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迷子のアイリス  作者: 豆内もず
第二話 体育祭、にわか雨。 

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8.栢森あやめは立ち止まる

 隊列が整うとほぼ間もなくして開始の発砲音が無慈悲に鳴り響いた。観客の声が一斉に湧き上がり、クラス対抗リレーが始まる。

 色とりどりのビブスを着た第一走者の女子八人が、一斉に足を動かし始めた。

 スピーカーの力を借りて会場を包むクラシック音楽、その音に負けないほど鋭いギャラリーの歓声、コーナーを曲がりながらこちらに近づいてくる第一走者たち。混沌とした熱気は、天国よりも地獄に近いように見えた。

「いけー! 頑張れー!」

「負けんなー!」

 方々から応援の声が鳴る。バトンを落とすクラスがあるわけじゃないし、手を抜いてる走者がいるわけでもない。それでも二〇〇メートルという距離が、徐々に各クラスの明暗を分けた。

 第三走者の宮城さんにバトンが渡る頃には、既に最前と最後尾の間に五〇メートル以上の差が出来上がっていた。

 心音が大きくなる。一団を引き連れた宮城さんがバックストレートに差し掛かった。あろうことかうちのクラスは、三組並んだ先頭集団の一角を担っている。

 さてもさても、見事なほどに戦犯までのお膳立てが整ってしまった。

 もはやここまでくると、イレギュラーな出来事に期待するのも野暮というものだろう。トラックの最内に案内され、俺は大きく息を吸い込んだ。

「安堵ぉ! 頼んだぁ!」

「任せろ!」

 溶けそうな顔をしてそう言った宮城さんからバトンを受け取る。三クラスがほぼ同時にバトンを受け渡しを終えた。スタートは上々、あとは無心で走りきるのみ! 俺はこれでもかというほどの力でバトンを握り、必死に足を動かした。

 

 一〇組の男子が速かったのか、先頭集団はあっという間に解けた。青色のビブスが少しずつ遠くなっていく。プラスチックの筒が重みを増し、全身の筋繊維が「もう無理ですわ」と悲鳴を上げている。それでも俺は足を動かし続けた。

 これ以上離されてたまるか。呼吸器が急に細くなったかのように息が上がり、喉元が燃えるように熱い。見ているときはあんなにも短かった二〇〇メートルが、最果てのように見えた。ぐるんぐるんと回る世界に合わせ地面を蹴る。

 優秀賞を争うほど同級生が優秀だろうが、栢森に発破をかけられようが、俺のタイムが急に伸びるわけではない。だとしても、今回ばかりはへらへらと負けるわけにはいかないのだ。何とか食い下がって、ホームストレートを全力で駆け抜けた。

 視線の先では二クラスがバトンを渡す姿と、堂々と構える栢森の姿があった。最後の力を振り絞り、俺は彼女にバトンを向けた。

「わ、悪っ……」

 息が上がりすぎて言葉も言い切れなかった。いつも通り悪戯っぽい笑みで頷いた栢森が、この時ばかりは頼もしく見えた。

 薄く口元を動かした彼女は、おそらく「よくやったわ」という言葉を残し、俺からバトンを奪い取り勢いよく加速していった。

 俺はインフィールドにふらふらと足を進め、芝生に身を預ける。雲がどこかに行ってしまったようで、空は青々としていた。

 結果はともかく、とりあえず走り終わった。ひょっとしたら充実感には質量があるのだろうか? 身体を起こすことも出来ず、意思とは反した呼吸が続く。耳の奥で鳴るぐわんぐわんという工場のような音が、歓声を遠ざけた。

