34.栢森あやめは花を咲かせる
薄い雲が伸びた空は、何の始まりも予感させないような面構えをしていた。暑くもなく寒くもない。そんな秋の陽気に、朝から大きな欠伸が出た。
イベントの翌日というのは、余韻だけが無駄に残っているだけで、結局何も起こらなかったりする。少なくとも朝一の校舎からは、昨日の賑やかさは全く感じられない。
時刻は午前七時二十五分。始業までまだ一時間以上時間がある。手慣れた癖はすぐに抜けないようで、俺は無意識のうちに屋上前へと足を進めた。
屋上に伸びる上り階段には、基本的に人が寄り付かない。
だからこそ俺は屋上前を安息の地と崇め、授業外の時間の多くを費やしてきた。
しかしおよそ四か月前、屋上前は騒がしいスポットに変貌した。栢森あやめが現れたからだ。
弱気と自信のバランスがめちゃくちゃで、兎にも角にも高圧的で、おまけに口が悪く声が大きい彼女。褒め言葉を強要してくるし、行事ごとのたびに騒ぎ出すし、テストでは私に勝てと煽ってくる。
それらが今日からは無くなって、屋上前に平穏が戻ることだろう。望んでいた環境が帰ってくるというのに、驚くほど俺の心は盛り上がらなかった。
お互いに弱みを握りあっていたというろくでもない関係性に加え、騒がしくて読書には不向きだったあの環境が、どうやら俺は名残惜しいらしい。
錆びた鉄のような感情が、手の届かないところをかさかさと刺激していた。
上階に進むにつれ、埃っぽさが増していく。一歩一歩足を進め、踊り場を抜ける。
屋上前から差し込む光に目を細めると同時に、炭酸のように弾ける声が降り注いできた。
「おはよう! 今日も私が早かったわね!」
俺は間抜けに口を半開きにさせてしまう。声を出した張本人は、定位置で足を組み、これでもかというほどこちらを見下ろしていた。
目を擦る。その姿は消えない。よって幻じゃない。
彼女は硬直する俺を見て、怪訝そうに首を傾げた。
「何よその顔。安堵、挨拶は大切よ。良好な人間関係を築くためには、最低限の礼節を欠いてはいけないの。わかる?」
余計なお世話だ。こと人間関係の良好さにおいて、お前にだけは苦言を呈されたくない。
俺は開いた口をキュッと結び、彼女に倣って眉をひそめた。
「おはよう。なんでここにいるんだよ」
「なんでって、テスト勉強のためよ。いまさら説明が必要なの?」
「そういうわけではないが……」
俺はその場に立ち尽くしたまま、必死に思考を巡らせた。不満げな栢森の背中に、穏やかな朝日が差し込んでいる。
「もうここには来ないのかと思ってた。俺、みんなに全部喋ったし」
「ブランディングの必要がなくなったのに、なんでいるんだよこの野郎、ってことを言いたいの? というか、この野郎は失礼じゃない!?」
「この野郎は俺発信じゃない」
「代弁してあげたのよ。そう言いたそうだったから。そもそも、お互い様でしょ? あんたはどうなのよ? 別にこんな場所に来なくたって本を読めるじゃない」
栢森は髪を払い、コンビニロゴが印字されたカップを口に運んだ。スムーズなカウンターに、俺は言葉を詰まらせる。
お互い様。まさにその通りだと思った。栢森からここに来る理由が消え去ったように、俺からもそれは消え去っている。理想の安堵登像が崩れたから、教室でも気軽に呼吸が出来るだろう。以前のように教室に居心地の悪さも感じないはずだ。
それでも俺はここに来てしまった。その時点で答えは出ていたじゃないか。認めたくないだけで。
栢森の髪がきらきらと光っている。俺は観念して指定位置に腰掛けた。
「俺は……。ちょっと期待してたんだよ。栢森がいたらいいなって」
「ああん? 聞こえない。声が小さいわよ!」
この言葉が嘘か本当かはわからない。しかし、こと屋上前においては、栢森あやめこそが正義なのである。俺は階段に笑い声を零した。
「最初はさ、安らぎもなくなったこの場所に呼び出されて、迷惑極まりないと思ってた。でもいつからか、これも悪くないなって思うようになっていたんだ。励まし励まされ、くだらない話をして、それが楽しくて仕方がなかった。もうずいぶんと前から、弱みを握られていることがここに来る理由じゃなくなっていたんだろうな」
照れくさくなって、俺は下げた視線を揺らした。蹴込み部分に入った見慣れない傷が、にっこりとこちらを見つめ返した。
「だから俺は、栢森がいることを期待してここに来たんだ」
