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迷子のアイリス  作者: 豆内もず
第二話 体育祭、にわか雨。 

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6.栢森あやめは切り替える

 自販機にたどり着いたのは、三種目目が始まったころだった。広い競技場だけあって、真反対まで移動するのに五分程を要した気がする。

 周囲は人影もなく、競技場から漏れる音で何とか祭りの空気が伝わってくる。体育祭という楽しい空間から蹴飛ばされたような気分だ。賭けに負けた俺にはぴったりの罰だと思う。

 結果として、栢森は七人中二位だった。下馬評通り、五組の八坂さんとやらが他をぶっちぎり、颯爽とゴールしていったのだ。

「そら見たことが!」とご満悦に語った二人の顔を思い浮かべて、必要以上の強さで自動販売機のボタンを押し込む。賭けに負けたことはそれほどそれほど悔しくない。それより、陸上部を懸命に追った勇敢な姿を軽視されたことがなにより悔しかった。

 贔屓目かもしれないが、栢森も十分速かった。あと少しどちらかのコンディションが違えば、差は入れ替わっていたんじゃないかと思えるほど切迫していたし、他との差を見れば大健闘だと思う。

 当の本人はどんな顔をして帰ってくるのだろうか? 労いの言葉を考えながら三本目の飲料を取り出し、観客席に戻ろうと踵を返すと、こちらに向かってくる人影と目が合った。

「げっ」

「げってなんだよ失礼だな」

 辺境に現れたのは栢森だった。真反対に俺がいるとは思わなかったのだろう。鈍い声を発し大げさに身を引いた彼女は、気持ちを持ち直すように堂々と腕を組んだ。

「何でこんなところにいるの?」

「ジュースを買いに来たんだよ」

「わざわざこんなところまで? 空間認識能力が終わってるの?」

 返す言葉もない。罰ゲームだからこそこんなところに来ているわけで、発端については語ることも出来ないわけで。

 諸々を煙に巻くため、俺は飲料の一本を彼女に向けた。

「とりあえず、お疲れさん」

「走っただけよ。そこまで疲れてないわ」

「……飲むか?」

「なんで三本も持ってるの?」

「予備だよ、予備」

「何の予備よ。……まあいいわ。ありがと」

 栢森は訝しい目を向けながらも、俺からペットボトルを受け取り、流れるようにそれに口を付けた。

 わざわざ人の通りがないこんな場所に来たのだから、栢森のほうにもすぐには口に出せない理由があるのだろう。

 彼女の唇から飲み口が離れる。俺は薄く漏れる応援の方に視線を向けた。

「惜しかったな」

「見てたのね」

「お前が見てろって言ったんじゃねえか」

「……言わなきゃよかったわ」

 吐き捨てるような言葉を受け、栢森に視線を戻す。彼女は半分まで減った飲料の容器を額に当て、ぼんやりと言葉を続けた。

「二レーンの八坂幸子ちゃん。速いのは知ってたけど、あそこまで圧倒的だとは思わなかった」

「女子陸上部のエースらしいな。それも知ってたのか?」

「ええ。組み合わせが決まる前からね。有名人よあの子。知らないほうがおかしいわ」

 栢森は残ったスポーツドリンクを一気に流し込んだ。溢れてくる光に反射し、彼女の汗が艶やかに色めいた。

 有名人の存在を認知していなかった俺とは違い、彼女は最初からあのレースの難しさを理解していたのだろう。なんなら参加種目が決まる前から。それなのに一位を取ると豪語していたとは驚いた。

「そんな子が相手なら、なおのこと大健闘じゃないか」

「私は本気で勝つつもりだったの」

「……とはいえ本職が相手となるとな」

「それでもよ。あー悔しい! これだから勝てない勝負はしたくないの!」

 栢森は一気にくしゃりと顔を歪ませ、ジャージの袖で目元を拭った。

「お、おい」

「汗よ。泣いてない。だけど、一応後ろを向いときなさい」

「わかったよ」

 俺は栢森に背を向けた。うっとうしいくらい青々とした空が、俺たちを見下ろしていた。

 どうやら、栢森あやめの本気さを見誤っていたらしい。

 陸上部のエースを相手に、向こうの土俵で大健闘。字面だけ見れば十分褒め称えられる内容だし、たかだか体育祭なんだから、負けて凹むことなんてないのだ。実際俺はそのくらいの励ましで事足りると思っていた。

 しかし、今の彼女にとってはそうじゃない。いくら単純な栢森とはいえ、今の状況でそれを言ったって、きっと納得しないだろう。泣くほど悔しがるだなんて思ってもみなかった。

 負けるのが嫌いに決まっている彼女が、分の悪さを度外視して本気で勝負をしにいったのだ。一位を取る姿を見ておけと自分を鼓舞しながら。「陸上部に勝てたらかっこいい」などという半端な励ましで彼女を焚き付けたのは俺だ。

 彼女の涙の一因は、間違いなく俺にある。

 適当な言葉で発端を作った挙句、空気に流されくだらない賭け事を止めることもせず、生半可な気持ちで彼女を応援していた愚か者。陰口を吐いていた鈴木達よりも、俺のほうがよっぽど質が悪い。

