「そう! 私の向上心は他と一線を画してるの! すごいでしょ⁉︎」

 栢森の顔つきがぱっと明るくなる。どうやらここが今日のクイズの正解だったようだ。

「ああすごい。栢森には及ばないかもしれないけど、頑張ろうって思えたよ」

「うんうん。なかなか気持ちいいこと言ってくれるじゃない! よし、帰るわ!」

「おう、気を付けてな」

「夕立が来るらしいから、あんたも早く帰って勉強でもしなさいよ!」

 栢森は満面の笑みを浮かべて階段を下りて行った。本の続きを読もうかと手を伸ばしたが、スリガラス越しに見える鈍色の空が思いのほか暗くて、気力がそがれてしまう。

 対抗馬がいない、か。優位で悦に浸ることしか眼中になかった少女に、競争心という余計かつ面倒な感性を放り込んでしまったのはおそらく俺だ。相手が強ければ盛り上がるなど、体育祭前の栢森は言わなかっただろう。

 気持ちを盛り上げるためだったとはいえ、うかつなことは言うもんじゃないと思い知らされる。

 栢森の足音が消えたことを確認し、俺はゆっくりと立ち上がり最上部に足を進めた。上から見下ろそうが、この空間にはやはり彩りがない。

 高みからの景色なんて、俺は見たいと思わない。しかしいつも何かを見下ろしている彼女の瞳に、世界がどう映っているのかという部分に関しては興味が湧いてきた。

 そろった前髪から向けられた視線を思い出す。俺の中のぼんやりとした何かが、ぞわぞわとせり上がってくる。

「今回だけだからな」

 吐き出した息に合わせ、空気がかろうじて揺れるくらいの音がこぼれた。

 栢森は俺に対抗馬を担えと言っていた。直接そう言われたわけじゃないが、あれだけ期待を向けられれば察さずにはいられない。

 そもそも栢森とは違い、俺が全力で取り組んだとて学年上位に入れる保証はない。しかも悪戯に順位を上げてしまうことは、俺の教室での立ち位置に関わってくる。今くらいの半端な成績が、俺のキャラにはぴったりなのだ。

 だがまあ、変な感性を吹き込んでしまった責任くらいは拭わないといけないとも思う。ライバルなんてものがいたって、マウントの邪魔になるだけなのだから。栢森の肝を冷やしてやって、そこを思い出してもらおう。それが良い。

 俺はそのまま鞄を担ぎ、屋上前を後にした。

 栢森いわくもうすぐ雨が降る。だから早く帰るだけ。他意はない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