無音の屋上前に、栢森の笑い声が響いた。素直に言葉を吐いたことを揶揄われるかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
「あら。そこまで精査出来ていて、私がここに来た理由がわからないの? ご自慢の空気察知能力が死んでしまったの?」
「はあ?」
「視点を変えればすぐにわかるはずよ。もちろん答えは言ってやらないけれど」
栢森が立ち上がった音が聞こえて、俺は振り向いた。逆光で表情はわからなかったが、声色でなんとなくの顔つきがわかった。
上がった口角、悪戯っぽい顔つき。栢森の癖のようなもので、期待する言葉があるとき、栢森は決まってあの顔を浮かべる。
いつも通りの栢森、いつも通りの朝。きっとまた今日から、上がる口角を眺める日々が始まる。
ここに来た理由なんてものは、栢森がここにいるだけでどうでも良かったのかもしれない。
「今日も絶好調だな」
「ふふん! 当然よ! 私はいつだって最高なの。ほら、与太話はここまでよ。再来週からテストが始まるわ。その前に星を見に行く計画を立てましょう!」
「はいはい」
彼女に促されるまま、俺は携帯電話を取り出した。栢森がいつも通りなのであれば、俺がやることは決まっている。
俺がカレンダーアプリを開いたところで、栢森は思い出したように声を上げた。
「ああそうそう。忘れる前にいつものをやっちゃいましょう」
「いつもの?」
「今日も私はすごい。私はかわいい。私は大丈夫。はい、リピート!」
栢森は腕を組んで、ふんすと息を吐いた。毎朝行われている不可解な儀式。環境が変われど、意味不明なプロデュースは続くらしい。
屋上前での栢森あやめは変わらない。この姿を独占することも、俺がこの場に足を運ぶ理由なのだろう。その権利を得る程度の貢献はしたつもりだ。きっと文句も言われまい。
朝練が始まったのか、遠くの方から野球部の声が聞こえた。そちらに視線を移し、俺はゆっくりと口を開く。
「今日も栢森はすごい。栢森はかわいい。栢森は大丈夫」
「うんうん」
自信満々な相槌が挟まる。褒め言葉を足さなければ、彼女は満足しないらしい。おそらく見慣れた表情を浮かべているであろう栢森に背を向けたまま、俺は意を決して想いを吐き出した。
「あと、俺はそんな栢森が好きだよ」
「うんう……ん?」
狭い空間に音が反響して飛び回った。栢森に視線を戻すと、ポカンとした顔が目に入った。
間抜けな顔が、逆光でもわかるほど赤らんでいく。スカートから伸びる白い脚が、硬直したようにまっすぐ伸びている。
自分自身の顔はわからない。俺も栢森のように真っ赤な顔をしているのか、もしくは真っ白な顔をしているのか。視線を外すと負けなような気がして、俺は栢森の方を見つめ続けた。
しばらく無言を貫いた後、栢森は大急ぎで地団太を踏んだ。
「ちょ、ちょっと! 何よ急に! 変なアドリブは禁止よ!」
「いやでも、ここでは本心を吐くってルールじゃ──」
「あー! あー! 聞こえない! 何も聞こえていないわ!」
栢森は足をばたつかせたまま荷物を担ぎ、尖った口を明後日の方へと向けた。
「そ、そういえば、宮城さんとマジカルフルールの話をするんだったぁ」
綺麗な裏声だった。栢森は俺を視界からはずしながら、するすると階段を降り始める。
「は、話の続きは放課後にしましょう。以上! 解散! あぁ忙し忙し」
舞台での演技が幻だったかのような、チープな芝居を披露した栢森は、俺の言葉を待たずして颯爽と階段を降りていった。
おそらくまだ誰も登校していない教室に逃げ込むつもりなのだろう。
遠くなる足音に比例して、近づいてくる心音。静まり返った屋上前で、俺の心臓が思い出したように細かい拍を刻み始めた。
逃げられてしまった。しかし、逃げてもらって助かったのは、俺の方なのかもしれない。
俺は栢森が巻き上げた埃をふうと吹き飛ばした。
あの栢森に、屋上前以外の逃げ場ができたのだ。くさい台詞には目を瞑って、今日くらいは、自分を褒めてやろうと思った。
自信満々風高圧女子、栢森あやめの努力は、きっと今日から美しい花を咲かせる。神様から愛されただけという言葉が取り除かれた、あの教室で。
長い間迷子になっていた菖蒲の花は、ようやくおさまりどころを見つけたようだ。
おしまい。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




