31.栢森あやめは舞台を翔ける
薄い明かりが板付きの栢森に降り注いだ。チープなエンジン音に合わせ、彼女の頭がゆらゆらと揺れる。
眠っているの栢森の元に、乗務員役の遠藤が近づいてくるところから、物語はスタートした。
揺れる光源に目を細めた遠藤は、緊張を孕んだ面持ちで口を開いた。
「お客さん、終点ですよ」
肩を叩かれた栢森がゆっくりと目を覚ます。数秒間の微睡みの後、状況を理解した彼女は、大きく身を跳ねさせた。
「はえっ!? す、すいません! すぐに降ります!」
鞄を担ぎ慌てて立ち上がる栢森を追うように、薄黄色の照明が上手に流れた。
ICカードを通し、バスを降りる。所在を探るように辺りを見渡す。内容を知っているからという要素を差し引いても、栢森の動きは周りの景色を容易に想像させるほど完成されていた。
「ここ、どこだろう? 携帯もつながらないし……。暗いなぁ」
アドリブまで挟みつつ、栢森は下手の方へとを歩き始めた。つつがなく舞台が進行している。本当に恐ろしいことに、栢森あやめは完璧だった。
主人公の少女が主体の会話劇ということもあって、基本的に栢森が進行の舵を握っている。照明や効果音に至るまで、今のところ違和感は見られない。
数時間前に配役変更を快諾したばかりの少女が、このつつがなさを生み出しているという現実は、俺の想像を遥かに超えていた。
多少まごつくところが見られるかと思ったが、そうはいかないらしい。
栢森は上手に現れた照明を見つけ、足を進める。徐々に舞台中央に寄っていく光に、腰の曲がった女性が立っている。
クラスで一番小柄な横山さん。老婆という役どころに彼女を選んだのは、もちろん体格のこともあるが、一番の理由は彼女のピーキーさである。
普段物静かな彼女は、ことイベント事となると信じられないほどの快活さを発揮する。
一本目の矢、最初の一撃を違和感なく放り込めるのは彼女しかいない。
そんな彼女は、緊張など全く感じさせないほどゆっくりと間を取り、栢森の方に指を向けた。
「あらお嬢さん。こんな所に迷い込んだのかい」
「実はバスで寝過ごしてしまって、ここがどこかわからないんです」
「それは大変だ。私が元の場所に帰る道を教えてあげよう。ただし、代わりに私の悩みを聞いてほしい」
「悩み……ですか? いいですよ」
二人は配置された椅子に腰掛けた。俺は深い呼吸を繰り返し、二人の会話に耳を澄ませた。
「私はね、本当は自分の努力を認めてほしいんだ。でも、努力が必ずしも良い評価を受けるとは限らない。やりたいことをやろうと思ったら、周りの目が気になってしまってねぇ。こんな時、お嬢さんならどうする?」
横山さんが放った台詞を聞いて、栢森の口元が一瞬歪に曲がった。当然も当然、こんな台詞、栢森に渡した台本には書いていないのだから。
しかしきっと、栢森はまだ気づかない。ピーキーな横山さんが、盛り上がって台詞を盛ったとしか思っていないはずだ。
予想通り怯んだ栢森も、元から用意していたかのように自然な間を作り込み、大きく息を吐き出した。
「私ならそういう時、空気を読んで自分のやりたいことを我慢します。やりたいことをやった結果、他人から怪訝な目を向けられるのは嫌なので」
「おおそうかい。相談に乗ってくれてありがとうね。遠くに灯りが見えるだろう? あれに向かって進めば、きっとお嬢さんの行きたい場所に行くことが出来るよ」
横山さんが指さした方向に、ぼんやりとした光が浮かんだ。再び軌道に乗った台本に合わせ、栢森はゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます」
老婆に背を向け、栢森は光の方へと足を進める。
次の灯りの元には、眼鏡をかけて髪の毛をきっちりと七対三に分けた鈴木が立っていた。
坊主頭に似合わないウィッグを被った彼の姿を見たからか、観客席から薄い笑い声が漏れる。「俺がやる」と言って聞かなかったから役を配ったが、そのせいで俺の意図しない花が咲いてしまったらしい。
手番が回ってきた鈴木は、ブロックのように角張って言葉を吐いた。
「お、おやお嬢さん、こんなところに迷い込んだんですか」
「実はバスで寝過ごしてしまって、ここがどこかわからないんです」
「おお! それは大変だ!」
「ふふっ。ロボットみたいな動きですね。それに、汗がすごいです。ハンカチ、使ってください」
栢森は鞄からハンカチを取り出し、鈴木に満面の笑みを向けた。ぎこちない動きでそれを受け取った鈴木の姿で、観客席から再び笑いがこぼれる。
こんな場面は台本にない。がちがちに緊張した鈴木に向けた、栢森なりのフォローなのだろう。鈴木の阿呆め。お前が仕掛けられてどうする。
栢森の圧と観客席から湧いた笑い声でようやくエンジンがかかったのか、鈴木の動きから角が取れた。
「道に迷っているんだったね。僕が元の場所に帰る道を教えてあげよう。ただし、代わりに僕の悩みを聞いてほしい」
「……わかりました。聞きましょう」
椅子に寄りかかった鈴木に並び、栢森も椅子に腰掛ける。鈴木の指が上がる。観客の視線と照明が一か所に集まっていく。
