4.栢森あやめは呼びかける
体育祭当日は、程よく雲が出て過ごしやすい陽気になった。天然か人工かもわからない芝を風が揺らす様を見て、心地いいなぁなんて感想がぷかりと浮かんでくる。
観客席の最前に腰掛け競技場を眺め続けていると、違和感のある影がふらふらと近づいてきた。
「人間ってこんなに多かったんだな」
世界を滅ぼす前の魔王みたいなことを言いながら、浮きまくったユニフォーム姿の鈴木が俺の隣に腰掛けた。
生徒のほとんどがカラフルな色味に身を包んでいる分、真っ白なユニフォームはひときわ目立っていた。俺は視線を彼に移し、からかうようにつぶやいた。
「何でユニフォーム着てんの?」
「先輩命令なんだよ。そっとしておいてくれ」
「大変だな。というか、たかだか体育祭でこんなバカデカい競技場を借りるなんて、なんだか申し訳ないよな」
「仕方ねえよ。これだけの人数全員が動けるようなスペース、うちの学校にはないし」
俺はへらりと笑みを返し、再び競技場に目を向けた。軽快な音楽に合わせ、第一競技である借り物競走の準備が始められている。
序盤の一進一退が今後に大きな影響を与えることがないこともあってか、競技場内にもどこかレクリエーションのような緩い空気が流れているように見えた。
俺は競技場でストレッチをするクラスメイトに指を向けた。
「ほら、よっさんがいるぞ。うちのクラスのシャツってめちゃくちゃ目立つな」
「ほんとだ。というか一発目が借り物競走って、プログラムを組んだ奴の気が知れん」
「たしかに」
鈴木はへんてこな格好で至極まっとうなことを述べた。浅い時間ということもあって、盛り上がりも半端な状況でオーディエンスありきの競技をするなんて、確かにとんちきと言わざるを得ない。
借り物競走というのは、参加者と観客とのひと悶着で盛り上がることが醍醐味なのだ。例えば──。
「ああ、可愛い後輩が『好きな人』ってお題で俺のところに来てくんねえかな」
ぼんやりとそんなことを呟いてみる。実際そんなことが起こっても、困惑するだけで何もできないだろうが。
俺の言葉で鈴木は大きく笑い声を上げた。
「ははっ。急に気持ち悪いな!」
「うるせえ」
「じゃあもっと近くにいたほうが良いんじゃないか?」
「バカやろう。そんなことしたら現実と向き合わないといけなくなるだろうが。観客席にいたから止む無く借りに来られなかったっていう可能性を消すわけにはいかないんだよ」
「そもそも帰宅部に後輩なんていないだろ」
「お前もほら、ユニフォーム野郎ってお題が来た時のために準備しておけよ」
「そんなことをお題にした実行委員がいるなら、ぶっ飛ばしてやるよ」
鈴木はけらけらと笑みを深め、競技場の中心を見つめた。視線の先でガタイの良い男子生徒が本格的に身体をほぐしている。
「どうせスポーツ科の圧勝だからなぁ。俺らみたいな庶民はそういうところに楽しみを見出すしかないよな」
「だな」
頭の後ろで手を組んだ鈴木に同意を返し、俺は視線をよっさんに戻した。
どうせ後日談で笑えそうな話題にしか、クラスメイトの興味はあるまい。借り物競争が始まり、ポップな音楽が競技場に流れ始めた。
照れくさそうに連れていかれる男子生徒。しぶしぶついていく強面の体育教師。鈴木と談笑しながら競技を眺めていると、ふと背後から鋭い視線を感じた。
振り向いた先で、堂々とこちらを見下ろす栢森の姿が目に映った。彼女は俺と目が合ったことを確認し、顎をくいっと外のほうに向け、そのままその方向に歩いて行った。
あれは……。面をかせよ、ということだろうか。いつの時代の呼び出し方なんだよ。いくらクラスメイトに接触を悟らせる訳にはいかないからといって、逆にあれは違和感マシマシな行動だ。
俺は借り物競争に向け溜息を吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
「悪い、ちょっとトイレ行ってくるわ」
「おう」
こちらを向くこともない鈴木を背に、俺は栢森が歩いて行った方へと向かった。