 よし、自己嫌悪はこのくらいに。この経験は次に生かせばいい。今は責任を持って、彼女の自信を取り戻してやらねばなるまい。

「俺は……。かっこいいと思ったよ」

「なによ急に」

 栢森から曇った声と鼻をすする音が返ってくる。頭の中はまだまとまっていない。ただただ思いついたことを口に出し続ける。

「正直さ、陸上部のエースが相手だって聞いた瞬間、ああ、栢森も今回ばかりは、って思ったんだ。でも諦めず走ってるお前の姿は、なんかこう順位云々関係なくグッとくるものがあったよ。自分の事でもないのに、どうだ、栢森はすげえだろって自慢したくて仕方がなかった。前に言った言葉、訂正させてくれ。勝とうが負けようが、お前がかっこいいことに変わりはない。むしろ八坂さんがいたからこそ、栢森のすごさを痛感できたよ」

 いくら喋ってみても、今に最適な言葉が落ちてくることはなかった。会場から漏れてくる曲が、六月の空に混ざっていく。観客の遠い声が、なんだかいつもの屋上前を思い出させた。

 おや? 今まあまあ恥ずかしいことを言っていなかったか? 五秒経っても栢森から言葉が返ってこなかったことで、俺は急激に恥ずかしくなり慌てて口を開いた。

「悪い、もっと上手く言えるつもりだったんだけど。もうちょっと考えてから──」

「安堵」

「な、なんだ」

 俺は恥ずかしさを誤魔化すため振り返る。先ほどとは打って変わり、頬には大粒な涙が伝い、目を真っ赤にした栢森の姿が目に移った。

 真っ赤な瞳が威嚇するように鋭くなる。

「こっちを向いていいとは言ってないわよ」

「す、すまん」

 操り人形のように身体を回転させる。ふんという鼻息のあと、栢森は囁くように呟いた。

「もう一押しちょうだい。めちゃくちゃでも、まとまってなくてもいいから」

 背中にこつんとペットボトル底がぶつけられた。冷やされた空気が零した汗が、じっとりと衣服を湿らせる。

 かの栢森様の命令とあらばしょうがない。俺は頬を掻き大きく息を吸い込んだ。

「あのレース、相手の土俵であそこまで食い下がった栢森が一番目立っていたと思う。みんなもきっとそう思ってる。現に俺は、このシーンが誰かに見つかって、嫉妬の袋叩きに合わないかを恐れてるくらいなんだ。そのくらいお前は輝いていたんだよ。輝かしい姿を見せるという目的は、十分達成されているぞ。栢森は変わらずかっこいいしすごい。……おまけに可愛いし、流れる汗さえも美しい」

 頷く音だけが聞こえる。最後のほうは恥ずかしくて茶化しにかかったが、空気的にまだ褒め足りないらしい。

 俺はもう一度息を吸い込んだ。封を切っていないペットボトルがかしゃりと音を立てた。

「それにさ、体育祭はまだまだ序盤だぜ。落ち込んでる暇なんてねえよ。まだまだ見せ場はここからだ! 八坂さんにはクラス対抗リレーで逆襲してやろうぜ! ……まあ、クラス対抗は俺も出るし、なんなら緊張で今も吐きそうだし」

 ついでに自身の不安も吐き出してやろうと思ったら、背中をばしりと叩かれた。

「いってぇ!」

「ストップ。安堵のことは聞いてないわ」

「殴らなくても止まるっての。俺はポンコツ電化製品じゃねえぞ」

「ふふっ。ポンコツであることに間違いはないわ。クラス対抗はスポーツ推薦組と組み合わせが別よ」

「マジかよ!」

 勢いに任せて振り返る。相変わらず目は真っ赤だが、悪戯っぽい顔つきを浮かべた栢森がそこにいた。今度は振り返ったことを咎められなかった。

 どうやら責務は果たせたらしい。俺も彼女に合わせ、ゆっくりと笑みを浮かべた。

「栢森は大丈夫。輝いてるよ」

「うん。知ってる!」

 栢森は満足そうに笑みを浮かべた後、競技場のほうに目を向けた。

「多分競技が終わったわよ。あんた、そろそろ順番じゃないの?」

 彼女の言葉で、俺はハッとして競技場のほうを見つめた。外観が見えるだけで情報は入ってこないが、今の種目が終われば参加競技である玉入れの招集が掛かることは間違いない。栢森の熱にあてられた状況で玉入れとは、なんとも張り合いがない。言ってる場合か。

「おま、そういうことは早く言えよ! 先に戻るぞ!」

 俺は栢森の隣をすり抜け、元居た観客席のほうへ駆け足で向かう。

「安堵!」

「なんだよ!」

 栢森の声に背中を叩かれ振り返る。いつもの悪戯っぽい笑みではない、穏やかな笑みが青い空を背景に咲いていた。

「ありがと。おかげで完璧に充電できたわ。あんたも手を抜くんじゃないわよ」

「……おう! 任せとけ!」

 彼女のほうに拳を向けた後、俺は再び足を動かした。

 気にしてもどうすることも出来ないが、敗北一つであれほど落ち込むのであれば、あいつはあの感情を今までどうやって処理してきたのだろうか。今後の鼓舞には少し気を使わないといけないかもしれない。

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