 青い空を遮り、第二走者の遠藤が俺を覗き込んだ。

「ナイスファイト」

「お、おう。悪い離された……」

「いやいやよく粘った。ほら見てみろ」

 彼の手を借り身を起こし、元居た場所のほうを眺める。どれだけ離されていたかは思い出せないが、俺の目に映ったのは他をぶっちぎり独走する栢森の姿だった。

 荒くなっていたはずの息が、ぴたりと止まったように思えた。

「やっぱすげえなぁ」

 周囲に気を払う余裕もなく、俺はそう呟いていた。



 結局栢森から一位でバトンを受けた佐金くんがそのまま一着でゴールし、俺は何とか戦犯を回避することが出来た。

 余韻に浸る間もなく退場の促しが行われ、同時に一年生が入場してくる。観客席に向かう集団の中、俺たちは一際明るい顔つきを並べていた。

「やったよ! 優秀賞じゃん!」

 こちらに両掌を向けながら、宮城さんがそう言った。俺はよろよろと足を進めながら彼女にハイタッチを返す。

「本当に勝ったな」

「うん! みんな頑張った! 胴上げだー!」

「いいね。さっさと観客席に戻って、クラス全員で佐金君を胴上げしよう」

「えっ」

 俺は佐金君の背中をとんと押した。申し訳ないが、盛り上がりの中心は彼に担ってもらおう。そうすれば順位を落とした俺も少しは薄れてくれるだろう。

 満更でもない顔つきの佐金君を引き連れた一団は、流れのままクラスの観客席に戻っていった。

 俺は気付かれぬよう彼らからゆっくりと距離を取り、人気のないほうへ足を進める。

 この有様で今すぐ観客席に戻ろうと思えるほど、俺は強心臓ではない。勝ったとはいえ、俺はあの中で唯一周囲に遅れを取ったのだから。

 柱に身を預けしばらくの間空を眺めていると、ひんやりとした何かが頬に当てられた。驚いて目を向けると、二〇〇メートルを走った後とは思えないほど澄ました顔の栢森がいた。ご丁寧に、俺の頬にペットボトルを添えて。

「おつかれ。あんたは疲れすぎだけど」

 いつも通りの様子で、彼女はペットボトルを押し込む力を強めた。もはや押し返す力も湧いてこない。

 俺は冷たさを頬で感じながら言葉を返した。

「普段あの距離を全力で走ることなんて無いからな」

「運動不足よ。これからは日々ジョギングすることをお勧めするわ」

「さすがに来年は出番が回ってこないことを祈るよ」

 溜息を吐いても彼女の手の力が緩まらないので、止む無くペットボトルを受け取る。

「冷たいって。なにこれ?」

「さっきの借り。耳をそろえてしっかり返すわ」

「ああ。なるほどありがとう」

 借りを返す。栢森にもそういった文化があったとは驚きだ。

 俺はペットボトルの封を切り、全力で喉元に水分を放り込んだ。飲んでも飲んでも取れない乾きが、あっという間に容器を空にする。

 乾きを潤してもやはり観客席に戻る気になれず、俺は木陰に腰掛けた。栢森も立ち去ることなく足を止めていた。

「やっぱり栢森は速いな。まさにごぼう抜きだったじゃないか」

「でしょ⁉︎ 我ながら気持ちのいい抜きっぷりだったわ」

「本当にすごいよ」

「ふふん!」

 俺の言葉で栢森は満足げな表情を浮かべた。

 褒めを満たしたはずなのに、未だ彼女が立ち去る様子はない。かといって何かを言い出すわけでもない。

 まだ褒めろというのだろうか? これ以上の褒め言葉を供給出来るほど、今の俺は元気ではない。俺は栢森に目を向けた。

「俺、もうちょっとここで休憩するから、先に戻っていいぞ。今ならお望みの大スター扱いだろうし」

「ああん?」

「こっわ」

 威嚇する栢森から視線を外す。あれだけの活躍をしたのだから、俺から褒め言葉を搾り取らずともクラスでちやほやされるはずなのだ。それくらいのことは栢森でも理解しているだろう。

 それでも彼女はこの場に止まり、不満げに首を傾けた。

「遠慮しておくわ。優秀賞なんて、実はそんなに興味ないし」

「え、そうなのか?」

「私は私が気持ち良くなる自慢をしたいだけなの。みんなで頑張りましたーなんて喜び方は好きじゃないわ。能天気な輪に入るビジョンが見えない」

 その割には全力で走っていたように見えたが。俺はふっと息を漏らした。

「相変わらず尖ってらっしゃいますね」

「相変わらずあんたが丸いだけよ」

 栢森は朗らかに笑みを返した。彼女にも疲れはあるのだろう。いつもの力感まみれの雰囲気が幾分緩和されているように見えた。

 遠くのほうで下級生のリレーが盛り上がっている様子が聞こえる。おそらく会場内のほとんどがそちらに目を向けていることだろう。佐金君が胴上げをされている頃かもしれない。

