29.栢森あやめは代役を引き受ける
九月下旬の空気が、濁りなく肺を満たした。降り注ぐ日差しは穏やかで、夏の激しさはもうほとんど残っていない。そんな秋の陽気に包まれながら。燈花祭の幕が上がった。
時刻は八時ちょうど。講堂では、一組目が演目の準備を始めている頃だろう。普段より賑やかな講堂を横目に、俺は屋上前を目指した。
光陰のような二週間弱、クラスメイトの協力もあって、『迷子の終点』はなんとか一つの演劇として見られるものには仕上がったと思う。
燈花祭の観劇は強制ではない。人気者がいるクラスの演目は、立ち見が出るほど席が埋まるし、そうでないクラスであれば半分埋まれば良いほうだと思う。大体の人間は自分の演目が終わると帰ってしまうから、後半になればなるほどその傾向は顕著に表れる。
折り返し地点にある俺たちの出番が始まる頃には、果たしてどれだけの人間が残っているのだろうか?
残っていたらいたで緊張するし、いなかったら多分寂しい。創作物を披露するという行為には、こんなにも複雑な心境が付随してくるのか。なんとも贅沢な悩みである。
期待と不安を織り交ぜ踊り場を抜けると、薄暗い階段に栢森の声が響いた。
「何をやっても上手くいかないから、命を絶とうと思っているんです。他人の目を気にしたって、自分らしく——」
練習中だろうか。俺以外が来たらどうするつもりだったんだ。長尺のセリフの途中、栢森は俺の気配に気づき、スイッチを切り替えたようにこちらを向いた。
「あらおはよう。今日も私の方が早かったわね」
「おはよう。俺も緊張してずいぶん早めに来たつもりだったけど、栢森は早起きだなぁ」
「ふふん!」
先ほどまで不穏な台詞を吐いていたとは思えないほど明朗な態度で、栢森は胸に手を当てた。
「どう? 様になっていたでしょう?」
「ああ完璧だ。イメージ通りすぎて、脚本冥利に尽きるよ」
「私の演技が素晴らしすぎて、脚本を喰ってしまわないか心配だわ」
栢森の登場シーンは終盤のワンシーン程度。それで喰われるような脚本なら、喰われても文句が言えない。
俺は両手を上げ、定位置である三段目に腰掛けた。
「栢森は演技も上手いもんな。この二週間で痛感させられた」
「当然よ! 脚本の全てが頭に入っていると言っても過言ではないわ!」
「全部!? 随分と張り切ったな」
「そうよ! すごいでしょ!」
「すごいなぁ」
栢森の鼻息が聞こえる。俺はわざとらしく驚きを表現し、上がった口角を手で隠した。該当箇所以外も読み込み、脚本全体を頭に入れる。栢森なら絶対にそうすると思った。
俺は平静を装い、ふうと息を吐き出した。
「自分で演じるわけじゃないのに、意外と緊張するもんなんだな」
「そりゃあ、自分の書いたものが大勢の目に触れるんですもの。緊張しないほうがおかしいわ」
言葉の切れ目に合わせ、チャイムの音が響いた。始業を知らせるチャイムは、今日に関しては一組目の演目開始の合図である。燈花祭始まりの合図が、狭い空間で反響している。
残った音を裂くように、俺は勢いよく立ち上がった。
「よし、集合時間までの間、演技指導をしてやるよ」
「演技指導?」
「監督直々の指導だ。ただでさえ完璧な栢森の演技を、更に進化させよう!」
そう言い放ったところで携帯電話が鳴った。デフォルト設定の簡素な着信音が、俺のポケットから響いている。
電話の主は宮城さんだった。俺は栢森に片手で合図をし、首を傾げ通話ボタンを押した。
「もしもし。どうした?」
電話越しの宮城さんは、早々に自身の体調不良を告げた。
「えっ!? マジで!? ……わかった。なんとかこっちで代役を考えてみるよ。いやいや大丈夫。お大事に」
台本を読むように、用意された言葉を並べる。ごほごほとわざとらしく咳込んでいた宮城さんの声を思い出し、俺は大きく息を吐き出した。
『迷子の終点』の主人公は宮城さんだ。つまり今の電話は、主役が来られないという恐ろしい事実を表していた。
しばらく頭を抱えていると、栢森がおずおずと声を出した。
「慌ただしいわね」
「みーさんが来れなくなった」
「はあ!?」
「熱が出たって……。参ったなぁ」
「どうするのよ? あの子、主役でしょう?」
栢森はこちらを覗き込むように見つめている。不安を全力で身に宿した甲斐あってか、栢森に怪しんでいる様子は見られない。そのまま少し間を空け、俺は抱えた頭を上げた。
「栢森にしか頼めないこと、頼んで良いか?」
「まさかとは思うけれど……」
「宮城さんの代役、栢森にお願いしたいんだ。というか、それ以外の案が思いつかない。無理にとは言わない。天才栢森にも、出来ないことの一つや二つあるだろうから」
詰将棋のように、一つ一つ丁寧に言葉を放る。こう言えば栢森が断らないことを、俺はよく知っている。
少しの間もなく、栢森は予想通りの言葉を吐いた。
「やるわ」
「えっ」
「代役よ。言ったでしょ? 台本は全部頭に入っているって。宮城さんの代わりは私が引き受けるわ。安堵はクラスに現状を周知して、私の代わりを探しておいて」
栢森の言葉を聞き、俺は急いで踵を返した。
「今日も栢森は最高だな。ありがとう! 頼んだ!」
「任せなさい。あっ、集合時間に遅れるから、それも伝えておいて。くれぐれも、練習しているなんてことは言わないように!」
「分かった!」
栢森に背を向け、俺は教室へと向かう。おそらく栢森以外の全員が集合しているであろう教室に。
俺たちの出番まで三時間強。栢森はこの場所で誰にも見せず練習を重ね、間違いなく演技を仕上げてくる。あいつはそういう奴だ。だからこそ、ここまでの流れは予定調和なのである。
二年八組の演劇、裏テーマは『迷子のアイリス』。その幕はもう上がっている。