「僕は、昔から自分を表現することが苦手でね。周囲から誤解を受けやすいんだ。ほら、どうせなら実力を周りに知ってもらえた方が良いだろう? もっと積極的に功績を自慢したほうが良いんだろうか? 君ならどうする?」
鈴木は堂々とした態度でそう言った。栢森の顔が再び歪んだ。
台本とは違う台詞を吐いたのに、あくまで自信満々を貫く鈴木を見て、栢森は悟ったのだろう。これが初めから用意されていた言葉だということに。
さっきの横山さんの台詞が、もう一度頭をよぎっているに違いない。
それでも栢森は、その動揺を隠すように立ち上がり、台本通りの言葉を吐き出した。
「功績を表に出しても……。角が立つだけなので、私なら大人しくしておきます。他人からの評価は、自信よりも大切ですから」
「おお、ありがとう。そうだね、そうすることにするよ。遠くに明かりが見えるだろう? あれに向かって進めば、きっと君の行きたい場所に行くことが出来るよ」
鈴木が差した指の先に、ぷかりと光が浮かんだ。わからない程度の睨みを鈴木に向けた栢森は、一礼した後光の方へと足を進めた。多分あの睨みは俺の方にも向けられていた。
逃げる様にこちらに帰ってきた鈴木に向け、俺は拳を突き出した。鈴木の拳が俺の拳にぶつかる。僅か数分の演技で、鈴木の拳はじんわりと湿りを帯びていた。
「完璧だっただろ?」
「冷や冷やしたわ。緊張しすぎだ」
「いや、栢森と横ちゃんが落ち着きすぎなんだよ。あと、舞台って意外と暑いんだな」
「なにはともあれ、お疲れさん」
「おう。あとはゆっくり行末を見守らせてもらうわ」
鈴木はウィッグを外し、舞台袖奥へと消えていった。
やはりあいつにはあの髪型が似合っている。そんなことを考えながらその姿を目で追っていると、鈴木に入れ替わるように、黒いフードを被った人影が近づいてきた。
黒い影は俺の隣で足を止め、脇幕に身を隠してフードを頭から外した。
「どう? 上手くいってる?」
「問題なく進んでるよ。上手くいきすぎて引いてるくらい」
「あはは。そりゃ何よりだね。栢森さん、気づいたかな?」
「どうだろう? 違和感はあると思う」
フードから姿を現したボブカットが、舞台で声を出す栢森に視線を移した。
栢森は三人目の道案内者である佐金君に向け、台本通りの言葉を吐いている。
あの問答が終われば、栢森のモノローグが始まる。あとは終点に向かって進むだけ。
「やばっ。あれ絶対私より上手いじゃん」
「せいぜい喰われんでくださいよ。元主役さん」
「プレッシャーかけんなよー」
低い位置から俺に苦笑いを返す黒い影は、俺に体調不良を連絡してきた張本人、宮城さんだった。正確に言うと、彼女は俺の脚本通り動いてくれただけではあるが。
彼女は大きく深呼吸をした後、再びフードを被った。
「でもまあ、この作戦の成否は私の演技力にかかっているといっても過言じゃないからね。張り切って頑張るよ」
この宮城さんはもちろん、生霊などではなく本人だ。
元々主役である彼女が当日体調を崩すことも、それを知った栢森が代役を名乗り出るだろうことも、クラスメイトが次々に台本とは違う言葉を吐くことも、全ては脚本に沿ったストーリーに過ぎない。
この事実を、クラスメイトの中で栢森だけが知らない。
そしてこれこそが、俺が仕立てた脚本の全容である。
栢森に渡した『迷子の終点』と、今舞台で演じられている『迷子のアイリス』には、相違点が二つある。
まず一つ目、灯りの元で出会う人々の台詞。後者ではこれらを全て差し替え、栢森あやめのエピソードに重ねている。もちろん劇が止まらないよう、栢森が台本通り演じるだけで意味が通じるように調整もした。
劇が進むにつれ、徐々に栢森は気が付くだろう。この演劇がどこぞの少女の話ではなく、自分自身の物語であるということに。宮城さんが舞台に上がったとき、気付きは確信に変わる。
そして二つ目、この物語の結末。少女が自問自答により自分自身と向き合い、迷いを払拭することで元の世界に帰る、というのが本来のオチである。
しかし『迷子のアイリス』は違う。オチが決まっていない。脚本の命とも言える最後のワンシーンを、俺は栢森の選択に託した。栢森がどう思いどう語るかによって、この物語の終着点が決まる。
その為の布石を打つのが、他でもない仮病の宮城さんなのである。
劇が進む。十五分程度の短い物語が終わりに向かう。
舞台が暗くなり、栢森のモノローグが始まった。
「やりたいこと、功績、努力。全部私が今まで悩んできたことばかりだ。ひょっとしたら、私がこんなところに迷い込んだのは、選んできた道に後悔があるからなのかもしれない……。私は……。どこで道を間違えたんだろう……」
間違えていないよ。ただ少し、寄り道をしていただけ。今日この場で、きっと寄り道は終わる。
台本を書いた張本人である俺は、思わず言葉を零しそうになった。
佇む栢森を照らす光が徐々に消えていく。数秒の静寂の後、無人の舞台中央にぼんやりとした光が降ってきた。
「行ってくるね」
「……頼んだ。全部吐かせてやってくれ」
「頼まれた」
宮城さんはこそこそと言葉をこぼし、光の方へと向かっていった。
光に向かう宮城さんの背中に、想いの全てを託す。彼女は大きく息を吸い込んで、それを光に向かって吐き出した。