 六月の空はうっとうしいほど青々と晴れ渡っていた。立ち去らない栢森を眺めていると、胸にじんわりと感傷が滲んだ。

「俺なりにお膳立てが出来たんじゃないか?」

「お膳立て?」

「遅れれば遅れるほど私が輝くって言ってたじゃねえか。差をつけられたおかげで、いい感じで花を添えられただろ?」

「ああ、そういうことね」

 栢森は頭を掻いてそっぽを向いた。自分を下げて彼女にマウントポイントを渡したつもりだったが、どうやらパンチが弱かったらしい。

 彼女は明後日の方向を見ながら言葉を続けた。

「バトンを貰った時、安堵は今まで見たことがない顔をしてた」

「そんなに酷かったか?」

「そうね。ゾンビかと思ったわ」

「否定してもらえると思って聞き返したんだが」

「嘘はつけないわよ」

 ポニーテールが彼女の顔色を隠した。見えないのに、なんとなく見たことがないような顔をしている気がした。彼女は言葉を続ける。

「でも、まあ。あんたが必死の形相で頑張ったおかげで、私のすごさも若干霞んだわ。結果として私達は一位。これは紛れもなく事実よ、誇っていい。自分の努力を卑下する必要はないわ。そんなの……悲しいじゃない。今日くらい、自分を褒めてあげなさい」

 彼女は身体を背けた。もはや背中しか見えなくなる。言い馴染みのない台詞を吐いたせいで、きっと照れてしまったんだろう。

 こんな場所で足を止めた彼女の優しさが、今になってゆっくりと染み込んでくる。

 ただの気紛れかもしれない。俺の受け取り方がポジティブなだけかもしれない。それでも彼女の言葉は、喉から手が出るほど欲しかったものだった。そしてそれを覚知した瞬間、自分の感情を支配していたものの正体にも気付いてしまった。

 他に後れを取ったとて、クラスのみんなは俺を責めたりしない。それでもきっと俺は器用に道化を演じてしまう。「遅かったのは俺だけかよ」などという強がりを吐いて、自分自身で自分の頑張りを否定してしまう。実際栢森相手にそれをしたわけだし。

 しかし本来であれば、俺だってそんなことをしたくはない。結果がどうであれ、頑張ったからには褒めてもらいたい。でもそれが手に入らないものだとわかっていたから、走る前に恐ろしいほど緊張したし、今もここから動けなくなっている。

 なんと惨めなことか。要するに俺は、認められない頑張りの行先を恐れていただけだったんだ。

 承認欲求の化身のような存在にこの気付きを与えられるなんて、俺もまだま修行が足りないな。何の修行かは知らないが。

 今日くらいは自分を褒めろ。栢森の言葉で、不安はしっかりと消滅した。残ったのは得も言われぬ気恥ずかしさのみ。

 俺はしばらく無言で間を作った後、栢森の背中に驚いた顔を向けた。

「か、栢森も他人を労わるんだな」

「はあ? 労わってないし!」

「いや、でも心が楽になったよ。お前にはカウンセリング能力もあったんだな」

「……それくらい出来るにきまってるでしょ? 私に出来ないことなんてないんだから!」

 栢森は凄まじい勢いで振り返った。

 いつも通り悪戯っぽい顔つきではあるが、髪の隙間から覗く耳がほんのりと赤い。慣れない言葉を放った恥ずかしさが尾を引いていることはどうやら間違いないが、助言をもらった礼に今日だけは走った後だからという言い訳をくれてやろう。

「そうだな。栢森は何でも出来る天才だったな」

「ふふん。当然よ! 私は天才神速超絶美少女なんだから!」

 栢森は満足そうに褒め言葉をつけ足して、俺に手を向けた。

「もう休憩は十分でしょ? さっさと観客席に帰るわよ」

「おう。ありがとう」

 俺は彼女の手を取って立ち上がる。流れで俺の背中を叩いた彼女は、スキップをしながら観客席に向かった。

「ああ楽しみだわ。優秀賞の立役者ともなれば、どんな褒め言葉が待っているのかしら!」

「さっきと言ってることが変わってんじゃねえか」

「そう? 覚えてないわ!」

「都合の良い奴め」

 普段はその記憶力を自慢してくるくせに。不平不満の行列を脳内に作りつつ、俺は跳ねる後姿を追いかけた。

 滑稽なポニーテールはクラスの輪に戻るや否や高気圧を振り撒き、見事彼女の望んだものとは真逆の空気感を作り上げた。もはやこれは逆に彼女の才能とも取れるかもしれない。

 南極もびっくりの速度で冷めるクラスメイト達、優秀賞とは思えない顔つきが並ぶ閉会式、粛々と終わりを迎える体育祭。栢森あやめの影響力は、体育祭においても甚大だった。おそらく悪い意味で。

 それでも俺にとって体育祭が悪い思い出にならなかったのは、間違いなく栢森あやめのおかげなのである。悔しいことに。

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