プロスポーツにも使われるらしい大きな競技場だけあって、少し外れれば死角が多い。体育祭後半になったら、告白なんかにも使われる人通りがほとんどない日陰の数々。その死角に栢森が待ち伏せていた。
栢森は普段二つに結んでいる髪を一つに纏め、俺と同じくえんじ色のクラスTシャツを身に着けていた。気怠そうに柱に身を預ける彼女は、風貌だけでいえばクラスの中心生徒にしか見えない。
見慣れ過ぎて忘れていたが、そういえばこいつは容姿がずば抜けて良かったんだった。少し変化が加えられただけで、妙な緊張感が湧き出てくる。
俺は人がいないことを十二分に確認し、栢森に向けて手を上げた。
「よう」
「おはよう。観客席に戻るの早すぎでしょ。あと開会式中に喋りすぎ」
「話しかけられたんだから仕方ないだろ。先一時間くらいやることもないし」
「私はアップがてら少し走ってきたわ!」
「おお。さすが、用意周到」
栢森はふふんと息を吐き出した後、じっとりとした目をこちらに向けた。汗ばみわずかに上気した肌が艶やかに光る。
俺は少し照れくさくなって視線を宙に向けた。
「愛の告白でもされそうなシチュエーションだな」
冗談で吐き出した俺の言葉に、栢森は吹き出すような笑みを返した。
「だとしたら粗末ね。体育祭序盤に告白するなんてナンセンスよ。盛り上がりもクソもない。プロットから練り直したほうが良いわ」
「だよな。で? なんで呼び出したんだ?」
栢森はくつくつと笑みを浮かべ続けながら、一歩足をこちらに向け自信満々に腕を組んだ。
「ついにこの日がやってきたわ!」
「そうだな」
「大イベントは心が躍るわね。私の凄さを知らしめる最高の舞台よ!」
栢森の指が高々と空を差した。雲一つない空では、煌々と輝く太陽が笑顔でこちらを見下ろしている。
盛り上がるのは結構だが、今行われている借り物競走の次のプログラムは百メートル走。栢森が出場する競技だ。一時間後まで出番がない俺とは違い、こんなところで油を売っている暇などあるまい。
「というかお前、準備しなくていいのか?」
栢森は挙げていた指をパチンと弾いた。
「ご想像の通り時間がないわ。もうお呼びがかかっているはずよ」
「えっ」
「安堵、いつも通りよろしく」
「ああ、なるほど」
いつも通りよろしく。自尊心を上げろということか。校舎という枠組みから外れても、相変わらず通過儀礼があるらしい。
わざわざこのために呼び出したのかと呆気にとられたが、よく考えれば俺と栢森の関わりなんてそこにしかなかった。
畏まって背筋を伸ばした俺に、栢森は手のひらを向けた。
「今日も私は?」
「えっ」
俺が零した感嘆符の後、沈黙が流れた。離れた競技場のほうから、間抜けな曲と生徒たちの歓声が漏れてくる。
今、俺は何を聞かれたんだろうか。惚けた顔をし続けていると、彼女は左右に頭を振った。
「ほら、褒めなさいよ。たまには違うパターンもあるんだから、ちゃんと反応しなさい!」
コールアンドレスポンス形式とは驚いた。大イベントともなると、こういうイレギュラーもあるのか。
栢森はこほんと息を一つ挟み、もう一度俺に手を向けた。
「はい、今日も私は?」
「す、すごい」
「そんでもって?」
「かっこいい」
「おまけに?」
「足も速い。だから大丈夫」
「パーフェクト!」
栢森は満足そうに頷いた。普段の復唱よりもこちらのほうが恥ずかしいから、できれば今日限りの流行であってほしいと願うばかりだ。
俺のレスポンスをしっかりと噛み締めた彼女は、再び右手を天に向けた。
「ええ、私はすごい。かっこいいし、足も速いし、おまけに超絶可愛い。流れる汗までも美しい! クラスメイトがお揃いのTシャツを着ていても、私だけ群を抜いて目立ってる!」
「お、おっしゃる通りでございます」
最後のほうは言っていないが。どうせなら最初にそこを褒めておけばよかった。盛大に頷きを返すと、栢森は髪を払って走り出した。
「私が可憐に一位を取る姿、ちゃんと見ておきなさいよ! じゃあね」
「おう頑張れよ!」
彼女の背中に向けて声援を放り投げる。一つに纏められた髪が、命を吹き込まれたかのように跳ねながら競技場に向かっていった。